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第096話 「演劇をしよう!!」(中編(2))



【9月13日・夜】

「ああそれか。俺もできるぞ」

 寄宿舎管理人室地下トレーニングルームで秋水が防人衛の言葉に目を丸くしたのは20時も半ばを回ったころ。そろそ
ろ生徒たちが寝静まる時間である。

「できるんですか?」
 我ながら面白くない質問だと思いつつ秋水。
「一応な。ウソだと思うならやってみるか?」
 事もなげにいう防人はいま素顔。シルバースキンは未着用だ。
 代わりのツナギも今は上半分がはだけている。
 黒いシャツに覆われた肉体は、細い。イザ戦ったときの防人がどれほど絶大な破壊力を振りまくか知っている者なら拍子
抜け間違いなしなほど細い。痩せているというより標準体型、筋骨隆々の逆三角とはほど遠い。

 ただ秋水は知っている。少なくても剣において逆三角の体は機能しないと。
 防人のような筒型の方が術理を極めるに向いている。

 で、あるからこそ「あるコト」を問いかけたのだが──…

(妙なコトになってきたぞ)

 秋水は困惑した。

 さてこのとき地下の修練場では津村斗貴子を初めとする戦士たちが、総角主税筆頭の音楽隊と模擬戦じみた稽古を
繰り広げていたのだが、ある一角で秋水と防人が向かい合ったのを機に徐々に手を止め静かになった。

 一線を退いたとはいえ戦士一同にちょくちょく稽古をつけてやっている防人だ。まして斗貴子や剛太といった生粋の
戦士組にしてみれば彼の指導は例えば学生にとっての体育のような存在、あって当然の行為だから、むしろ今もって
の継続、秋水との組み手に何ら疑問の余地はない。
 にも関わらず彼らさえ防人の行動にちょっと面食らったのは理由がある。

「キャプテンブラボーが」
「竹刀を……?」
 口々に呟く剛太と斗貴子のうち前者にススリと歩み寄ったのは桜花。
「あら。珍しいの? 使うと思ってたけど」
 ちなみにこのとき彼女は珍しく体操着姿だった。誰かと射撃訓練でもしていたのだろう。うっすら汗ばんでおり濡れた花弁
のような甘く艶かしい香りが剛太の鼻腔をくすぐった。更にTシャツからちらりと覗く豊かな谷間。斗貴子大好きの剛太でも
さすが桜花レベルの色香には持ちこたえられないらしく──もっともこれでやっと憧れの先輩のふくらはぎに透けて見える
青い血管と互角なのだが──やや面頬を赤く顔を背ける。
「さすがのブラボーでも剣道は専門外だって。ねえ先輩」
 とまあノドに息が詰まったような顔つきで呼びかけたのは責め苦にあう殉教者が女神を想うような適応規制だが、斗貴子は
(キミは少し手玉に取られすぎだ。情けない)と露知らずの腕組みで
「ああ。剣道なら師範がいたからな」
「そーそー。師範ですよね。師範は強かったですよね先輩。いやー本当鍛えられたなあ師範には」
「キミいま適当に話していないか? だいたい武道はほとんどサボってただろう。相当怒っていたぞ師範」
「……師範って誰?」
 よく分からないという顔の桜花に2人は代わる代わる手短に説明した。それによると毛抜形太刀の武装錬金を使う戦士長で
かなりの手練れ、戦部に次ぐホムンクルス撃破数2位らしい。
「とにかくブラボーさん。竹刀持ったコトないのね?」
「そりゃあランニングとかの時なら景気づけに振ってたけど」
 訓練で持ち出したコトは剛太の知る限りなかったらしい。斗貴子も首を横に振った。
「あの人の戦闘姿勢(バトルスタイル)は格闘。相手の武装錬金やシルバースキンの有無を問わず素手で戦う。それが普通だ」
「フ。成る程。後進を鍛えつつ自らも高める。いわば指導しつつの経験値稼ぎ。であるからこそ彼は武器に頼らない、と」
 訳知り顔で斗貴子の横に立ったのは総角主税。日差しと見まごうばかり眩く輝く金髪の持ち主だ。整った目鼻立ちに自信
がたっぷり載った大変見ごたえのある美丈夫だが、日ごろの尊大さ、一時は戦士を敵に回した経歴もあり好感度は低い。
事実隣に立たれた斗貴子などは嫌そうかつ露骨に左半身をくぼませ距離を開ける始末だ。音楽隊は嘆息した。
(うぅ。もりもりさん。そーゆーコトなさるゆえ嫌われるのです……)
 小札は涙した。他の音楽隊の面々もやや呆れ顔。知ってか知らずか総角、背中に掛かる長い髪を芝居がかった調子で
跳ね上げた。

「見ろ。フ。動くぞ」
 喋っている間に防人と秋水は蹲踞を終え向かい合う。後者も竹刀なのは相手が素肌ゆえか。ともかくも秋水はこの男ら
しく生真面目な基本形すなわち正眼に構えたのだが防人はまたしても予想外の動きをとる。
「オイあれって」
 息を呑む剛太に桜花も頷く。
「ええ」
 後ろにつけた右踵の更に後ろへ切っ先を向けたイレギュラーな構え。名は──…
「脇構え!? なーなーこれって確か」
 横柄かつ特徴的な言葉を発するのは自動人形。桜花の弓矢の一部たるエンゼル御前だ。
「そうです!! かつて秋水どのともりもりさんとの間に繰り広げられたる一大決戦! その口火をば切りましたのが古き
流れ汲みたるあの構え別名金の構え!! もりもりさんの十八番であります!!」
 ほぼ同時に全員が目撃する。
 正眼。脇構え。まったく異なる構えながら同時に動き出す秋水と防人を。
「さすが熟練熟達いたしておりますお二方!! 訓練なれどその一太刀は二の矢頼まぬ三千世界!! 乾坤一擲全力の
気裂き空斬る御技の断線ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「実況!?」
「意地でもするのね……」
 小札がガーっとまくし立てる間に竹刀、相手めがけ吸い込まれ──…

 乾いた音が訓練場に響いた。

「大丈夫か?」
「竹刀だしそもそも素肌稽古には慣れている。問題ない」
 手ぬぐいを絞りかがみ込む斗貴子に秋水は事もなげに答える。
「とはいえ左のコメカミ。少し腫れてるぞ」
「いや、自分で処置する。大丈夫だ」
「そうか? ならいいが」
 手ぬぐいだけ渡し引っ込んだ斗貴子に秋水がホッとしたのには理由がある。
 剛太。彼がハンカチを噛みながら羨望と嫉妬を両目に載せて強く烈しく撃ってきたからだ。「テメェ! 先輩に介抱してもら
えるなんて!!」。かかる怨念一歩手前の情動をぶつけられてなお手ぬぐいを当ててもらえるほど秋水は図太くない。
「そうだ湿布でも貼るか?」
「いや、足りている……」
 ぶり返した怨霊目線に恐々としながら断る秋水。
 斗貴子は怪訝な顔をしながら部屋の隅に。薬箱に湿布を戻す。見ていた艶やかな髪が回り美貌を著す。
「意外ね」
「何がだい。姉さん」
「津村さんよ。その……言いにくいんだけど、武藤クンの一件があるでしょ? 実際この前だってそのコトで結果的にまひろ
ちゃんを傷つけてしまってるし」

 というのは音楽隊との戦いのさなかだ。様々な要因が絡み合い鬱屈が最高潮に達した斗貴子は少し八つ当たり気味に秋
水の過去を声高に叫んでいる。まひろは不運にも居合わせてしまい……

「うん。確かにビックリしたし悩んだけど……。でも、でもね。ちゃんとお話できたし、何でそうなっちゃったか分かったから。
大丈夫だから。いまは平気だよ。気にしないで」
「けどそれはまひろちゃんの問題だし、だいたい私たち元信奉者だから。わだかまりはそう簡単に──…」
「確かに、な」
 渡された手ぬぐいをこめかみから剥がしじっと見る。少し体温を帯びているがさほど熱くない。わざわざ冷水に浸したのだろう。
怪我人を心配する心遣いに溢れている。想い人をかつて刺した人間に普通差し出すだろうか。
「んー。まあ戦士・斗貴子なりに思うところがあるのだろう。なにせ部活が同じだ。今やともに演劇をする仲間だからな」
「あらブラボーさん」
 やってきた防人。しばらくその全身を眺めていた桜花だがやがて理知的な瞳を軽く見開く。
「ん? どうした?」
「ひょっとして無傷……ですか?」
「ブラボー。よくぞ気付いた。そう! 実は俺の太刀の方が一瞬早く届いてな。戦士・秋水はそこで竹刀を止めた」
(……ねえ秋水クン。確かあのとき繰り出していたのって)
(逆胴)
 得意とする片手撃ちではなく剣道型だが、それでも秋水を全国ベスト4に導いたほどの得意技だ。カズキでさえ稽古中破る
コト叶わなかった術技。
「それより速かったってコト? ブラ坊の竹刀が」

 エンゼル御前が頬に手をあて思案をすると剛太も同意。
「待て待ておかしいだろ。お前もあの構え見ただろ? 脇構え。竹刀を下にやってしかも後ろ向けてた」
「動き出したのもほぼ同時。普通に考えれば先に届くのは早坂サンの竹刀。正眼でしたから」
 毒島はいう。今のはありえないと。位置や剣速だけなら秋水の方が有利と。
「実は心得あったんですか? 剣道の」
 斗貴子の問いかけに防人は「いや」と首を振った。
「一応基礎をかじりはしたが心得というほどじゃない。俺の専門はあくまで格闘。普通の剣道なら戦士・秋水に分がある。
そうだな。仮に100本やったとして俺が取れるのは……27〜8だな」
 なぜならと防人はいう。
「意識の問題だ。俺にはシルバースキンがある。『体で攻撃を受ける』。それに少々慣れすぎている。まあ念のため防御
(まもり)のイロハも磨いているが」
「防ぐにしろ、捌くにしろ、敵の攻撃を浴びるコトに変わりはないと」
「ブラボー。その通りだ戦士・斗貴子。だからこそ俺は剣道で戦士・秋水に勝ち越すコトはできない。『打たれれば終わり』、
そのルールを前提に修練してきた彼と、打たれても良しと戦ってきた俺。どちらが有利か言うまでもない」
「剣のあるなしじゃねェんだな」
 感心したように剛太はつぶやく。武術精神とかけはなれた戦闘姿勢(バトルスタイル)のため思うところがあるらしい。
「というかそれでも30本近く勝てるのねブラボーさん」
「剣道に絶対はないよ姉さん。重要なのは精神……。俺はまだまだ及ばない」
 秋水的には防人のいうアドバンテージを得てもなお勝ち越せるかどうか怪しいらしい。
「とにかくブラボーが剣道したコトないのは分かった。ならどうしてさっき秋水先輩に勝てたの?」
 場にそぐわない声がしたが誰もいまは突っ込まない。いや、総角だけが出所を目で追いやがて忍び笑いを漏らした。
「単純にブラ坊の身体能力が凄すぎるからじゃね?」
 どこからか持ってきた煎餅をかじりながら御前が言うと、総角が誰かに向かって「シー」をしつつ言葉を継ぐ。
「でもない。フ。そうだな。身体能力を言うなら俺の部下どもは全員ホムンクルス。全員脇構え。秋水と今の再現だ」
 きっと防人戦士長の凄さが分かる。意味深な言葉に戦士たちとまひろは固唾を呑んだ。


「とあー!! って当たらん!!」

 まず敏捷な香美が打たれ

「はは!! やはり鎖と勝手が違うなあ!!」

 貴信もあと一歩というところで一本とられ

「身長差が悪い! 身長さえ同じなら絶対我のが勝ってたし!!」

 無銘も敗退。

「ほわあああああああああああ〜〜〜!! いたっ」

 小札などはヘタに動いたせいで逆胴を脳天に喰らい(両目を×にした)

「リーダーの動き、トレース…………したのに……」

 鐶は切っ先が上向くより早く打たれた。


「身体能力の線は消えましたね。皆さんはレティクル謹製……。並みのホムンクルスよりずっと強いです。身体能力だけ
なら全盛期の防人戦士長とほぼ互角」
 毒島の解明が却って謎を深める。
「言いかえればあいつらの身体能力は”今”の戦士長以上、か」
 危険だ。決戦のカタがついたら今度こそ始末しよう。事もなげにつぶやく斗貴子に鐶、香美、貴信といった”こっぴどくや
られてる”連中は顔を青くしガタガタ震えた。
「とにかくなんで剣道未経験のブラボーが勝てたんだよ! 本来不利な筈の脇構えで! 早坂秋水に!」
「だいたい秋水クン、なんでまたブラボーさんと剣道勝負なんか?」
「それは──…」
「質問、だろ? 発端は?」
 渋みのある声が秋水を遮る。フランス映画にいてもおかしくないほど整った容貌からは想像もつかない声だ。

「さっき小札が言ってただろう? フ。俺が、秋水相手に、脇構えを使ったって」
 戦士一同は目を6秒間、点にした。硬直が解けるやヒソヒソ話し始めた。
「言ってたっけゴーチン?」
「あいつの叫びなんて聞く訳ないだろ。意味わからねェし」
「奇遇だな剛太。私も聞き流すコトにしている」
「こらこらひどいコト言わないの。アレは発作みたいなものよ。理解して受け入れてあげなきゃ可哀相」
「そういえば早坂サンたちはL・X・E時代からの付き合いでしたね」
「慣れてはいるが時々ついていけない」
「あー。なんだ。俺は聞いてたぞ。確かその……金の構えで総角の十八番だとか何だとか」
「私は全部聞いてた! うん!」
 戦士一同の反応は芳しくない。五体倒置で小札号泣。
「きゅう……。不肖の、不肖の精魂こめたる実況がよもやまさかの全スルー……」
「泣くな小札よ。あとでワラ買ってやる。100g298円だぞ高級品だ」
「時には聞かれもせず届きもしないのが実況道! 不肖まだまだめげず頑張りまする!!」
 速攻で復活し立ち上がる小札に(無銘以外の)全員が思う。安っ。このコ安っ……と。
「とにかく俺は脇構えで秋水の逆胴を迎え撃った。結果は互角……だったんだが」
「ああ。そこが疑問だった。ちょうどさっき津村たちが言っていたのと同じだな。なぜ距離で劣る脇構えが俺の逆胴を捌けた
のか──…」
「そして俺に質問したという訳だ。ブラボー。戦士・斗貴子たちも分からないコトがあればジャンジャン聞きなさい」
「なるほど。戦士長は実戦主義。言うよりもやった方が早いから」
「さっきの勝負……スね」
 経緯は分かったが肝心の脇構えの謎はまだ未解明。そのあたりを先ほどさんざ打ちのめされた音楽隊の面々が指摘
すると防人は
「そうだな。この際キミたちも覚えておきなさい。体の使い方……というより仕組みだな。どうすれば効率よく動かせるか、
少し勉強してみよう」
 と述べた。
「それって俺たちもスかブラボー?」
「私たちは射撃がメインですけど……」
 剛太と桜花はあまり乗り気ではない。前者は純粋に面倒臭いだけだが、後者は「難色を示してもおそらく講義は確定。
言いかえれば半強制的にするほどの価値を防人は感じている。まずはそのあたり理解したい」という聡明さあらばこそだ。
「フム。キミたちの意見はもっともだ。ただもうすぐ決戦だからな。相手はレティクルエレメンツ……ヴィクター討伐以上の
困難がキミたちを待ち受けている」
 鉄火場において何が生死を分かつか分からない、前日齧った程度の技術が紙一重で命を救うコトもある。と防人は言い
「これから脇構えを通して教えるのは、平たくいえば重力の使い方だ。重力といってもヴィクターのように操れとはいわない。
肉体に作用する重力をどう使えばより有利に戦えるか教えたい。少々難しくなるかも知れないが、キミたちならむしろよく理
解して使いこなせると思う。戦歴こそまだ浅いが頭を使って戦うタイプだからな。もちろん戦歴豊富な戦士やホムンクルス
でも十分役立つ」
 桜花は透き通るような微笑を浮かべた。
「わかりました。もし敵に接近された場合の護身用ですね。私の場合」
「……変わり身速いなあんた」
「あら。剛太クンは納得しないの? モーターギアの汎用性は近接格闘にも及ばなくて?」
「そうだけど」
 豊かな、むしろ伸びすぎではないかと思える髪をボルリボルリと撫でながら渋い顔の剛太だ。駆けだしの癖に頭だけは
よい剛太だ。火渡率いる6人の奇兵相手に逃げ延びた実績が自負をますます強めてもいる。「付け刃を辛そうな訓練で?」
合理的だからこそ気乗りしない。桜花と決定的に違うのは戦団という正義色の濃い組織で育った部分だ。上司の意向に
逆らっても基本は懲罰されるのみだ。中には火渡のような物騒な輩もいるが、もともと武装錬金という一種の個人的資質
頼りでやってる戦団だからある程度の自由、勝手気ままは黙認されている。主力作戦に組み込めない癖に処分されず
あまつさえ必要とあれば核鉄を与えられる奇兵などいい例ではないか。
 桜花は上層部に逆らえば即死亡の共同体にいた。納得できぬ指示でも真意は理解するよう努めている。それの善悪は
関係ない。要は組織に従い結果を出すコトが重要だった。されば「望み」にも近づけた。思考体系は望み以上の夢を得て
なお健在だ。
「ほら接近戦するじゃない。だったら体の使い方は大事でしょ? ただでさえモーターギアの破壊力は低いんだし、だったら」

「別の方法で補うしかないわな。けど決戦まで3日だぞ? モノにできるかどうか分からないコトするのもなあ」
「あら。別にマスターしろとは言ってないわよ」
 桜花はそっと襟首をつかみ引き寄せる。剛太の顔がアップになる。声は潜める。
「ちょ、あんた、何を」
「バルスカの攻撃力……低いわよ。半自動でフクザツだから肉体鍛えても低いまま」
「何がいいたい訳?」
「津村さんを圧倒するパワータイプの敵がいた時、あなた諦められるの? 面倒くさいコトしなかったせいで力が出せず対
抗できない。でもまあいいやって」
「諦められる訳ないだろ!」
 無理やり振りほどく剛太。息は荒い。何人か驚いたように彼を見る。
「……あ、悪い。ケガとか無いだろうな」
「あるわけないでしょ。大丈夫。どこも痛くないから」
 払われた手を「予想済みです」とばかり笑って撫でる桜花。秋水だけは複雑な表情をした。
「諦められないならやっといて損はないでしょ? 大丈夫。剛太クンなら3日でマスターできるわよ。津村さんへの想い、きっ
と支えになるから……」
 最後だけ軽く目を伏せる少女の心情にまるで気付かぬ剛太だ。斗貴子。その存在を再認識した瞬間もうそれだけが世界
で極彩色だ。
「じゃあ俺フケるのなしで」
「私は老けます……怒涛の5倍速……です」
「テメェは関係ないだろテメェは!!」
 ひょっこり会話に乗ってきた鐶はもちろん講義に賛成だ。
「ふふふ……きっと格闘……格闘武器とも……30%増しでパワーアップ……です」
(どんどんゲーム脳になっていく……)
「我はまだ人型に馴染んでないからな。戦士長さんカッコいいし教えて貰おう」
(え、なんだよお前。なんでホムンクルスがブラボーに懐いてるんだよ)
『僕は!! 鎖使いだから!! 踏ん張りとかスゴい大事!』
(いやいやもうお前十分すげえって。むしろ人間関係で踏ん張れよ)
「じゅーりょくってなにさ? イナズマおとし?」
(ハイやっぱり論外! 予想通り論外!!)
「なるほど!! 関節間力に関節トルク、抜重、重心の置き方、力とパワーの違いなどご講義される訳ですねっ!!」
(こっちはこっちで詳しすぎ!!)
「フ。ちなみに小札ちょっと勉強しただけで片手でリンゴ握りつぶせるようになった」
(チンパンジーか!! なにあいつ可愛い顔して猛獣かよ。いやホムンクルスだけれど!!)
「おや奇遇ですね」
(奇遇ですねってなんだよ!? まさか毒島もチンパンジー!?)
「ブラボー。とにかく全員参加だな。……と」
 防人の視線がトレーニングルームのある一点に吸い付いた。サンドバッグの影から栗色の髪が見え隠れしている。
(そういえば知ってたっけなあ)
「どうしました戦士長?」
「いや何でもない。とにかく講義だ。みんな仲良く聞きなさい」
 優しく呼びかけると総角が追随。
「フ。防人戦士長の仰る通りだ。いまは共に戦う仲間だからな。過去の行きがかりを捨て思いを1つにするのさ」
「だといいが総角」
「なんだ?」
「君がいうと胡散臭い。率直に言うと少し腹が立つのだが」
「秋水よ。それが友に言うべき言葉か? ……フ」
 斜め45度を向きキラキラを浮かべる総角に秋水は心底ゲンナリした。
「だいたいだ秋水。いや……友よ!!」
「俺の方は君をそうと認めていない。一度もな」

 冷めた目でポツリと釘刺す秋水の肩に、総角、手を乗せ残念そうに呟く。
「友よ。脇構えを知りたいならどうして俺に相談してくれなかった? フ。そんなに俺は信用ないのか?」
 ある訳ないだろ。まったくだ。戦士のそこかしこから非難の声。
「フ。アレか? やはりアレか、アレなのか友よ秋ぼ」
 余裕たっぷりに喋っていた総角が妙な声をあげ僅かに前のめりに傾いだのはチョップを喰らったせいだ。
「だーもう! もりもり! だまる! だまるじゃん!! あんたがなんかゆうたび、ゆうたびさ!! ご主人とかあやちゃん
とかちぢこまってる訳よ!! いい加減だまる!! だまるじゃん!!」
 見れば香美が手だけホムンクルス化してボコボコ叩いている。さすがに加減しているらしく爪は引っ込んでいるが、母猫
がかなり深刻な失敗をした子猫を叱るよう執拗に執拗に叩いている。
「フ。アレか? やはり、アレかっ、アレなのか、友よっ、秋水っ」
「ふがーーーーーー!!! たたかれながら言いなおすとかどーゆうりょーけんっ!! ゆるせん! ゆるせんじゃん!!」
 香美はひどく気分を害したようで活発な顔を大いにしかめた。が、貴信に体の支配権を奪われ強制的に後ずさる。
 金切り声を聞きながら秋水はとりあえず呟く。
「顔が近い。遠ざけてくれると嬉しいのだが」
「かつては運命に弄ばれいみじくも干戈を交えた身、因縁に凝り固まる俺たちの絆の氷を溶かすのは、フ、まったく容易な
らざる難事だと! そう思ったわけだな友は!?」
 身振り手振りを交えつつ最後にビシィと指差した総角を秋水は
「いやそれ以前の問題だ。君は絶対はぐらかす。決戦は近い。時間は無駄にしたくない」
 心底マジメな顔でいなした。
(ほら。普段が普段ゆえこうなるのです……)
 小札は信用の低さを嗅ぎ取り涙した。実際総角もここまで蔑ろにされてるとは思っていなかったようで「そうか」と虚ろな目
をした。さびしげだった。全体的に白まり秋風が撫でた。
「というか君なんというかその、変わってないか?」
 眉を顰める秋水の袖を引くものがあった。いまの総角の目と同じ瞳。そして赤い髪にバンダナ。鐶である。
「あれは…………おうち用の……キャラ……です……。普段のスカした態度は……よそ行き……です」
「…………」
「あとリーダー…………。根っこは……抜けたトコ……ある癖に…………頭だけはよく……器用、なので…………対等と
思える人…………少ない……です。部下はいても……友達は…………いない……です…………。哀れです……」
 詫び錆びとした実感こもる哀れですに桜花が噴き出すのが見えた。
「その哀れが……やっと…………剣の上で……自分より強い人に……逢えた……ので……対等以上の……友達ゲット
だぜ……とはしゃいで……いるのです…………。なんか……キモくて…………鬱陶しいです……けど…………上辺だけ
でも……取り繕って…………付き合って……あげて……ください……。基本支配者タイプなので……人との距離の測り方
…………よく分からん……だけ、です」
(キモくて)
(鬱陶しい)
(なんて言い草だよオイ。別にホムンクルスなんてどうでもいいけど蔑ろにされすぎだろリーダー)
 呆れ混じりに汗たらす剛太の視界の中で桜花はまだまだ笑っている。俯き口を押さえているが頬も耳も真赤だ。ぶるぶる
震える体は相当の酸素不足。
「おっ、お母さんじゃないだから光ちゃん。お母さんじゃ…………」
 ウケ方もどこかズレている。
(こっちはこっちでヒドいなぁ。見てくれだけはマトモなのに)
「んっ」
 鐶は秋水の掌に何かを包み桜花の傍へ。開く。見る。食べかけのドーナツが入っていた。
「お願い聞いてくれたら……それ……あげます」
 姉のように慕う少女の背中をさすりながらぴこぴこ何度かウィンクする音楽隊副長に
(いるか!)
 と叫びたくなった秋水だが辛うじて答える。砂糖でベトベトのチョコレートドーナツが独特の不快感をもたらしながら崩れていく。
「いっそ総角の顔に投げつけてやれ。いい薬だ」
 本当、従おうかと思ったがガマン。

 とにかく防人の講義スタート。






 半身で構える。足は肩幅よりやや広く。そして左足を前に。

 脱力(抜重)しながら左足を後ろの右足付近まで引く。

 右足の接地点をAとした場合、体は点Aを中心に前のめりに回転する。
 このとき左肩は一瞬だが下がる。もし相手が狙っていたなら見失う。消えたよう錯覚するのだ。

「このとき両足を踏み替えながら接地点A、つまり右足を前へ出しつつ手首を返し刀を上に向けてみろ。重要なのは接地点
Aまわりの重力と回転……それを活かせ。刀は手だけで振り回すな。力を生み出すのはあくまで足腰や胴体だ。それを踏ま
え攻勢に転じろ。接地点Aの回転を殺さぬよう刀を、一瞬右肩に担ぐようにしながら前方向かってやや左に斬り下ろす。す
ると相手の刀を右上から封じるコトができる。なにしろ向こうはこちらを見失っているからな。虚をつける」

 以上。脇構えの基本。説明は実演を踏まえ行われた。

 防人衛と早坂秋水が竹刀を手に向かい合いポイントごとに緩やかに動いてみせた甲斐あって戦士・音楽隊のほとんどが
『大まかにだが呑みこめた』そんな表情。

「今の戦士長の動き……力みがなかった。大抵の攻撃には力みがある。『攻めるぞ』と思った瞬間その部位に気配が篭る
ものだ」
「それを読み先の先で叩き潰すのが先輩の戦闘姿勢(バトルスタイル)。けどいまのブラボーみたく力まない攻撃じゃ」
「読み辛い。剣腕で勝る秋水クンさえ反応できなかったのもそのせい」

 秋水は見た。最初の脇構えの時……攻撃に転ずる瞬間、防人が一瞬、『消えた』のを。

「いまのブラボーどのの動き……ほとんど重力に身を委ねておりまする。相手に立ち向かうというより『いっそ転んでも構わ
ない』そんな感じで放胆かつ飄々と」
『読めないのも見失うのも当然だ!! なにしろ動きは重力任せ……殺気も闘気も存在しない!!』
「言うなればあの一瞬……秋水さんは…………人間ではなく…………自然の……摂理を……相手にしていたの……です。
舞い落ちる木の葉。次にどこ……いくか……読めません」
「フ。熟達した剣士ほど読みに頼る。相手が何を考えどこを攻めるのか……”ニオイ”を嗅ぐ。が、相手が無心となり自然や
宇宙の大原則に身を任せた場合これはもう大変厄介だ。なにしろ……フ。絞り込めないからな」
「成る程……。人間相手ならある程度まで攻撃を予測できる。だが重力などに則った物理現象は無数に展開しうる。演算機
を用いてさえ完全には予測できぬ混沌(カオス)……。そちらに身を融かされば最後、読みもへったくれもないという訳か」
 腰に手をあて戦士・音楽隊それぞれの反応を一通り見終えた防人は「そう!」と笑う。
「これが脇構えの基本だ。重力を使い気取られるコトなく有利な位置取りをする。真剣なら相手の肩か首がバッサリだ」
「剣術怖えなオイ。つーかお前いまの説明で分かったか?」
「大体は」
 貴公子然と頷いたのは早坂秋水。剛太はあまりよく分からない。
「というか戦士長、重力の使い方なんて今まで一度も」
「ひょっとして火渡戦士長との一件があったからですか? 言いにくいコトですけど重傷で以前と同じように戦えないから」
 こういう体の使い方にシフトにしたのか? 訝る18歳の女子ふたりに「いいや」と防人は胸を張った。
「俺は前から心がけていたぞ? でなきゃホムンクルスでもないのにあれほどの力はおかしいだろ」
「自覚あったんスか……」
 剛太は呻いた。確かに以前の防人はひどく人間離れしていた。電柱より高く飛び、手刀で海を真っ二つ。本気で踏み込めば
衝撃で平たい荒野が6mほど隆起する。どれも重力を上手く使った結果らしい。
(重力すげえ)

 或いはその使い方を熟知しているからこそ対ヴィクターの切り札候補だったのかも知れない。
「キミたちに今回伝授したのは単純な話、それだけのレベルに達したからだ。ザ・ブレーメンタウンミュージシャンズとの戦いは
キミたちの力をブラボーに向上させた。なら次の段階に導いてやるのが俺の役目だろう」
「力が」
「上がった……!」
 斗貴子は広げた両手をまじまじと見つめ御前は景気良く飛び上がる。
 その戦いでもっとも多く金星を上げた秋水は感慨深げに瞳を細めた。
「あのとき総角は確か左切上……つまり居合いの要領で俺の逆胴を迎え撃った。戦士長の説明とやや異なりこそすれ
おそらく原理は同じ筈」
「ブラボー。だいぶ考える癖がついてきたな。そう。話を聞くに足の踏み替えはなかった筈だ。力を生み出したのは股関節。
骨盤の水平回転が剣速を生んだ」
「いうなれば脇構えの応用形」
 総角主税は金髪をかきあげた。
「フ。薬丸自顕流の『抜き』も少々混ぜてみたが──…」
「重要なのはつまるところ回転と重力……だろ? 総角主税」
 まったくその通りだとばかり音楽隊首魁は気取って笑い
「ついでに言わせて貰うと防人戦士長が今された芸当は元服前から剣術に総て捧げ続けてきた者が三十路でようやく使える
ものだ。やっと実戦で振るえるものだ。俺でさえできん。門外漢ながらその歳で極める……どれほど修練されたか想像する
だに恐れ入る。敬服まさにその一言だ」
 恭しく一礼をした。
(あの総角クンが)
(認めた……? 戦士長を)
 目を見張る桜花と斗貴子だが──…
「……いいや。そんな大したものじゃないさ」
 にわかに防人の声が沈んだ。表情も笑ってこそいるが急に顔のいちめん全域に影が差した。




 秋水は剣士らしく人の目をよく見る。ニュートンアップル女学院地下でヴィクトリアを母校に招いたときもそうだった。

──「君は俺が見てきたホムンクルスたちとは違う」

──「馬鹿馬鹿しいわね。根拠もないのに」
──「根拠ならある」
──「何よ」
──「君の目だ」

──「冷えてはいるが、濁ってはいない」

 同じ文法で見据えた防人の双眸。
 微かに潤む碧い波濤は失われたものを悲しんでいるようで。
 けれど失われてからもなお歩き続けた泥の道に確かな足跡を認めたようで。

 桜花を守らんと目が濁るまで戦い続け、過ちを犯し、それでも新たな世界を1人歩けるよう足掻いている秋水だからこそ──…

 分かった。

(戦士長にはきっと目的があった。夢……というべきかも知れない。並外れた努力をし体術を極めたのは夢を叶えるため。
俺と同じだ。叶えること叶わなかったのだろう。そこも同じだ。いかに技量を褒められても戦士長は喜ばない。叶えられなかっ
た力。及ばなかった自分。苦い記憶ばかり先行する)

 よみがえる記憶。倒れふす桜花。血は止め処流れ。
 秋水はただ傍観者だった。見ているほかなかった。

(受け入れられない)

 収束。回帰する現実のなか痛切だけは過去と同じく不動態。秋水はただ目を瞑る。

.

.
 世界が夢みし者に対し最も残酷に振るまうのは挫折を与えたとき……ではない。

 挫折させておきながらなおその道を歩み続ける権利を奪わなかったときだ。
 完膚なき途絶をも超える酷薄。恐ろしいコトに残酷の方が大多数だ。
 信じていた物がなくなっても。どれほど無残な裏切りにあっても。最愛の人を守れなくても。
 ずっと前を見ていた心の繊細な枠が絶望の濁流で粉々に破砕され激痛を感じても。

『まだ同じ道を往けるよ? どうする?』

 体勢が崩れ嘆き悲しむ者が従前どおりの何ら瑕疵なき体制を突きつけられる。
 救いだからこそ、惨い。何故なら決断の材料を外形に委ねられないからだ。
 やめるにしろ、続けるにしろ、総て内なる自らの要素で決めるほかない。責任を被(かず)けられない。

 もし同じ道を再度選び、それでまた同じ悲劇が生じたら。

 何もかもが自分に跳ね返ってくる。ただでさえ行き止まりの前で苦しむ人間にとって、失敗の恐ろしさの生傷を始めて知り
打ち震える人間にとって新たなリスク付きの決意は、容易ならざる案件だ。

 権利。
 同じ道を歩み続ける権利。

 失敗しても奪われないのが殆どだ。
 仮に法的な懲罰という形で奪われたとしても、それはあくまで形而にすぎない。
 たとえボツリヌスに汚染された缶詰を市場に広く流通させ9843人の死者を出した食品業者が社会的な制裁によって二度
と食品に関われぬ立場に追い込まれても、非合法に身を染め設備さえ整えればまた同じ商売を行える。むろん世間はそうい
う行為を許さないし同じ過ちを繰り返せばより強く非難するだろう。だがそこは別の話だ。重要なのは何が二択を決めるかだ。
続けるか、やめるか。決めるのは結局当人の意思である。裁判所の判決。世間の目。大多数の人間はそれらを意思決定
最重要の材料とする。違法だからやめよう、支持を得られぬからやめよう……正しいとされる判断で身を引き転業する。
されど意思とは本来自由なものだ。歩み続ける権利はよほど致命的な物理的破壊──大げさにいえば植物状態にでも追
い込まれない限り人は足掻ける。首から下がマヒしたとしても口だけで人を使い覇業に挑むコトだってできるのだ。或いは
目線だけでも──をされない限り奪われない。

 そもそも誰だってすぐには気付けないのだ。

『失敗しても培ったモノは壊れない』。

 目標を目指す過程で。
 洗練した肉体。
 発達した精神。
 失敗とはそれらさえ粉々にするほど強力ではない。むしろ無力寄りの事象だから挫けるものなど知れている。意欲という、
より大きな無数の機構に連なる最初の歯車ひとつだけ錆び付かせるのが関の山だ。他人から見ればそれっぽっちにすぎ
ないのが挫折なのだ。失敗までに築いたものは実際ちゃんと残っている。実感できないのは、連動の起点が狂ったからだ。
噛み合わず動かなくなったものを喪失と見ているだけだ。見る方が選択を突きつけられず済むと無意識に悟っているから
知らず知らず目を背けているだけだ。まだ残っている強力なカード。けど傷だらけの手で持つと痛い。だから手を伸ばせず
いる。頼れば道が開けるのに……。

 選択。

 人は苦しむのだ。選択の前で。

 続けるのか?

 やめるのか?

 と。
 本心と捨てられないモノ。自らを取り巻く状況や倫理観。それら2つを秤にかけて葛藤する。

 防人は戦士を辞めなかった。
 夢に連なる道を再び選んだ。秋水も似たようなニオイを持っているからよく分かる。

 防人衛は選んだ先で努力を続けたのだろう。
 挫折してもなお戦い続けたのだ。

 夢が断たれる前、純粋な気持ちで──やりさえすればきっと叶う、そう信じて──繰り返していた努力を、重苦しい、『幾ら
重ねようとやはり再びご破算になるのではないか、同じ絶望を二度味わうのではないか』そんな怯えと意欲の上がらなさと
戦いながら続けたのだろう。
 なぜ続けたのか? 秋水は問う、自らに照らし。

(続けなければ本当に救いがなくなるからだ)

 人生が闇一色になり他の誰かと変わらなくなるからだ。
 男を、男たらしめるのは、夢であり理念であり、青臭いほどの熱なのだ。
 みな個別で特有のものだ、捨てればただ酸素を吸い炭水化物を燃焼するだけのありふれた肉塊だ。生きた証も賭けた時
代も消えてしまう。
 それを嫌がるものはみな足掻くのだ。
 夢に対する貧窮を抱えながら、青春時代を実情以上に眩く眺めながら、先のみえない真暗闇をのたうちまわる。
 鋭い瓦礫のまぶされた泥沼を這いつくばる寒い闇夜を血だらけ傷塗れで生きていく。

 苦い、希望とは縁遠い努力。努力とさえ呼びづらい”もがき”の日々。

 なのに人は一見蝸牛より遅い前進の中でさえ……力を培う。

 過酷と暗鬱に彩られた日月、痛みと哀惜と後悔ばかり詰まった期間が皮肉にも傷への抵抗を与え──…
 天から伸びる救いの糸へとたどり着く。

 秋水が果ての際でまひろに出逢ったように。

(いま戦士長が総角の言葉に実感したように)

 挫折以降それでもずっと努力し続けた者だけがたどり着く瞬間。
 やめなかったからこそ味わえる、奇跡。
 振り返ってある日突然気付く『無力感の対義語』。足掻き続けてきたコトそのものに夢以上の価値を見出す刻。
 夢を叶えられなかったこそ得られる支柱も、あるのだ。
 秋水は桜花を助けられなかった。残酷だがそれは事実だ。罪も犯した。けれどだからこそカズキという動機を得た。得た
ればこそまひろとの関係性もできあがった。

──「お兄ちゃんは先輩たちにちゃんと前に進んで欲しいから、痛いのも怖いのも引き受けたんだと思うよ」

──「だから刺しちゃったコトばかり気にして何もできなくなったら、お兄ちゃんきっとガッカリしちゃいそうだし……」

──「だから手助けしたいの」



──「まだ私に『悪いなー』と思ってくれてたら」

                                               ──「まだだ!! あきらめるな先輩!!」


──「お兄ちゃんがいったコトだけはちゃんと守ってあげてね。それからさっきの言葉も」


                                         ──「君が武藤と再会できるその日までこの街は必ず守る」


──「そうじゃないとお兄ちゃんに胸を張ってちゃんと謝れないと思うから」


 戦いを経て得た言葉。食材の果て聞いた声。
 秋水は思う。『支え』だと。


(戦士長にはあるんだろうか)


 少なくても総角の言葉は成り得ない。頓挫に端を発す苦節のなか続けた努力の実感材料にはなるだろう。だが根本には
至らない。美辞麗句でありさえすれば心に沁みる。そんなものは幻想だ。浸透率を決する大きな要素は位置づけだ。発言者
との関係性、精神への機構的有効性……。簡単に言えば『最近知り合った元敵組織の首魁がちょっと褒めた程度で治るほど
防人の挫折は浅くない』だ。

(過去を振り切るには至らない)

 もっと明確な”何か”を得ない限り防人はまだ現状(いま)のままだろう。

 言い換えればその”何か”を克服せんと今一度立ち上がったとき防人は──…

 やっと自分に、還れるだろう。


 秋水はそんな気がした。





 声が戻す。現実に引き戻す。騒がしいのは音楽隊。どうやら首魁をフォローしているらしい。

『いや!! 自分より上だと思ったら素直に認める人だぞもりもり氏!! Dr.バタフライとかパピヨンとか!!』
「付記いたしますれば稽古! 模擬戦なればブラボーどのと同じコトできまする! あくまで実戦、伯仲以上に用いるは不安
確実性に欠けるというコトで念のため控えております」
「撃墜数……46……みたいな……。あと一歩でエースだけど……極めてない……です」
「でも戦士長さんもすごいのだ。かっこいいのだ。師父の仰る通りなのだ」
「んーみゅお腹すいた。垂れ目垂れ目サンマの切れっぱ持ってくるじゃん!!」
「お前も褒めろよ……」
 とてもマイペースな約一名に総角が落とす肩を防人はポン。優しく叩く。
「というかお前ひょっとしてあの流派知っているのか?」

「……フ。青い髪のメイドさんでしたら知ってますよ」
 突然敬語を使い始めた総角に斗貴子や剛太は胡乱な顔をした。ふだん尊大なだけに、へり下る姿に不気味なものを感じ
たのであろう。「エコ贔屓みたいな」、下で働く音楽隊連中などは決してされない『良い顔』に渋い面だ。露骨な格付け、”彼
は俺より上だけどお前は下な”が透けて見える……そんな敬語だった。
 ともかく青い髪のメイドと聞いた防人は「やはり」という顔をした。それで議題の合致をみた総角は懐かしそうに目を細め
「剣も柔も凄かった。俺の技の幾つかは彼女の助力なしに完成しなかった」
「確かに物腰といい教え方の上手さといい非常にブラボーだった。実をいうと俺も体の使い方を教わってだな」
「って誰だよ。誰の話してんだ」
 何やら共通の話題で盛り上がり始めた防人と総角に呆れる剛太である。
「あ。ああ。あの方でありますか」
「知ってるの小札さん?」
 柔らかな声に振り返る生徒会長に
「バインバインでありました……」
 小札はただ目を白い楕円にしてうぐうぐ泣いた。何やら敗亡の記憶があるらしい。

 ともかく総角。防人が褒めるほどすごい人物に教えを乞うていたらしい。

(そういえば俺との戦いでも)

 さまざまな流派の技を繰り出していた。
 存外、指南への抵抗はないのかも知れない。
 などと思う秋水の袖がくいくいと引かれた。振り返ると火中青黒い石がどんよりしていた。
「リーダー……私の特異体質鍛えたとき…………一緒に……えらい……大学教授さんとか……専門家さんに……話……
聞きにいきました…………」
「鐶、か」
 ちょっと秋水は面食らった。まず目に飛び込んだノーハイライトの瞳が一瞬なにかの怪奇現象に思えたのだ。
「…………リーダー……私と出逢うまで……鳥のコト…………ちょっと詳しいレベル程度だった……よう……です」
「えぇと」
 相手の困惑も構わず話す鐶をどうしていいか分からず最悪の人選。縋るように見た無銘は「いやなんで我見る関係ないし」
「鐶みたいな厄介ごと勘弁」「というか助ける道理ないからな母上斬ったし」、無関心と怯えた拒絶と怒りのトリコロールに
表情をやつす。
(調子こそ遅いが押しは強い……)
 ボソボソ喋りだが中断を許さぬ強い意志が鐶にはある。
「その道の……スゴい人に……は……リーダー…………素直……です……。ちゃんと……いうコト……聞きます」
「そ、そうか」
 やっと秋水は気付いた。鐶がちょっとニガテなのだと。実際、傷だらけのところを不意打ちされたとはいえ完敗しているし、
先日まひろを追いかけた時に至っては投げられている。独特なペースも相まって何だかやり辛い。
「だから……伸びます……。人と交じるせいか……教えるのも……結構……上手……」
「わかった。つまり君と総角は一緒に鳥の知識を学んだんだな。わかったから」
「そう……です。リーダーも……決して……専門家レベルから……始めたわけでは、ないのです…………。…………私と
一緒に……学んだの……です…………。だから私も成長……です……。私の自由な発想を……許して……くれました
……から」
 なまじその道に詳しいと先入観を以て後進を妨げるコトがある。総角は違うらしい。

 全力で頷くと鐶は「むふぅ」と満足そうに息を吐いて去っていった。秋水はどっと疲れた。


 とにかく総角主税という男が、一種喰えぬ輩であるコトは間違いない。
 にも関わらず防人の努力は率直に認めている。負けはしたが剣においては秋水と互角の彼が。しかも彼は無数の武装
錬金をも使いこなす。その修練に費やした時間を思うとき秋水は天稟を感じぜざるを得ない。なにせこっちは剣一本に
総てをかけてようやく今に至ったのだ。総角は刀のみならず数多くの武装錬金を使いこなす。認識票の特性上どうしても
本家本元に劣る──最も得意のアリス・イン・ワンダーランドでさえ80%。本来拡散状態が同時に行える「通信機器の
遮断」「方向感覚撹乱」さえ片方しか使えない──武装錬金ども皆総て実戦レベルまで引き上げているのだ。

 これはもう努力量うんぬんでカバーできる問題ではない。

 初見。触れてすぐ本質を理解する直観がなければ却って特性に振り回される。
 巷間あふるる武装錬金のほぼ総てコピー可能といえば聞こえはいい。ただそれは広大無辺、方向性の無限ぶり昂じて
皆無に等しい。

 普通の戦士なりホムンクルスはたった1つの方向性しか持ち得ない。
 不自由なようだが指標があるのは幸せだ。
 何を目指し何をすべきか大まかにだが絞り込める。

 総角にはない。

 他の連中が陸地で自動車を、海辺でヨットを与えられるとするなればさながら大宇宙のド真ん中で宇宙船を得た状態な
のだ、彼は。
 360度のパノラマのどこにでも行ける。
 緋、翠、碧、色とりどりに眩く輝く無数の星いずれにも到達しうる箇所にいる。

 だからこそ危うい。

 常人はまずそこで思考がマヒする。銀河の美しさに酔いしれ全能感に蝕まれる。
 謙虚さを忘れ思考を止めただ漠然と星へ向かい……次、また次と貪るように手を伸ばす。
 そういう者が真に星を知るコトはない。
 何でも得られる天恵は無関心の胚胎だ。
 万物を手軽に”つまめる”富貴は練磨を奪う。

(総角は……)

 そんな条件下の中で輝きに惑わされるコトなく核を貫きモノとした。

 才覚だろう、一種の。初見で本質を見抜き、かつそれを自らの形質に照らし合わせ計を練る。
 最速で仕上げる道筋を築く。で、なければ無限に近い武装錬金の総て実戦レベルにできないだろう。


(凡人なら何から手をつけていいか分からず結局中途半端になる)


 総角の才覚に秋水は改めて気付く。と動じに彼が褒める防人がどれほどスゴいかわかった。

(実際、先ほど剣を交えたときも……)




 防人を見失った秋水は本当にごく僅か、鴻毛の毛ほどの刹那惑乱した。さもあらん剣歴においては明らかに自分より下
の相手がまったく予想外の動きを見せたのだ。おぞましき不可思議、ありえからぬ予想外に脳細胞の原初に属する獣的
部分が明らかに動揺した。しながらも剣士として洗練された部分は冷然と逆胴を続けた。
 1つには経験則。
 相手が予想外の動きを見せるなど剣道においては茶飯事である。
 動揺はあくまで、剣については素人だとばかり思っていた防人が、突如として全国大会上位クラスの動きを繰り出してき
た乖離にある。戒めと立て直しはナノセカンドの雲海を突き破る雷鳴となりすぐ消えた。

 あとは体が動いた。

 往々にして見失った相手ほど間近にいる。逃げたり大股で遠ざかるものはよく見える。
 逆説的にいえば見失わすほど術技に長けたものは……まず逃げない。熟達とはすなわち逃避の逆なのだ。修得につき
まとう無限の痛苦と真向たたかい”やり抜いた”証なのだ。従って秋水監視網を潜り抜けうる猛者どもの逃げる道理なし。

 彼らは必ず死角に一撃ねじ込まんと手管を尽くす。手管を尽くしたい一心で誰も褒めず対価も与えぬ苦しい日々をやり抜
いたというべきか。
 よって近づく者はいつだって傍にいる。
 驚くほど近くにいる。
 思い返せば絶好の狙い球でどうして撃てなかったと首を傾げるほど隙だらけでそこにいる。
 にも関わらず打たれず逆に痛烈なほどの鮮やかさで勝ちをもぎ取るから剣道というのは分からない。
 ……『むしろそれが醍醐味なのだ』、味わい尽くしたようで実はようやく最近目覚め始めた秋水が、冷然と逆胴を振りぬい
た2つ目の理由は剣の真理を見たからだ。

 かの総角との最後の激突、まひろのため培った総てをただ出し尽くさんと逆胴を振りぬいた時から彼の境地は広がった。
 個人としての勝ち負け、勝たねば桜花ともども死ぬほかなかった信奉者時代。
 秋水の武技はつまるところ力任せ、ただ相手を打ちのめすためだけ存在した。
 であるがためカズキを刺し罪業ともに始まった新たな日々のなか少しでも自分に勝てるよう足掻き続けた。

 剣道部の面々に稽古をつけ防人に教えを乞うた。

 単身ただ1人でザ・ブレーメンタウンミュージシャンズ6名を相手どり苦戦と激戦をやり抜いた。

 その果てで逆胴を、九頭龍閃を浴びながらなお振りぬいたのは、ひとえにまひろを助けるためだ。

 助ける資格を得るため総角を倒さんと振りぬいた……逆胴。

 それは真の意味で人のため振った剣。
 L・X・E時代は違った。桜花を守っているようで結局自分のためだった。
 最愛の姉を失いたくないという感情、自利のため戦っていたのだと秋水は思う。
 それがカズキと出逢いまひろと様々なものを分かち合ううち利他の心に形を変えた。
 生まれて初めて誰かのため使った自分の力。本当に心地よかった。

 いつしか嗅いだ花の匂い。

『2人ぼっちの世界から新しい世界が開けるかもしれない』。

 いつしか覚えた胸の澱も罪の穢れも何もかも浄化する爽やかな予感。

 勝敗はそれを曇らせる。むろん誰かのため勝たねばならぬ局面もあるだろう。それはいい。断固として勝つべきだ。だが
秋水個人の損得のため剣を振るうのは……違う。総角との決戦場にたどり着けたのは仲間たちの助力あらばこそだ。
 次々と立ちはだかる音楽隊の面々を辛うじて退けられたのは、先だって交戦した斗貴子や剛太、根来や千歳、桜花といっ
た戦士たち居ればこそ。
 彼らは負けつつも敵を研覈(けんかく)する余地を残した。
 敵の性状と武装錬金の特性をある程度、発(あば)いた。
 武装錬金同士の真剣勝負においてそれがどれほど恵まれているか!! 
 多くは一から敵の領分に付き合い死ぬか死なないかの極限のなか正しく命がけで見抜くのが特性なのだ。
 敵はそれほど能力を秘するものだ。事実秋水はまったく初見の鐶にだけは惨敗を喫した。
 それでも利他に預かり連なった遥か先で総角に勝てたのは事実。
 利他をやらず自利に戻るのは道義上許されない。

 生真面目で筋を通さんとする秋水だからいまは個人の贏輸(えいしゅ・勝ち負け)など捨てている。

 脇構えから姿を消した防人に対し逆胴を振りぬいたのは、結果打たれて負けても構わないと思ったからだ。
 勝つにしろ負けるにしろ刀を振りぬく。


(俺にできる事はそれだけだ)

──「お兄ちゃんは先輩たちにちゃんと前に進んで欲しいから、痛いのも怖いのも引き受けたんだと思うよ」

──「だから刺しちゃったコトばかり気にして何もできなくなったら、お兄ちゃんきっとガッカリしちゃいそうだし……」

──「だから手助けしたいの」



──「まだ私に『悪いなー』と思ってくれてたら」

                                               ──「まだだ!! あきらめるな先輩!!」


──「お兄ちゃんがいったコトだけはちゃんと守ってあげてね。それからさっきの言葉も」


                                         ──「君が武藤と再会できるその日までこの街は必ず守る」


──「そうじゃないとお兄ちゃんに胸を張ってちゃんと謝れないと思うから」


(たとえ俺が負けても今は仲間がいる。負けてもいい。だが彼らがかつて俺にしてくれたように、敵の能力だけは必ず暴く)

 敵はレティクルエレメンツ。総角のクローン元率いる破壊の軍団。

(暴くため刀を……振りぬく。一太刀でも多く振り、1つでも多く特性を引き出す)

 それが攻略の鍵になると信じて。言葉を、街を、守るため。
 咎人にも関わらず暖かい言葉をかけてくれた少女のため。

(刀を、振りぬく)

 
 決めた結果、左コメカミをしこたま打たれたが構わない。

 相手の強さを知り、認める。そうして初めて人は強くなれる。自分にだっていつかは勝てる。秋水はそう信じている。






 防人はまさか秋水にますますもって評されているとは気付けない。

 大きすぎる挫折を有している男は過小評価の塊だ。

「以前……」
「ん?」
 やにわに語りだした秋水に軽く眉を動かす。
「以前俺に教導したとき脇構えまで言及しなかったのは……」
「ああ。察しの通りだ戦士・秋水。精神にまだ危ういところがあったからな

 この点率直だ。遠慮なく言う。未熟な心で技にだけ熟達するのは危うい、と。
 実際かつて正にそれの体現、弱い心のまま力をつけたアンバランスでカズキを刺した秋水だから反論の余地は無い。

「……」
 愁いに染まる眉目秀麗に今度はフォロー。「コラコラ暗くなるな」。目を糸ほど細くし軽く嘆息。
「言い換えれば今は大丈夫ってコトだ。俺は問題なしと判断した。だから教えた。キミだって例外じゃない。心身ともに強く
なってる自信を持て」

  とはいうがそれで俄かにほぐれる気質でもなし。「しかし……」と言いよどみまた黙る。

(やはり簡単には拭えない、か)
 本人に面と向かって謝罪しない限り区切りはつかない。だが本人は遠き遠き月面世界。そこばかりは防人の及ぶ範囲
ではない。多くの戦士の誰もが持つ──… 《戦う動機》。それをかなえられるのは結局当人だけだ。防人は力添えをする
だけだ。剣持真希士のその動機を戦士長という立場、”キャプテンブラボー”個人の信念それぞれから『戦士としてやるな』と
突っぱねつつ彼個人が達する機会を密かに与えたように、或いはカズキを鍛えたように、これから秋水たちを教導するよ
うに、”はからう”コトしかできないと防人は思う。

(………………)
 斗貴子の表情も硬い。わだかまりという微量の溶質が表情筋という器の表面張力ギリギリまで満ち満ちた「いま言うべき
コトでもなし」溶媒の底にドロドロとごり時おり回遊。するのが見えた。もっとも以前、哀惜に炙られた怨嗟と憤怒の熱量で
綯い交ぜになり変質し凄まじい敵意の揮発性臭気を放っていたコトを思えばまったく沈静したといっていい。まさかいきなり
仲間意識を有する筈もないが──カズキの件がなかったとしても秋水は元・信奉者。斗貴子が憎んでやまぬホムンクルス
に与していた。そも彼女の本質は友愛より孤高に近い。仲間たる戦士さえ寄せ付けぬ雰囲気がある──非攻撃対象、
共に従軍するのだという誇り高い理知であらゆる過去への攻撃を捨てているのは、少なくても、戦士長としての防人、
一団を預かる管理者的には好ましい。もっとも一個人としてはもっとカズキ以外の人間と交遊して欲しいと願っているが。

【まひろたちのような女友達とだけでなく、男性の同僚との一般的な交遊を経験して欲しい。斗貴子の仕事観は男性的、能
力も高い。なるべくディスカッション寄りの対立と修復を経てより高いレベルの判断力を手に入れ成長する、それがなければ
斗貴子は社会に馴染めない。防人はいつか彼女に普通の暮らしをして欲しいのだ】

「だからだな2人とも。そう硬くなるな」
「!!」
「い゛っ!?」
 斗貴子と秋水が同時に驚愕したのは、防人に肩を掴まれ引き寄せられたからだ。「あらあら仲のいい」、感心したように
つぶやく桜花が思い出したのは幼少時代。義母がよく(誘拐被害者の)子供たちにやっていたスキンシップ。防人はスクラムで
も組むよう部下たちを両脇に抱えている。「……スゴイ、です」「アイツらけっこー離れてたのに一瞬でまとめたじゃん一瞬!」
音楽隊の面々が目を見張るほどの早く肩に手をまわした。
(手! 先輩のあんな所スレスレに手を!!)
 羨ましいと泣いたのは誰か言うまでもない。「貴様突っ込みどころ違うぞ……」、鳩尾無銘は呆れた。
「真面目なのはいいがあまり根を詰めるな。考えすぎても始まらない。むしろ動きを鈍らせる」
「…………」
「それはそうですが」
 まったく体育会系な接触に斗貴子はやや顔を赤くし不満ありげだ。女性としての恥じらいというよりパーソナルエリアが
人一倍広いせいだ。無遠慮なスキンシップは好まない。大抵の人間は殴る。カズキでさえ時に殴る。やって無事なのは
まひろか防人ぐらいなものだろう。後者が師匠筋兼上司であるコトを鑑みれば天性ひとつで距離を縮める前者のスゴ
さがよく分かろう。
 他方秋水、こちらはバリバリ現役の剣道部員で(以前はともかく現在は)荒くれた男どもの野卑なる接触に日々慣れよう
と精進している。「目上の人間は時にこうするものらしい」と納得しつつも……旗幟変節に至らぬと見え表情は硬い。
「大事なのは緊張と緩和だ。これは脇構えだけじゃないぞ。武術全般。ひいては戦いのみならず生き方にも言える」
「難しく考える必要はない、ちょっとした着想で戦い方を変えられる……ですね」
 いつだったか受けた教えを反復すると防人はカラカラ笑った。
「ブラボー。よく覚えていた。なら日々の中で少しずつ実践すればいい。鍛えるというのはそういうコトだ。日々僅かずつ積
み上げるコトだ」
 武術の文脈で言われると否定できないのが秋水だ。
「戦士・斗貴子。キミもだぞ。たまには肩の力を抜いていい。だから俺は演劇部に入れてみたし学校にだって融け込んで欲
しいと思っている」
「心遣いは感謝しています。けど──…」
 やはり自分には戦う道しかないのだと斗貴子はいう。頑な。そんな趣旨の言葉をそれぞれの文法で囁きあうのは
音楽隊の面々だ。
「いやお前らがいうなよ」
「まったくだ。先輩がああなのテメェらホムンクルスのせい!!」

 御前と剛太が吹っかけると血の気の多い犬猫がぎゃんぎゃん喚きだした。「別に望んでなってない」というのが理由。
 背後で巻き起こる言い争いを桜花や毒島、小札といった穏健派どもが仲裁するのを尻目に防人はいう。
「戦士・斗貴子。戦いを選ぼうとするキミは正しい。戦士として文句のないほどブラボーだ。否定はしない。キミが日常
を捨て戦いを選ぶコトで助かる命も確かにある。ホムンクルスが根絶されない限り結局誰かが戦う他ない。それも事実だ」
 諭すように呼びかけると僅かだが力を抜くのが見えた。もっとも半分は「理解を得たという理解」より「そこまで分かって
るなら学校だの演劇だの余計なモノを入れないで欲しい、決戦間近なのに何やってんだこの人は」なる呆れの脱力である。
 防人は嘆息した。
「戦士・斗貴子。キミの戦う動機はなんだ?」
「決まっています。ホムンクルスの根絶です」
「なら何故そう思うようになった?」
「……話した筈です。脳裏に過ぎるあの光景を二度と見ないためです。今度はこちらが見せるためです」
 凛と斬りつけるように──シャープに研ぎ澄まされたその表情に剛太はポーとなった。言い争いはそこで終わった──切
り返す。秋水の「いいのか上司に」と困惑する中、防人だけはやれやれと目を細める。どうやら想定済みらしい。

(そういえば先輩)
 過去、サバイバル訓練のとき聞いた過去。それを剛太は思い出す。
(部分的な記憶障害。家族を皆殺しにされたって言うけど)

(その時の記憶はほとんどない)
 秋水も剛太経由で小耳に挟んだ程度だが知っている。

「レティクルエレメンツは強いぞ。戦士・斗貴子」
 急に話題が変わり却って傍観者の剛太と秋水が戸惑った。
 むしろ当事者たる斗貴子の方が粛然とした。何が飛んでくるか悟ったのだろう。防人、続く。
「断片的な記憶だけじゃ限度ってもんがある」
「よく言います。銀成(ココ)に着任したとき焚きつけた癖に」
 というのは、L・X・Eとの戦いが始まった当時の話だ。カズキに甘いあまり戦士として”度”を失いかけていた斗貴子を防人
は戒めた。戦士としての自分を揺り起こせ、でなければ敗けて死ぬと。
(さすが津村さん。頭いい……)
 だいたいどういう経緯か悟った桜花は口に手を当てた。よぎるのは感心。要するにむかし断片的な記憶に縋るよう命じた
防人が一転その限度を語る是非について問うたのだ、斗貴子は。
 ディベートなら劣勢必至。にも関わらず次の瞬間防人のとった行動に秋水は驚きつつも感心した。
「焚きつける、か。あの時も今も同じところに誘導してるつもりだぞ。俺は」
 瞳に愁いを湛えしんみりと笑った。あまり見たことのない顔だ。
 聞き分けのない妹を愛情持って諭す兄のような果てなき愛に満ちていた。
 斗貴子は黙る。よく沈静できたものだというのが秋水評。
「いいか戦士・斗貴子。キミは少々生き急いでいる。何かあるたび死を選ぼうとする」

 防人の指摘に一同目を点にした。まっさきに理解したのはやはり桜花。

(パピヨンの件。ホムンクルス幼体に寄生されたとき津村さんは……)

──私は自分で自身の始末をつける。

 剛太が気付いたのは苦く辛い記憶ゆえか。

(あの激甘アタマが再殺されそうになった時もそうだ)

──キミが死ぬ時が私が死ぬ時だ!


 斗貴子にはそもそも《戦う動機》さえない。負けたら死んでいい。そう思わせ戦いに繰り出させる感情は決して動機足りえない。

 死の影のもとカズキに挑み負けた防人だからこそ強く思う。

「あの時……気付いた。死を選ぼうとする奴は脆い。何があっても、抜き差しならない状況に追い込まれても、諦めず生き
抜こうとする者の方が強いと」
「戦士長……」

 斗貴子の瞳は僅かだが揺れた。俯く。少し唇を噛んだ。理を認めつつ感情的に納得できないという風だ。
「キミはまだ本当の意味で戦う動機を得ていない。別にそれが復讐だと言い切れるなら構わない。信念の相違。総てをかけて
成し遂げたいのなら……何があっても、そこまでは生きたいというなら今は止めない」
 事実かれは剣持真希士の本懐を遂げさせている。任務の上では制止しつつも裏からさり気なく手を回し。
「だがキミは過去をどれだけ覚えている?」
「それは──…」
 断片的だ。惨劇の舞台と化した教室。或いは武装錬金の初発動。首謀者を殺した記憶こそあるが他はどこかあやふやだ。
西山という首謀者は、斗貴子のクラスメイトたちが受難のとき、赤銅島の火山で火渡と交戦中だった。しかしどういう訳か斗
貴子は西山が教室で惨劇を振りまいていたよう記憶している。後姿だが、黒い髪のホムンクルスが『手から』『食事』する風
景が刻まれている。
「その辺は以前キミから話を聞いた。だが俺が教室で殲滅した人型ホムンクルス2体のいずれとも風体が違う。他は動物型
……手で喰う奴はいなかった」
 この奇妙な不一致を思うとき斗貴子は揺らぎを感じるのだ。基盤の。頭が血を失ったように支えを失くす。俊敏で鋭利な
バルキリースカート。その可動肢の根幹に覚えるような頼りない細さに彩られる。武装錬金は精神発現なのだ。使い手の
心を映す。

(明確には覚えていない記憶……。津村の源泉はそれか)
 秋水は知る。被害に遭った。そこは事実だ。
(ご両親とも死別している。以前まひろちゃん共々お茶したとき聞いたっけ)
 桜花は思い出す。周囲の人を奪われた。そこも事実だ。
(だけど先輩はあまりよく覚えちゃいない。俺に身の上語ったときだってどこか他人事だった)
 剛太の推測どおり実感は薄い。
 周囲から聞かされた”事実”とほんの一握りの不明瞭な記憶だけ頼りに今まで斗貴子は戦ってきた。

(あやふやな記憶を頼りにホムンクルス総てに憎悪を向ける……)

 不安定だったころの自分を思い出し秋水は身震いする。彼にとって世界は敵だった。厳密に言えば桜花を奪いに来る
時だけ敵だった。奪われる。恐れたとき世界の区別は何もかも崩壊して惑乱しだからカズキを後ろから刺した。

 死ぬだけでも最悪だが。

(津村は……俺と同じになりかねない)

 ホムンクルス西山という憎むべき敵の首魁はすでにずっと前斗貴子自らが葬っている。
 だのに憎悪は消えない。「ホムンクルス総て」という不確定な存在総てを憎んでいる。
 
 罪業を背負いかねない素地を斗貴子はつまり有している。

「戦士・斗貴子。俺はキミに生きて欲しい。できれば普通の幸福を味わって欲しいと願っている。だからこそ戦う動機を今一度
見つめなおすべきだ」

 防人は斗貴子の頭を軽く撫でた。

「戦ってキミ自身も生き延びる……動機を」
「………………」
 斗貴子は難しい顔だ。本当に彼女は戦いしか知らないのだと秋水は思う。

 防人の説諭、続く。

「キミは日常を知らない。守るべき日常を」

「キミだって誰かの目に映る日常なんだ。キミがいなくなって泣く者だっている。或いはキミを希望とする者も……」

(例えば俺……? ん? 違うな。なんかキャプテンブラボー)

 自らのコトを指しているのでは? 剛太に疑念が渦巻いた。

「だから俺はそういった物を知ってほしい。そういった物がキミを大切にしているコトに気付いてほしい」

 だから学園に転入させ演劇部に転入させた。防人はそう言う。


「とにかくだ。武術に筋量は必要ない」
「本当にそうなんスか? キャプテンブラボー」
 手を挙げたのは中村剛太。武術……というか鍛錬とは無縁そうな人物である。
「剣術はなんとなく分かりますけど、殴ったり蹴ったりするのはけっこう力要りますよ? そうでもしなきゃナックルダスターや
スカイウォーカー通りませんってホム相手に」
 前半耳にした瞬間わずかに目の色変えた男がふたり。
(……フ。剣士でもマッチョな奴は居たけどな) 
(飛天御剣流。総角の振るう流派の何代目かの継承者が確か……)
 最近思うところあり古流について調べている秋水だから思い当たる。平生バネの付いたひどく重い外套で力を押さえていた
男の話を。
「ブラボー。流石は戦士・剛太。なかなか鋭い質問だ」
 話の腰を折られた形だが防人は涼しい顔だ。むしろ質問大歓迎という風でこう述べる。
「じゃあとりあえず順を追って説明する。ああ戦士・斗貴子たちも必要と思ったらメモしなさい」
 普段の剛太ならば面倒くさそうに後頭部をかくところだが、今回は違う。目下講義を受けているのは斗貴子のためだ。来る
戦いのため僅かでも強くなろうとしている。のでメモを取りたいのだがそこは平素の無精癖、「俺けっこう記憶力いいしいいや」
とばかり携帯してない。
「はい」
「かじったのあるじゃん。やる。垂れ目」
 助け舟は女性陣だ。桜花が手持ちから数枚破り差し出した。筆記用具は歯型だらけの茶色い鉛筆が香美から供出された。
「フ。お前意外にモテるな」
「うっせえよ」
 総角の茶々は無視。用紙を核鉄に当て──ボード代わりだ。臨機応変だが少々だらしないのが剛太流──筆記開始。
「要するに筋力って奴は縮む力と速度だ。まぁ一口に縮むと言っても色々あるが今日は省く。分かりやすくいえば──…

縮む速度 × 縮む力

だな」
「ふんふん」
 武術と無縁な剛太でも大変分かりやすい説明だった。なまじ頭のいい彼だから長話は嫌いである。一般常識の講義に対し
「で、結論なんだよ?」と居眠りこいて後でググってそれでよい点採っていたのが研修時代。防人の説明はそんな性格を
踏まえた速成即席の単純授業だった。数多くの戦士を育ててきた年季を感じ秋水はますます敬意を深めた。
「なお細かい説明がご入用でしたら後ほど不肖が解説する所存!」
「やだよ長くなりそうだし」
「そうは仰られますが剛太どの! 知識といいますのは長く険しき道をかきわけかきわけ進み続けてようやくですねっ?」
「拒絶しても火ぃつくのかよ!」
 剛太は詰め寄られた。
「長いのお嫌でしたらCD! 不肖がポイント別に5分づつ区切って説明いたしまするCDを作成生産のうえ配布! 寝る前
ご飯食べてる時おヒマな時のながら用にちょびちょび聞きますれば効果覿面知らぬ間に熟達するコト必然! 隙間時間が
有効利用できるコト請け合いですっっ!!」
 ロバ少女のどんぐり眼に火が灯った。胸の前で拳を固めきゃいのきゃいのと騒ぎ立てる。「実況つーか喋るの好きすぎだろ
お前……」上背を押しやられる形で剛太はドン引きした。
「む。気乗りされぬご様子。ならばいまなら不肖が読み上げまする百人一首ならび円周率20万桁詠唱のCDもセットで……」
「いらねえ! 最後の地味にすげェけどいらねえ!!
「あ、私は聞きたいです」
「毒島が釣られた! 円周率に釣られた!」
 毒島がちょっと頬を染めながら頷くと(ガスマスクの頬である)小札は澄み渡った鳶色の瞳をいっそう輝かせた。
 そして全力で握手。色々気が合うらしい。


「というコトでらじかせどの一席お付き合いのほどREADYでありますレディのゴー。けほん」

 農家のおばあさんのような平坦で抑揚なき牧歌的な声をあげながら。
 一団から少し離れたところで正座状態の小札が万歳しつつペコリとお辞儀。向かいにはラジカセ。紫の座布団に乗っている。

「あれ……上座よ…………」
「分かったから笑うな! 桜花お前最近笑いすぎだぞ!!」

 斗貴子の怒声も空しく銀成学園生徒会長は麗しい顔を俯かせブルブル震える。電化製品をもてなす姿がツボに入ったらしい。
『はは! 小札氏にとって録音機器は神だからな!! いまの気持ちたるや伝説の棋聖と差し向かう駆け出しの少女棋士!!』

「だからって……上座…………ラジカセ座布団に乗せて上座…………」
 いよいよ切迫、引き攣った声を上げる桜花をよそにマイクを刺しなにやら吹き込み始める小札。
 タイマーをセットしたのを見るとホントに5分区切りで行くらしい。
「あ、あと……CD作れるラジカセって何……? あるの、あるのそれ……?」
「知るか!! 笑いながらツッコむな!」
『小札氏がマジックで出したからな! 常識外れでも仕方ない!!』



「でだな。筋力のうちトレーニングで鍛えられるのは縮む力の方だけだ」
「なるほどなるほど。縮む力だけと」
 ひとりごちながら鉛筆を走らせる後輩に
「というか珍しいな。剛太がマジメに勉強しているところ始めてみた」
 斗貴子は感心したような不思議そうな目を向けた。
(たぶん姉さんが入れ知恵したな。さっき話した時)
 嫣然と微笑む──やや剛太に対する不憫を混ぜながら──桜花を思いだし悟る弟。
「ん? そーいや筋肉って鍛えりゃ鍛えるほどデカくなりますよねキャプテンブラボー」
 剛太は顔をあげた。気付きがそこに満ちている。
「縮む力……でしたっけ。ソレ高めて筋力つけた場合、もう片方、ええと、ああそうだ縮む速度。コレ落ちずに済むんですか?」
「ブラボー。キミはつくづく鋭いな」
「……なにをあの男は言ってるのだ?」
「…………さあ……です」
 良くわからないという年少組ふたりに呼び掛けるよう防人。
「戦士・剛太。キミはつまりこう言いたいんだな? 『筋トレのしすぎで体が大きくなればそのぶん動きが遅くなる。それは筋肉
の縮む速度に影響するのか』……と」
「ええまあ。そんなトコ」
「答えはノーだがイエスでもある。理論上は力の強い者ほど速い。まあ実際は結果として違うが……フム。どうしたものか」
 防人は軽く唸りながら秋水を見た。なぜ見られたか分からず彼は少したじろいだが微かな笑いと実直な目線に役割を悟る。
(成程。さすがキャプテン)
 何を目論んだか理解すると林檎を齧ったような清涼感が全身いっぱいに広がった。
「そうだな。戦士・剛太。キミのいうケースもあるにはある。ただ説明するとなると少々フクザツでな。決戦まで時間がない。
今回は駆け引きに関する部分……心理面なものだけ説明しよう。」
「えーと。じゃあ俺の言ったのと逆。筋肉鍛えすぎたばかりに縮むのが遅くなって、だから動作もノロくなるケース、と」
「ブラボー。察しがいいな。火渡を出し抜いたのも納得だ」
「ぐ……。そろそろあの男(剛太)の言ってるコトが分からなくなってきた……」
 無銘は頭を抱えた。鐶は「そんな時は……ビーフージャーキー……食べます?」と差し出した。
「なに簡単な話だ。心理的な問題だ」
(分からん。だがビーフージャーキーは今日もうまい)
 ぱくぱくと咀嚼しながら聞く。防人の説明を。
「誰だって鍛えた筋肉は使いたいと思う。するとつい意識を集中してしまう。だが筋肉ってやつは難しくてな。意識し力むと
却って性能を発揮しない」
「要するに力込めると縮むの遅くなるって訳ですね」
「ブラボー。そういうコトだ。極端な話、縮む力を2倍にしても速度が4分の1なら意味はない。実質半減だからな」
 やっと無銘は分かってきたようだ。「力むの良くないのだな」と頷いた。
「言い換えればだ中村。相手に無理な力みを与えれば本来の性能を発揮させず済む」
「それが武術の真髄って訳? でもホムに通じるのかソレ? あいつらカナモノっぽいだろ、筋肉とかあんの?」
「え」
 秋水の瞳が瞬いた。
「え」
 答えが来るとばかり思ってた剛太も虚をつかれた。
 まじめくさった顔つきで考え込む秋水。
「そういえば分からないな。あるのだろうか」
「いやお前元信奉者だろ! ソレぐらい知っとけよ!!」
「なんだなんだお前たち。いつの間にか打ち解けているな。ブラボーだ」
 防人はメイドカフェの件について何が出てきてどう倒されたか位しか聞いていない。剛太と秋水の変化が意外らしい。

「というかキャプテンブラボー! どうなんですか!」
「ホムンクルスの筋肉か? そういえばあまり研究進んでいないな。弱いのは似たり寄ったりだし……」
 聞けば生け捕りは難しいらしい。人間型で強い者はだいたい武装錬金を持っている。それを制そうとすればより強い力で
叩き潰すほかない。よって強さの秘密は未解明。司法解剖も不可。死ねば塵なのだ、ホムンクルスは。
「ただ複雑な構造のホムンクルスほど挑発に弱い傾向がある。クモのように手が多い奴とかな。激昂すると体の操作を
誤り隙が生じる」
「! そうか。ホムンクルスは高出力。それゆえ人間相手に修練する必要はない」
「持ち前の力振るってるだけで食事できるもんな」
「強いが鍛えていない。それ故アイツらは不測の事態にひどく弱い」
 人間でさえ怒りに我を忘れれば足が縺れ転んでしまう。2本しかない足すら精神状態如何で操作過つのだ。いわんや
動植物型ホムンクルスをや。指に多寡あり足は無数で羽さえあり触手については数千本……。人間より遥か入り組む
デバイスを、修練もなくどうして完璧に使いこなすコトができよう。
「俺が筋肉を通じ今回知って欲しいのはそういう部分だ。力の出し方そのものじゃない」
「最初さっぱりでしたけど内容聞けば一発ですよ一発。要は仕組みの穴をどう突くかでしょ。人間もホムも自分の体カン
ペキに使いこなせてない奴があまりに多いから、うまく立ち回って、本領発揮できなくすりゃあ勝てると」
(言うほど簡単じゃないぞ中村)
 相手を心の方から崩すのもまた難しい。他者の心を崩さんとするとき先立って崩れるのが自らのそれだ。「崩してやる」
そう思って攻めるコトの弊害を剣道経由で十分知っている秋水だから剛太は少し危なっかしい。
(ま、こうなるのは見えていたがな)
 防人は「予想通り」という顔をして秋水を見る。剣客としてすべきコトが自ずと分かった。
 話、続く。
「で、こっちから攻める場合の話だ。一般的に筋力といって思い浮かべるのはさっき言った縮む力だ。ただコイツは力んで出
せるものじゃない……ってのも説明済みだな。筋量を増やしても結果的には変わらない」
「鍛えて筋骨隆々になれば力出せそうな気がするが違うって訳か。メモだなメモ」
「なんだと! じゃあ柘植の飛猿は無力な役立たずなのか!!?」
「……君が反応するのはそこなのか?」
 悲痛な叫びを上げる無銘に秋水は少し呆れた。
「ならどうすりゃ効果的に力出せるんすかブラボー?」
「出すというか、効果的に伝える方法なら3つある」
 腕組みしたまま横向きの三本ピースを作る防人。
「1つ目はズバリ重力」
「脇構えのとき話したアレですね」
「そうだ。戦士・剛太。ちょっとジャンプしてみろ。膝を伸ばしたまま爪先立ちして背伸び。踵を落としてから飛べ。着地も爪先
立ちだ」
 従う。豊かな髪が揺れた。
「キミはいま何気なく飛んだが、実をいうと体は無意識に重力を使っている」
「?? 飛んだのにですか? カンペキ重力に逆らってるじゃないですか」
「と、思うだろう。爪先立ちだというところがミソでな。飛ぶ直前、ちゃんと踵を下ろしたな?」
「ええまあ」
「踵を降ろしたときアキレス腱は落下の運動エネルギーを蓄えている。つまり重力を溜めた。跳躍時ほかの筋肉はすでに
説明した縮む速度と縮む力の掛けあわせでパワーを発揮するが、アキレス腱は違う。貯蔵した重力を解放している」
「つまり重力が俺を打ち上げたんスか? ……まじすげえっすね重力。つーか人間の体」
 右膝から下を横向きに跳ね上げしげしげ見る。
「これを脇構えのときに説明した『抜重』……足に体の重みをかけず完全に脱力する行為と組み合わせるとより効果的だ」
「破壊力が増すんですか?」
「やれやれ。キミは破壊力にこだわりすぎだぞ」
 ため息をつき首を振る防人に剛太は呆れる。秋水ともども。
「いや言われましても。というかブラボーに教えてもらってるんですよ? あれだけ破壊振りまける人に教えて貰ったらそりゃ
拘るでしょ破壊力」
「俺そんなに色々壊してるか?」
 防人は心底意外そうだ。秋水に問う。
「ええまあ、色々……」
 火渡との件で一線を退いた感のある防人だが、鐶との戦いではそれをまったく感じさせなかったという。桜花から色々
聞いた。秋水さえ下した鐶相手に互角の戦いを繰り広げたと。時速300キロ以上で急降下してきた鐶を一撃必殺ブラボー
正拳で迎撃し引き分けたと。踏み込んだアスファルトが広範囲に亘ってヒビ割れたと。衝撃で周辺施設のガラスが砕けたと。
(ビルだって幾つも壊したというし……)
「?」

 ある意味人間兵器な防人だが自分の危険性をよく分かってないらしい。
「まあいい。俺が言いたいのは破壊力を上げるコトじゃない。元ある攻撃力を効果的に伝えるコトだ。そうすりゃ自然に数倍
まで引きあがる」
(ブラボーの場合数倍どころか数百倍ぐらいに見える……)
 呻く剛太。秋水も追随。総角が敬服するのも無理はない……改めて実感だ。
「で、効果的に伝える方法だが。あまり深入りすると話が見えなくなるんでな。実際やろう」
 つかつかと剛太に歩み寄った防人。の姿が急に消えた。
「え? ブラボー消え……あれ?」
 剛太は仰天した。拳。それがみぞおちの前にある。ニカリと笑う防人の顔も間近にいる。
「い、いつの間に来たんすか? 飛んでくる気配なんて微塵も……」
「それを消すのが重力だ」
 拳を引っ込め数歩下がる防人。
「何度も言うが決戦まで時間がない。体術に関しては仕上げる時間がない。だから俺がキミたちに伝える技術というのは
あくまで駆け引き的なものだ。本来修練の果てやっと悟る武術の心構え……真髄の方からまず教える」
「いま気配も悟らせず突っ込んできたのがその1つ……」
 やっと青くなる剛太。殴られかけた恐怖がよぎる。
 防人がどれほど強いか知っている。一線を退いたとはいえ殴られればまだまだ相当痛いだろう。
「武術において大事なのは敵意を悟らせないコトだ。迂闊に気配を出すとそれだけで避けられる。だが……いま俺がやった
ように重力をうまく使えばまず察知されない。力の伝達がムダなくできる。身もフタもないコトをいえばだ。殴れる」
「……いったい何をやったんですか?」
「たいしたコトはしていない。ただの騙しだ。結果から言えば俺はただ重心を時速6.5キロで16センチばかり沈めただけだ」
「たったそれだけ! 俺なんかの目には神業来たようにしか見えませんでしたよ!?」
 具体的……しかも決して高くない数字の羅列に掠れた声が張りあがる。
「そう。タネさえ聞けば大したコトはないだろう。しかし俺は重心を落としながら抜重しつつ全身の筋肉を連動、踏み出しながら
拳を突き出した。そうすると爆発的な加速が生まれる。加速するとパワーもまた必然的に高まる」
「一流選手の反応時間は0.35から0.4秒。一般的なストレートの突きは0.3秒。十分対応できる範囲にある」
「なんだよ早坂。いきなり解説かよ」
「しかし重心を6.5キロで16センチ落とした場合の所要時間は0.18秒」
「れ、0.18秒! ってコトは!!」
「そう。人の認知の外にある」
「これはいわば攻撃の起こりだが、まず察知されない。実際キミだって反応できなかったろ」
「気付いたらもう近づかれてました」
「でも俺はメチャクチャ早く動いた訳じゃないぞ? キミならなぜか分かるはずだ」
「あー……。重力っすよね。最初言いましたもんね。重力に任せて重心沈めたと」
 意識によって動かすべき体を重力に動かさせる。0.18秒だから気付かれない訳ではない。攻撃の気配そのものを発さぬ
からこそ悟られない。
「ブラボー。これもそれなりの修練はいるが目指すところは単純だ。『相手に攻撃を察知させない』。たったそれだけを実現
するため俺は体を鍛えた。いいか。鍛錬そのものが目的じゃない。武術的な機微で相手より優位に立つため鍛えるんだ」
「突き詰めれば中村。キミと武術の相性は案外いい。最終的には智謀や精神がモノをいう世界なんだ」
 だからやってみよう。熱を帯びた口調で誘う体育会系ふたりに剛太はかなりたじろいだ。
「興味がねえ訳じゃないけど時間ないって。やる時間が。というかブラボー、力効果的に伝える方法の残りは?」
「待て中村」
 制止する秋水に剛太は怪訝な顔。何か重力について聞き残したコトでもあるのだろうか? 取り合えず向き直り話を聞く。
「君は奥義ばかり手っ取り早く求めすぎだ。もっとこう地道な鍛錬をだな」
「なにかと思えば説教かよ!! お前好きなのか鍛錬!」
「ああ。昔は義務感でやっていたが今は鍛錬そのものに落ち着く。素振り1つやるだけでも心洗われる気分だ」
「しみじみ語るな!! そこまで好きか剣道!!」
 もちろんだ。辛いコトもあるし夏場の防具はひどい匂いだがそれでも好きだ……生真面目にかつ力強く頷く秋水にただ呆
れた。
「この剣術オタクが! もういいっすキャプテンブラボー。残りお願いします」
 力を効果的に伝える方法。残りは──…
「2つ目はテコ。最後は間接の力」
「テコと……間接」

「そうだ。人間の体にはおよそ600の筋肉があるがいずれも単体では威力を発揮できない。他の筋肉と複合して初めて
最高のパフォーマンスを発揮できる。さっきの突きもその応用だ」
「じゃあバルスカと似たようなもんですね」
「ん?」
「アレ。ひょっとして知りませんでしたブラボー? 先っぽについてる鎌が目にも止まらねェ速度で動く時って必ず他の可動
肢と連動してるんすよ。ホムの目玉アタマごと突き刺しに行くとき先端そのものも動いてますけど、太ももの辺りとか途中の
間接部分とか勢いよく動いてます」
(…………君は津村を見すぎだ)
 本体を眺めているうち気付いたのだろう。凄いのか凄くないのか良く分からず秋水は呻いた。防人もちょっと頬に汗。
「ま、まあ例えはともかく」
「ともかくって何ですかブラボー。先輩はすごいんスよ!」
(君……俺の剣術好き貶せないのでは……」
 楽しそうに語る剛太に呆れた。男というのはどうも他人の趣味に狭量らしい。
「ともかく! 連動という点では筋肉もバルキリースカートも同じだ。あっちが速度を稼いでいるように筋肉も力……縮む力を
稼げる」
「テコってのはアレっすねブラボー。斗貴子先輩が敵の生首ぶっ刺したまま鎌ふりかざしたら予想以上の破壊力が生まれて
敵ミンチ! みたいな!!」
 斗貴子が絡んだせいか剛太の理解力は飛躍的に向上した。語る顔ときたらエビス様もビックリの緩みぶりだ。
 ちなみに桜花もまだ小札の件がツボで笑っている。賑やかしい御前が先ほどからまったく会話に加わってこないのは、本
体が、めくるめく笑撃にいま1つの人格を操作する余裕をすっかり奪われているからだ。
 響く笑い声。和やかだが秋水はちょっといたたまれない気分だ。
「間接についても似たようなモンだ。骨組みを伝わる力や回転を調整すれば少ない労力でより大きな力を発揮できる」
「というコトは戦士長」
 初めてココで斗貴子が話に入ってきた。無銘や鐶はと肩越しに見れば香美(というか後頭部の貴信)から噛み砕いた防
人の説明を哺(ふく)ませて貰っている。「年長者だな」。剣道部で副部長として最近ようやく後進の育成に当たり始めた
秋水だから貴信のそういう部分は好ましい。
 とにかく斗貴子が会話に加わる。骨組みや回転に反応した以上議題は1つだろう。(というかバルスカという単語に
引き寄せられた)
「だな。パワー型に劣勢を強いられるキミの武装錬金でも戦いようはある」
(…………これはかなり大きい。バルキリースカートの特性は高速精密機動。武術……特に合気の呼吸を取り入れれば)
(マレフィックとかいう強そうな連中との戦いに役立つ)
 秋水と剛太は頷きあった。斗貴子も気付いたようで「だったらもう少し早く言って下さい」と嘆息した。
「まあ、どうせ以前の私じゃ危なっかしかったからでしょうけど」
「そ。でも今は違う。俺のさっきの言葉に何か考えるところがあるようだしな」
 精悍な顔に好ましさを滲ませながら指差すと斗貴子は軽く目を逸らす。まだ気持ちの整理がついていないのがよく分かった。
「筋肉に話を戻そう。色々利点を話してきたが、実は難点が1つあってな」
「難点?」
「ああ。全身の筋肉を協調させるにも訓練がいる。ただ鍛えればいいってもんじゃない。それぞれの筋肉のつながりを理解
した上で無理なく力を入れず動かす訓練がな」
 斗貴子は頷く。
「話はだいたい聞いていた。ヘタに力めば縮む力や縮む速度が失われる。重力だって効果的に使えない。テコも間接もな」
「そんな。筋肉って600ぐらいあるんでしょ? 今からじゃとても決戦間に合いませんって」
「だから絞る。戦士・剛太。キミがこなすのは2つでいい。2つの型のフォームだけ徹底的に作り上げる。長い目で見れば
あまり好ましくないが2つのフォームに関わる筋肉だけを重点的に調整する。もちろん全身のコントロールも軽くレクチャー
するが…………そちらはキミの理解力と自主性に賭ける」
「2つ……? なんですか?」
「決まっているだろう中村。ナックルダスターとスカイウォーカー。平たく言えば拳打と蹴撃」
 剣客らしい古風な言い回しに「いやアッパーとハイキックっていえよ」と呆れつつ剛太。すっと真顔に変化する。
「鍛えりゃ先輩助けられますね?」
「キミ次第だ」
 防人はニカりと笑う。やる気を認めた証拠である。
(これも大きい。モーターギアは破壊力に劣る武装錬金。ゆえに基本は遠距離攻撃)
(だが剛太自身の攻撃力が増せば近接戦闘でも十分戦力になる。武術から駆け引きを学べば、なお)
 斗貴子の横で秋水は考える。

 自らのすべきコトを。

 かつて貴信と香美の能力を暴き、秋水の戦いを支えてくれた剛太に。

 何をすれば報えるか……と。

「それから各自に課題を与える。まず桜花。キミは──…」






 2時間後。




「キツい……マジにキツい……」

 真白になって横たわる剛太の姿があった。
「こらこらバテるのはまだ早いぞ。ナックルダスターもスカイウォーカーもまだ50発ずつしか練習してないだろうが。休むなら
せめて全身運動してから休みなさい。整理運動になる、やった方がのちのち楽だし立ちなさい」
 伏せる垂れ目。力なく手をあて一言。
「……もうダメ。動きたくない」
「やれやれ」
 腰に手をあて嘆息する糸目の防人。秋水も続けて呼びかける。
「中村……」
「なんだよ……早坂」
「君は体力ないのか? いつも使ってる技だろう。途中20分も休憩入れれば十分こなせる量だと思うが」
「うるせえよ」
 うつ伏せになって顔を背ける剛太。顔色はそろそろ土気色だ。声もハリがない。床の冷たさが鼻先にこたえたのか、顎
を床に乗せ直し唇も尖らす。
「同じように見えても普段使ってねェ筋肉いろいろ使ってんの! それが1分にだいたい1発だぞ1発…………。キツい……」
 50×2プラス休憩20分。現実的すぎるメニューだからこそ疲労もリアル。
「だいたい俺はお前やブラボーのような体育会系じゃないの。頭使って戦うタイプ」
「……。それで思い出したが中村。後で俺と──…」
「よく分からないが剛太。休むならちゃんと休め。おかしな休み方すると却って疲れるぞ」
「先輩」
 秋水を遮った斗貴子が傍にしゃがみ込む。それだけで剛太は輝きに包まれ至福の顔だ。
「さっきから姿が見えなかったが。津村。君はどこに──…」
「風呂を沸かした。布団だって上(管理人室)に敷いてある。夜も遅いしもう休め。休息も核鉄当てて眠るのも特訓だ」
(はは! 意外に優しい!!)
(優しいじゃん)
(我知ってるぞ! ああいうのをよくできた副部長というのだ!!)
(…………でも……逆効果……なのでは)
 総角が笑い小札がいまだ円周率を唱える中。
「いーえ大丈夫! 俺まだまだ全ッ然やれますってば先輩!」
 剛太は跳ね起きた。速攻で拳を突き上げたり高く蹴り上げたりした。掠れた声が熱く燃える。
「先輩に励まされていつまでも寝ていられるかってんだ! キャプテンブラボー! もっとキツい特訓をお願いします!!」
「ブラボー!! その意気だ戦士・剛太!! 頑張れば! 頑張っていればいつか報われる時も来るッ!!」
「はいブラボー!! おおおおおおおおおお!! 調子出てきた! 見てください先輩! 出てきましたよ先輩!!」
「落ち着けお前ら!!」
 目を三角にして叫ぶ斗貴子に秋水は思う。ああ翌日筋肉痛で動けなくなるなと。剣道部の後輩はテンションをあげるたび
よくそうなる。

.
 チーン。

 頭にタンコブをこさえた剛太が幸せそうに微笑んでいる。目を三本線にし鼻水を少し垂らし。
「まったく。熱を入れるのはいいが少々ハシャギすぎだぞ。分かってるのか。決戦前だぞ」
 ここで潰れたら意味がない。ガミガミと説教する斗貴子だが剛太はまったく動じない。むしろ怒られるたび回復している
らしかった。
「聞いてるのか!! ああもう正座してろ正座! 少し頭を冷やせ!」
 呆れ果てた斗貴子が離れる。剛太は従順だ。「ウフフ。先輩に正座命令された先輩に正座命令された」とご満悦だ。


「津村」
「なんだ?」
 振り返ったショートボブの凛々しい少女に言うべきか言わざるべきか悩んだ秋水がそれでも吐露を選んだのは、らしくも
なく気焔をあげ特訓に挑む剛太がいたたまれなくなったからだ。
「中村は君にいいところを見せたいんだ。だから頑張ってる」
「ん? あ、ああ。そうだな。昔からああだ。私の前だと妙に張り切る。何故だろうな」
「……」
 まったく分かってないのが分かった。
「ああそうか。サバイバル訓練を担当したからか。情けない姿を見られた分、取り返そうとしているんだな。やっと分かった」
(中村……」
 無理解にも気付かず幸せそうに正座続行中の彼を見て思う。
(不憫だ)
「しかし珍しいな」
「何が?」
 腕組みする斗貴子も少し言いよどむ。どうもお互いまだ遠慮があるようだ。普通に話すようになってまだ間もない。
「君が他人を、剛太を気にかけるなんて」
「……変わらないようで変わっていくのが人間だ。今だからこそそう思う」
 前歴は違った。桜花以外見えていなかった。世界に無関心で人にも無関心で。剛太に憐憫の情が動くのは大きな
進歩だろう。
「津村。君だって例外じゃない。悩むのは分かる。だが無理に結論を決めるな」
「戦士長のさっきの話、か」
 斗貴子は難しい顔だ。
「俺がとやかくいう権利はない。だが君まで俺のようになる必要はない」
 沈黙が返る。彼らにとって言葉を尽くすべき議題ではない。カズキ。秋水は刺した。斗貴子が傷つけてでも守ろうとした
彼の命を……奪わんと、した。
「誰かを守りたい。そう願うのはきっと正しい。だがあらゆる災厄から守る事と何もかも敵視する事は似ているようで違うん
だ。だから俺は誤った。誰かの日常に欠かせない大事な存在さえただの敵だと思い込みそして刺した。俺にとっての姉さ
んのような存在なのに、気付けず、慮るコトもできず……。君が俺にわだかまりを抱くのは当然だ」
「……」
「このまま行けばいつか君は俺になる。誤り、誰かの大事な存在を傷つけそして果てない怒りを買う。君がホムンクルス
に抱いているような憎悪を今度は君自身が受けるんだ。ともすれば周りも……それを」
 剛太は懸命だ。膝が笑う中、上段回し蹴りとアッパーを何度も何度もやっている。
 汗を散らしながら励む後輩の姿に一瞬斗貴子の目が優しくなるのを秋水は見逃さなかった。
「澱んだ感情に見境などない。俺を見たはずだ。俺たちを殺さんとした君ではなく守らんとした武藤を刺した俺の姿と
俺の目を。道理は、通じない。復讐は波及する。苦しめるためむしろ周りこそ攻め立てる。それは君をますますもって
苦しめる。だから……急ぐな。結論を」
「…………」
「戦士長も言っていた筈だ。君だって誰かの日常の一部なんだ。慕うものだっている。武藤さんはそうだし……中村も同じだ。
だから彼や武藤さんを悲しませるような真似はしないでくれ。少しでいい。気持ちは……汲むべきだ」
 重い口が開いた。
「覚えてはおく。だが……」
 背中を向け斗貴子は遠ざかる。
「ずっとホムンクルスを憎んできたんだ。すぐ何もかも変えられる訳はない。しばらく考えさせてくれ」
 疲れきった声。カズキを失って沈んだ彼女に防人の問いは少し酷だろう。だがだからこそ引き上げる行為を敢行したのだ
ろう、防人は。必ずしも正しいとはいえない難しい判断。だがやらねばレティクルとの戦いで捨て鉢になりかねない。故の調整。
キャプテンであるコトの複雑さを秋水は感じた。
(それでも……考える、か。急ぎはしないんだな君は)
 ほんのわずか。ほんの僅かだが言葉は通じたようだった。
.

「足……シビれる……で、でも、先輩の命令だと考えるとこれはこれで気持ちイイ……」
 ビリビリと震えながらもやっぱり多幸感あふれる剛太である。
「イヌか!」
「無銘くんに言われなくない……です」
「いま分かったぞ。あの男……ヘン!!」
「だからそれも…………無銘くんに言われたく……ない、です」
 無銘と鐶(ちなみに防人の指導のもと組み手をしていた。人型になって間もない前者は体の試運転。基本ノーガードな後
者は初歩的な防御の練習。ある意味実力均衡な組み合わせに秋水は防人の指導者としての素養を見た)が呟くなか、
防人は右手の槌で左を拍つ。



「ふむ。他の皆も疲れているようだしいったん解散。好きな場所に行きなさい。残りたい者はまあ適当に休憩したのち続行」







『という訳で寮内に戻った訳だけど! 困ったな!! 自由時間といえど門限は近い! 従って外には出辛い!!』
「えー外出たいじゃん外!! なんでダメな訳よ? 垂れ目さっきチチーって外行ってたんじゃん」
「あれはあまり感心しないな。というか誰がお前らホムンクルスを夜の街に放り出すか。危なっかしいにも程がある」
 廊下。並んで歩く影2つ。
『む!! 特訓終わったのに僕らの監視とかお疲れ様だなセーラー服美少女戦士!!』
「じゃあさじゃあさじゃあさ! あんたでもいいじゃんこのさい! 遊ぶ! ヒマだしフサフサぴょこぴょこして遊ぶ!!」
「うっさい!! 誰が貴様らなんかと馴れ合うか!」
 一喝をくれると2人は黙った。それを幸い斗貴子は眉を釣り上げ距離を詰める。
「忘れているようだが本来お前たちは始末されても仕方ない立場だからな。ヴィクター討伐で疲弊した戦団が、大戦士長救
出まではと仕方なく共闘を認めたからこうして殺されずにいる。じゃなきゃ私がとっくに始末──…」
「ところで垂れ目どこさ? アイツなんか好きじゃんあたし!」
「ほう。いい度胸だな。私の言うコトを無視する、か」
 ドス黒い青紫の影が斗貴子の顔の上半分を塗りつぶした。前髪に隠れて瞳は見えないが兇悪な一等星のギラつきが
圧倒的殺意を振りまいている。
『わわわ悪かったセーラー服美少女戦士!! こ、香美は悪気があった訳じゃなくてだな!! もともとこういう性格だし!
そもそもが猫だし! 人の機微が良く分からないだけで!!』
「だいたい貴様らは特訓のときから不真面目すぎる」
「だってあの銀ピカ(防人)のゆーこと難しすぎるじゃん。やれん」
 香美は頬を膨らませた。


──「栴檀香美には……そうだな。武装錬金を発動してもらう」

──「分かっているがキミは動物型(ネコ)。本来核鉄を扱うコトはできない」

──「だが同じくレティクル謹製の小札(ロバ型)、鳩尾無銘(イヌ型)、鐶(ニワトリ型)は使えている」

──「キミにも可能性はあるはずだ。武装錬金が使えれば戦力大幅アップだぞ」


「と戦士長が言ったにも関わらずずっと出来ない出来ないと言い通し最後には核鉄を放り投げる始末! 真先に休憩選ん
だしな!! まったくマジメにやるコトはできないのか!!」
『わわわわわ!! ご! ご怒りはもっともだ! 飼い主たる僕の監督不行き届き! 本当にすまない!!』
「誤るぐらいなら誰でもできる! 誠意を見せろ! いっそ今から戻ってちゃんとやれ!!」
 半ばチンピラみたいな物言いをする斗貴子に貴信はちょっと口をもごつかせた。
「なんだ!!」
『い、いや、その、だな!! 僕らが特訓してパワーアップしたら貴方後で困るのでは!!』
 配慮したつもりなのだが却って不興を買った。膨らんだ憎念ゆえだろうか。巨大化した斗貴子の顔がすぐ間近でこれでも
かと見下してきた。

「ほう。たかが武装錬金1コ増えただけで私より強くなれると言いたいのか? むかし散々斬り刻まれたのはどこのどいつらだ?」
『ひいいいいぃいいい! それは僕らです!! 僕らです!! ごめんなさい!!!』
 戦士対音楽隊。その序盤で貴信は香美ともども斗貴子にこっぴどくやられた。結果として総角に回収されたお陰で水入りとなり
──ちなみに彼、回復したふたりを秋水へブツけるとき言った。「ブレミュは誰一人負けていない」と。総角らしい見栄であろう。
貴信たちは斗貴子に一度負けたといっていい──命までは取られなかったが、今でも斗貴子を見ると恐怖がよぎる。幻覚痛さ
えあちこち蝕むようだった。
 なので香美もガタガタと震えるほかないのだが、その顔に斗貴子はしかし満悦とはいかない様子だ。逆に歯噛みし懊悩を
醸し出す。
「ったく。ホムンクルスの分際でどっちも怯えすぎだ」
『す!! すまない!! 僕も香美も元々こういう性格なんだ!!』
 大声こそ張り上げるが根は臆病者の貴信である。というより怖がりだからこそ無理に声を張り上げている。それは昔、ヒト
だったころ対人関係を築こうと頑張った証なのだが結実はせず今に至る。
「おっかないの。あんた本当におっかないじゃん……」
 香美は香美で強気だがホムンクルスになるとき味わった嗜虐と過酷の後遺症で、高所と暗所と閉所が恐ろしくて仕方ない。
 元々ネコなため恐怖にはすこぶる弱い。理知を以て抗する人間とは違う。危害を加えた斗貴子もまた今もって恐ろしい。
 そんな2人(物理的には1体だが)を眺める斗貴子の顔が波打った。強張る頬に瞳の振るえが皺を作り苦汁に深く彩られた。
「……んだ」
『え!?』
「ヴィクトリアといい、どうしてお前たちのようなホムンクルスが居るんだ……」
 露骨に視線をそむけながら、斗貴子。言ってから自省的な辛苦を浮かべ軽く俯く。
 貴信は、思い当たった。
『も! もしや先ほどの防人戦士長の言葉を、気に……!!』
 彼はいった。斗貴子の憎悪が空虚なものだと。対象をとっくに見失った場当たり的なものだと。
(すぐ死を選びたがる、とも!!)
 防人は言った。だから日常を知りなさいと。本当の意味での戦う動機を得ろと。
(あの言葉が影を落としている!! 『ただホムンクルスを殺せばいい』。それだけを頼りにやってきた今までが、本当に
正しかったのかどうか葛藤、させている!!)
 いま斗貴子はヴィクトリアの名を出した。望まずしてホムンクルスになった少女を呟いた。
(一口にホムンクルスといっても実態はさまざま! ステレオタイプに人間を襲う者もいればヴィクトリア嬢のような存在も!)
 貴信たちもそうだが果たして斗貴子が知っているか、どうか。(経緯は説明したが覚えられているかどうか怪しい)
 とにかく貴信も香美も人を襲う気はサラサラない。食人衝動じたいはある。だがそれも総角の作るレーションさえあれば
ヴィクトリアが母のクローンを摂取する要領で問題なく抑えられる。つまり怪物だが他者を害する気はない。むしろ香美は
あだなす存在を峰ぎゃーでやっつけるのが好きだ。
 という事実を反芻したのだろう。斗貴子の表情が暗くなった。
(防人戦士長の指摘のあと僕らのようなホムンクルス!! しまった! 気付くべきだった! いま一緒に行動したらそれ
だけでもう心苦しくしてしまう!! 元信奉者の桜花氏か秋水氏に介添え頼めば良かった!!)
 後悔するが後の祭りだ。同伴した以上彼女はずっと監視を続けるだろう。気遣って振り切っても、それが却って人間への
害意ありと誤解され怒りを買う。ささくれた心をますます荒らす。

(人間に仇なす存在ばかりなら楽だった。そういうモノだからと割り切れた。躊躇なく殺せた)

(なのに戦団はヴィクトリアをホムンクルスにした。本来人を守るべき組織が、ヴィクターの娘とはいえ罪のない少女を)

 100年前のコトとはいえ、所属する組織が、人道に悖る行為を平然と行った。
 帰属意識の薄い斗貴子でさえ足場の揺らぎを感じてしまう。

 在野にひしめくホムンクルス。それらの中に第二第三のヴィクトリアがいたら?
 戦団が、自分たちの正義のみ支えるため創り上げた『悪』がいたら?

 ヴィクターの件は徹底的に伏せられていた。調査した防人さえ真実に気付けないほど。

 以上の葛藤はずっと以前から渦巻いていたが、カズキとの別離が衝撃的すぎて主題にはならなかった。
 失った痛みに流され、壊れそうな心を繋ぐためだけ従前の行為を無思慮に繰り返してきた。

(だが──…)

 まひろが斗貴子の心を解いた。防人はほつれを大きくした。するとかねてより仕舞い込んでいた考えがどんどんどんどん
心の中を漂っていく。それら総て無視すれば楽なのだろうが、やってしくじった秋水というモデルタイプが傍に居て。

 戸惑いに満ちる。


(日常、か。戦士長は目指せというが……。……。そんなもの、そんなもの……私には)


 斗貴子は日常を知らない。7年前までは故郷・赤銅島で普通に暮らしていたという。
 戦団で家族の写真を見たコトがある。ピンと来なかった。自分の周りに映っている人々がどういう名前でどういう関係なのか
まったく思いだせなかった。
 防人から生前の家族の話を聞いた。他人事にしか聞こえなかった。
 千歳から生前の同級生の様子を知った。本で読む被災前の人たちのように味気なかった。

 事件前の自分の人格をふたりは代わる代わる教えてくれた。
 一時はなろうとしてみた。けれど無理だった。
 
 初めて殺したホムンクルスへの増念が次から次に湧いてきて白い斗貴子を塗りつぶした。


 家族を知らず育ったようなものだ。戦いだけが原点だった。終着もまた戦いの中にあると漠然とだが思っていた。
 だから……死にたがる。カズキという希望を得ても、彼が死ぬなら自分も死ぬと言い切れた。

(今さら私に……日常なんて)

 カズキにはあった。まひろが居て、六舛たちが居て、彼らと過ごす空間は心地よかった。

(けれどあれは私の物じゃない。私の物にしてはいけないんだ)

 楽しかった空間はいま欠如と寂寥に彩られている。
 カズキはいない。
 もういない。

(私は……止められなかった。彼が行くのを止められなかった。共に死ぬと言っておきながら先立たす真似をした。
まひろちゃんたちから大事な日常を奪った)

 なのに彼のいない日常を占有できるだろうか。斗貴子の倫理は拒絶する。

(誰もカズキの代わりになんてなれない。私でさえ……なれない)

 新しい、斗貴子だけの日常もまた作れない。
 まひろたちの大事な日常を守れなかった存在が、どうして自分だけ甘受できよう。

 それでも作るよう促す防人には感謝している。
 心癒す空間を求めてもいい、休んでもいい。そう言ってくれるのだ。

(そもそも……私と戦士長はどういう関係だったんだ? あの事件前逢ったというが思いだせない)

 それが分かれば防人のいうコトを受け入れられるかも知れない。
 ともすれば彼が最初の日常の象徴たりえるかも知れない。
 ……戦いという日常の。

「あんたさ。ひょっとして銀ピカのいったコト気にしてるわけ?」

「っ」
 眼前を占める巨大な質量を見て我に返る。香美がいた。至近距離に。斗貴子は不覚を悔いた。ホムンクルスを傍に置き
ながら近づかれるまで気付かなかった。
「だったら話しゃいーじゃん、話しゃ」
「話す……?」
「そ。あんたなんでンなコトいうじゃんって聞けばいーでしょーが。そったらわかるでしょーが。ニンゲンってのそーらしいし」
「話す」
 少し目が点になった。
(そういえば……どうして戦士長はあんなコトを? いや分かってる。死なせないためだ。だが……どうしてわざわざ私だけ?)
 あの場にいた戦士は誰もが等しく死にかねない存在だ。
 毒島は接近されれば終わる。剛太は危なっかしい。桜花は武装錬金コミでさえ弱い。
 秋水とて贖罪のためとあらば闘い抜いて死にかねない。
(人の意思を汲め、か)
 秋水がいったのはまひろと剛太についてだが、範囲を敢えて広げてみる。
 懊悩をもたらした防人へと広げてみる。
(戦士長が部下を死なせたがらないのは分かっている。さっきのレクチャーはその表れ。だのに私だけに念を押した。それは
……何故だ?)
 斗貴子は直情径行だが決して頭は悪くない。
 死にたがる斗貴子。死にたがる防人。
 カズキはいつだって全力で救ってきた。何故か?
(私が命の恩人で、戦士長は師匠だからだ)
 大事な存在だからこそ助けんとした。……ならば。
(戦士長にとって私は……大事な、存在。…………なのか?)
 内心過去の希望とみなされているコトを斗貴子はまったく知らない。
 自分にとってただの上司だから向こうもただの部下だと思っている。
 そんな漠然とした合意形成だけで防人を見ていたコトにやっと……気付く。
(なら……戦士長が私を特別視するなら理由はどこだ?)
 簡単すぎる結論だった。どこだと悩む時点で結論は出ていた。
(覚えていない記憶。7年前より更に前の私と……戦士長)
 そこで何かがあった。
(思えば戦士長は何も語らなかった。私の身の回りの情報なら確かに伝えた。けど……自分がどう思っているかは一言も
漏らさなかった。戦士・千歳も同じだった。火渡は……数えるほどしか見たコトがない)
 彼らがどんな感情を抱いているかまったく知らなかった。
 記憶がないから、滅びた故郷の悲劇さえニュースでみる遠い国だった。
 けれど防人たちは当事者だった。まだ生きていた村や人をその目で見ていた。会話もしたし触れ合った。
(それらを……守れなかった)
 だから多くは語れなかった。それぞれが斗貴子をどう思っているかなど言えなかった。
(私はそれを知ろうともしなかった。赤銅島が他人事だったから……)


 袋小路から抜け出す手がかりが少し掴めた。


(話そう。戦士長と。何があって私をどう思っているのか)

 或いはそれをきっかけに日常を取り戻せるかも知れない。
 現在はない。未来に向かって構築する資格もいまは持ち得ない。

(だがせめて過去。過去を取り戻せば……生きられる。かも知れない)

 斗貴子とてすぐ死にたい訳ではない。

(生きていさえすれば……また。そう思って、か。未練だな)

 窓の外に月が見える。日常はないが……希望はある。無くしてしまった皆の希望が。

(ところで栴檀たちどうなった……?)
 いやに静かな連れを見ると、
『ちょ! い! いまはそっとしとくべきだ香美!! 僕らの存在は目に毒だ!!』
 香美が自分で口を塞いでモガモガ唸っていた。貴信がやったのだろう。とても慌てている。

.


(……………………………………あったのだろうか)


 ヴィクトリアに垣間見たごくありきたりの疑問が首をもたげる。




『すまない! えーと! そうだ! そうだ僕たちを地下に戻して欲しい! 毒島氏や防人戦士長はまだいるはず! そこに
いる! だったら貴方も監視せず住むし休める筈!!!』
 せめてもの申し出だが斗貴子の顔は暗い。
「……。キミたちに」
『ぬ!?』
「キミたちに日常という奴は……あったのか?」
 ポツリとした呟き。だが鮮烈だった。貴信の脳裡に人間だったころの記憶がよみがえる。珍しく声を落とす貴信。
『あった。ああ。あったとも』
 ひとりぼっちだった学校生活。子ネコとの出逢い。香美と名付けた家族とのささやかだが楽しい生活。
『……いまは取り戻したいと思っている』
 多くは望まない。人間に戻れたら。香美をネコに戻せたら。
『やわらかい日差しの当たる暖かい縁側でうたた寝をしよう。ヒザに乗せて一緒に。それだけかな。それだけが……望み、なんだ』
 ふたりにとっての日常とはそれだった。取り戻したいからホムンクルスになっても生きている。
「そう、か」
「どしたのさおっかないの。きゅーに大人しいじゃん。だいじょーぶ?」
 香美はまったく分かっていない。俯く後頭部に鼻を近づけフンフンした。
「うるさい! で、いまの日常っていうのはどういう物だ。ちなみに人喰い前提ならブチ撒けるぞ」
『え!! い、いやその、今のは……』
 咳き込むようにいう。それでも今の日常は確かにあった。体の前面に張り付いた香美との生活。彼女を通して眺める仲間たち。
 誰もが重いものを背負っていて、だから貴信と共有できて。人ならざる存在になりながら道を踏み外さずにいるのは彼らがいる
お陰だと貴信は心から感謝している。
「最後だ。貴様……」
『な! なんだ!!』
「人間を食べたいと思ったコトは?」
 難しい質問だ。けれど素直に答える。
『本能が求めるコトはある! 確かにある!! でもその一方でひどい嫌悪に見舞われる!! 人喰いこそしたコトはないが、
ホムンクルスになる直前僕は香美のためといいながら一見無関係な人物を深く傷つけそして逃げた! なってからもすぐ仇と
呼ぶべき無抵抗な存在を一方的に絞め殺そうとした!! どっちも……嫌な気分だった!! どっちも今度の戦いで倒す
べき存在だが! それでも敵意に衝き動かされ害を加えるのは……嫌! だった!!』
「だから人喰いも嫌……と」
 斗貴子の語気が強まった。それだけでもう震え止まらぬ貴信である。
『う! でででもでも、そ、そうなんだ! ウソじゃない! だから僕はどうすればいいかずっと考えている! 7年前ホムンクルス
になった時からずっと……どうすれば悪意に呑まれないか……結果として殺せず見逃してしまったデッドの振りまいた惨禍に
対し……どう償えるか考えている!!』
「もういい。分かった」
 斗貴子は呟く。すばやく香美に背を向けたため表情はわからない。
「地下に戻す。連行と思え。特訓はしなくていい。お前たちは起きているとうるさい。管理人室から適当に布団でも引っ張っていけ」
「おー。あんた意外に優しいじゃん。優しい!」
「黙れ。さっさと来い」
 貴信は目を点にした。歩き出す斗貴子。不用心、だった。忌み嫌うホムンクルスに背を向ける。それだけ葛藤が深いのか。
(或いは──…)
 楽観的な観測が貴信の心を一瞬占めたときソレは来た。
「なんか騒がしいと思ったら斗貴子先輩と……香美先輩? あれ? 貴信先輩どこだろ? 声はしたけど……」
 角からひょこりと顔を覗かせたのはあどけない少女。黄みの強い茶髪を左右にぴょこりと括っている。
 不意の登場に斗貴子は面食らったようだった。一瞬背後を見たのは戦士としての庇護欲と警戒心
「ええとキミは確か……。ちーちんだったかさーちゃんだったか……」
「もう。まっぴーじゃないんですから覚えてくださいよ斗貴子先輩。私はさーちゃんの方。河井沙織」
 困ったように顔をしかめて自己紹介する少女に、先ほど述べた貴信の罪悪感はさざめくのだ。

(ああ駄目だ!! 鐶副長が化けていたこのコ! 都合上監禁せざるを得なかったこのコを見ると! 心が! 心が!!)
 痛んで痛んで仕方ない。記憶というエネルギーを鐶に転送するため、鎖分銅で一度頭をぶっている。
 一応上記の経緯は謝罪したし「よく分からないからいいや」と許しを得ているが……。
 まっとうな人間関係を築いたコトがない人間ほど負い目には敏感だ。笑って「許される」方が双方とも円滑にやれる世界の
機微などまったく実感できない貴信だから、何をすればいいか心底悩んでしまう。

「あ、でも2人に逢えてちょうどよかった。実はね──…」

 沙織の申し出を受けたばかりに貴信は災難を抱え込むが……それはまた、別の話。




「剣道!? 俺がァ!?」
 正座の痺れがとれ今は休憩中の剛太は、碧の500mlペットボトルを口から外し乱暴に置く。琥珀色の水面が筒の中で
きらきら揺らめいた。
「そうだ。君は頭がいい。だからこそ、教えられた技術に固執しがちだ」
「しがちだってお前……俺の戦いの何を知ってる訳?」
 おにぎりからパッケージを素早くむいて放り込む。膝の前にはサンドイッチやホットドッグ。幕の内弁当もある。総てコンビニ
食。「自炊した方が……」とか「野菜も……」とか食生活を案じる秋水の言葉はことごとく却下した。「だって楽だし」それが理由。
「ニオイだ」
「なにお前実はホムンクルス? イヌ型?」
「違う。剣道用語だ。平たく言えばそういう雰囲気が君にはある」
「あっそ。でも要するにブラボーの教えはアレだろ。筋肉連動させりゃ攻撃力あがる。重力上手く使って相手の虚をつけば勝てる。
それだけでいいじゃねェか。時間ないし体術に限っちゃ単純単純、何も考えねェ方がうまくいくって絶対」
 やる気なく目を下げしっしと手を払う剛太。ウマカバーガーで買ったらしいハンバーガーにかぶりつく。
「…………」
 駄目な見本を見た気がした。
「攻めて崩れるのは相手だけじゃない。自分もだ。攻勢に転じた瞬間隙が生まれる。巧者はむしろそれを突く。体術だけじゃ
ない。知略も同じだ。戦いの本質はみな同じだ」
「ハイハイ分かった。でも俺疲れてるの。やらないからな絶対」
「やれば津村も喜ぶぞ」
「何やりゃいいさっさと教えろ!!
 猛然と立ち上がる剛太に桜花が噴き出すのが見えた。
(姉さん。最近緩い。緩すぎる……)
 しょうもないコトでクスクス笑う彼女の姿は嬉しいのだが何だか変な感じである。
「おい何ボサっとしてるんだ! 早く相手! プリーズ!!」
 剛太に目を戻すともう面も胴も小手も付けていた。そこかしこからアロハシャツが覗くのは、儀礼を重んじる秋水の眉をかなり
潜めさせる光景だがとりあえず無視。
「つかお前ちゃんと手加減するんだろうな? 俺初心者だぞ?」
「あ、いや。相手は俺じゃなくて……」
 剛太は首を傾げた。と同時に衝撃が突き抜けた。
「クク! 隙ありだまずは一本!!」
 トッと着地する影があった。防具はつけていない。短い竹刀を腰の後ろで横に構えながらその人物は不敵に笑う。
「来い! 我がタイ捨流の餌食にしてくれるわ!!」
 太い眉の下で金色の瞳が溌剌と輝いている。
「鳩尾無銘! え、俺の相手こいつなの!!?」
 仰天する間にも一陣の黒い颶風が胸元に流れ込んでくる。剛太は慌てて身を引いた。





「フ。秋水め。防人戦士長の示唆があったとはいえ……また面白い指導を。部活動の賜物か」




 腕組みしくつくつ笑う総角のそばで小札の円周率詠唱30万桁突破。CDは後日無料配布。


「えーと」
「んーみゅ」

 その本を閉じると斗貴子は面をあげた。横の香美が正面のテーブルめがけ一瞬雪崩れ込みかけたが不自然に硬直し
背筋を正す。貴信が躾けたらしいが今の斗貴子にツッコむ余裕はない。テーブルの向こうに座る作務衣姿の少女への
応対で手一杯だ。
 彼女は問う。神妙な、様子で。
「どうでしょうか斗貴子先輩」
「どうって言われても」
 難しい顔でテーブルに本を置く。
「予め断ったと思うが、私は文芸にそれほど詳しくないぞ? 意見を述べたとしてもそれがキミのためになるかどうか……」
 作務衣の少女……若宮千里はちょっと考え込む仕草をした。

 彼女と斗貴子の親交はさほど深くない。カズキの妹の友達の1人……程度だ。

 カズキという共通の知人あらばこそ何度か顔を合わせているが、結局それは知り合いの知り合い程度の間柄。
 マンツーマンでいきなり親しく話せる関係ではない。
 しかも千里という少女は、おかっぱ頭にメガネといういかにもな外観通りの優等生でおとなしい。しかも対する斗貴子は
あらゆる日常、ホムンクルスなど知らず平和に暮らす生徒たちと必要以上に距離をとる。そんな両者が差し向かったのだ、
会話はまったく弾まない。
「やっぱ難しいね。台本」
 千里の傍らで困ったように微笑むのは河井沙織。ヒヨコのように柔らかそうな黄色い髪を両端で縛った少女である。丸い
髪留めと言いいささか童女趣味の抜けない彼女が千里と並ぶと同学年にも関わらず姉妹のように見えてくる。むろん沙織
は妹だ。そして良くできたしっかり者の姉は無造作に台本を手に取りパラパラめくる。
「そうですよね。いきなり言われても分かりませんよね。私自身これでいいか分かりませんし……」
 誰からともなくため息が漏れた。
(つーかあたし眠い。眠いじゃんご主人。そろそろ寝たいのに何でおっかないのとモソモソやってるじゃん?
(忘れたのか香美! 河井氏の要件を!)

 先ほど廊下でバッタリあった沙織は香美たちにこういった。


「演劇の話なんですけど。文芸担当のちーちんがいま困ってて」



(聞けば若宮氏! ひとまず話を書き上げたはいいがそれでいいかどうか迷ってる! だから僕……厳密にいえば香美たち
に! 本読みしてもらいたいと! 意見を聞きたいと!!)
 意識を共有している貴信と香美だから脳内でも会話は可能。いわば念話的な行為にも関わらず語調がついつい大声じ
みてしまうのは長年他者に過分な緊張を抱きつづけた貴信ならではの悲しさだ。彼は気を張るとつい大声になってしまう。
だから敬遠されますます対人関係に弱くなりますます声がデカくなる悪循環に陥った。それは人間の頃も今も同じ。しかも
家族同然の香美にさえ発動する。
(よーわからんけど、あのヘンなチョーチョに聞けばいいじゃん)
 チョーチョとはむろんパピヨンである。ネコらしく人間社会に無頓着な香美が演劇部の力関係を知っているのは奇妙といえ
ば奇妙だが、どうやら貴信に聞かされ覚えたようだ。
(監督のパピヨンは『好きにしろ』とだけ言ったらしい! どうも彼は忙しいようだ!! 錬金術師であるコトを考えるに何か
秘密裏に作っているのだろうというのがもりもり(総角)氏の見解! あと最近なんかダルそうだ! もともと病気を抱えて
いるからかな!! 見かけた彼の顔色はすぐれなかった!!)
(そんなんどーでもいいし……)
(いいの!!?)
(あたしさ眠い、眠いじゃん。さっき銀ピカにぶそーれんきん出せ出せっていわれたじゃん。アレで疲れた。寝たい……)
 瞳をこする香美。ただでさえ気だるさを帯びたアーモンド形のそれはいよいよ眠たげに細まった。
(ま!! 待て香美!! お前に寝られたらマズイ!)
(なんでさ?)
(体が僕に変形する!! 何度も説明しただろう!! 僕らの体のヒミツについて!! 主導権握っている方が気絶や睡眠
で意識なくした場合強制的に変わるんだ! 事情を知らない若宮氏や河井氏から見ればいきなりお前が見知らぬ男に……!! 
ここは女子の部屋でしかも夜更け!! そんなコトになったら僕は!! 僕は!!!)
(どーなるのさ)
(それはだな)
 貴信は生唾を飲んだ。緊張が伝わり香美も体を硬くした。

(恥ずかしい///)
(んにゅ?)
 何が何やらと首を傾げる香美はいま制服姿。ゴシック趣味がすぎると教育委員会から数年に1度は苦言を呈される──
それだけに生徒からは男女問わず人気。一部の成人男性からも──可愛らしいブラウスとスカートだ。
(いま体の主導権が移ってみろ!! 僕が!! 僕がソレを着るんだ!!)
 貴信の念話は震えた。思えば転入当初香美が学生服だったのは不測の事態に備えてか。突如変身しても被害は少ない。
(だいたい! 普段お前にタンクトップやハーフパンツといったラフでフェミニン薄い衣装を着せてるのも危惧あればこそだ!!!
万一突然交代しても何とかギリギリセーフだからな!! お前がスカートとか動き辛い衣装嫌いせいでもあるけど!!)
(よーわからん)
(だって! 僕みたいな顔の奴が女装するとか目の毒だ! 見る人に悪い!! 笑われたり馬鹿にされたりしたら凄く! 凄く!!
傷つくだろうし……!! しかも夜更けにだぞ! うら若き女子たちがいきなり男に乱入される!! 可哀想だし申し訳ないし!!)
 脳内に響く声は震えていた。涙と悲しみに震えていた。
(だから僕は怖い!! 怖くて怖くて仕方ない!! この状態でお前と交代して河井氏たち女生徒一同に見られるのが怖い!!)
(んーーーーー。わかった。眠いけどガンバる。ご主人嫌がってるしガンバる)
(香美お前ーーーーー! 香美お前本当いいネコーーーーーーーーーーーーっ!!)
 居住まいを正す香美に貴信は内心えぐえぐ泣いた。

 さて貴信たちの正体知らぬ若宮千里と河井沙織は自身の問題に深刻だ。
「すまないな。わざわざ読んで貰ったのに碌に協力もできず」
 斗貴子の声も弾まない。ことホムンクルス相手なら無類の強さを誇るが、こういった学園生活で生じる問題にはとんと弱い。
(日常、か)
 ふと防人の言葉が過ぎる。彼が望むような普通の暮らしを送っていたのなら千里たちに見事アドバイスできたのだろうか。
(いや待て。でも私を演劇部に放り込んだのはあの人な訳で)
 ある意味では防人のせいで苦しんでいるともいえる。腹立たしいようなちゃんと向き合いたいようなフクザツな気分だ。
 だから、だろうか。
 以前ならここで自分に解決能力がないコトを伝え辞去したであろう場面で斗貴子は一瞬瞳を泳がせてからこう述べた。
「いっそ桜花を呼んでみたらどうだ。生徒会長だしこういう問題にも強い筈だ」
 突然出てきた生徒会長の名前に息を呑む千里とは裏腹に沙織は感嘆の声を上げた。
「それいい! やろうよちーちん!」
「ちょっと落ち着きなさい沙織。もう夜よ。寝ているかも知れないしそうじゃなくても生徒会の仕事が……」
「そうだ! いっそびっきーやひかるん呼んでプチ歓迎会しようよ! もちろんまっぴーも!」





「……成程。呼ばれた訳…………分かりました」
「生徒会の仕事? 大丈夫大丈夫ちょうどヒマだったし」
「台本チェック? うーん。日本語読めるかなあ」


 ほどなくして部屋に現れた女子は6人。上記は内3名。鐶光。早坂桜花。ヴィクトリア=パワード。
 スリーショットの写真にアイドルですと注釈をつけて通じるほどいずれ劣らぬ見目麗しい少女たちだ。

「わーにぎやか。これなら台本チェックも捗るねちーちん」
「そうだけど……。その、急に呼んですみません」
 千里の態度は硬い。桜花はともかく年下でしかも最近転入してきたばかりの鐶にさえ敬語を使うのは大人しい性格ゆえか。
親交のあるヴィクトリアにさえひどく申し訳なさそうな顔つきだ。
(なのに人を集められてるのは河井氏のお陰、か!)
 貴信の見るところ沙織は外向き、ドサ周りを引き受けているようだ。そういえば貴信たちに本読みを頼んだのも沙織だ。
真面目すぎるがゆえに協力を求めづらい千里の側面を沙織はカバーしている。意識してなのか無意識なのか分からない
が見事な息の合いようだ。
(これで高校入学からの付き合いというからな! 驚きだ!)
 溺れている子犬を助けた縁で仲良くなったという。
「というか……あの時の子犬……無銘くん…………ですよ?」
(マジ!?)
 耳打ちしてきた鐶を愕然と見るが真偽のほどは分からない。冗談かも知れないしそうじゃないかも知れない。
「……フフフ」
 どんよりした瞳で不敵に笑う鐶に貴信は思うのだ。「最近明るくなったなあ、良かった!」と。
「気にしない気にしない。私千里の本にその……興味あるし」

 ヴィクトリアはというと千里に頼られ満更でもなさそうだ。

「ナナナナレーションについてはもう決定済みでありましょうか……」
 4人目は小札零。台本チェックよりむしろそれが気になってきたらしい。
「それが……台本決まらないコトにはどうにも」
「というか配役決めるために急いでいるんだよね。決めるの明日の正午でさ、それまでに台本あげないと練習さえできないし……」
 千里の表情が沈み沙織に微苦笑が浮かぶ。
「そのっ! 転校して間もなき不肖が望みまするのは些か分不相応というものですがもしよろしければせめてせめてたった
一度、ただ一度で構いませぬ。オーディションをばやらせて頂きたいのですが!!」
「どんだけじっきょーしたいのさ。あやちゃん。つーか眠い…………」
 香美が呆れたように呟いた。
「びっきー。じゃなかった監督代行。どうですか?」
「うん。いいよ別に。オーディション受けるぐらい。台本チェックも声出して読んだ方が分かりやすいし」
 快諾。小札は無言でうなずいた。唇をもにゅもにゅさせながら台本をぎゅっと抱きしめ赤い顔だ。
(すっごい嬉しそう! もりもり氏にも見せたコトあるかどうかってぐらい乙女の顔!!)
「よかったじゃんあやちゃん! よかった!!」
 香美が両手を広げ上体低く駆け寄ると小札はコクコク頷いた。我が子を抱く聖母のような幸福に彩られていた。
「つー訳でぐー」
「!! 気を確かに香美どの!! いまは眠るべき場面では!!」
 どうにか小札の活で覚醒する香美をよそに、
「あ、斗貴子さん居た! 見かけないと思ったらこんなところに!!」
 明るい声を張り上げたのは5人目。武藤まひろである。
「というかどうしたの? 膝抱えて」
(……増えた。ホムンクルスがまた増えた)
 体育ずわりに頭埋める斗貴子の背後に暗い灰みした紫の緞帳が立ち込めた。次々入室してくるホムンクルスたち。それは
まったく悪夢だった。日ごろ学生を守らんと数多ある学校を点々とする斗貴子なのだ。どころか少し前、陣内というL・X・Eの
構成員の襲撃から守り抜いた場所こそ他ならぬこの場所、今いる寄宿舎である。しかもそのときあわや喰われかけた千里が
いまは知らず知らずとはいえホムンクルスたちを引き寄せている。
 斗貴子はそういう構図がやるせなかった。
 ヴィクトリア1人が寄宿舎で暮らすだけでもひどいストレスなのに今はそれプラス3体のホムンクルスが部屋にいる。新生
児室に虎4匹迷い込めば誰でも色を成すだろう。
「私は……。私は…………」
(そうか! きっと斗貴子氏は不安に潰されそうで──…)
「殺せないのが不愉快だ」
(そっち!!!!!!!!!?)
 誰にも聞かれぬよう漏らされた呟きを貴信だけがキャッチし戦慄した。もはやどちらが怪物か分からない。
「? さっき聞き逃したが……見かけなかった? キミどこに居たんだ?」
「地下だけど?」
 事もなげに返すまひろに斗貴子は呻き硬直する。
「あ、大丈夫。特訓のコトならヒミツにするから」
「いやそうじゃなくて。居たのか!? あそこに!?」
「ふふふ。何を隠そう私は潜入捜査の達人よ!」
 聞けばあちこちに隠れ見物していたらしい。
(まったく気付かなかった…………)
「でもブラボーは気付いてたみたいだね。流石だけど不覚だよ。私もまだまだ修行不足」
「もう十分だと思うが。というかなんでまたあんな所に」
「あ!!」
 いきなり大きな声を上げるまひろに斗貴子は顔をしかめた。いいコだと思っているが時々やらかす奇行にはほとほと
参っている。
「しまった!! ブラボーの本名聞きそびれた!!」
「それが目的か。ああでも確か昔……」
 斗貴子は思いだす。防人が管理人に収まってすぐまひろは本名を聞いたという。千里か沙織……誰に聞いたかさえ
忘れた些細な事実だが思い出すと呆れかえる。
「まったく。キミもカズキと一緒だな」
「お兄ちゃんと? どこが?」
「ヘンなところに拘る所だ。戦士長の本名は戦団……私たちの本隊でも不明なんだぞ」
「おお。ますます謎だね」
 太い眉毛をいからせ頷くまひろ。却って好奇心が湧いたらしい。
「でもさ斗貴子さん。これってヘンなコトかなぁ?」
「?」

 質問の真意を測りかねた斗貴子にまひろは続ける。
「ホラなんていうか、名前で呼ぶと何だか特別なカンジするでしょ? ますます仲良くなったーって嬉しいし私だって秋水先輩
にまっぴーって読んで貰ったらきっと楽しいし!!」
「……キミは彼に何を望んでいるんだ?」
 どう考えても秋水のイメージにそぐわない。
「えーちゃんだって逢って間もない私に名前を教えてくれたしさ、だからもう友達でまた逢えるの楽しみなんだよ」
「誰だえーちゃんって……」
 斗貴子が呆れる中「きっとたまたま街で逢ったコなんだろうな」と思う貴信は気付かない。
 その人物こそ自分と香美の命運を歪めたデッド=クラスターとは。
「だから私、ブラボーの本名知りたいの。斗貴子さんは何か知ってる?」
「バカ言うな。あの人はただの上司だぞ。知ってる訳が──…」
 言いかけて息が止まる。防人の本名は前述の通り戦団でも秘密である。
 キャプテンブラボー。それで通じているし目下は役職で呼んでいる。
 だが。

──「いつまでも引きずってんじゃねェぞ防人!」

──「オレ達は不条理の中戦って生きているんだ。死んだ人間のコトなんかとっとと切り捨てろ! 割り切れ!!」

──「防……人……」

──「てめえがとっと死んでりゃあ防人は……!!」


(知ってる)


 斗貴子の全身を上から下に。清冽な風が吹き抜けた。


──「昨夜遅くついにヴィクターの捕捉に成功しました」

──「ところが肝心の防人達と連絡が一向につきません。嫌な胸騒ぎがしたんで出向いてみたら案の定──…」


 かつて、聞いた。火渡が、照星が、そう呼ぶのを。
 キャプテンブラボーを。戦士長を。そう呼ぶのを。


──「防人が見を挺して守ったその残りの命。有意義に使うコトです」


 毒島や火渡を指す符牒ではない。照星が誰をそう呼んだか明らかだ。


「防……人…………?」
 思わず口に出す。姓なのか名なのか今は定かではないその名前を。
「防人? それがブラボーの本名なの?」
 まひろはキョトリと聞き返す。無邪気な様子だ。なのに斗貴子は脳髄を鋭い錐で貫かれた気分を味わった。疼痛は一瞬
で吐き気には繋がらない。けれど怖気が穴から立ち上ってきそうな焦燥に囚われた。足場が崩れて行きそうな……。

 それが過去を導く端緒だったと気付くのはレティクルエレメンツとの戦いの最中──…

 この時はただ眼前の少女を気遣うので精いっぱいだった。
(しまった。まひろちゃんはこれで結構敏感なんだ。今の異変……察したかも知れない)
 察すれば気遣うし質問した自分をひどく責める。
 カズキの件でどれほど傷ついているか知りぬいている斗貴子だ。
 のみならず怒りと憎悪に任せ期せずして傷つけたというのは、まさに先ほど秋水が指摘した通り。
 ちょっとあたふたしながら見たまひろは何が何やらという顔だ。人間機微には飼い犬のように鋭いまひろが気付かなかっ
た所を見ると斗貴子の頭痛は本当に刹那の出来事らしい。

 とにかく防人の名前に連なる情報を(斗貴子自身詳細はよく分からないが)漏らしてしまったのは事実だ。
 取り敢えずありのままを話す。
「なるほど。上の名前か下の名前かは分からないんだね」
「そういうコトだな」
「でも何でブラボーって名乗ってるんだろうね?」
「そりゃあ……口癖がブラボーだからじゃないか?」
 まさか自分が名付け親だとは露とも知らぬ斗貴子である。妥当な意見を述べた。しかしまひろは違っていて。
「そうかなあ。名前がブラボーだから口癖もブラボーにしたんじゃないかな?」
 常識に囚われないからこその”気付き”。それを呈する。
 また衝撃に揺らぐ斗貴子。普段の会話なら「またこのコはしょうもないコトを」と呆れたろう。ただ今回は違った。防人の
指摘を受けて以降、秋水、栴檀2人に火渡、照星と様々な人物の発言に揺れに揺れていた斗貴子はいい意味でも悪い意
味でも普段の均衡を失くしていた。で、あるからこそまひろの他愛もない発言に気付いてしまう。

 因果と結果は時に逆になり得る。
 先入観は崩れる。

 ……と。
(だったら……口癖から取ったんじゃないなら、なぜ戦士長はああ名乗っている? どうしてキャプテンブラボーと?)



──「先生さま、紹介しましょう。コイツはウチの雑用係、ブラブラ坊主じゃ!」
──「仕事もせんと、ブラブラほっつき歩いている坊主じゃからな!」
──「イイやつだが、ブラブラ坊主なんじゃ!」


──「略して、ブラ坊ですね!」



(また……!)
 頭痛が起こり消える。記憶の断片が少しずつ蘇り始めている。頭を過る妄想のような光景に今はただ、戸惑う。
 失って一顧だにしなかった物に目を向ける道筋。
 …………それは、やがて、冷えた心に今一度の熱を灯す。挫折した者たちの戦いを一層激しく燃え上がらせる。

「カニさんキャラだって語尾にカニーつけるでしょ。それだよ。ブラボーはブラボーキャラだからブラボーって」
「あ、いい。期待した私が馬鹿だった」
 やっぱり違うかも知れない。嘆息しつつ思う斗貴子であった。


 ただそれでも防人の本名は頭のどこかに引っかかり──…

「とにかく今度ブラボーに逢ったら聞いてみようよ。本名」
「あまり詮索しない方がいいと思うが……」
 呟く斗貴子の視界に1人の少女が目に入る。一生懸命千里たちに自己紹介する少女が。
「あ、あの……。毒島、毒島華花といいます。体験入学ですが……その、演劇部所属なので、お願いします」
(貴方も来てたの!?)
 香美が前に出ている都合上直接視認はできないが、声から思わぬ人物の登場を察し目を剥く貴信。
 飼い猫経由でみた世界にはなるほど確かに毒島が居る。居るのだが……素顔だった。ガスマスクの武装錬金・エアリアル
オペレーターをいまは外して可憐だった。絹糸のように柔らかいセミロングの髪にヘアバンドをつけている。目はやや垂れ目
で体は小柄。沙織や鐶も幼い部類だが毒島は余裕で年下に見えるほど幼い。というより小学生そのものの姿だった。
「ああよろしく……って毒島!!?」
(ノリツッコミ!!)
 素っ頓狂な声を上げた斗貴子を香美の結ぶ像で眺めていると毒島の脇に手を回し部屋の隅に連れて行くではないか。
 以下、小声の会話。
(なんでキミまで来るんだ! 特訓は!?)
(その……私も残りたかったんですがブラボーさんが『折角の女子会なんだしキミも顔出しときさない』って)
(あの人の考えそうなコトだ……。というかキミ、戦士長の呼び方変わってないか?)
(す、すみません。マスクがないと何だか調子が狂って……)

 すでに何度か斗貴子は見ているが、どうもこの毒島という少女は二面性を有しているようだ。ガスマスクを着用している
時はいかにも秘書的な優秀さを感じさせるのだが一度脱ぐが最後クラスに1人はいる恥ずかしがりになってしまう。
(できればマスク着けて来たかったんです……。でもブラボーさんに取り上げられましたし)
(たし?)
(いえ……その、差し出がましいかも知れませんし…………)
(?)
 そこで太ももの辺りを握り締める毒島。やっと斗貴子は気付いたが彼女は私服だった。フリフリのついた白いブラウスに
踝まであるいかにも子供用なスカート。そんな服がよく似合う少女が真赤な顔を俯け唇さえ「もう耐えられない」というように
噛み締めるのだから斗貴子はひどくたじろいだ。
(そんな恥ずかしいなら戻ればいいだろ。皆には私から 言っておく。無理はするな)
 貴信は何だか子猫に懐かれ困っている不良を想像した。制服にチャチな爪立て登ってくる小さな命をそっと地面に下ろし
たいのだけれど迂闊に触ると傷つけそうで手を伸ばしたり引っ込めたりなおっかなびっくり不良が斗貴子だった。
 おっかない奴やっぱ優しいじゃんでも眠いと述べたのは香美である。
(残ります)
(なんでまた)
 毒島ときたら大きな瞳の淵にうっすら涙を湛えている。時々こわごわと部屋の中央を振り返っては顔に注ぐ視線を感じ
慌てて斗貴子に向き直る始末だ。心底顔を見られるのが恥ずかしいらしい。にも関わらず残るという。
(しゅ、修行です。来るべき決戦でエアリアルオペレーターが破損したときのための)
 貴信と香美では後者の方が前に出る機会が多い。その気になれば貴信は自身が眠るとき以外総ての時間前に出ら
れるが……していない。恥ずかしいからだ。自らの風体に自信がない──もっとも貴信並みのルックスで楽しく生きている
人物など幾らでもいる。インパクトのある容貌でも好かれるかどうかは外界への対応次第だし役者という職業に至っては
むしろ非美形こそ持てはやされる。貴信は内面に自信を持てぬ責任を容貌に転嫁しているフシがある──彼だから、毒
島の気持ちはよく分かった。
(僕が香美に隠れているように毒島氏はガスマスクに隠れている! だから寄る辺がなければ動揺し!!)
 いまのような状態になる。それは戦闘において致命的だ。毒ガス製造不能、或いは作れど創造者にさえ累が及ぶ事態
に追い込まれるという戦術的なリスクもあるがそれ以上に。
(精神が、対応できない!!)
 戦闘経験を詰んだ戦士でさえ時に恐怖へ屈する。ホムンクルスたる貴信も人間を恐れる気分はある。ましてや普通なる
恥ずかしがりの毒島! 例えば斗貴子ならバルキリースカート総てヘシ折られようと体術を以て抗するだろう。闘えるか
否かを決するのは有利不利ではない。気概だ。戦部厳至のような負け戦さえ愛してやまない戦士こそむしろ戦場では生き
残るし結果を出す。(ホムンクルス撃破数最多)。だが現時点の毒島は武器を壊されたが最後だ。倒されるより先に心が
屈し蹂躙される。貴信はおろか鐶でさえ慄然とする幹部渦巻くレティクルとの戦いで生き残れよう筈もない。
(まったく。戦士長は考えているのかいないのか……)
 防人が課した試練を思い津村斗貴子は嘆息した。
(私はその……生きたい、です。火渡様のお役に立てるその日まで何としても生きたいです)
 来た理由はそれなのだろうか。語調こそ弱いが斗貴子・貴信とも決意の磐石さを見る思いだった。
(そ、それに……)
(ん?)
 不意に斗貴子を見上げる毒島。遠慮がちに唇を数度震わせてからこう告げた。
(私なんかでも生きようと思えば何とか生きられます。斗貴子さんは……私なんかより強いんです。心も体も……。だから、
だからその、出来ない訳ないです。きっとその、できると信じてますから…………)
 斗貴子が驚きを浮かべるのを貴信は見た。彼女の目の色は明らかに変わっていた。
(だから……来ました)
(まさか貴方…………励ますために!?)
 貴信は驚いた。毒島は少しだけ斗貴子を眺めてから踵を返し女子たちの中へ。
(間違いない。毒島氏は勇気を示すためここにきた!! 『自分などでも頑張れる』!! かねてより防人氏の言葉に心
揺らし日常そして生きる意志について懊悩しているであろう斗貴子氏に羞恥凌ぎ戦う姿を見せるコトで!! 勇気を!!
与えんとやってきた!!)
 それがどれほど決意を要するか……弱い貴信だからこそ痛感した。ただ戦うのではない。日常生じる様々な試練に
真向立ち向かい克服する。それは非常な困難だ。

 毒島はそれをやろうとしている。
 恥ずかしくて仕方ない素顔を晒してまで斗貴子の生きる意欲を呼び出そうとしている。
(確か戦団では奇兵というけど……いいコだ!!!)
 貴信が感動する中斗貴子は──…
「………………」
 沈黙を守る。心がまた揺れている。貴信以外それに気付いたものは、少ない。

 8本目。

「古人に云う! ごがあぶりてんりしっていしっていしってい!」
「打ち込みが弾かれた!?」

 剛太の面が弾かれ咽喉もとに竹刀が突きつけられる。勝負あり。

14本目


「古人に云う! おんあにちまりしえいそわか!」
「ぶごっ!?」

 剛太はみぞおちに膝蹴りを入れられた。悶絶したところで面を打たれ勝負あり。

22本目


「古人に云う! かんまんほろほん!」
「え……? あ!」

 剛太は竹刀を奪われたうえ投げられ頭を打たれた。勝負あり。


「後半剣道じゃねえ!!」
 剛太の怒号が響いた。
「なんだよアイツ! 蹴りとか投げとか平気で使いやがる!!」
 まったくひどい戦いだった。
「打ち込んでもアイツ跳ぶし! ピョンピョン跳んで竹刀避けるし! くそう! 今度こそ!
 剛太は無銘めがけ突っ込んだ。そうしてしばらく切り結んで押し合いになったが突然無銘はスピンしつつ数歩後退。着地
と同時に手裏剣を剛太の額に投げて勝利。

「だから剣道しろと!! 何! なんなの! お前は何をやってんの!?」
 無銘は腕組みしニヤニヤするばかりで答えない。流石にキレかけた剛太を救ったのは秋水。
「タイ捨流」
「たいしゃりゅう? 何だよソレ」
「タイ捨流とは剣聖・上泉伊勢守信綱に師事した肥後の人間、丸目蔵人佐(まるめ・くろんどのすけ)が新陰流を元に発展
させた流派だ。特徴はいま鳩尾が見せたような跳躍、回転といった荒々しくも迅速な動きだ」
「解説どうも。この剣術オタクめ」
「総角との闘いに前後して俺は古流について少し調べた。最初は研究目的だったが今は様々な流派の奥深さに目を見張る
ばかりだ」
「貶したのにしみじみ語ってやがる……」
 目を閉じ様々な特色を述べる秋水は心地良さげだった。
「真田十勇士の根津甚八も確かタイ捨流だ」
「十勇士ったら忍者だよな。……道理で」
 少年無銘が好むわけだと納得する剛太は
「字はこうだ」
 秋水がどこからか取り出したメモに眉を顰めた。
「タイだけカタカナなのは何でだ?」
「教えによると『心広く達するため』だという。「体」「太」「対」「待」……伝書には様々な文字があるがどれか1つのみに絞る
とそのたった1つだけ”捨てる”流派となり幅が狭まる。そもコレは天神合一、変幻自在を旨とする流派で」
「ああもういい。いいから。細かい説明は」
「そうか」
 秋水はちょっと残念そうなカオをした。
「だが蹴りや投げは柔術の流れを汲む正当なもので……!」
「なんでちょっと必死なんだよ…………」
 思いつめたように弁護する秋水にほとほと呆れる剛太であった。

.

「8本目で君の刀を弾いたのは石厭(せきあつ)。14本目の膝蹴りは足蹴(そくしゅう)。投げ……22本目で使われたのは
奪刀(ばいとう)だな」
 とりあえず秋水の分かる範囲で無銘の技を聞く。(剣術オタクめ)、内心詰りつつも形だけ礼を言う。
「で、さっきのスピンやら手裏剣は?」
「猿廻(えんかい)。といっても『形』(かた)では最後投げない」
 だろうな、と剛太は思った。手裏剣を投げる剣術はとても想像しがたいものだった。
「むしろ最後(無銘側)が投げられる。そして弾く」
「結局組み込まれてた!!!」
 正式にはスピンして後退したもの(仕手)の相手が投げる仕草をする。それを払う動きで締めくくるのだ。
「手裏剣までアリとか……アグレッシブすぎだろタイ捨流」
「実戦用だから当然だろう。ちなみに蹴りや投げといった無刀の技は柔術のみならず中国武術の流れをも」
「だからもういいって」
 秋水は寂しそうだった。
「で、さっきからアイツがブツブツ言ってるの何?」
「何の話だ?」
 ほら技かける前の。古人に云う〜なんちゃらかんちゃらのよく分からない言葉。と剛太がいうと。
「摩利支天だな。真言。一種の呪文だ」
「なんでそんな訳の分からないコト言ってんだよ。忍者だろ。臨兵闘者〜にしろよ。言えよ」
「タイ捨流の慣わしだ。組太刀の前に唱える」
 宗教色も濃い神秘的な流派。美貌の青年が憧憬を浮かべると一種陶酔した雰囲気が漂う。
 それを蹴散らすように飛び込んできたのは少年忍者。趣味となると男はうるさい。誰もがうるさい。
「厳密に言えば忍びと摩利支天にも関係はあるのだ!」
「成程」
「何しろ陽炎の神様だからな。信じて念ずれば隠形は容易い。あ! というか念じたので我の剣が不可視になりスパスパ
当たってるに違いない」
 場を沈黙が占めた。この犬畜生は何バカな事を言ってるのだろうと剛太は思った。秋水もまた黙りこくったと思いきや
「そうか。すごいな摩利支天は」
 真顔で言った。コイツも何いってんだと剛太が振り仰ぐと、秋水、口の前で人差し指を立てるではないか。
(あー。流してるのね。つかそれ大人が幼児あやす文法じゃねえか)
「フ」
 遠くで総角が笑った。経験者の笑みだった。色々な年上の思惑は無銘には伝わらないらしく、
「そうだろう。スゴイのだぞ!」
 相手が秋水にも関わらず、楽しげに応じた。ハイになったせいで行き掛かりのモロモロを忘れているようだ。
(子供か。いや子供だけど)

 よく見ると竹刀にシールが張ってある。印刷されているのは絵とも模様ともつかない面妖な図案だ。

「仏号だ。梵字と要領は一緒なのだ。いつか刀にも刻むのだ。カッコいいのだ」
(いやお前ソレ刻んだというか貼っただけだからな)
 内心ツッコむ剛太とは裏腹に、無銘はひどく上機嫌だ。「一生懸命手で描いて一生懸命手で貼ったのだ」と聞かれも
しないのに胸そらして得意げに説明した。
「いま貼ったっていったよコイツ。刻むんじゃないのかよ」
 その追求が不服だったらしく無銘は一瞬露骨にムっとしたが、総角の咳払いを聞くと急にしおらしくなった。
「だって師父が学校の備品壊したらダメって云うし……」
(子供か。いや子供だけど)
「で、でもシールぐらいならいいぞってブラボーさん云ったし貼ったのだ! いいだろうコレ。いいだろう」
 とにかくシール。剥がれないよう竹刀に撫で付ける手つきは小生意気な態度がウソのように優しい。
「本当は忍者刀にも彫りたいのだ。でも特注するとお金かかるのだ。今月は忍者刀買ったばかりで母上の財布が厳しい
からガマンしてるのだ」
 言葉を継ぐたび無銘の頬は震え、とうとう目を白く真白にして涙を零した。うううとブルった。
「というか、龕灯の映像付与でどうにかならないのか?」
「っさい早坂秋水! 大事な問題に干渉するn……ム! どういうコトだ! 話せ!」
 怒りながらも急に首を傾げて問う。(ああコイツ根は結構アホだな)剛太は思ったが口には出さない。
「だから、例えば刀身を石膏のような性質にして何かの判で仏号を捺す、とか」
「それだあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
 鳩尾無銘、大興奮。

.

.


『天下鳴弦雲上帰命頂来』



 忍者刀の刀身いっぱいに刻まれた文字に剛太と秋水は思った。
(族か。暴走族か)
(こんな旗かかげているのをよく見る……)
 服部家伝来の秘伝書、その名も「忍秘傳」にも記載のある由緒正しい言葉(所定の手続きのうえ唱えると行路の難を打
破できるという)なのだが、忍者マニアでない2人には意味不明かつ悪趣味な装飾だ。

「サツマイモに字ぃ彫って捺した!」
「図工!?」
 恐らく失敗作だろう。足元に転がる無数の芋のなか鳩尾無銘は直立して腕を組み大口開けて哄笑した。
(一文字一文字捺してたな)

 その時の模様を思い出した秋水はちょっと和んだ。

──「ぐ、文字ずれたら一巻の終わりだぞマズイぞ……」

──「い! いま話しかけたら殺すからな! 集中乱したら時よどみだからな!!」

──「ぎゃああああ!! ちゃんと逆さにしてない判子押してしま……アレ? あ、性質付与まだだった。良かったぁ(ホッ」

──「芋に文字彫るのしんどそう……だと。別に。楽しいし。面倒くさいけど手使えるだけいいし」


「おお」

 無銘は忍者刀を眺めた。


「おおっ」


 裏表ひっくり返した。そこにも同じ文字がある。


「おおー」


 ひらひらと両面見比べる無銘の顔は驚きと感動に満ちている。


(あのネコといい音楽隊はこんなんばっかか)
(まぁ子供らしくていいじゃないか。俺は彼ぐらいの時そろそろ心が死んでいた)
(サラっと重いコト言うんじゃねェ。返し辛いぞ)

 秋水の顔もまた綻んでいて、剛太は思う。「コイツのコト語ってる姉と同じ表情(カオ)だな」と。
 秋水が、小札の件でアレコレと突っかかってくる無銘を弟のように思っているのが見て取れた。

(今は死んでねえってコトか。心)

 よく分からない男でまったく真逆の秋水だが、剛太はさほど不快ではない。

(アイツの影響か。コレも)

.

 論評は瑞々しさを取り戻した秋水に対してか、それとも彼に友誼を感じつつある自らの変化にか。
 剛太はまだ分からない。


「クク……! 手でいろいろできるというのは実に気分がいい! フハハどうだ鐶! いいだろこの刀!」
「鐶なら姉さんたちと移動したが」
 無銘は竹刀を縦に持ったまましばらく固まり
「何ィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 と目を剥きそして怒った。
「おのれ鐶め! 我の活躍見てろといったのに! 約束したのに!」
 八つ当たり、だろうか。刀を片手でブンブン振り出した少年忍者はむくれ面だ。
 剛太は意地悪く笑った。
「つーか何。いいトコ見せたかったのお前? あれカノジョな訳?」
「な…………!!」
 無銘の顔がみるみる赤黒くなった。瞳孔は露骨に開き色も変化。
「ばばばば馬鹿を抜かすな! あ! あのような者に焦がれる訳なかろうが!! 我はただ、我はただだな! 普段妙に
偉ぶってる鐶めを見返してやりたかっただけなのだ!!」
 あからさまに動揺する無銘に剛太は「ふーん」と意味ありげな笑みを浮かべる。
「でもお前あのロバより先に鐶呼んだよな。母上……だっけ? その母上より優先してたじゃねえか」
「ぐ……!!」
「それとも何? まさか母上様のコト忘れてたんじゃないよな?」
(フ。セーラー服美少女戦士を敵対特性で倒された遺恨、か)
 煽ってくスタイルの剛太がさらに舌鋒を加えんとしたときその肩に手が乗る。振り返る剛太。
「やめるんだ中村」
「早坂」
 神妙な顔つきの秋水に少々やりすぎたのかと剛太は思いそして黙る。
「鳩尾はただ苦難の人生を歩んできた鐶に真先に面白い物を見せて元気付けたいだけだ」
 空気が明らかに凍った。秋水を振り向く剛太は頭の後ろで小さな影が、爛々と両目光らせ立ち上がるのを察知した。
「オイ」
 青ざめる。修羅場を予期し青ざめる。
 秋水が言った程度のコトなど剛太はすぐ見抜いていた。見抜いた上で触れぬよう逆鱗に触れぬようしょうもない煽りで細
かな怒りを引き出していたのだ。だが秋水は触れた。心底生真面目に庇うつもりで……触れた。
 皮肉にもそれが無銘をブチ切れさせた。
「貴っ様あーーーーーーーーー!!」
 ひゅるりという冷たい風が鼻先を通り過ぎた瞬間剛太は慄然とした。舞い散る何本かの髪は切断の証。
「ちょ! その忍者刀斬れる奴だろ! 振り回すなって!」
「黙れ! 貴様が余計なコトいうからこやつが調子づいたのだ!」
「君は顎が上がり気味だな。身長差を気にするせいか……。顎は締めた方がいい」
「お前は冷静に指導してんじゃねえ!!」
「だが体を崩されたとき転倒の恐れが……咽喉だって打たれかねない」
「だから何で今いう!! おのれ馬鹿にしおって!!」
「やーめーろ! 実質真剣だぞそれは!」
 やかましい叫びと足音のなか総角に湯飲み差し出す防人衛。
「粗茶だが」
「あ、どうも。お構いなく」


「ぐぬぅ! 一発足りと当たらん!」

 無銘の攻撃は悉く外れた。彼がバテるコトで騒乱は終わった。
 剛太は見栄えよく佇む秋水に愕然とした。

「結構激しく動いてたのに汗一つかいてねえ……」


.

.
 とにかく剛太。無銘に勝つまで続けるコトに。

「つってもなあ。あいつホムンクルスだぞ? さっき先輩が言ってたけど身体能力だけなら全盛期のブラボー並。そりゃあ
確かに最近人間形態になったばかりだから、剣の方はあちこち拙さが見えるけど……タイ捨流だぜ? 跳ねるわ投げる
わ蹴るわ手裏剣使うわで手に負えねえ」
 ニトロエンジンとミサイル搭載のF1カーに乗ったルーキー。とでも形容すべきか。無銘は手ごわい。
「しかし君は先ほど防人戦士長に重力の使い方を教わっただろう」
「そうだけどなあ」
 いざ実戦となるとそれどころではないというのが実情だ。そもそも実際に練習し体感したのはナックルダスターとスカイウォー
カー……アッパーとハイキックのみである。
 と、手札を探っていた剛太の脳細胞がめまぐるしい収縮を見せたのは秋水の表情に微妙な変化を認めたからだ。
 相変わらず生真面目が服をきたような、美麗だが面白みのない、予算だけは潤沢な大コケ映画を思わせる面持ちの男
が一瞬くすりと笑ったように見えた。
(笑う? 笑うってコトは裏がある、だよな。ただコイツは姉と違って策謀は苦手だ。となると既に何か予想していて
現に俺がその通りになってるってコトか。しかもまだ俺は解決策を見つけていない……と)
 さらに思い出す。無銘との試合前、秋水がいろいろ口にしていた忠言を。

──「君は頭がいい。だからこそ、教えられた技術に固執しがちだ」


──「あっそ。でも要するにブラボーの教えはアレだろ。筋肉連動させりゃ攻撃力あがる。重力上手く使って相手の虚をつ
けば勝てる。それだけでいいじゃねェか。時間ないし体術に限っちゃ単純単純、何も考えねェ方がうまくいくって絶対」


──「攻めて崩れるのは相手だけじゃない。自分もだ。攻勢に転じた瞬間隙が生まれる。巧者はむしろそれを突く。体術だけじゃ
ない。知略も同じだ。戦いの本質はみな同じだ」

(…………)

 やっと気付く。『簡単にできる』。そう嘯いていた筋肉の連動や重力の利用がまったく出来ていなかったコトに。
 変幻自在かつ既存の剣道の枠に収まらぬ無銘のタイ捨流にただ翻弄されていた……。

(やっべえ。よくよく考えてみりゃあちょっと剣術齧った程度のホムンクルスにだ、俺、全然歯が立ってなかったじゃねェか)

 無論剣道という不慣れな競技だったせいでもあるが、にしても実践できると断言していたブラボーの教えを何ひとつ活か
せていなかった事実はまったく反省を促すのに十分だ。斗貴子を助けるための特訓で何の進歩も出来ていないのは、
まったく剛太にとって屈辱的である。カズキとの差が微塵も縮まっていない。

「あーー。なんだ」
 ぼるりぼるりと後頭部を掻きながら秋水に言う。
「分ぁったよ。武術ってのは積み重ねが必要なんだな」
「……そうだ」
 秋水は頷いた。
「防人戦士長は重心を時速6.5キロで16センチ落とした。それだけで気配が察知されなくなるが」
「それだけで神業だけど」
 嘆息する。
「言い換えればアレだよな。時速6.5キロで16センチ落とすのにさえ長年の修練が必要なんだな。武術っていうのは、数値
だけ聞きゃあショボいコトでも、おっそろしく沢山考えて特訓しなきゃできないコト……か」
「ああ」
「悪かったよ。大口叩いて。確かに特訓は必要だ。ちょっと齧った程度じゃできそうにない」
 それを分からせるため剛太に剣道をさせたのだろう。秋水は。
(ただそれは半分だ。もう半分は、恐らく)
 記憶を探る。無銘に乱されていた頭の中の歯車が整序され1つまた1つと噛み合っていく。

──「ブラボー。これもそれなりの修練はいるが目指すところは単純だ。『相手に攻撃を察知させない』。たったそれだけを
実現するため俺は体を鍛えた。いいか。鍛錬そのものが目的じゃない。武術的な機微で相手より優位に立つため鍛えるんだ」

──「突き詰めれば中村。キミと武術の相性は案外いい。最終的には智謀や精神がモノをいう世界なんだ」


(……これだ。2人は武術を通じて俺の頭を鍛えようとしている。ケッ。乗せられるのは癪だが──…)

 来るべき決戦で斗貴子の力になれるなら。


「来いよニンジャ小僧。今度は俺がいろいろ試す番だ」


 無銘めがけ親指以外で手招きする。挑発的な行為に「何を!」と無銘は憤りそして構えた。

(よし。中村。やっと俺と戦士長の意図を分かってくれたか)



「フ。同時に秋水をも鍛える、か」
「彼に必要なのは人と交わるコトだからな。アイツ自身それを望むようになった。お前との戦いを通して……な」



 防人衛。総角主税。戦士と音楽隊。2つの会派の首魁格はただ静かに部下を見守る。






 一方、千里の部屋では演劇の脚本がいまだ難航していた。

「文章って難しいね」
「読むのは好きだけど書くとなると……」

 のほほんとしたまひろとは対照的に千里は困り果てていた。
 いま書き上がっている台本については集結した女性人全員の感想を貰いいろいろ見直したのだが、どうもしっくり来るものがこない。

「締め切りは明日の正午だよ」
 時刻は現在そろそろ23時を回ろうかという頃だ。斗貴子としてはそろそろ管理人室地下の特訓に戻りたいのだが……。
(だが演劇発表で負ければ部はパピヨンの天下になる)
 台本の出来が悪ければ斗貴子はパピヨンのコスプレでレティクル勢との決戦に挑まなくてはならない。
(それだけは絶対嫌だ!)
 顔が青ざめ汗が流れる。ココまで気付かなかったのが不思議なぐらい、当然でおぞましい理屈だった。
「なんとしても書きましょう」
 いつにもなく神妙な面持ちで呟いたのは桜花だ。彼女の慧眼は斗貴子の動揺ひとつで台本の重要性を見抜いたらしい。
「書くといっても千里だいぶ疲れてるわよ」
 ヴィクトリアとしてはどっちに転んでも構わない。恐ろしい話だが彼女はパピヨンのコスチュームに抵抗がない。ニュートン
アップル女学院の生徒たちを思い出してみよ。みな彼を妖精と思っていたではないか。朱に交われば何とやら、しかもパピ
ヨンを憎からず思っているのだから(負けたら……その……ペアルックってコト?)と内心ドキドキしている。
 とはいえ勝てるに越したコトはない。難物な共同研究者の喜ぶカオは見てみたいし、演劇部の全権を任された以上は
矜持にかけて勝利に導きたくもある。
 ただ、台本執筆が千里である以上無理はさせたくない。母の面影を持つひどく可憐な少女に無理強いはしたくない。
 これがまひろなら壊れたテレビを治すように3発はブッ叩く。叩いた方が却って正常になると冗談交じりに信じている。
 桜花は、ヴィクトリアの機微は分かったが、しかしだいぶ追いつめられていた。
(負ければパピヨンの服……。嫌よそんなの!)
 表情こそ笑っているが微妙な引きつりが浮かんでいる。
 しかしそこは生徒会長。人間ぞろぞろ(※一部ホム)揃った空間の使い方を心得ている。

「全員で、書きましょう」

 みな、息を呑んだ。誰も想像だにしなかった提案だった。
 斗貴子だけは呆れたように呟いた。

「桜花。キミひょっとして焦ってないか? 普段のキミならまず創作経験のある者を探すだろ。なのに……全員で描く?」

 斗貴子の方がまだ冷静だった。彼女が経験のあるなしを一団に問うと千里の手だけが上がった。

「ほら見ろ。誰も未経験じゃないか。こんな状況で全員に描かすなんて」
「描くのよ」
「オイ」
 桜花は斗貴子に詰め寄った。心なしか息が上がり、瞳の奥がグルグル渦巻いていた。
「津村さん。負ければどうなるか分かってるの。津村さん。負ければどうなるか分かってるの」
「分かったから離れろ! というかキミは疲れてる! 落ち着け!」
 極度のプレッシャーと特訓の疲れのせいか。桜花は珍しく混線した。
「大丈夫よ! 文章なんてのは、弾みが大事なの。描くときは大作描くつもりで挑んじゃダメなの。『今日は2〜3行でいいか』
ぐらいの軽い気持ちでいくべきなの。そしたらいつの間にか没頭してて40KBぐらい描きあがっちゃってるものなの。昔は
長編基準の60KBが『スゴい量だなあ。自分には決して描けないなあ』とか思ってたのに今じゃたった1回の投稿でその
7割ぐらい軽々フッ飛ばせるの」
「よし分かった桜花! 寝ろ!」
 レバーにいいのが入った。桜花メルヘンの世界へ。
「くそう! 腹黒とはいえそこそこ有能な奴が消えた!」
「消した……の……間違い……では」
 鐶の突っ込みを涼しい顔で黙殺し斗貴子は一団に意見を求めるべく向き直るが
「そうだね。自分で描こうよ」
「え!?」
 頷くまひろに斗貴子驚愕。
「んー。ちーちんばかりに負担かけるの良くなかったね」
「日本語よく分からないけど千里のために頑張るよ」
「ビジネス文書の作成でしたら経験あります」
「物語は分かりませぬが戦いをば妄想すれば実況的側面から或いは何とか!!」
「…………ふふふ……。遂に『わたしのかんがえたさいきょうのすぱろぼ』を解き放つときが……」
「よー分からんけどご主人はやってみるって。つーか……いつになったら眠れんのさ。眠い」

「なんだかヤバいコトになってきた……」

 沙織、ヴィクトリア、毒島、小札、鐶、香美……ほか全員の賛成により執筆開始!!



「とりあえずまだみんな描くの慣れていないと思うの。短編から始めましょう」

 過酷な現実世界に帰還した桜花は平然たる面持ちだ。いろいろ動揺しているが表面上はいつも通りの生徒会長。

「で、何を描くんだ?」
「お題に沿って描きましょう。いまネットで小説について調べていたらちょうどいいお題があったの」
「ほうほう」
 まひろは身を乗り出した。ベレー帽を被りGペンを持っている。斗貴子は(明らかに間違ってる。このコ居る時点で詰んで
るんじゃ)と思った。得体の知れぬ笑みを浮かべる鐶、文字って何じゃんという問題外の香美、既に脳にニトロを充填しいろ
いろ出来上がっているご様子の小札。他にもまひろ寄りの沙織や鬱屈を抱えたヴィクトリア。
(ああ。そうか。なんか見たコトあると思ったら)
 斗貴子はむかし目撃した。
 ヴィクター討伐がひと段落した頃、錬金力研究所の食堂で戦部やら火渡やら円山やらがアレコレ持ち寄り食卓を囲んで
いるのを。数時間後そこは爆発現場の中心となった。KEEP OUTのテープと野次馬越しに見た食堂……だった空間には
ヒグマの前足やらアーケードゲームの基盤の破片やらゴム手袋、クイックルワイパー、照星の焦げた、黒い額縁つきの遺影、
高笑いを上げる生前の故人にマウントを取られ殴られまくる火渡といったおおよそ食用に適さないものが散らばっていた。
 その一角たる暗い赤みのかかった紫の謎粘液は最初食堂の一部分のみ群生していたが、日を重ねるごとに生息範囲を
広げていき、いまでは元食堂から半径400mが立ち入り禁止区域である。

 部屋にいる女子たちを見て思う。

(そうだ。思い出した。そっくりなんだ)

(あのとき戦部たちが囲んでいた闇鍋と)

 もう斗貴子は笑うしかなかった。極限まで溜まったストレスが、脳の狭まった区域から膿のようにスルスル抜けるカタルシ
スだった。
「だ、大丈夫よ津村さん。描いてもらった作品は、私と、千里さんと、毒島さんでチェックして纏めるから」
「そうか……。桜花と、若宮千里と、毒島が……。良かった。桜花がいなければもっと良かった」
 斗貴子はまなじりを拭った。人間の正の部分を垣間見た気がした。
「え? あの、私さりげなく仕事ふられてませんか?」
 一番とばっちりを受けたのは毒島だった。
「大丈夫よ。銀成学園に入学した暁には生徒会役員の座を用意するから。会計にしてあげるから」
「仰る意味が分かりませんが」
「桜の花言葉を知ってる? 豊かな教養、高貴、清純よ」
「お。またおかしくなったな桜花」
 腰を浮かした斗貴子に桜花は引き攣った笑みを浮かべ進行する。
「と! とにかくまずは慣らし運転! お題はこれよ!」


大雨で洪水になったとき、自分の大切な人を守って避難する


「字数は2000字以内! スタート!」


斗貴子。

 洪水、か。私たちが斃すべき敵たちは人を喰う。しかも痕跡は必ず消す。
 洪水に紛れての食事は正に打ってつけという訳だ。

 それだけに、夏ともなると仲間達は洪水区域へ飛び出していく。
 中でも欠かせない人は艦長と呼ばれる老年の男性だ。
 有能なんだか無能なんだかよく分からない人だが、潜水艦を操る能力を持っていてな。
 大河川の洪水区域という、学校など比べものにならない広い区域の住民達を救助するコトにかけては組織一信用できる。

 その艦長がある時、あわや死に掛けた。
 律儀な人でな。住民達を潜水艦に入れる時は必ず甲板に上り声を掛けていた。
 それが仇となったのは風まで強い難儀な日だ。乗り込もうとしていたまだ幼い少女が突風で大きく転び看板から落ちた。
 幸い艦長が反射的にキャッチし仲間の乗組員に投げ渡したが、代わりに自分が河の中へ……。
 詳しくは話せないが、そのとき使っていた潜水艦は艦長なしでは成立しないものだった。
 動かない、どころではない。まぁなんだ。艦長が溺死した場合、乗ってる人たちは確実に全滅する。

 迷うヒマはなかった。同じく看板で避難誘導していた私も川に飛び込んだ。
 幸い艦長は落ちた場所にいた。ジタバタ平泳ぎして激流に逆らい留まっていた。お陰で救助は容易かった。
 しかも上流から流木だの車だの障害物がどんどん流れてくる。
 普通なら絶望的だが、私は違う。『武器』さえ使えばどれも即席の足場……30秒とかからず陸に戻った。

 ただ計算外だったのは、潜水艦の近くに敵がぞろぞろ現れ始めたコトだ。
 洪水を狙うだけあっていずれも水棲型。足ヒレが水溜りにベチャベチャ叩き付けられ不快な音を奏でた。
 侵入されたらおしまいだ。一刻も早く知らせなければ……焦る私をよそに潜水艦は潜り始めた。
 艦長曰く水中で平泳ぎしている間に出航命令を下していたという。女のコの回収ならびにハッチ閉鎖も。
 本当、有能なんだか無能なんだか。敵の侵入もなかったというから安心したが……危機がまた来た。

 敵が艦長の顔と能力を知っていたんだ。まぁ台風が来ればまるで祭りを追って北上するテキ屋のように連
日被災地に詰めてる人だ、敵に知れ渡らない方がおかしい。
 上陸するや何体かの敵が艦長めがけて飛んできた。何しろ殺せば潜水艦というエサの檻が壊れるからな。
 そうすれば水棲型どもが溺れる人たちを生きたまま喰らうのは目に見えている。
 そういう意味でこの瞬間、彼は大事な人だった。
 当然私は迎撃。飛び掛ってきた敵どもをブチ撒けるとすぐさま艦長の手をとり走り始めた。

 敵はおよそ60体。殲滅できない数ではないが雨の中の乱戦となると守るどころか逆に殺めかねない。
 私の武器はそういう物……避難するしかないだろう。敵は水棲型でもある。洪水区域で闘うのは得策ではない。

 300mは走っただろうか。私ひとりなら武器を使って高速移動できるのだが、艦長を連れている以上無茶はできない。雨で
視界が悪く強風が時おり思わぬ物体を飛ばしてくる環境下であちこち跳ねて回るのは危険すぎた。艦長が死ねば潜水艦
の人たちも死ぬ。だから手を繋ぎ走る他なかった。
 そうやって焦れている私に艦長が一言。

「お腹冷えた。トイレに行きたい」

 …………フザけるな!! 
 理屈としては分かる。洪水まっさかりの河に落ちたのだからな。腹部が冷えるのは仕方ない。
 だがココでいうか! 私だって敵をブチ撒けたいのを我慢してるんだ! 
 くそう。潜水艦への影響さえなければ殴れたものを。怒りをこらえ彼を窘める。再び走る。

 そこであの艦長よりにもよって転びやがって!

 少女か!! いやまあお年寄りだから足腰弱いのかも知れないが状況を考えろ! しっかり走れ! 逃げろ!!
 しかもそういう時に限って敵が来る! 前から後ろから左右からゾロゾロと!
 やきもきしていると艦長が私の肩に手を置いた。厳かな手つきだった。皺が刻まれ節くれだった手の感触に、沸騰しかけ
た私の心は落ち着いた。さすが年配の人……窘めるのが上手いなと感心していたら彼が一言。

「お腹冷えた。トイレに行きたい」

 まだ言うか! とりあえず1時間後仲間たちと合流して安全を確保したが二度と彼とは組みたくない。


「あらあら。びっくりするほどオーソドックス」
「悪かったな。こんなモノしか書けなくて」
 口に手を当て品よく驚く桜花に一抹の棘を感じたのか斗貴子は嫌そうな顔をした。

(というかコレ)
(斗貴子さんの実体験だよね。絶対)
 千里と沙織は内心気付いたが口には出さない。

「あ……取られました」
「取られたって何よ……」
 がっくりうなだれる毒島にヴィクトリアは呆れた。

「そういえば毒島もあのとき艦内に居たな。すまない。キミの居ない任務を選ぶべきだった」
(認めちゃって……ます)
(波乱に富んだ人生だ!!)
(つーか……眠い…………)

「おお! これはのっけから凄まじい迫真のリアル! 果てして優勝は誰の手に!?」
「優勝って何!? 競う奴なのコレ!?」
 沙織は仰天した。肩の輪郭が逆立った。
「ぐ。流石は斗貴子さん! けど優勝は渡さない!」
「なんでそんなノリノリなんだ!」
 意気込み戯画的な顔でむふうと鼻息を出すまひろに斗貴子は叫ぶほかない。

まひろ。

ぽてと「大変だ! 大雨で洪水だよ!」
かぼす「むぅ。大雨で洪水だなんて大変だね!」
ぽてと「避難しよう!」
かぼす「そうだよ! 避難は大事だよ! でもあの川の水おいしいよ!!」

ぽてと「わー。みんな避難してるね」
かぼす「みんな考えるコトは一緒だね。早起きすれば良かったよ」
えほん「来たな。遅れると思って整理券貰っておいたぜ」
ぽてと「ありがとう! 見ず知らずの人!」
かぼす「でも今は大変なときだよ。気持ちだけで十分! 私は順番を守る!!」



「え! 終わり!?」
 桜花は原稿を取り落とした。まひろはというと憔悴した様子でふぅーふぅー息をついている。
 目も全開で血走っている。よほど全力で書いたのだろう。斗貴子は思わず気圧された。
「いま私に描ける最高の作品よ! これなら斗貴子さんにも……」
「無理だと思う。絶対ムリだと思うまっぴー」

 沙織は顔をくしゃくしゃにして笑う。

「大雨という極限状態の中でも守られる人間の絆そして倫理! 短いながらも啓蒙に富んだ優しき作品!」
「小札さん。そこまで全力にならなくていいです。まひろたぶん何も考えず描いてます」

 千里も困惑気味だがまひろを見る目は優しい。

「思わぬ優勝候補ね」
「な!」
「ええ」
 ヴィクトリアに追従する毒島に斗貴子はただただ驚愕した。
 香美はというと鼻ちょうちんを収縮させている。それが弾けたのでビックリして起きてボンヤリ辺りを見回した。

「次は…………私…………です」
 鐶光、推参。


鐶。

 Dブレーンの果てより現れた暗斑帝國・ネプツガレ! 突如侵攻してきた彼らに人類は成す術なく追いつめられた!
 唯一の希望は葦嶽アマツが父の命と引き換えに受け継いだ可塑型次元城砦……その名も爆燃砦ヴァクストゥーム!
 父の仇を探し闘う彼は次々と各都市を奪還するが、ネプツガレ四棺原譚の1人、ルヴェリエの卑劣な策謀に嵌り絶対
絶命の危機に陥る。消えるアマツの意識。傷つき、動けなくなるヴァクストゥーム。
 危機を救ったのは政府防備軍「瓜生」の道祖神ロボ小隊であった。
 思わぬ邪魔に激昂したルヴェリエは専用機・十元弩リーベスクンマーの力で破願滅黯の大雨を降らせ洪水を起こす。
 呑まれゆく街の中、道祖神ロボ小隊隊長、黒又山キシタ(28)は、直ちに部下たちに撤収を命令。
 自らはいまだ動かぬヴァクストゥームを抱え飛び立った。

 黄土色の濁り水が轟々と流れる大河川。その中央を土偶が飛んでいく。ブースターで白い波を蹴立て進んでいく。

 薄く黄ばんだ灰色の彼方で稲妻が走った。時おり遠くの空が薄く明滅するのは遠い戦地の砲火のせいか。
 長くも短くもない黒髪を無造作に分けた無精ヒゲの男……黒又山は別れた仲間の無事を祈った。
(大事な新型とパイロットだ。回収は俺1機でいい。俺の大仙稜は隊長機。一般機より87分早く避難できる。本部に着ける)
 瓜生の主力たる道祖神は土偶ソックリで評判は悪い。
(あとは新型との接触。さっきから連絡送っているが)
 ビコビコとアラームが鳴り、コクピット前面のインターフェイスの一点にノイズ交じりの長方形が現れた。
「ここは……?」
「気付いたか。交信成功」
 映像は乱れがちだが顔は分かった。短髪でやや神経質そうな少年にこれまでの経緯を説明する。

 ひとまず状況説明と自己紹介が終わると少年──葦嶽アマツは唇を尖らせた。
「離せ。瓜生の手など借りれるか」
「1人で親父さんの仇討ちたいのは分かるけどよ。現状見ろよ」
 ヴァクストゥーム。細身で、白鳥を思わせるフォルムの機体には右手と左足がない。先ほどの戦いで根元から破断した。
パイプやコードが剥き出しで火花をバチバチ放ってもいる。とても単独行動できる状態ではなかった。
「だが──…」
 言葉を遮るようにけたたましい警報が鳴り響いた。真赤な非常灯に染められるコクピットの中で黒又山は左右の操縦桿を
手早く動かしペダルを踏んだ。壊れた白鳥を右手に抱えたまま急加速し蛇行する土偶の周りで、白い水柱が立て続けに数
十本まき起こった。機雷源に迷い込んだような有様に画面の向こうのアマツは不満顔。
「追ってきたし追いつかれた。これだからショボ推力の道祖神は」
「上空7km後方に十元弩リーベスクンマー! 矢ヲタのルヴェリエちゃんござい!」
 黒又山が妙に嬉しそうに呟くのと同時に土偶は各所のバーニアを青白く吹かし反転、
 左手をガトリングに換装すると高々と掲げ撃ち始めた。
「撃ちながら下がるぜ!」
「下がるったって振り切れるのかよ! ショボ推力の土偶が、ヴァクス抱えて!」
「撒けねえから戦うんだろうが!!」
 怒号。ささくれた白い柱の間を猛然と下がる土偶。やがて弾が尽きたと見え銃身は回転はやめる。
「せめて一発ぐらい掠っててくれよ」
「残念。外れよん」
 不意の声。緊迫の黒又山が後部モニター越しに見たのは巨大な光の弩弓を構える人馬。
「一気に後ろ取りますか。さすがだが参ったねえ」
 明らかに破滅的な力を蓄えた矢が放たれ──…
 彼方あらぬ方へ着弾。水のドームを跳ね上げた。
「外……れた?」
 ルヴェリエは驚愕した。
「な? ショボ推力だから詰めてきただろ?」
「うるさい。極秘通信などなくても俺はちゃんとやっていた」
 ケタケタ笑う黒又山にアマツは仏頂面だ。その愛機ヴァクストゥームの辛うじて残った左手に輝くものがあった。
 それは碧い光波のファルシオン。
「終結の型・破断塵還剣! まさか! 接近を見越し発射直前!」
「そ。斬ったのさ。どうするルヴェリエちゃん? その傷でまだやるかい?」
「なんでお前が偉そうなんだよ。やったの俺だぞ」
「囮は俺だしー」
 人馬の胸は大きく切り裂かれていた。焼け焦げ火花を上げるコクピットの中で地団駄踏むトリプルテールの少女が見えた。
「きぃー! 両腕もやられてるし! 矢ぁ撃てないし今日はここまで! 宮崎でリベンジするから来なさいよ!」

 敵は去った!! そしてこれがネプツガレ戦役を駆け抜ける無敵のコンビの誕生であった! 続く!


「続き物!?」
「オイ。短編だぞこれは。ちゃんと決着させろ」
「今回は決着しましたし、1000文字……削ってます……よ? 四天王1人……とか黒又山先輩の部下4人……とかも」
 読み終えた桜花は絶叫する。斗貴子は怒る。鐶は涼しい顔である。
「……短編でキャラ8人は多いでしょ」
 ヴィクトリアは呆れた。
「ちなみに……次回第4話の舞台は宮崎……2機目の可塑型次元城砦……と……ヒロイン…………出てきます」
「知るか!!」
「じゃあ3話目なんだコレ!!」
「全25話……きょうび珍しい……2クール……です。タイトルは……爆燃砦ヴァクストゥーム……です……」
 まひろめがけ無表情でブイサインするニワトリ少女。どこまでもマイペースだった。
「物語って表に出ない部分まで作るべきっていうけど。情報量はかなり多い……たった2000文字なのに」
 口に手を当て考えこむ千里。何か思うところがあったようだ。
「ちなみに、ご主人言ってるけど……敵は、カイオウセイとかゆートコが、モトネタらしーじゃん。ルヴェリエとか暗斑とか色々」
 香美の発言にすかさず反応したのは沙織で
「貴信さんと話できるの? じゃあ聞いて聞いて。四棺原譚だっけ? 四天王っぽい単語はなーに?」
「えーと。メタンとかいう奴らしーじゃん」
「? 携帯電話使ってないのになんで連絡できるの? それにメタン? なんで?」
 微かな疑念と思わぬ言葉に目を丸くした。桜花と斗貴子の18歳コンビが講義した。
「海王星が青いのはメタンの影響なのよ」
「そしてメタンは還元端。これ以上還元しない物質だ。化学で習わなかったのか?」
「おー。だから四棺原譚(よん・かんげんたん)」
 感心する沙織だが、香美を見る目が不思議に満ちた。貴信とどう連絡しているか気になり始めたようだ。
「ちなみに味方の名前は日本の古代遺跡縛り……です」
「ひかるん物知り!」
 まひろは感動した。千里も同じらしくどうすればコレだけ描けるか質問した。
「ロボットアニメ……沢山……みる……コト……です。参戦した作品は…………必ず……チェック……これ基本……です」
「そ、そう。(参戦って何?)」
 ぼうっとした顔と返答。眼鏡少女の顔が引き攣った。
「ヴィクトリアさん。何をメモしてるんですか?」
「な、なんでもないわよ!」
 毒島の問いに欧州の偏屈ネコかぶりが慌てて何か背中に回した。
 こそーっと背後に回ったまひろと沙織は見た。メモ帳を。何かのタイトルと思しきやたら濁点の多い文字列を。
(チェックするんだロボアニメ)
(びっきーてばあのゲームに夢中)
「ヴィクトリアはともかく、課題は短編なんだ。描くなら完結しうる題材を選べ」
「おお。さすが斗貴子さん。愛のある厳しさ!」
「だよねー。何だかんだでやめろとは言わないもんねー。
 メモを巡りヴィクトリアと揉みあっていた2人が顔を見合わせて笑うと斗貴子はやや赤面した。
「うるさい! か、描く以上は与えられたリソースの中結果を出すのが責任……って! なに真剣になってるんだ私は!!」
「まぁまぁ津村さん。光ちゃんこういうの好きそうだし、千里さんと一緒に頑張ればきっと台本もできるわよ」
「そう……です……何年かけても…………完結……させます」
「締め切りは半日後ですが」

(((そ う だ っ た ! ! )))

 毒島のツッコミに全員が……桜花さえ愕然とした。
「じゃあ……じゃあ…………優勝…………できません……か?」
 暗鬱たる碧い瞳の淵に涙がじんわり滲み出た。
「厳しいコトいうけどムリだよひかるん。文章舐めないで。完結は最低条件。優勝するにはそれ以上の努力が必要だよ」
「いや私の見るところ結構……じゃなくて! そもそも優勝自体ないコトにいい加減気付け!」
 やや本性を出し棘を刺すヴィクトリアに、斗貴子(そろそろ場の雰囲気に毒されつつある)は言うが誰も聞かない。
「あるよ! 優勝はある! きっとある!」
(ないから。まひろちゃん、絶対ないから)
「無銘くんが見てみたいといっていたロボットアニメの草案ですね! 以前から不肖完結を楽しみにしております!」
「……前から考えてたんだ」
 千里は微苦笑した。
「ん」
「次は香美さんね。どれどれ……」


香美。


「ねむい」


「書けェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」」
 斗貴子の怒号が轟いた。しかし期待する鐶と桜花。
(ある意味おいしい材料……です)
(さあどう評価するの小札さん! あなたならできる! きっと上手く実況できる!)
 他の者の視線を浴びながら小札はゆっくりと立ち上がった。生唾を飲む一同。話す小札。
「……ふ、不肖少しノドが乾きました故ちょっとコンビニへ…………」
「小札さんさえ投げるレベル!!!」

 沙織は白目で叫んだ。横隔膜の震える心からの叫びだった。

 小札が退室したので執筆一時中断。

「ここで……再攻撃……です」


鐶。


・爆燃砦ヴァクストゥーム

 全長22m。重量31t。
 Dブレーンの果てより現れた暗斑国家・ネプツガレに対抗するため、葦嶽カツトキ博士が創り上げた可塑型次元城砦。
 ネプツガレの急襲により命を落としたカツトキ博士の想いを受け継いだ養子・葦嶽アマツが乗り込み操縦する。
 必殺技は概念をAdS空間方面から崩壊させる「終結の型・破断塵還剣」。

さいとばる
 西都原マナミの操る劈頭楼ベフライウングとはカールピアソンシステムにより合体が可能。

 合体後の例外群像ヴァクストゥーム・ベフライウングは常時量子化しておりその実態は把握不可能。
 不確定性原理により実質的に宇宙全域に充満しているためあらゆる物質は勝てない。

 ケイサルエフェスも一目置いてるしジ・エーデルさえ見たら泣いて悔い改める。超悔い改める。その改心ぶりたるやモジャ
モジャ金髪のちっちゃい天使たち6体が周囲に現れラッパ吹いて祝福するレベル。だもんで体中から虹色の光の帯が溢
れ出しマザーテレサに転生し西宮あたりで炊き出しして橋元に褒められる。
 ペルフェクティオなんぞスナック感覚ですわ。昼下がりに頬杖づいて寝っころがって尻掻いて相棒の再放送みながらサク
サクぅ〜〜サクっ! ですわ。そのサクサクぅ〜〜サクっ! が怖いんで奴は次元の向こうに逃げ去り引き篭もった。もうね、
逃げてからは毎晩毎晩「明日くるんじゃないか、夜中くるんじゃないか」って掛け布団頭まで被ってガタガタ震えてたんで、
手違いでこっち戻ってしまったとき追い返してくれたトレーズやらウェントスやらにはね、もう感謝ですよ。言葉には出せな
いけど毎日感謝ですよ。
 だから戻ってから彼らを祀るため日光東照宮ぐらいでっかい寺作って朝夕必ずお百度参りしてる。
 冬場は水かぶってやる。吹雪だろうと3m雪積もってようとインフルだろうとやる。凍った石畳の上、裸足でやる。
 年喰って孫やら長男の嫁やらが「おじいちゃんそろそろ年だしやめようよ」とか健康気遣ってくれても「いいやここでやめ
たら散っていった恩人たちに申し訳が立たん!」とか生き残った日本軍の老兵みたく頑固に言い張ってケンカして家族会
議になって主治医からドクターストップかかったりもするけど結局家族の目ぇ盗んでやりつづけて皆もうそれが生きる道なん
だって諦めるけど理解してくれて、いつも朝夕帰った時テーブルの上にホッカホカの湯気あげてるお茶と好物の沢庵数切れ
置いてくれてて、そういう暖かな家族を得たのはやっぱトレーズとかウェントスとかが命繋いでくれたお陰だって布団の中で
泣きじゃくって、そんである日、そろそろ梅のつぼみが膨らんできた初春のころ、屋根から、前日の晩珍しく積もった雪が、
暖かい朝日に溶かされ綺麗な雫としてポタポタ落ちてる寺の軒下で冷たくなって横たわってんの。でも死に顔には微笑浮
かんでんの。
 それぐらいヴァクストゥーム・ベフライウングは怖いしトレーズとウェントスに感謝ですよ。

(↓イデオンと同じ作品に参戦したときのための裏設定)

 まだネプツリブに掌握(ディス・コントロール)されていた頃のヴァクステゥーム・ベフライウングが破願滅黯の雨を降らして
惑黄昏の極洪水(ラグナロック・シンパシー)が起こったとき第六文明人は大事な人を連れて避難するためイデオンを作った。


「イデオンと同じ作品に参戦したときのためって何!?」
 桜花の美しい声が珍しく裏返った。
「念のため……ですよ。念のため……。フフフ……」
 紙を差し出しながらドヤ顔し、右コメカミ近くに一等星を浮かべる鐶。
「よく分からないけどまだ完結もしてないのに他の作品とのコラボ考えるの痛いよひかるん」
「というか何だこの文章……。普段と違いすぎる。……ディプレスとかいう師匠の影響か?」
 沙織のツッコミ。斗貴子の愕然。死せる両目の自由を!
「四話と思いきや四話じゃなかった……」
(もうファンができてるし)
 続きが読めず心から残念そうなまひろに桜花は少し噴き出した。
 ババーン! 鐶は控え目な胸を張った。
「そして課題もクリア……です。……大事な人を……連れて……避難……して……ます……!」
「あの、光さん」
「光……で……いいです……よ? 私……いまは……年下……ですし……」
「じゃあ呼び捨てにするけど、光。これじゃお題が申し訳程度よ。ダメだと思う」
 諭すような優しい千里の声に鐶は獲物を探すゾンビがごとく両目をうろうろさせた。
「…………。そ……それでも…………二作品描いた……心意気を…………ですね……」
「買えと!? フザけるな! そもそもコレは作品じゃない! 羅列だ! おかしな設定の羅列だ!」
 斗貴子がバシバシと原稿を叩くと鐶は今にも泣きそうな、庇護欲をそそる桃色の表情でトテトテ走り桜花の後ろに隠れた。
「あらあらダメよ津村さん。そんな強く言ったら」
「くそう。この場で一番の権力者にすり寄りやがった! 見た目に反して厚かましい!」
 ニヤリ。戯画的だが悪い顔で笑う鐶が桜花の背中から一瞬はみ出すのを斗貴子は見逃さなかった。


 ヴィクトリアはいうとちょっと瞳が潤んでいた。

「あ、びっきーが泣いてる」
「な! 泣いてないわよ! こんなヘンな話で泣いたりなんかしないわよ!!」
 悪友の指摘に顔を真赤にして怒鳴る少女は恥ずかしげである。
(ちょっと本性出てるがいいのか?)
(後半のおじいさんの下りでグッと来たんでしょうか?)
(まぁ、家庭環境が家庭環境だし、家族ネタには弱いのよきっと)
 戦士側の女子たちはうんうん頷いた。

(家族、か)

 ヴィクトリアでさえホロリとくる話にまったく反応できなかった自分に気付き斗貴子は陰を落とす。

(彼女がしんみりできるのはきっと日常を知っているからだろうな。覚えているからこそ奪った戦団を憎んでもいる)

 覚えていないにも関わらずホムンクルスを憎むコトのちぐはぐさ。
 斗貴子の煩悶は尽きない。


 管理人室・地下。


 剛太と無銘。

 竹刀を正眼に構えた両者、一足一刀の間合いに入ったまま動きを止めた。
 剛太は防具フル着用。無銘は相変わらず素肌。ホムンクルスのため必要ない。

 ここまで勝ち続け波に乗っている無銘は、相手が人間というコトもあり、余裕があった。

(我のタイ捨……まだまだ発展途上だが新米戦士程度なら十分翻弄できると分かった。だが彼奴は先ほど何やら早坂秋水
に知恵つけられていたようだ)
 ネコ型の香美には劣るが、無銘の耳もまたいい。忍びという自負もあり鍛えたチワワの耳は幸い人間への形状変更を経ても
さほど劣化しておらず(おそらく感覚野の神経的なものが発達したのであろう)、秋水たちの会話は総て耳に入っている。
 であるから目論みにも薄々だが気付いている。

(流れから察するに奴らは我に勝とうとするだろう。この立ち会いを仕組んだ人のうちブラボーさんは戦士側。早坂秋水に
教導をさせそれによって術理への理解、朋輩との連携を深めるつもりだ)

 出方を見るように切っ先で軽くく打ち合いながら考える。

(実際に干戈を交えた栴檀どもが言っていたが、あの新米は外観に似合わず切れる男。となればブラボーさんや早坂秋水
の教導の意味するところもまた気付いた筈。鍛えるべきは武技ではなく頭脳面だと。武術の機微……我との読みあいを制す
コトが勝利であり強化だと)

 叩きのめすコト自体は容易い。意表を突くタイ捨の技など幾らでも知っている。
 兵馬俑からフィードバックしつつある忍法を忍法らしく密かに使えばまず勝てる。

(だが……それをやれば師父の面目は潰れる。母上は悲しまれる。『不肖が両断されたゆえ遺恨を……』と気にされる。
栴檀どもは怒る。鐶に至っては偉そうに説教するだろう)

 飛び込んできた剛太の竹刀を軽く払う。それだけで剛太の体は面白いようにつんのめった。

 人とホムンクルス。馬力は元より違う。小細工など使わずとも剣道において叩きのめすのも可能だった。

(だが)

 茫洋たる影が胸に浮かぶ。

(我には何としても果たしたい望みがある!)

 打とうと思えば打てる剛太を敢えて見逃し後ずさる。面の奥から怪訝そうな瞳が見えた。

(いま打っても糧にはならん)

 以前繰り広げられた戦士と音楽隊の戦いは結局総角による後者の力の底上げが目的だった。
 それは彼らの旅における原則だった。共に旅する総角は何かにつけて部下たちに課題を出し超えさせた。

(いま師父がこの立会いに意義を唱えぬのは原則に反さぬからだ。我が向上しうる機会と見たからだ)

 忍びにとって主の命令は絶対である。まだ若輩の無銘ではあるが、それだけに純粋な忠誠心がある。イヌ型なのも作用
しているだろう。目先の、個人的な勝利の陶酔より、総角という主君の利益を第一に考えている。で、あるから勝ち戦でも
深追いはしない。好きな古代中国の軍記ものでは深追いした者は必ず負ける。

(……ココは真っ当な剣道で戦うのが吉。古人に云う。腹八分目に医者いらず。タイ捨の肩慣らしは十分やった。問題点
も洗い出した。これ以上の勝ち星は無意味どころか気を緩める。敗亡覚悟で読み合いの基礎を固めるが後のため)

 両者再び一足一刀の間合い。剛太の動きはやや悪い。


「ブラボー。鳩尾無銘は真向勝負で行くらしいな」
「ええ。ですがそれが却って中村の読みを潰しています」
「……だな。フ」

 遠巻きに様子を見ていた秋水たちが口々に感想を述べる。

「読みには蓄積が必要です。タイ捨流に限って言えば先ほどまでの立ち会いで型や呼吸、癖といった様々な情報を得た筈です」
「フ。だがそれが白紙になった」
「正々堂々を選んだからこそ、手の内が読み辛くなった。皮肉な話だがある意味恩恵だな」

 荒唐無稽な剣法から一転まっとうな剣道へ。

(今の無銘は手ごわい。だが君ならきっと……勝てる)

 秋水は無言のエールを、固まり気味な剛太の背中にそっと贈った。

 剛太は仕掛けた。前進しながら右から左から面を打ち下ろすが悉く捌かれる。
(なら小手だ!)
 面を見せかけ身長差ゆえ上がりがちな手首を狙って振り下ろすが無銘はスルスルと左開き足で後退。空を切る竹刀。

「剣道でも動けるのか彼は」
「フ。それはもう。俺が手ほどきしましたからね防人戦士長」
「中村は更に踏み込み胴を狙うが」

 硬く小気味いい音とともに裏鎬で半ば打ち落とすよう回避する無銘。

 一足一刀の間合いから2歩ずつ後ずさったぐらいの距離で両者いったん制止。
 ここまでで剛太の方は息が上がり始めている。無銘は平然と正眼に構え待つ姿勢。

「攻めあぐねてる訳じゃなく」
「そうだな。フ。律儀な奴。新人戦士の駆け引きを待っている」
「彼もまた武術的な機微の勝負を望んでいる、か」

 一同の思惑は無論わかっている剛太だが、体はそれについていかない。

(駆け引きやろうったって仕掛けるたび軽くあしらわれているんだぜ? そんなんでどうにかできるのか?)

 一瞬弱い考えが掠めたが、それを振り払うのはやはり斗貴子だ。

(弱気になんな俺。ずいぶん負けちまったがそれが斗貴子先輩助ける土台にならないって決まった訳じゃねぇ。武術の機微
とやらが先輩守る術になるなら俺はやる。何度負けようが齧りついてモノにしてやる)

 力量差はこのさい言い訳にもならなかった。むしろ駆け引きとは圧倒的な差を埋めるためのものである。ある意味温情的
な──もっとも彼は彼の打算のうえ蹂躙を選ばなかったのだが──無銘さえ知略で出し抜くコトができないならきたる決戦で
剛太はついぞ斗貴子のためになれないだろう。

(剣道型に切り替えやがったお陰でさっきまでの観察がパーだ。読み辛くはあるが、相手の手の内なんざ見えない方が当然
だ。それでも俺は色んな戦いに勝ってきた。ゼロから僅かな手がかりを頼りに見抜いて)

 気を静めるべく原点に立ち返る。数々の戦闘で行った駆け引き。それは何故奏功したか考える。
 そうしていると、最近闘った、無銘と系統を同じくする相手が浮かんだ。

(……そういやああの出歯亀ニンジャも忍びだったな。忍びってのは任務遂行のため恐ろしく合理的で冷徹だ)

 文に起こせば長いが、漠然とした、概念的な考えが剛太の頭を駆け抜けたのは刹那である。

(コイツは読み合いで勝つためにさっきから正攻法で攻めてこない訳だが)

 剣の攻めには2つある。有形と無形。体を攻めるものと……心を攻めるもの。
 秋水と防人が剛太をして武術向きだと評したのは後者に即しているからだろう。
 むろん当人は気付かないが、体術で勝てないという事実が自動的に心理戦を組み立て始めた。

(なぜあのニンジャ小僧は読み合いで勝ちたいのか? ひっくり返して考えてみよう。まず俺が読み合いやろうとしてるのは
斗貴子先輩のためだ。不慣れで負けの多いコトを敢えて選んだのは、そうしてでも先々に役立てたいもんがあるからだ。
となればこのニンジャ小僧にもそういう戦略的な目的がある筈。それは何だ? 小札や鐶を守るためか? 違う)

 小札には総角がいる。鐶に至っては戦士6人相手にしてようやく僅差で負けたほどだ。

(目先の勝利を逃してでも読み合いを望む理由。それは昨日聞いたコイツの前歴と繋ぎ合わせれば自ずと見える)

 イオイソゴ=キシャク。無銘を犬の体に押し込めた仇敵。
 老獪きわまる忍びの大家(たいか)。

(レティクル木星の幹部。恐らく鳩尾にとって俺との戦いは仮想戦。頭使うタイプだがまだ新人でしかも不慣れな剣道をして
いる俺すら出し抜けないようではイオイソゴにも勝てないと……そう思ってやがるな)

 そこまで考えたところで剛太は無銘との決定的な差に気付く。

(アイツとじゃ目的の質が違う。俺は別に勝ちたい敵はいねえ。斗貴子先輩守れさえすればいい。もちろん敵斃せりゃそれ
に越したコトねぇけど、どうしても勝てそうになけりゃ身を挺して先輩守ればいいだけだ。先輩は強いからな。俺が楯になって
隙作りゃ絶対勝てる)

 斗貴子さえ守れれば個人的な勝利は別に要らないと思う剛太と。

(絶対に仇敵を斃したいと願うニンジャ小僧)

 この局面での読み合いにおける”負け”の重みは必然的に違ってくる。

(俺は別に負けようがいい。掴めるまで繰り返すだけだ。そう決めてる)

 けれど無銘は違う。イオイソゴに遥か劣るルーキーへの敗北は確実に自信を揺るがせる。

(つまりだ。俺の動きに敏感なんじゃないか? 過剰といえるぐらい警戒してくる。裏を読む。だからこそ仕掛けるときは内
心疑う。フェイントだと見抜かれるのではないか、と)

 忍術とタイ捨。剣道での力押し。剛太に勝ちうるあらゆるカードを捨ててまでイオイソゴに備える無銘だから読み合いには
全力だろう。

(だったら)
(……来る!)

 剛太の踏み込みにようやく読み合いの始まりを察知した無銘は平凡きわまる正面を敢えて受け止め鍔迫り合いを挑む。
 剛太もそれは読んでいたらしく両者は激しく押し合いだした。もっともそこは人とホムンクルス、馬力の少ない方が面白い
ように押されていく。
 そこで剛太が初めて変則的な行為を見せた。後退しつつあった右足を大きく跳ね上げたのだ。
「スカイウォーカーの蹴り!?」
「タイ捨を真似たか!?」
 先ほどの特訓を見ていた秋水と防人が驚く中、身を引く無銘は竹刀を返す。頭よりやや高い箇所に柄を引きつけ左半身
を庇った。そこに蹴りが炸裂するかと思いきや、剛太はヘソの辺りまで上げた右膝を急速に下げ倒れこむよう突きを見舞う。
(フェイント!)
(フ。蹴りを使うがゆえ蹴りを疑う無銘をハメる魂胆か)
 術理上あまり好ましくない踏み込みを選んでまでした引っ掛けにしかし無銘は掛からない。流れるような手つきで正眼に
構えなおすと、迫りくる突きを緩やかにすり上げた。
「ブラボー。読んでいたか」
「無銘は面に移るようだ
「正攻法だな。フ」
 滑らかに剛太の中心めがけ竹刀を戻した無銘が面を振り下ろし──…

 決定的な乾いた音が訓練場に響く。

「……」
「予定より遅れた……やっぱ鍛錬必要だわこーいうの」
(読まれるコトを読んでいた、か。さすが中村)

 震える剛太。無銘の竹刀はその面に届いていない。あと30cmという所で剛太の竹刀の鍔元に阻まれたのは一瞬のコト、
剛太はまるで無銘を迎えるようにアキレス腱から全身のバネをアップに解放、無銘の打突をすり上げるや面に転ずる。
「表鎬で受けた!」
「フ。面すりあげ面。相手が小柄なほどやりやすい技」
「足のバネ……重力も存分に使っている! ブラボーだ!」
(スカイウォーカー特訓で疲弊した足は核鉄で治療済み! 特にアキレス腱は念入りにやった! 弾性上げるために!)
 人間が術理でホムンクルスの高出力を上回る奇跡のような瞬間だが
(だがそれも読んでいた!)
(手ごたえが来ない……? 避けられた? いや!!」
 予想に反し会心の打撃を得られない剛太は目を剥いた。
「身長差か」
「同年代なら問題なく当たっただろう。だが小兵である無銘には若干の猶予が与えられる」

「彼もまた俺の教えを活かしたか」

──『相手に攻撃を察知させない』。たったそれだけを実現するため俺は体を鍛えた。いいか。鍛錬そのものが目的じゃな
い。武術的な機微で相手より優位に立つため鍛えるんだ」

(しまった! そういう優位、小さい奴なりのアドバンテージを忘れていた!)
 面すりあげ面が有効なほど小さい相手なのだ。面が届き辛いというコトまで考慮に入れるべきだった……。
 剣道初心者ならではのつまらない不覚を悔いる剛太に対し
(見られているからこそ気にも留められぬ要素! それを活かす! 古人に云う、これすなわち陽忍なり!!)
 素早く腕を引き突きに移行する無銘。
 その顎が上がっているのを見た剛太は咄嗟に竹刀を正眼に下げた。

「小手を取られかねない動きだが」
「フ。突きに全霊込めた無銘は打てないし止まれない」

 無謀にも剛太、突きに対し鍔迫り合いを敢行!

(俺なら避けるか小手を取る)
(フ。同じく)

 熟練者2人が目を丸くする常識外れだが剛太そのまま突きで浮き足立つ無銘を右後方へ追いやり面を決めた。

「表崩し!」
「無銘……。だから顎を上げるなと…………」
「フ。勝負ありだ」



 竹刀を取り落とした剛太は毟るように面を取り激しく息をつき始めた。

「ああクソ疲れた! あちこち痛いし! ホム相手に武術とか二度とやりたくねえ!」
 大声で不満を漏らす。だがひとしきり叫ぶと気分は段々落ち着いてきた。
(でも、まあ、アレだな)
 様々な読み合いと咄嗟の機転で初めて打てた無銘の面。

(ヤッベ。すっげえ気持ちよかった)

 そもそも無銘はかつて斗貴子に敵対特性で以て重傷を負わせた男なのだ。
 怨恨を晴らせたという点でも爽快だし、剛太自身先ほど散々痛めつけられた経緯がある。

(そんな生意気なニンジャ小僧に一撃かませたのは悪くねえな。うん)

 カズキも一時期秋水ともども剣道に勤しんでいたと言うが、その道でボコボコに出来たら尚いいだろう。

「分かっただろう。剣術とは駆け引きだ」
「早坂……」
 座り込む剛太を上から覗きこむ秋水は淡々と呟く。
「君達がやったように、敢えて隙を作る場合もある。敵に攻撃させるんだ。いかな堅牢な構えでも攻めた途端……崩れる。
ほころびが生じるんだ」
「だから敵に仕掛けさせこれを打つ……だな。打たれるコトもある。ソレだけは身に染みて分かったって。今度こそ、な」
 垂れ目を覗き込んだ美丈夫は無言で力強く頷いた。それは何よりの太鼓判だった。理解を理解した印だった。
「ところでどうだった中村。剣道は楽しかったか?」
 剛太はちょっと目を泳がせた。頭だけはいい少年である。楽しいといえば秋水はそれをネタにグングン来るだろう。聞きた
くもない剣術の話を生真面目な様子で延々と、かつマジメすぎてつまらない様子でやるだろう。
「心底楽しい訳じゃねえよ。いまの戦いでマメできたし足だってまた限界。防具も臭いし相手は厄介だし……なんでお前こん
なのが好きな訳?」
「厳しくない津村に君は魅力を感じるか?」
 からかうような、しかし見事すぎる返しに剛太の脳髄は稲妻に撃たれた。
「お前分かってるし俺も分かった!!」
「だろう」
 微笑する秋水と拳を打ち付けあう。お互いの理解が深まった気がした。

「でも俺にぞっこんでいつも優しい先輩もそれはそれで」
「……あ、ああ」

 とろんとする剛太に秋水はちょっと引き気味だった。



「負 け た ! !」
 無銘はがくりと膝をついた。
「イオイソゴどころか新人戦士に負けた! 読み合いで負けた!!」
 顔は真青、絶望にガタガタ震えている。

「フ。気にするな。勝敗は兵家の常だ。忍びが竹刀でよくやった」
「師父……」
 しゃがみこみ頭を撫でる総角に無銘の瞳が潤んだのは嬉しさよりも報えなかった悔しさゆえか。
「そうだ。君は君で十分考えて闘っていた。ブラボーだ。勝ち星の方が多いし負けたのだって僅差。可能性はまだあるさ」
「ブラボーさん…………」
 後ろで仁王立ちする防人に少しはにかみながらも無銘はまだ俯いたままだ。
「これで顎さえ上げてなければ勝てたのにな……フ」
(そうだ……。顎。…………早坂秋水の忠告受け入れていれば…………)
 四つん這いで落ち込む無銘を防人も総角もそっとしておくコトにした。

(フ、根は素直な奴だ。すぐ立ち直るだろう)
(忍びの本質は正心。俺たちの意を汲み敢えて専門外の剣道で勝負した時点で忍者としても成長している)

 石川五右衛門……。風摩小太郎……。

 歴史上、悪心を催した忍びはどれほど術技が優れていても滅ぼされた。

 無銘が仇敵と狙うイオイソゴ=キシャクもまた悪心の忍びである。



「ナックルダスターでシルバースキン破れ!? 無茶でしょそれ!」

 防人の訓練は厳しい。やっと無銘に勝ったと思ったら次なる課題が出された。

「理論上は可能だぞ。硬化再生より早く第二撃を叩き込めば行ける」
「理屈の上ではそうですけど! 仮にアッパー後の密着状態でモーターギア回転させても破壊力は低いんです。シルバー
スキン爆ぜさせるコト自体まず無理ですって」
「ん? 別に殴ってもいいんだぞ?」
「殴るって……。アッパーしてからすぐにですか?」
「その通りだ。そもそも如何なる攻撃であれ一撃で決着するコトは稀だ。仮に致命傷を与えたとしても、最後の悪あがきで
思わぬ反撃が来たりもする」
「剣道でいうところの残心……拳打後に何か攻撃を打てるよう訓練すべきだ」
「俺はどっちかというと遠距離戦向きなんだけどな……」

 とはいえ先ほどの戦い、体が思惑通り動かなかった局面が何度かある。
 人間形態になって間がなく、剣道にも不慣れで、しかも蹂躙は自重していた無銘相手でさえああである。
 接近戦に持ち込まれるや守るより早く斗貴子が傷つけられては意味がない。

「分かったよ。やるよそれも」

 大儀そうに目を瞑りながら剛太は答えた。

(フ。つくづく動かしやすい奴)

 総角は静かに笑った。


沙織。

 大雨で洪水の街をシェパードが泳いでいました。飼い主を連れて避難中です。
 1階建ての家が屋根までつかるほどの洪水でした。たくさんの死傷者が出ました。
 シェパードの飼い主さんは、洪水に飲まれたとき、流れてきた、とてもとても重い物の直撃を受け、動けなくなりました。
 シェパードは咄嗟に、飼い主さんの長い髪をくわえ、泳ぎだしました。
 最初は激しかった洪水も、時とともにだんだん緩やかになりました。
 シェパードはときどき、水の中からわずかにのぞく、民家の屋根に上陸しては、ぶるるるっ、体を振るって水を飛ばし、
横になります。今の飼い主さんはとても軽いですが、それでも、水の中、髪をくわえて泳ぐには、十分すぎるほど重いです。
 瓦屋根に上陸すると、飼い主さんは必ずといっていいほど転げ落ちるので、シェパードは、困ったなというように、悲しげ
にひと鳴きしては、どぼん、水の中にもどり、飼い主さんの髪をくわえます。

 再び泳ぎだすシェパードは、野生の本能で悟っていました。流れに沿って泳いでいけば水のない所に着けると。
 そう信じて、ご主人の、長い髪をくわえ、泳ぎます。

 シェパードは、少し前、今の飼い主さんに貰われてきました。彼の知り合いの家で予想外に多く生まれてしまったので、
捨てたり、保健所に連れて行くのは可哀想だというコトで、貰われました。
 いい飼い主さんでした。ご飯はもちろんおいしいものをくれましたし、散歩も朝夕欠かしたコトはありません。家の中で、
どたどたと格闘するのがシェパードは好きでした。丸々と太った、中年の、女性のご主人が大好きでした。

 その飼い主さんの髪をくわえ、泳ぎます。

 古くなった家の床を何度か踏み抜いてしまった、かなり太り気味の飼い主さんの髪をくわえて、水の中進みます。

 平たい屋根に上がり飼い主さんと一緒に休んでいると、台風一過とでもいうべき青い空から、黒いつぶつぶがいくつも振っ
てきました。カラスです。5話はいたでしょうか。ぎゃあぎゃあ言いながらシェパードと飼い主さんを襲います。生まれて初めて
見る、自分と同じぐらいの大きさの生物の襲来に、シェパードは思わず、水の中へ逃げました。
 飼い主さんを屋根に残して。

 そうっと水面から顔を出したシャパードは見ました。ご主人を囲むカラスたちを。完全包囲でした。カラスたちは数こそ増えて
いませんでしたが、翼と翼が触れ合うほど密集し、ご主人を逃すまいとしています。黒いクチバシがギラリと光るのを、シェパー
ドはみました。きっとご主人を攻撃するのでしょう。怒りと怖さが同時に頂点に達したシェパードは、わうわう鳴きながらカラスたち
に特攻しました。怒ったカラスたちはシェパードをつつき始めましたが、太く丸い足や、若々しい牙の猛反撃を受け、たまらず撤退
しました。

 シェパードはご主人が大好きでした。貰われてからまだ3ヶ月でしたが、いろいろ良くしてもらったので、大好きでした。
 だからまだ小さいなりに勇気を振り絞り、カラスたちを撃退したのです。
 シェパードは、子犬でした。

 飼い主さんの髪をくわえ、泳ぎます。

 まだ幼いシェパードはそうするとどうなるか分かっていませんでした。
 ただ飼い主さんと逃げたい一心でした。一緒に居たいだけでした。

 貰った子犬を一生懸命愛してくれた太り気味のご主人とまた遊びたいだけでした。

 何時間泳いだでしょう。
 突然、聞いたコトもないけたたましい音が上空からしました。
 先ほどのカラスを思い出し、思わず首を竦めるシェパードですが、音は容赦なく近づいてきます。
 辺りに波紋が広がり、風もまた強まります。
 どうしていいか分からずおろおろしていると、9mほど離れた場所に、カラスたちなんか比べ物にならない、巨大なシルエット
が舞い降りました。
 それは自衛隊のヘリで、災害救助のため遠方から駆けつけたものですが、シェパードには分かりません。
 ただ怯えて、少しでも早く遠ざかろうと前足をかくだけでした。
 ですが、慣れた様子でボートを降ろしあっという間に接近してきた自衛隊の人たちに、とてもあっさりと抱えられました。
「なっ」
 3人の自衛隊さんはシェパードがずっと一緒にいたご主人の姿を見ると一瞬言葉を失くし、そして大変悲しそうな顔をしました。

 洪水のとき、流されてきた重機のシャベルがご主人の首に直撃しました。
 切断されたそうです。後日、ずっと下流で太った部分が発見されました。


「ひいっ!!!」
 桜花は絹を裂くような悲鳴をあげた。顔面蒼白だ。読んで浮かぶ情景に耐えかねたのだろう。
「背中に乗せない時点で溺死確定だと思っていたが……こう来るとは」
 斗貴子もゲッソリうつむき加減だ。普段の沙織を知るだけに油断していた、思わぬところから攻撃を受けた、そんな表情だ。。
「う。ごめん。本当は子犬と飼い主さんのハートフルなお話描こうと思ったんだけど」
 申し訳なさそうに眉を顰めると、沙織はちょっと顔を赤くして目を逸らした。頬もかく。
「でも……まっぴーとかひかるんとか濃かったし、意表つけないかなあって考えたら、こんなコトに……」
「確かにこれ位しませんと優勝は難しいですからね」
「でもさーちゃん。優勝ってそんなに大事? ハートフルなお話犠牲にしてまで目指すべきなの?」
 毒島とヴィクトリアは真剣だがズレていた。
「だから優勝はないと言ってるだろ!!」
「…………無銘くんが…………リーダー咥えてる姿が……見えました」
(ははははははは!!!! 僕もそうだ!!! 彼チワワだけど!!)
「ねーむーいー」
 音楽隊の衝撃はさほどでもない。みな、生首状態程度では死なないのだ。
「……? え、どういうコト? 犬さんも飼い主さんも自衛隊の人に助けられたんじゃないの?」
「まひろ。もう1回読みなさい。2周目だと分かるわ。ずっとどうなってたか」
 千里に促されたまひろはしばらく原稿を眺めていたが、俄かに泣きギレした。
「そんな! ひどいよさーちゃん! なんでこんなコトしたの! そんなに優勝したかったの!」
(もう何も言わんぞ。このメンツ相手じゃ何もかもムダなんだ)
 内心吐き捨てるように思う斗貴子の後ろで引き戸が開いた。勢いよく。
「不肖恥ずかしながら帰ってまいりました!」
 両手にポリ袋下げた主婦丸出しな小札に無言無表情の桜花経由で原稿が渡る。
「一見恐ろしげな結末ですがシェパードどのは飼い主どのの死後の尊厳を非力ながら守り通したのです!! ずばりハートフル!」
 さーっと読むや顔色1つ変えず前向き極まる解釈を述べる小札。
(小札さんなに読めば驚くんだろ)
 沙織の方がビックリさせられた。感心する反面ちょっと悔しかった。

「残りは毒島とヴィクトリアと、桜花、それから小札か」
「折り返し地点だねー」
 小休憩。小札がコンビニでいろいろお菓子を仕入れてきたので食べる。
「……強豪……揃い……です」
 真剣に呟く鐶。肩に横から香美の頭が乗り、不自然に跳ね上がる。眠気は限界だが貴信がムリヤリ起こしているのだろう。
(そんなに表に出たくないんでしょうか)
 ふと思う毒島だが、ハっと顔を赤くして俯いた。彼女とて顔は出したくない。できればずっとガスマスクで通したい。
「激戦のBブロックだね」
「いつからトーナメントになった。いつから」
 楽しげな沙織についツッコむ斗貴子である。
「ね、千里。台本の参考になりそう?」
「うん。みんなのお陰で。どう描けばいいか段々分かってきた」
 微笑する眼鏡少女にヴィクトリアはちょっと頬を赤くして笑い返す。あまり見せない表情だが、母親似の彼女に憧憬がある
のだろう。

 出揃いつつある文章。次の執筆者は──…


毒島。

 ある所に少女がいました。彼女の家は裕福でした。お母さんは女優で、2人いるお姉さんはそれぞれモデルやグラビア
アイドルを務めるほど綺麗でした。しかし少女だけはお世辞にも美人といえない顔立ちだったため3人に苛められました。
 家の澱んだ空気が、嫌いでした。

 母とお姉さん2人は願っていました。いつまでも若く美しくありたいと。
 そこに少年が訪れました。黒髪で、眼鏡をかけた利発そうな顔つきです。彼は言いました。「それは叶う」と。
 疑う母たちに彼は魔法の石を与えました。2つもです。どちらも傷をみるみる癒すもので少年の言葉を裏付けました。
 3人は喜びました。願いをかなえるため毎月多額の金品を少年に与えるようになりました。
 その代わり、一番末の妹の待遇をますます悪くしました。碌なものも食べさせず、学校にも通わせませんでした。
 自分が醜いからだ。発育不良に陥り、たった3人の意見がこの世の総てになった少女はますます内気になり──…
 不老不死よりも空気を換える力を望みました。

 ある雨の夜。ボロボロになった少年が、見慣れぬ少女を連れて現れました。
”妹”と呼ばれる彼女は座敷牢に幽閉されました。活発な人で、内気な世話役に可愛いと言いました。数日で打ち解けました。

 身の上話を聞きました。
 生き別れの姉を探していた所あの少年に捕まったそうです。
 聞けばご両親は離婚、姉妹を1人ずつ引き取ったそうです。
 そして父の仕事の都合でとある島に転校した姉は、突如起こった火山活動に巻き込まれ行方不明に……。
 死んだと信じたくない”妹”とお母さんは独自の調査の末、少女の邸宅に行き当たりました。しかし少年に見つかりお母さ
んは殺され、”妹”の方は能力が使えるとかで生かされたそうです。
 とそこまで聞いたとき、例の少年が血相を変えて走ってきました。そして堅牢な座敷牢を一撃で壊し、”妹”を連れて逃げ出
しました。「待ちやがれ」。野太い声が掛かります。振り向いた少女が見たのは、知らない男性でした。黒髪をいわゆる総髪に
結わえた、カッコイイですが強面の男性で、咥えタバコをメラメラ燃やしています。彼が少女の横を通り過ぎようとしたとき、
天井が崩れ、母と姉2人が現れました。彼女たちは空腹を訴えながら少女の手を、足を、ものすごい力で引き始めました。
 絶望に泣き叫ぶ少女を救ったのは火炎でした。赤々と燃える焔が、明らかにもう人間でないと分かる3人を焼き尽くしまし
た。男性の仕業です。お礼をいう少女。母か姉が持っていたのでしょう。魔法の石が1つ跳んできて少女の掌に納まりました。
 そこで地響きが起こりました。
 屋敷のあちこちが破れ水が流れ込みます。窓の外を見るとどうでしょう。先ほどまで快晴だった世界に未曾有の豪雨が
降っています。どころか高台の筈なのに洪水さえ……。「クソッタレ」。男性は少女の体を乱暴に抱き上げ高く跳びました。
初めて感じる男性の手の感触に少女は真赤になりました。なぜか大事にされているという実感の過ぎる甘酸っぱい避難
でした。焔が何回か上に放たれ、2人は焦げ臭い風穴を抜け、屋根へ。
 同時に屋敷は洪水に飲まれましたが、屋根だけはまだ辛うじて残っていました。
 それは偶然ではなく、少年が立つためでした。彼は”妹”を強く抱きとめ焔の人を睨みます。
 ただならぬ因縁があるのでしょう。咆哮と共に放たれた焔はしかし雨に消されます。後に分かりますがそれは”妹”の能力
でした。いわゆる気象兵器(HAARP)の使い手で、焔の人の天敵で、それゆえ彼女は生かされていたのです。
 なおも何発も焔を放つ男性ですが、雨に消され届きません。勝負を賭け全身を焔の塊にした瞬間、もはや極太の水柱と
しか呼べない雨の束が男性に直撃しました。黒煙をあげながら跪く彼。勝機ありとみた少年は”妹”を突き飛ばし、代わりに
その手へ魔法の石を握ります。呪文のような言葉とともに現れたのは戦闘槌。疲弊する男性に殴りかかります。
 嫌な空気が満ちていました。少女はずっとそれを祓う力を望んでいました。先ほど握った魔法の石を一瞥し……叫びます。
 ガスマスクが現れました。少女はそれがずっと望んでいた能力だと直感しました。
「なんだそりゃ。可愛い面が台無しじゃねえか」
 焔の人の思わぬ言葉に、その、テンパった少女は思わず水蒸気を酸素と水素に分解しました。
 思わぬ事態に愕然としつつも、少女に狙いを変え槌を振り下ろす少年。
 しかし時すでに遅し。酸素供給源を取り戻し再燃した男性に全身を焼かれ昏倒しました。

 男性は少年を連行しました。少女と”妹”は男性の所属する組織に保護されました。


「なるほど。これが馴れ初め」
 桜花がくすりと笑うと毒島は、それこそ焔がでるほど真赤になった。
「いろいろ再構成しています。実際はもう少し細かな違いが…………」
 垂れ目気味な少女の声は今にも消え入りそうだ。
(また体験談……)
(というかはーちゃん、斗貴子さんの仲間だったんだ)
 事実は小説よりも奇なりというが、まったく物語を地でゆく戦士たちだ。まひろの友人2人は微苦笑した。
「HAARPの戦士……? もしかして……その人…………」
(赤銅島の関係者、だろうな! あのとき犠牲になった誰かの妹!)
 鐶と貴信の疑念は斗貴子も抱いていた。
(間違いない。火渡と闘っていたのはあの……西山とかいうホムンクルス。だが、誰の妹を連れていた?)
 一瞬自分の妹かと疑ったが、防人たちから知らされた家族構成にはその様な事実はない。
(島の人間……? いや違う。転校と書いてある。なら都会出身の生徒の…………親族?
 そういえばと思い出す。斗貴子が通っていた学校の生徒について。
 斗貴子自身の生の記憶なのか、それとも防人たちから聞かされた情報なのか判然とせぬが、確かに都会の生徒はいた。
 表向きは出向してきた建設会社の社員の子供という触れ込みだが、実態は逆だった。子供の姿をした人間型ホムンクル
スが、学校に潜入するため、わざわざ建設会社の社員を動物型にし、その子供を装って、やってきた。
(だから都会出身の犠牲者はかなり絞られる。なにせ大半が加害者なんだか──…)
 鼓動と共に、ネガ反転した映像が浮かぶ。
 がなる声。金属の叩かれる嫌な音。ひしゃげたロッカー。奇怪に捻れた白い腕。

 線香花火が激しい炎を上げている。記憶の中のそれは万華鏡のように形を変える。

──「でも、津村さんがウエディングドレスなんて、変よね。絶対白無垢って感じだもの」

 頭痛。動悸。火花は橙の髪に転じてべろりと垂れた。紺色のリボンも添えられている。

──「私だったら何が映るのかな?」

(ああ、そうか)

──「私は、自分が将来結婚するなんて、絶対、考えられない」

(キミは両親が離婚したから)

──「パリかロンドンでお洋服のデザイナーをやりたいな」

(そういうコトを……)

 まどろみのなか理解した斗貴子はすぐその異常さに目を見張った。
(……。なんだ? 私はいま、どうして納得した? いま浮かんだ言葉は……誰の物だ?)

(少し様子がおかしいわね津村斗貴子。何かあったのかしら?)
 ヴィクトリアは訝るが言葉に出さない。まひろが心配そうに眺めているのが目に入ったからだ。任せればいいと判断した。
「なるほど!! できれば正にお名前の如く秘して黙したき大事な記憶を敢えて晒し未来をば導きたいと!!」
「あやちゃんさ……ときどき、おっそろしく鋭いじゃん……」
 香美は目をこすりこすり驚く。
(よく分からないが毒島。私を気遣ってくれたのだな。ありがとう。感謝する)
 目礼をすると毒島はとんでもないという風に両掌をバタバタさせた。
「しかし……残り3人。また濃いのが残ったな……」

 偏狭で傲慢な猫かぶり金髪少女のヴィクトリア。
 一見清楚だが凄まじく腹黒の和風美人、早坂桜花。
 そして実況においては一種突き抜けた感のある貧相なロバ少女、小札零。

 闇鍋のボス格、文章界のヴィクター級3体を相手取るような感覚が斗貴子の胃を軋ませた。


 さて管理人室地下。剛太によるシルバースキン攻略の訓練は「今後に期待」というところで終わり──…


 いま防人衛は構えていた。
 先ほどから秋水と剛太はずっと固唾を呑み彼を見ている。

「なぁ、どうなると思う?」
「分からない。両者勝ちうるからな」
「師父! ご武運を!!」

 無銘だけは声を張り上げる。運動会の保護者参加プログラムを応援するような声音だった。

「……フ」

 総角主税は例の脇構え。無造作に経ったまま防人を見る。

「首魁格ふたり、ただ見ているだけでは務まりますまい」

 笑うようなからかうような口調に防人の頬は裂ける。爽やかだが好戦的な笑みが広がった。

(総角。君そんな口調だったか?)
 妙に時代がかった口調の美丈夫に首を傾げる秋水だが人のコトはあまり言えない。
 とにかく総角がソードサムライXを装備しているのは大変な事態だった。
「は? 刀一本出してるだけじゃないか」
「彼の場合そちらの方が強い」
「……待て。アイツ確かムーンフェイスの武装錬金使えたよな?」
「分身は本家の8割……24体までしか出せないが脅威であるコトは変わりない」
「それとか、音楽隊の連中のとか、バルスカとか、とにかく色々使えるのに」
「ああ。刀一本握る方が遥かに強い。彼自身そういったし俺もつくづく実感した」
「どんだけだよ……」
 剛太は呻きながらこうなった経緯を思い出す。

──「ところでブラボーとそこの音楽隊のリーダー、ガチで武術勝負したらどっちが強いんスかね」

 発端はまったくの軽口だった。先ほど武術の醍醐味を味わった剛太だから、目の前の最強クラス2人、果たしてどちらが
強いか知りたくなった。
「ム!」
「フ」
 彼らは一瞬瞳を合わせたがすぐに決めた。
「闘うか総角主税!」
「望むところですよ戦士長どの」

「それからまぁ、3分しか経ってない訳だが」

 剛太は引き攣った笑み浮かべつつ部屋を見渡す。
 部屋はボロボロだった。分かりやすくいえばあちこちにクレーターが出来ていた。

「スンマセン! 俺が悪かったです! スンマセン!!」

 何かが、泣いて謝る剛太の耳の傍を轟然と通り過ぎた。次いで壁から起こる激突音。
 破滅的な音におそるおそる振り返ると、底とてっぺんの拉げた冷蔵庫が無残に横たわっている。
(危ねー!!!)
 あと30cm右に顔をやっていたら今ごろ剛太は死んでいただろう。戦慄しながら見る冷蔵庫は高速道路で正面衝突した
ダンプか10トントラックかというぐらい潰れている。
「すまない戦士・剛太つい蹴りが掠った」
「フ。あとで鐶に戻させておく」
 防人と総角は一瞬打ち合う手を止めたがすぐに咆哮し互いを攻撃する。一発衝突するたびに熱波と突風と閃光が部屋を
荒れ狂い剛太の肌がジリジリ灼けた。
「貴信が本物の流星群撃てたらコレぐらい壊すだろうな」
「フフン! 本気の師父とブラボーさんだぞ! お二方の全力を容れるには狭すぎるわこの部屋!!」
 周りを見回す秋水は冷静。観戦中の無銘は得意げだ。
 剛太は地上への脱出を考えたが、ちょうど梯子の前が戦場のため近寄れない。

 そんな3人の頬を衝撃波が揺らした。歯磨き中にブラシを外に向かってめいっぱい広げた位たゆんだ
「ん。また攻撃がぶつかったな」
「フハハ! 心地いい剣気だ!!」
「ちょっとは動揺しろよお前ら!」
 武術慣れしている秋水たちと違い剛太は、刀と拳の衝突音ひとつ響くだけで飛び上がらんばかりに驚いている。それだけ
凄まじい音だった。滑走路で大型旅客機の飛び立つ音を聞いているようだった。音や衝撃で寄宿舎が壊れるのではないか
とヒヤヒヤした。そこにすかさずサムズアップして見せる防人。
「大丈夫だ戦士・剛太! この部屋はTNT火薬2トンが炸裂しても壊れないよう作ってある!」
「フ! そこまで極まりましたか! ご趣味の日曜大工!」
「もはや日曜大工のレベルじゃねえ! だいたいそれ所々壊れてんですが!!」
「ム。どうやら火渡にやられたケガで腕が落ちているようだな」
「全然落ちてません! 攻撃力の方は全然落ちてません!」
 メチャクチャだった。彼らが打ち合うたび壁にパッとクレーターができる。しかも防人と総角は時々剛太の視界から消える。
超高速の世界で打ち合うのだ。目がいいと自負する剛太でさえ捉えられない速度で縦横無尽に飛び回る。
 なにか閃光がバチバチバチーっと弾けるたび「戦士長が一撃多く入れた」とか「それを捌かれるとは! さすが師父!」などと
感嘆するのは秋水や無銘。
(なんで分かるんだよ! この変態の武術オタどもめ!)
 まったく防人の身体能力はおかしかった。五千百度の炎を浴びて毒島曰く「以前と同じに闘えるかどうか」とまで言われた彼
なのに、剛太の見るところまったく影響が見られない。
「それについていける音楽隊のリーダーも十分おかしい! 幾ら攻撃してもダメージ通らないはずなのに平然と攻撃している!」
「彼ぐらい強くなればむしろ効かない方が訓練になる」
「師父の目標を知らないのか? 通常攻撃でシルバースキンを破る! だ」
「どんなだよ!! 壊れてもアレすぐ治るんだぞ!」
「いや。可能だ。治る速度より早く刃筋を通せば攻撃は届く。武藤もそれで破っただろう」
「確かにそうだけど。けど」
「けど?」
「素肌に刀届いたら死ぬぞブラボー」
 当然の事実だがそれだけに衝撃は大きかった。
 防人にどういう訳か懐いている無銘はあわあわしたし、過去、訓練の中とはいえ、実際に逆胴でシルバースキンを破っている
秋水も「制止すべきか」といつもの8割り増しのマジメさでいった。

「大丈夫だ戦士・剛太!」
 3人の前に防護服が着地する。防人だった。着地しただけなのに金属質な音が鳴り足元にヒビが入った。

「キャプテンブラボー……」
 対決の中止を進言しようとした剛太を、防人は開いた右手で制する。総角はいうと5mほど離れた場所で事の行く末を見守っている。
「3人ともいいか。死の危険があるからこそ人は厳しい訓練をやり抜ける!」
「それはそうですが」
「俺とて戦士・カズキとの戦いで何も学ばなかった訳じゃない! シルバースキンの硬度は俺の精神状態に左右される! 
ならばあの時より一層の魂を燃やしに燃やし! 硬度を上げ! そもそも破壊されないよう気をつければいいだけだ!」
 防人の声は燃えていた。ごもっともな意見だが、やや過熱した感があり剛太は心配になった。
「それでも破られて刃筋通された場合どーすんですか?」
「……あ」
 防護服の中で息を呑む気配がした。帽子の下に吹きだまった影の中、困ったような半眼が見えた。
 秋水は悟ったように目を瞑り。
 無銘はちょっと驚き。
 剛太が軽く呻く中、
「秋水! 無銘! 剛太! 後のコトは頼んだぞ!!」
「死ぬ気!?」
 防人は走り出す。笑う総角めがけ走り出す。
「フ。フフフ……フハハハ!! ハーッハッハッハ!!!!」
 暗く黒味のかかった紫のオーラを全身から噴出しながら哄笑する総角へ特攻する防人はなんだかアニメのヒキの体現で
だから剛太は思うのだ。
(なんだこのノリ)
「流星! ブラボー脚!!!!」
「飛天御剣流! 龍巻閃・旋!!!」
 ミサイルのごとく水平に、互いめがけ特攻した防人と総角を中心に爆発が起こった。
(もう何もいわねえ。何も)
 物理的に考えておかしいが剛太はツッコむのをやめた。
「飛天御剣流! 龍巣閃・咬!!!」
「粉砕・ブラボラッシュ!!」
 無数の刀と拳の幻影が部屋の中を吹き荒れた。
 秋水と無銘がやや必死な形相で刀を振り回して防御するので剛太もとりあえずモーターギアで捌いてみた。
 なにか重い手ごたえが後ろに飛んだ。飛んだ先で爆発音。振り返ると、何か直撃したのだろう。先ほどの冷蔵庫が燃えていた。
(どんな攻撃力だよ!!)
 防人達は止まらない。
「飛天御剣流・土竜閃!」
「悩殺! ブラボキッス!」 
 脇構えから巻き上げられた床板がハートマークを纏いながら逆行し総角に着弾したが些細な現象だ。
「まさか飛天御剣流とブラボー技(アーツ)の衝突が見れるとは」
「ある意味夢のようだな」
 秋水と無銘は武芸者の誉れとばかり感動しているが剛太にしてみれば悪夢以外の何物でもない。
「つーかブラボーの技って13しかねぇんだよな」
「ああ」
「悩殺とか逃走とかのネタ技入れて13ぽっちだぜ? 長期戦になったら先に尽きるんじゃ」
「その心配はない」
 無銘の言葉を合図にしたように防人と総角はにわかに動きを止め相対する。互いの距離は8mほど。
「終わりか?」
「いや」
 期待する剛太を裏切るように、総角は正眼に、防人はベーシックな突きの構えをそれぞれ取る。
「勝負だ。師父の技は恐らく」

 飛天御剣流・九頭龍閃。一撃必殺の刀技を9か所同時に叩き込む総角もっとも得意の技。

「戦士長の方は無論」

 一・撃・必・殺! ブラボー正拳。かつてカズキにも使用した切り札。その攻撃力は13のブラボー技最強。

「どっちが勝つ?」
「分からない。九頭龍閃は確かに強力。シルバースキンさえ破壊しうる」
「だが発動前に切り込めば発動は防げる。ましてブラボーさんの技は一・撃・必・殺! ブラボー正拳」
「実際ぶつからなきゃ分からねえってコトか」
 固唾を呑む剛太をよそに防人は駆ける。総角もまた翔け始め──…
 まず異変に気付いたのは秋水だった。
「違う」
「え」
 秋水の視線を追った剛太は気付く。総角の構えが正眼から変わっているのを。
 刀を、右足に沿って下ろす構え。それは。
(脇構え!?)
 そして始まる攻撃。
 変則的な九頭龍閃だった。秋水との戦いで使った物と劇的に異なっていた。
 通常、相手の頭上(唐竹)への斬撃を「壱」とする九頭龍閃と違い、右下……右切上が「壱」だった。
(成程! 脇構えは師父がもっとも得意とされる物!)
(それだけに剣速は増す! 考えてみればなぜ使わなかったのか不思議なほど当然の選択!)
 この瞬間、総角の攻撃力はシルバースキンの硬度を上回った。
 8条のプラズマが防人を襲撃したと見るや銀のヘキサゴンパネルが舞い散った。露わになる防人。
(マズい。このまま師父が振り抜かれれば間違いなく)
(直撃!)
 危惧はまさに刹那の物だった。秋水は見た。「玖」すなわち胴体への突きだけが通らず停滞しているのを。
(まさか!)
 動体視力では他2名に劣る剛太にさえ見えるほど防人達の速度は落ちる
 やっと見えた両者の激突に剛太はただ仰天した。
 防人の右掌、そこだけはまだ防護服のグローブに覆われた掌が、ソードサムライXを制したまま震えているではないか。
(刀をパーで受け止める、だと! ふつうは無理だ斬れるから!!)
 無銘は驚きながら興奮した。子供の脳では「なんかすごいカッコイイ」としか思えなかった。
(そうか! 一・撃・必・殺! ブラボー正拳は攻撃力に特化した技!)
(速攻技の直撃・ブラボー拳に比べればスピードは遅い! 最初から九頭龍閃を発動前に叩こうとは)
(思ってなかった!)
 代わりに防人は受け止めるコトを選択したのだろう。
(あとはこのまま拳を振り抜けば。……っ!?)
 秋水は見た。腰を低く落としたまま左拳を繰り出す防人を。
(もう一撃!? 一・撃・必・殺! ブラボー正拳に続いて……更に!?)
 聞いたコトもない、まして初めて見る防人の動きに皆が驚愕するなか裂帛の気合が重なり合い──…

「フ。お互い新技を試していたと」
「そのようだな」

 訓練室に大の字になって寝ころぶ総角と防人がいた。激突からまだ数分だ。
 にも関わらず両者ぜえはあと息を吐き寝転がっている。よほど精魂尽きたのだろう。

「師父。先ほどの技は?」
「フ。俺なりのアレンジだ。秋水に負けて以来あれこれ考えた」
 総角の話によれば、九頭龍閃を最も得意とした飛天御剣流の継承者は自分なりの型を持っていたという。
 その名は……。
「九頭龍閃・極?」
「そうだ。飛天御剣流の基本技にはさまざまな派生がある。龍巻閃系統なら「凩」「旋」「嵐」。双龍閃なら「雷」。他にも龍巣
閃・咬、龍鎚閃・惨……枚挙に暇はない」
「そしてその文法で編み出されたのが」
「九頭龍閃・極。ま、俺なりのアレンジを加えていくがな」
 起き上った総角は得意げに微笑する。無銘はそんな得意げな師父がやっぱり大好きで誇りだった。

 一方。剛太と秋水は。
「で、さっきの技、何だったんですか?」
「重ね当てのように見えましたが」
 確かに見ていた。切っ先を受け止める右掌を左拳で殴り抜き剣速を半減させる防人を。
 結果、総角の九頭龍閃・極は、訓練用とは違う、「ミサイルでも爆ぜない」戦闘状態のシルバースキンを爆ぜさせたが、
ダメージを与えるには至らずそのまま防人の背後に流れて行った。両者曰く引き分けで決着という。
 防人はからから笑った。
「あれぞ13のブラボー技14つ目の技……渾・身・爆・砕! ブラボー重ね当て!」
(13のブラボー技14つ目の技)
(13のブラボー技14つ目の技)
 2人はキョトリとしながら瞬きしそして思った。

((なんだソレは!?))

 カッコいいのか悪いのか分からない位置づけだった

「長年研究しているんだがまだまだ未完成でな。しかし戦士・カズキに一・撃・必・殺! ブラボー正拳を破られ、俺自身も
また戦線離脱を余儀なくされた今、レティクルとの決戦が迫る今、何もしない訳にはいかないだろう」
 よって総角相手に試したという。
「……。十分実戦レベルだと思います」
「総角の今の技、俺と戦った時より格段に強くなっています。初見で捌けただけでも……」
 スゴいと思う剛太と秋水だが、防人はやや不満顔だ。
「いや、まだ甘いな。本当はソードサムライXを粉々にしたかったが……見ろ。総角の刀はまだ健在だ」
「……」
 秋水としてはあまり気分のいい話ではない。複製品といえど愛刀を粉々にするしないの話は心底嫌だ。
「ちなみに手合わせして分かったが、彼の複製したソードサムライXの強度は戦士・秋水のそれより劣る」
「?? それって当然じゃないんスかキャプテンブラボー。だってアイツの武装錬金って基本劣化コピーでしょ?」
「フ! フ!」
 なにやら変な声がしたので見る。唇の前で拳を作る総角が見えた。どうやら咳払いらしい。
(なにその咳払い)
「……。まあ、彼の機嫌はともかくだな、さっき聞いた話によれば、特性……エネルギー関係こそ本家本元には劣るが、
武装錬金自体の強度は、複製時の秋水のものと何ら遜色ないらしい」
 秋水は防人の話が分かりかねた。そういう話ならとっくに知っている。
「だが武装錬金の硬度は創造者の精神状態によって変わる。俺のシルバースキンみたくな」
 相変わらずよく分かっていないという様子の秋水をまどろっこしそうに見ながら剛太。やや早口で。
「それってつまりアレですか? 早坂の今の武装錬金はコピー当時より頑丈だと?」
「そうだ。だからこそかつての総角との戦いで九頭龍閃を砕けた」
 やっと腑に落ちた秋水は一瞬言葉を失くしたが
(そう、だったのか。だからあの時俺は──…)
 手を握りそこを見つめる。剣道に限らず術理を求める物にとって成長とは心地よいものだ。
 誰かの言葉ではなく、自分自身の納得で実感できるというのは、幾つになっても嬉しいものだ。
「だからこそ……まぁいいか。戦士・秋水の前で言うのは良くないな」
 防人は口を噤むが大体の見当はついた。
(古く脆い早坂の武装錬金に2発も叩き込んで壊せねえとありゃ、そりゃ落ち込むわな)
(斬撃と拳撃の違いだってある。俺が、刀が弱点とする横方向からの攻撃をしたのもある。だがそれでも)
 総角と違い、防人はまだ起き上れずにいる。
 もともと重傷というコトもあるだろう。だが、もっと深刻な、術理よりももっと奥に潜んだ部分が彼をまだ起き上れないまま
にしている……秋水はそう見た。 
「でも改良の余地はあるのではないか!?」
 まろぶように駆け込んできたのは鳩尾無銘である。防人を気に入っているだけあり、落胆されると落ち着かないようだ。
 防人は機微を察したのか笑った。ホムンクルスといえど子供は好きらしい。
「そうだな。大戦士長からは心理的な物が原因ではないかといわれている」
 一瞬差した影を秋水は見逃さなかった。総角も見たようだが
「フ。そういえば飛天御剣流の剣士にも居たっけな。贖罪の答えを見つけたからこそ、文字通りの新たなる一歩を踏み出し、
奥義を一層極め、仇敵との戦いにケリを付けた奴が」
 あえて触れず解決に向けた具体的な例を持ち出すあたり彼らしい。
 秋水は防人に肩を貸し、起こす。彼との様々な記憶が過ぎる。特訓での励まし、無銘に勝てた経緯、脇構えの教導、武術
指南…………。恩義の重さは剣の師にも匹敵する。
「何か……ないでしょうか?」
「ム?」 
防人は一瞬首を傾げたが、すぐ言わんとする言葉を察したようでニカリと笑う。
「まぁ、あるだろうさ。メンタル的なコトだからな。些細なきっかけでどうにかなる」
 数多くの戦士を育ててきただけあり、解決方法は分かっているようだ。

 だが7年前の赤銅島は些細なきっかけで乗り越えられるものだろうか?

「俺自身、戦士・カズキとの戦いで考えを改めた。あとはまあ、残された日々の中でどうするか、だな」
「……ですね」
 心因的な者は結局当人の意志によるしかない。秋水自身、かつての戦いで自らの本当の望みを引き出すまで恐ろしく
遠回りしてしまった。本当に寄るべき物。人はそれを分かっているようで分からなくなっている。
 総角は笑う。
「フ。まあアレだ。疲弊した状態で心正すのは難しい」
「なに言ってんだよお前は」
 鬱陶しそうな顔つきの剛太に音楽隊首魁は「やれやれ」と手を挙げた。
「知らないのか? 心は体と相違ない。休息し、刺を抜き薬を塗り暖めて、滋養をくれてやらねば治らない。時を掛けてな。
一瞬で劇的に治るともいうが俺に言わせればまやかしだ。そう言った者はただ完治に気付いただけだ」
「完治に?」
 秋水の相槌に総角は頷く。
「そうだ。既に両足が治り立てるようになってる者が、立ち上がるコトを恐れるあまり折角回復した機能から目を背けるよう
な行為だ。過去の失敗ゆえ自らを過小評価し、やっと諸々の事象が治してくれた心という黄金の機構から目を背け現状維持
に甘んじていたものが、最後のきっかけでやっと完治を直視したにすぎない。フ。ま、俺は心理学の専門家じゃないから、
実際と合っているかどうかは分からんが……心など本来どうとでも言えるのさ」
「で、師父。結論は?」
 無銘がいうと総角は
「要するに休憩だ。休み、食事を採り、入浴し或いは寝る。そうやって心満たす行為をしてやらねば再起も何もありえないのさ」

 という訳で一同管理人室へ移動。



 秋水は信じていた。罪科と懊悩の果て見つけ出した”答え”は絶望の日々の数だけ人に力を与えると。
 だから立ち直った防人は、たとえ身体の傷が深くとも、より一層強くなり多くの人を守れると。

 その時は必ず、絶対に。

 失った物さえ取り戻せると。

 だから秋水は彼の助けになりたいと強く強く思っている。


ヴィクトリア。

 エイゲート川流域は肥沃の大地と知られている。秋は麦畑が金色に輝くため「レパートエスチュアリ」と呼ばれている。

 ある夏のこと。レパートエスチュアリは葡萄の実の色に染まった。何年かに一度の大雨が降り洪水に見舞われたのだ。
もっとも一帯が肥沃を極めているのは定期的にくる”これ”のお陰だ。農夫たちは慣れた様子で避難を始めた。
 目指すはガーディニアヒル。登ればまず大丈夫といわれている。

 農夫の列の中、落ち着きなくあたりを見回す少女がいた。名はフィグ。この辺りではそこそこ大きな畑を持つ家の次女で
今年で9歳になる。磨き抜かれた黒曜石のような髪を右半分だけ伸ばしている少女が手を取る祖母を見上げ問う。
「ポピーいないよ」
 ポピーとは最近レパートエスチュアリにやってきたスペイン系の移民の8女だ。赤茶けたベリーショートとそばかすと笑う
と必ず覗く「みそっ歯」は、それさえ描けば如何に下手糞な似顔絵といえど彼女として成立する。要領は悪いがフィグ始め
多くの友人を持つポピーの姿がいまはない。異変はあっという間に伝わった。
「後ろには居ねえぞ!」
「前にもだー!」
 荒くれた男たちの大声がやかましい雨音をふっ飛ばす。木霊の不気味さにフィグは震えた。
「家族気付いてなかったのか」
「奴んとこは乳飲み子含めて11人ガキがいる。避難も初めてだからな。慌てていて気付かなかったのだろう」
 ひそひそと囁きあう若い男たち。だが立ち止まる時間はない。ガーディニアヒルまでの行程はまだ半分といった所だ。
「仕方ない。誰か泳ぎと走りの達者な者に探しに行かせる。フィグ。アイツの行きそうな場所は──…」
 村長の問いかけと、フィグが走り出すのは同時だった。

 きっかけは単純だ。何かの童謡の歌詞だった。フィグの口ずさむ歌詞の合ってる合ってないでケンカになった。といって
もポピーはすぐ自説を引っ込めて「フィグのが多分正しいよ」と納得したように笑ったのだが、そこが妙に大人ぶっている
ようで気に入らず、ついフィグはアレコレとまくし立ててしまったのだ。

 以来、1週間ほど口を利いていない。ポピーはフィグを見かけるたび嬉しそうに笑って話しかけてくるのだが、色々言って
しまった手前どうも普通に応対できない。歌詞は結局フィグので合っていたし、だからどうしても謝れなかtった

 祖母は時間が経てば仲直りできるといった。だが、洪水がきた。もしポピーが呑まれたら? ケンカしたままお別れになった
ら? 川が人を殺すものだとフィグは知っている。小さい頃、友達のお兄さんが避難中、鉄砲水に飲まれ死んだ。明るい少
年だった。なのに居なくなった。人はそうなってから後悔する。大切さに気付き、報えなかったコトを悔いる。

 息せきかけて走っていると足元がどんどん泥水になってきた。思わず呑まれそうになりながら川沿いの道をひた走る。エイ
ゲート川は凄まじかった。赤茶けた濁流が異様に白い泡を立てながら橋のカケラや舟をごうごうと流していく。
 分かれ道。村方向に曲がる。エイゲート川に続く小さな川沿いに2分全力疾走すると水車小屋が見えた。屋根にいる人影も。
 名を叫ぶと人影が手を挙げた。赤茶けた髪は雨中でも十分見えた。更に走り水車小屋に登る。ホっとしたが腹も立った。
「馬鹿! どうして避難しなかったのよ!」
「ご、ごめん。この前一緒に挽いた小麦、持ってこうと思って……」
 屋根の上でポピーはしょげた。大事そうに抱えた麻袋はすっかり雨に湿っているがフィグにその愚直を責める権利はない。
すぐ仲直りしパンの1つでも焼けば避けられた事態だ。
「小麦守れて良かったー。またパン焼こうね」
 みそっ歯を覗かせた。愚かだが嫌いにはなれない暖かな笑顔を見た瞬間、フィグは思わず彼女を抱きしめていた。
「良かった……。無事で本当に良かった……」
 嗚咽が漏れた。泣きながら色々なコトを謝る。ポピーは無言で艶やかな黒髪を撫でた。

 ややあって彼女の手を取り丘に向かって駆け出す。川沿いの道に出た瞬間それは来た。鉄砲水だった。かつて知り合いの
少年の命を奪った事象が巨大な蛇よろしく口を開け2人に襲い掛かった。
 竦みながらもポピーを守るよう抱えるフィグ。だがどういう訳かいつまでたっても水は来ない。
 恐る恐る目を開けると、男が立っていた。見慣れぬ男だった。2mほどある体は筋骨隆々で、斧を持っていた。
「逃げろ。俺が食い止める」
 水は男の前で止まっている。不可思議だがフィグたちはお礼をいい走り出した。

 洪水から少女2人を救ったこの人物は今でもレパートエスチュアリの英雄として祀られている。


「……結局コレお父さんの話よね?」
「架空だよ? 英雄の、お話だよ?」
 桜花の問いにヴィクトリアはニコニコと答える。見事な猫かぶりだった。斗貴子は得心の風で呟く。
「成程。普通の少女の話を描いていたが、オチの付け方が分からず取り敢えずヴィクターで誤魔化した訳だ」
 笑顔が凍った。汗もかいた。
(だってしょうがないじゃない。音楽隊の副長に完結させろっていった手前、オチ付けないといけないじゃない。でも字数が
足らなかったのよ。状況説明していたらもう残り少なくなって…………。パパ、ごめん)
 笑顔のまま内心ぶーたれて窓を見る。月が見えた。ヴィクターもまさかカズキとの戦い真最中に、娘に、ダシにされると
は思っていないだろう。
「まあでもそうね。ヴィクトリアさんに限らず、津村さんたちも最後の方けっこう尻切れトンボ」
 桜花が誰ともなく呟くと、まひろが腕組みしながらウンウン頷いた。
「分かるよびっきー。途中で文字が足らなくなったんだよね。私もさっきそうだった」
「キミの作品メチャクチャ短かったが」
「10行でした」
 斗貴子・毒島といった実体験組は、まひろを否定しながらも、分からなくはない」という顔である
「話の前提を書くと動きの描写がおざなりになるな。どうしても」
「ええ。火渡様も実際はもっと色々動かれていたのですが、字数の都合上、割愛せざるを」
 虚ろな目の少女が鳥型ゆえか嘴を挟んできた。
「そう……です。私も……リーベスクンマーの特殊能力とか……破断塵還剣のエフェクトとか……割愛しました…………」
「お前はお前で凝り過ぎだ!」
「本当ロボット好きだねえひかるn」「大好きぞなもし!」
 沙織を遮るよう溌剌と叫んだ鐶はつい地を露出した自分に気付き真赤になる。
 千里は女性陣の意見を聞きながら何やらメモを取っていたが、突然面をあげ友に問う。
「沙織はどうだった? やっぱり最後足りなくなった?」
「逆かなあ。むしろコレで1000文字いけるのかなって不安だった」
 ちょっと思い返す表情をしてから決まり悪げに返答する沙織。

 そんな様子を見ていた桜花がにこりと、しかし意味ありげに笑うのを斗貴子は見逃さなかった。
 更に驚く。彼女はまだ原稿を書いていた。一瞬単なる遅筆かと疑ったが、桜花ほどの、有能で、しかも凄惨な体験なら
戦士に負けず劣らず有している筈の元・信奉者が、いまだ何も書かずにいるのは不可解だった。
(……まさかと思うがコイツ)
 ちょっと考えてから驚くべき速度で書き出す桜花。斗貴子は昔そんな表情を見たコトがある。森林地帯で、行く手を阻む
無数の植物をバルキリースカートで伐り払って道を開けてやった先輩戦士が今の桜花の表情だった。厄介事を先達に
処理させて楽な道行く奸物の顔だった。
(間違いない。桜花。この腹黒……)

(私たちを捨て石にしやがった!!)

 どの作品(香美除く)にも真先に品評を下していた生徒会長。それは全員執筆を呼び掛けた張本人ゆえの責務だと思っ
ていたが、……やっと気付く。彼女は様子を見ていたのだ。1000文字の短編という、ある意味長編より難しい課題にどう
取り組めば、楽に、且つ、失敗を犯さず優勝できるのか……斗貴子たちの作品から学んだのだ。
(くっ。道理で最後まで動かなかった訳ね)
 ヴィクトリアも気付く。彼女がラス3になったのは単純にオチに悩んだせいだ。日本語に不慣れなのが拍車をかけた。
(最後に出さないのは小札さんが控えているから)
 毒島は納得する。小札はイメージ的に強烈なのを出しそうだ。ラス2はそれに霞まず、かつ、先達が確立したノウハウを
上手く活用してそこそこの物を出せる絶好のポジション。
 桜花の腹黒さに3人は唖然。そして出るヴィクトリアへの寸評。
「よく分からないけど、私こういうの好きだよ」
「そうね。私ももっと読みたい。ヨーロッパって雰囲気が好きよ」
 友人2人の好意的な意見にヴィクトリアは「そ、そう?」と上目遣いではにかんだ。
「友達っていいものですね」
「なに言ってるのはーちゃん。私とはーちゃんもトモダチだよ!」
 しみじみ語る毒島をまひろはぎゅっと抱きかかえた。
「みんな……仲良し…………です」
(いいコトだ! ああしかし僕も訓練場に残ればよかった! 他の男性陣はいまごろきっと友誼を深めているだろうに!)
 香美は両目をガッと見開いている。血走った白目がただならぬ様子である。眠気すでに限界である。
「これもまた美しき少女たちの友情! 恐らくヴィクトリアどのにも秘して語れぬどなたかへの想いがあるのでしょう!」

 残り2人。


桜花。

 …………。はっ! 私いま気絶してた! 気絶してた!! 
 まったく機雷撒くなら撒くって言ってよ! 5mよ5m、ものっそ近いところで突然バーン! って破裂音したから驚いて気絶
しちゃったじゃないのさ! ちょ、返事しなさいよ無愛想ね! あとまた後ろから土人形飛んできたわよ迎撃して!
 おお。今度は大剣。う。振り向きもせず8mクラスの土人形を腰の辺りから切り上げ真っ二つ。さすが《武器創庫》、強い!
千の武器自在に使えるってウワサ伊達じゃないわね。敵? ミルクコーヒーみたいな色した川にドボリと白い水柱あげて落
ちたわよ。不便よねアイツら。激流の中走れる癖に攻撃あびたら土に還って流されるんだから。
 ま、大雨で洪水な川の上、逃げるの選んだあんたの戦略勝ちってトコロかしら。何しろ私捕まえてた奴らってば300体近く土
人形持ってたもん。普通に街逃げたら絶対手間取ったし被害も出た。
 お、今度はガトリング! 遠巻きに見てた土人形どもの四肢・胸・腹が食い破られて土が飛ぶ! これで残り約20!
 しかしあんたの乗ってるスクーターもどき便利ね。タイヤの変わりに反重力装置ついてて浮けて飛べる!
「捕まえた! これでドンの遺産70億ゲット!」って! 私めがけて飛んできてもムダなんだってば! 遺産のありか聞くた
め私の精神抜いたのあんたらでしょ。《武器創庫》の後ろにいるの映像って気付きなさいよ。これ投影してる特殊メモリー、
4時間以内に遠方の体に戻さなきゃ死ぬ訳で、だから護衛頼んで避難中。
 うわ《武器創庫》。私の虚像をすり抜けた今の敵、バグナグで屠っちゃった。つーか片手でハンドル握ったまま無造作に振っ
て河に投棄!? そりゃ私は大事な依頼者(成功報酬は遺産の半額!)だから全力で守れつったけどさ、そこまでガチだと
なんか怖い、超怖い。本当前評判どおりの殺人マシーンね。喋らないし。
 激闘でバックミラー壊れてるんで私が後ろを監視中。ハイまた土人形飛んできた。
 《武器創庫》あんた気合入ってるわねー。火炎放射器で迎撃って! いま風速何mか知ってるの? いや私も知らないけど、
川沿いにあるぶっとい松の林がさっきから誰も彼も土下座するよう、しなってる。そこで火炎放射器って自分焦げない?
 ミサイル! 煙吹きながら乱れ飛ぶ10数本が敵に着弾! ちっ、ガードされた。速度あげて炎と煙くぐり抜けた。
 しかし武器をとっかえひっかえ良くやるわね。某国の軍が作った人間武器庫って噂ホントかもねえ。確か右手が特殊な液体
金属でナイフからICBMまで何でもござれだったかしら?
 ……ちょ! 蛇行すんのやめな……あ、ボンボン飛んできた敵避けるため? 残り少ないせいかアイツらヤケね。手近な
仲間投げ始め──…《武器創庫》さん!? なんで爆導索なんて出してるの! げ、何か重りのついた先端沈めた。やばい
コレ包囲の構えだ。ほら、端の一点沈めたままスクーター加速した! ワイヤーが巻尺かってぐらいグングン伸びる! 50cm
間隔で括りつけられた爆薬入りの筒が雨に当たってばらばら鳴る! そんで大きく右にカーブし、元来た道と逆走してカーブして
河の流れに沿って曲がって遡行して綾なすは鋼線の結界、飛び交う土くれどもは囲まれた。
 ちょ、でも私らそのド真ん中! ちょ、やめ、ここで着火はやめ、あ、世界が白っ──…

 ぶはっ! また気絶してた!! 機雷なんか比にならない爆発だったわ! あ、敵! よかった残り1体──…
 アレ? あいつドンドンでかくなってない? え? さっきまで斃した敵の土を吸収してる? ってソレ予測できなかったの
《武器創庫》?! え、最後はやっぱりデカい奴とやらなきゃ盛り上がらない? 意外にバトルマニアね! てか40mぐらい
に膨れ上がった土人形が一気に大股で距離詰めてきてるっていうか拳振り下ろしてきたんだけど! っと! アクセルを
吹かし軽くカーブしつつ避けた! さっきまでいた位置に巨石ぐらいある拳沈むのゾっとす……浮いてるスクーターよろめか
すほどの大波が立った! やばい! 姿勢制御がボロボロ!水落ちしたら《武器創庫》の胸ポケに入ってる私の本体、メモ
リーが死ぬ! なのに拳の追撃追撃! ひえええ! かわしてるけどこのままじゃ当たr……うおい! 《武器創庫》が運転
を放棄し身を反転! 高く跳躍するや敵に躍り掛った! 拳に紺碧の光が収束し敵の腹にめり込み……ゲ、傷口から四方
八方に光出たと思ったら爆発! あのデカブツを一撃で!?

 ……素手のが強いってどういう……え? うるさい? 男の癖にうるさい?
 あんたこそ女の癖に物騒すぎだし愛想なさすぎだし。とりあえず敵全滅したし体の元へ行きましょう。


「後発の強みか」
 読み終えた斗貴子は嘆息した。確かに自作より動きが多いのは認める。情景も状況もそれなりだ。
 しかし何と言うか色々な思慮が透けて見え、あまり好きにはなれなかった。斗貴子たちを上手く先行させ良いとこ取りした
のもある。しかしそれ以外にも──…
「アレですよね……。実況じみたコトしてるのって小札さん対策ですよね? 」
「ああ。次に控えるアイツの十八番……。その新鮮味を削ぎにかかっている」
 小札の文章を見た訳ではないが、十中八苦実況とみて間違いないだろう。斗貴子は断言し断定も重ねる。
「同時にこれは栴檀香美対策でもある」
「香美さんの?」
 小札が寸評を放棄するほどひどい作品だったとはいえ、すでに提出しているではないか。
 首を捻る毒島に斗貴子は説明した。
「もし万が一ココで奴が書き上げた場合の対策をもやってやがる。アイツはアイツで一人称……こういった勢いのある文章
を描くだろうからな。そちらに票が流れないよう敢えてこういう形にしたんだ」
「確かに……文章は先に書いたもの勝ちですからね。似たような形式だと「またか」となります。私自身、津村さんの後に
体験談を出すのは抵抗ありましたし」
 なんと腹黒い奴だろう。桜花を見る斗貴子と毒島の目は軽蔑よりむしろ恐れが交じっていた。

 まひろたちの反応は良好だ。アクションの多さ、最後の意外性、全体的な臨場感といった部分を、単純で純粋な彼女らは
褒め称えている。いや、2人ほど褒めない者がいた。
(……。どれほど優勝したいのよアイツ)
 片方はヴィクトリア。何と言うか嫉妬していた。パピヨン監督の劇の脚本を、いささか恣意的なやり方で手がけるのは何だか
ガマンならなかった。他の者ならいい。文に慣れないなりに懸命に描いたものが採択されるならまだ納得できる。
「あ゛ー、あ゛ー」
「なんかゾンビがいるんだが」
 もう1人を斗貴子が指差すと、鐶がひょこりと振り返った。
「私……ですか?」
「あ、もう1匹居た。じゃなくて! 栴檀香美のカオが凄いんだが」
 ネコ少女は変貌していた。頬がこけ、乾いて全開なアーモンド型の瞳に浮いたひび割れのような無数の血管は青紫に変色
している。
「あ゛〜〜〜〜、あ゛ーーーー!」
 そして鳴きながら、さっきからずっと、箱ティッシュに手を伸ばし何度も何度も食べている。
「眠いのねよっぽど。でもガマンしてる」
 千里が呟く中、
「あー……。あー…………です」
 鐶もマネし始めた。香美と交互にティッシュを食べ始めた。
「あ! ゾンビごっこだ! 私も!!」
「するな!」
 参戦表明のまひろを鋭く制する中、小札は。
「まさに流麗、執筆者ご本人の佇まいをば映したがごとき作品! 不肖的にはもう非の打ち所がありませぬ!!」
 めっちゃ純真な笑顔で絶賛し、ぱちぱちと拍手をした。

 桜花の顔が少し曇った。

(良心が傷んだようです)
(いい気味だ。せいぜい優勝するがいい! そして一生呵責に苦しめ!!)
 冷徹な毒島。怒りながらもどこか楽しそうな斗貴子。ヴィクトリアは。

(残りは音楽隊のロバ型だけ。早坂桜花を上回ろうと思ったら相当の破壊力が必要だけど──…)

 小札が原稿を取り出したとき、一座みんなが息を呑んだ。


小札。

 洪水が人を連れて避難していました。飲み込んだ訳ではありません。それが証拠に、アワで包まれた人が先ほどから川面
をプカプカプカプカ漂っています。
 まったくコレは一体どうしたコトでしょう。包まれているサラリーマン風の男性も半信半疑という風に外を眺めています。そこ
に流木が直撃しましたが、アワに弾かれどこかへ流れていきました。アワに傷はありません。男性も無事です。

 ある夏、奇妙なウワサが立ちました。洪水に呑まれたにも関わらずソックリそのまま以前のままな街がある、と。
 そんな馬鹿な話はない。大学で教鞭を振るう建築の専門家も41年水害救助に携わってきた自衛隊員もアトランティスの
末裔もそれから普通の人たちも、みんな笑って首を振りました。
 しかし年が経つにつれ、だんだん彼らは顔色を変え始めました。まず異変が起こったのは、超大型で非常に強い勢力の
台風が直撃した海抜ゼロメートル地点の街です。ビルがぽつぽつ頭を出しているだけの壊滅的な水害区域から水が引くと
どうでしょう。鉄筋コンクリートのビルはおろか築89年の木造の家すらカラカラでサラサラでした。水に浸かっていたはずの
八百屋さんの店先にあったトマトさえ齧れば瑞々しく、電器屋さんの商品だって全部問題なく使えました。似たようなコトは
続発しました。いろんな洪水区域がそうでした。

 これは一体どういうコトだろう。流されてもすぐアワに包まれ浮かんでくる被害者たちを数多くみた消防署の人や自衛隊の
人は沢山沢山くびを捻りました。洪水が、大雨で洪水の中、大事な人を連れて避難しているようにしか見えなかったのです。

 調査が始まりました。
 まず水害区域にダイバーがいっぱい放たれました。潜った彼らがまずビックリしたのは、酸素ボンベとか色々つけている
にもかかわらず、アワが、ブワっと周囲を取り巻き浮かし始めるのです。洪水が人を避難させようとしている……ありえか
らぬ事象ですが、実際体は浮いていきますし、勇気を出して、口についてる呼吸用の何とかという器具を外しても息可能
でした。しかもアワは、ダイバーが例のシュコーシュコーをあげていると「ははんお前さては潜れるな」という感じでふわりと
消えて潜らせてくれるのです。水が人類を拒んでいる訳ではありませんでした。だから水没区域の調査はおどろくほどスム
ーズに進みました。

「沈んだ建物ゼンブ、アワに包まれているのか……」

 報告を受けた総理大臣は絶句しました。どの写真もそうでした。アワは頑丈で、激流を駆って飛び込んでくる電柱さえ防ぎ
ました。だからダイバーは侵入できませんでしたが、ならばと勇気ある人が、敢えて洪水前から建物に居座ってみたところ、
濁流に呑まれても空気は相変わらずありました。きっと八百屋さんのトマトや電器屋さんの大事な資産もまたこうやって守
られたのでしょう。不思議なコトにアワの中では酸素その他人体の呼吸において必要と認められる物質の増減はありません
でした。幾ら吸っても酸素は減りませんし、幾ら吐いても二酸化炭素は増えません。世界各地から招かれた一流の研究者
たちがアワに原因ありと睨みアーデもないコーデもないと分析しましたが今だ結論は得られていません。

 とにかく洪水が人を連れて避難するのです。
 いつだって人類の敵だった筈の洪水が何故……。みな驚きましたが、しかしこんな声もまた上がります。
「果たして本当に洪水は敵だったのだろうか?」
 確かに洪水は数々の痛ましい被害を出してきました。人の命を奪い、財産を脅かし……。
 ですが洪水のもたらした発展もまたあるのです。古代エジプトでは、ナイル川が氾濫したからこそ、肥えた土が下流に
溜まり農業が発展しました。測量や幾何学が発展したのは、農地を支配するためです。同時に、人々が、農地を守るべく、
ナイル川の氾濫時期を予測せんと挑んだ結果、太陽暦が生まれました。天文観測の基礎もまたココからです。
 四大文明を見ても分かるように、人類が発展したのはいつだって川の傍です。川がなければ農業はできませんし、水も
飲めません。だからこそ、洪水の被害も受けやすかったのです。
「規模が大きすぎるから、ついうっかり人間を巻き込んでいただけかも知れない」
 そんな声もあがります。
 洪水は決して害意を持って人を襲っていたのではありません。
 超ミクロの世界では温度や圧力といった概念は一切ないといいます。
 それと似たようなものでしょう。人体の70%ぐらいは水です。7割同じならほとんど洪水の仲間でしょう。

 なら助けてくれても当然じゃないか。みんな笑って異変を受け入れました。


「発想のスケールで負けた……」
 うなだれる桜花。
「実況無しだと。しかも何だこの着眼点」
「予想外でした」
 戦士2人も豆鉄砲を食らった鳩だ。
(競う気まるでなしね…………。それでいて全員上回っている)
 最近、嫌悪していた錬金術に融和せんと務めているヴィクトリアだから、こういう、偏見を解こうとする文章にはつい「そうか
も知れない」と頷いてしまう。
「柔らかいね」
「ウン。柔らかいねー」
「題材をいい意味で裏切ってる……。たまにはこういうのも必要、と」
 友人2人がほのぼのした意見を述べる横で千里はマジメにメモをする。
「実況してませんが……ところどころ……小札さん…………でした。無銘くん……喜ぶ……でしょう……か」
 鐶は携帯を取り出し、文章を、驚くべき速度でピコピコ打って送信した。送られた彼の顔を想像したのだろう。双眸が虚ろ
ながらもしばらく嬉しそうに口元を綻ばせていたが、ある一瞬を境に沈みこんだ。いろいろ、フクザツなのだろう。

 協議の結果、優勝者はなしとなった。(元々そういう制度自体なかったが)

「みなさんご協力ありがとうございました。お陰で台本のイメージが膨らみました」
 千里は座ったまま深々と頭を下げた。闇鍋的な面子の作品はいい刺激になったようだ。
「ちなみに今夜は徹夜なのか?」
「時間ありませんから。でも夜更かしは勉強で慣れてますし大丈夫です」
「えー。せめてお風呂入ってからにしようよ」
 まひろは背筋を伸ばした。バキバキと凄まじい音がした。沙織は机にバンザイして突っ伏している。桜花の疲弊がひときわ
濃いのは地下での特訓あらばこそだ。いったん疲れを取るべきなのは明らかだった。
「そ! そういう話なら僕と香美は退散する! いろいろ不快な思いをさせそうだし!!」
「まあそれが懸命だな。というか小札と鐶も…………ん?」
 部屋のガラスをビリビリ震わす大声に斗貴子、眼を点にする。毒島はあわあわと口を開いた。緊迫する桜花。
「あれ? 貴信せんぱい、いつの間に?」
 異変を決定的な異変にしたのは沙織の一言だった。
 千里とまひろは感嘆符と疑問符を同時に頭上に浮かべた。
 寄宿舎に来た当時、彼の声を聞き出所を気にしたコトのあるヴィクトリアは(そういうカラクリ。変わってるわね)とだけ思う。
「あれ!?」
 栴檀香美の居た場所で、その飼い主たる貴信はただでさえ裂け気味な瞳をメリメリ見開いた。

(ぎゃあああああああああ!!! 香美どの! 香美どのがお眠りになったゆえ!)

(貴信どのが前にーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!)

 小札は頬を押さえムンクになった。深夜、女子たちの中に男子が1人…………いろいろヤバイ状況である。

「貴信さん…………。ばんわー……です」
「平常心!?」

 のん気に手を挙げる鐶にみんなまた仰天だ。

「コンビニのはコンビニので……意外と……おいしい…………です……。むぐむぐ」
 オールドファッションドーナツを口にくわえると、彼女はひたすらぼーっとした。



 管理人室地下。

 休憩をかねて上に登るコトになり、身支度を整える一同。



 さきほどまで剣道をしていた剛太はまだ防具を付けているコトに気付いた。

 脱ごうとする。視線を感じた。振り返ると秋水が居た。

「なんだよジロジロ見て」
「俺はずっと試合中君を見ていた」
「え゛っ!?」
 美しい顔が真剣な眼差しを送ってくる。正直ドキリとした。見ていた? 何故?
(い、いいや、訓練の行く末を、ってコトだろ。アレだ、見ていたのは技だ技。きっと技だ)
「君の体をずっと見ていた」
「ハイ!!!?」
 とんでもない文言が飛び出した。もちろん剛太はノーマルである。斗貴子という心に決めた女性がいる。
「お、お前な! なに突然いってんだ! だいたいあの激甘アタマの妹はどうした!!」
「?? なぜそこで武藤さんが出てくる?」
 秋水は分からないという顔で近づいてくる。鼓動が跳ね上がった。トキメキ、というより、妖しいものに対する恐怖に。
 そして手を伸ばす彼。剛太は思わず眼を瞑り──…
 ひらっとした感覚が脇の方でした。ひらっ? 脇? 不可解な感触に眼を開くと、秋水は、
「防具からアロハシャツが出ている。そこをずっと見ていた」
 ちょろりとはみ出た布切れをいじっていた。
( ビ ッ ク リ し た あ )
 ホッと胸をなでおろす剛太であった。


 初心者らしく適当な付け方をしたのが悪かった。防具からはみ出た衣服を秋水を真剣に見る。

「なんだよ。お前ひょっとしてコレ直したいのか?」
「……着衣の乱れは精神の乱れだ。正直言って直したい」
「いや今からだな」
「そのシャツ……直していいだろうか?」
「でも今から脱ぐんだぜ? 無駄だろ?」
「それは分かっている。分かっているが」

 はみ出たアロハを秋水はじーっと眺めている。剛太は腹が立ったので

「てい!」
 キャストオフ。胴を脱いでどうだとばかり(ダジャレではない)秋水を見る。
「………………」
 端正な顔に寂しさと無念さが去来した。
「お前どれだけ直したい訳!?」
 つくづくマジメな男だった。

 管理人室へ。

「休憩といってもココじゃなんだな。風呂へ行くか」
 防人は一同を見回す。みな、汗がひどかった。意外にも総角がもっともかいていた。
(そりゃああれだけ暴れりゃなあ……)
 防人との激しい打ち合いを思い出し剛太は顔を引き攣らせた。
「フ。風呂か。風呂といえば貴信だな」
「?」
「あやつはドラ猫と体を共有しているが故、ときどき役得にありつけかける」
 もっともそういう時は念入りに攻撃して気絶させるがな……無銘は黒く笑う。
「まさか先輩と……いやいやいや、いまみんな台本のチェック中だ。ある訳が」
 秋水もそうだなと頷いた。
「彼なら大丈夫だ。仮に入浴しても覗き見たりはしない」

「フ。無銘よ。ところでどうしてお前、防人戦士長どのがお気に入りなんだ?」
 湯加減を確かめるとかで先に上へいった彼を思い浮かべながら総角。
「戦士についちゃ従えと言われればしぶしぶ協力するレベル。秋水相手なら嫌悪丸出し。なのに彼だけ……どうしてだ?」
「ブラボーさんはヒーローなのだ」
 無銘といえば総角に傅く忍びで、だから敬語を使う印象が強いが、この時はどちらかというと「えらく担任の先生好きじゃ
ないか、何かあったか」と聞かれた子供のような口調でハキハキ答えた。
「特殊な服! まっすぐなご性格! 無駄がなく且つ、カッコいい動き! どれをとってもヒーローなのだ!」
「フ。子供に好かれるタイプだしな」
「特に服がお気に入りなのだ! そうだ師父! ずっと前、鐶めが送ってきた写真があるゆえご覧下さい!」
 無銘が取り出した携帯電話を見る総角。なるほど確かにシルバースキンが映っている。サービス精神旺盛な彼らしく、
いろいろなポーズを取っているが……それらをしばらく見ていた総角、あるコトに気付く。
(この写真の日付……。たしか6人の戦士を足止めするよう命じた時の)
 それはかつて、鐶が日付を操り、大交差点で搦め手を使い斗貴子たちをさんざんと苦しめた日だった。
(……鐶お前、任務中に何やってんだ)
 いくら鳥型とはいえ光モノに目を奪われすぎだと思った。、

「じゃあ秋水は嫌いか?」
 名前を出されただけで無銘はむくれた。
「嫌いなのだ。奴めは我が斬りかかっても、こうすれば上手くいく上手くいくといちいち教導するのだ。舐めているのだ」
「フ。真剣で攻撃されてそうしてくれるのは有り難いと思うがな。それとも的外れな指南か?」
 無銘はちょっと考えてから渋い顔をした。
「…………やってみると上手くいくのだ。上達するとあやつ嬉しそうに頷くのだ」
「フ。いい先生じゃないか」
「でも嫌いなのだ! 母上を真っ二つにした過去は消えんし、いつか勝たねばならんし…………」
「そんなに嫌なら俺から言っておくか? もう無銘を指南するなと」
 少年忍者に動揺が走った。それはそのと口ごもり始めた。
(フ。塾通いが嫌だ嫌だと愚痴っているがいざ辞めていいと言われれば戸惑う小学生、みたいな)

 一方、千里の部屋。

「そうなんだ。悪い人たちのせいで」
「はい!! 元はネコたる香美どの! しかし恐るべき存在の陰謀によって飼い主たる貴信どのと1つの体に押し込められ
いまは戻る手段を模索中!! けして怪しき者ではございませんし、まして夜半の異性集う部屋へと二心の元やってきた
のではありませぬ! 総ては香美どのに普通の暮らしを送って欲しいという親心あらばこそなのですっ!」
「いい話だね……。貴信せんぱいやっぱりいい人だった……」
 小札が貴信の体質について洗いざらいブッちゃけると、沙織はハンカチを眼に当てて泣いた。
(オイいいのか! あれじゃ奴が人間じゃないって半ばバラしたようなものだぞ!)
(いいんじゃない? この学校の人たち大らかだし。「変わってるな」程度で済ますわよきっと)
(そういえば鐶さんが生徒の方々胎児にした件も何だかんだで許してましたね)
 小札たちを指差し泡喰う斗貴子。現実的な意見を以て慌てぬ桜花と毒島。
(……)
 ヴィクトリアは思う。もし自分が素性をバラしたとき、友人たちはどういう反応をするのかと。
 視線を感じたのか、”彼女”は落ち着かせるように笑う。
「あ。気になるよねやっぱり。大丈夫。斗貴子先輩が一緒にいるなら大丈夫だから」
 千里の微笑……やや勘違いしながらも、「ネコと体を共有する」いささか常識はずれ、客観的に見て人ならざる気配が
濃厚な貴信について太鼓判を押すその笑顔にヴィクトリアの胸はチクチクする。
(私は……津村斗貴子と一つ屋根の下にいながら)
 かつて食人衝動に見舞われた。他ならぬ千里に”もよおして”しまった。
(私が、そんなバケモノで、そんな過去があるって知っても…………友達で居てくれる?)
 不安に瞳を眇める。真意を知らぬ千里は大丈夫大丈夫といいながらヴィクトリアの頭を抱えて髪を撫でた。
 心地良かった。いつまでも続けばいいと思った。

 しばらくすると香美が仮眠を取り終え復活。後ろにいった貴信に沙織は相変わらず話しかける。
 まひろは眉をいからせて叫ぶ。
「よし! 香美先輩も戻ってきたしお風呂行こう!!」
 貴信(さん/せんぱい)がいるのに!? みな驚くが天然少女、まるで意に介さない。

 マズい。栴檀貴信はガチで青ざめた。彼女らのためどうすれば回避できるか汗だくで考え始める。

 かくて男女とも風呂へ!

(困った)
 闇の中で栴檀貴信は困り果てていた。辺りは熱い。噎せ返るような湿気も立ち込めている。香美はといえば、すっかり適
応したらしく座って鼻歌をフンフンやってる。いま表にいるのは彼女で、貴信は濡れた髪の中にいる。
(入ってきてしまった!!)
 女風呂の浴槽の中で貴信はただただ戦慄していた。


 再会した男たちは殺気をみなぎらせていた。
 爆薬を用意する男。刀を振る男。戦輪を唸らす男……。
 貴信は一瞬本気でマレフィックという敵の幹部が来たのかと思った。それだけの殺気だった。

「ほう。女性陣も入浴か。それはそれは……。フっ!」
 浴場に続く扉の前で出くわした総角は引き攣った笑いと共に黒死の蝶を右手に浮かべた。護送に際し核鉄を没収された
音楽隊。しかし特訓に必要という防人の判断により今は総て返却されている。認識票で従前どおりニアデスハピネスを複
製するなど容易いのだ、総角は。だから嫉妬と怒りが深く混ざった警戒色で香美を射抜き貴信を睨む。
(あ、ああ! やっぱりこうなった! 香美が女風呂行く時かならず僕は気絶させられるんだ……! それが最善とはいえ
痛いのは嫌だ!! 怖い! 気絶すべきなんだけど怖い!!)
 ひどい話だが総角の身にもなってみよ。男グループの中で貴信1人がヌケヌケとおいしい思いをするのだ。
 一糸まとわぬ想い人のいる場所へ、自分の手は届かぬ空間へ。
 他の男をやる!
 どれほどの屈辱であろうか。まして何ら拘束の手立てを講じぬとくれば耐えられよう筈がない。

 無銘は睨んだりはしなかった。その代わり背中を向けて忍者刀を降り始めた。何やらブツブツと早口で言っていたのは摩
利支天の真言で、だから貴信は怖かった。闇の宇宙を思わせる黔(くろ)い紫煙を漂わせながら何度も何度も刀を振る姿に
つくづく怯えた。でもきっとそれは鐶を思えばこその行為で、本人に教えたらきっと喜ぶだろうなあと思った。

 剛太はモーターギアを取り出した。「じっとしてろ。気絶させる」。物騒な言葉とは裏腹に双眸は涙で濡れていた。無念が
にじみ出ていた。斗貴子と入浴できる貴信を心底羨み絶望していた。

(そ!! そうだ!! 僕が表に出れば、男風呂に行けば済むんだ! 香美……体を……!!)
 貴信だって女性陣と入浴はしたくない。本音をいえば見たい。少年なのだ、見たくない訳がない。だけれど香美という女
のコに張り付いて見るのは違うだろう。
(ももももっとこう、普通にお付き合いしたコがモジモジしながら「いいよ」って言ってくれてやっと成立するんだこーいうのは!
ムリヤリやっても多分後味良くないし後で何でやったんだって後悔するし女性陣も傷つくし!!)
 貴信は自分の容貌ぐらい弁えている。ロシアの殺人鬼のようだと鏡で見るたびため息をついている。
 総角のような二枚目でもなければ無銘のような可愛い系でもない自分に裸を見られる! 
 小札や桜花たちは傷つくだろう。
(それは嫌だ! したくない!)
 見たいという欲求だけなら、青年向けかつ非18禁の、ソフトな露出のグラビアで晴らせばいいのだ。
 あと純粋に女体が怖い。近くにリアルな肉感があるというのは怖いのだ。嬉しいより怖い。ちょっと勇気を出して買ったえっち
な本でさえ黒線で隠されていた部分は未知だからこそ怖い。もし万が一目にしてしまったらと内心ガタガタ震えている。ともすれ
ば価値観が崩壊しそうで、女性という物に抱く美しさの幻想が砕けそうで。
 興味がない訳ではない。でも怖い。見てドキリとする自分より、見て幻滅する自分に幻滅するのが分かっていて、だから怖い。
 矛盾しているようだがそれが貴信の真実なのだ。
 だから香美と交代して男風呂に行こうとした。しかしココで思わぬ邪魔が入る。
「彼なら、大丈夫だ」
 怯える貴信──厳密にいえば、急に敵意むき出しになった総角たちに目を三角にしウーウー唸る香美──の前に、見目
麗しい青年が立った。言わずと知れた秋水である。
「戦ったから分かる。彼は覗きなどという卑劣な手段は使わない。いま栴檀香美が前に出ているのはきっと疲れているから
だ。彼の特訓も激しかったからな」
(えっ!?)
 貴信は目を剥いた。秋水は何を言っているのだろう。嫌な予感がした。
「だから何もせず入浴させてやろう」
 好意と信頼に満ちた意見だが、しかしそれが却って貴信を窮地に追い込む。
「彼を信じて欲しい。責任は俺が取る。だから痛めつけるのはやめて欲しい。彼は何もしていない。これからもしない」
 男性陣は渋々ながら武器を引っ込めた。が、無銘だけは唇を尖らせた。
「……貴様。そういってもし姉やら武藤まひろやらの裸形を見られた場合どうするんだ」
「貴信を殺して俺も死ぬ」
(爽やか笑顔で何言ってるの!?)
 悪意も殺意もない透き通るような笑みだからこそ貴信の全身にあぶくが立った。
 さすが桜花の弟だけあり、笑顔は魅力的だが底は見えない。
 総角たちも絶句している。そこでやっと秋水は「いや、冗談だ」と訂正したが笑いは起きない。
(マジメで、変わろうとしてるんだろうけど、そーいう分かり辛い冗談はやめて欲しいぞ!!)

「あ、いた! 香美さーん! もう! そっちは男風呂だ……」
 やってきたまひろが秋水を見た。秋水もまひろを見た。両者しばらく固まり、
「こ、こんばんわ。秋水先輩」
「あ、ああ」
 少しギクシャクした雰囲気を漂わす。
 頬を染めて照れ照れと見上げるまひろ。
 表情を硬くし心持ち目を背ける秋水。
「フ」
 総角は肩を揺すった。
「え、ええと。香美先輩借りてくね。その……えーと。お風呂、だから」
 言ってからまひろは香美の手を取り駆け出した。ピョロリー。足元がナルトになる古典的走法だった。
(そ! そういえば! 彼女、告白みたいなコトしてっけ! だから顔も見れないんだ!!)
ヴィクトリアのメール(香美宛に送った)で得た情報を思いだす貴信は色々悲しい。
(くぅ……!! いいなあ! 青春って感じでいいなあ!!)
 と内心えぐえぐ泣いてたせいで、暴走するまひろにまったく抵抗できず、結果はなし崩し的に連行された。
 女湯という楽園あるいは監獄に連れ込まれたのである。

 目をつぶったまま湯船に浸かる。香美はときどき水面にじゃれつくが、基本的には肩までトップリ、くつろいでいる。
(小さい頃からお風呂好きだなあ)
 ネコだった頃から香美は風呂が好きだった。ネコらしくない話だが、シャワーを背中に当てるとグルグルと喉を鳴らし、
やめると不満げに貴信を見上げマオマオ鳴いていた。
(……そういう姿を知ってるのは僕だけだなあ)
 普段はモノローグでさえ大声な──どうも口調というのは思考にも伝染するらしい。一度この件を何気なく鐶に漏らしたら、
「私も……です。考えてる時も……愛媛弁じゃなく……この口調……です」と言った──貴信にしては珍しく静かな口調(モノ
ローグ)である。入浴したせいで副交感神経が優位になっているのであろう。要するにリラックスしていた。
 とにかく香美は風呂が好きなネコだった。週に一度は貴信と一緒に湯船に浮かんでいた。モコモコしたノルウェージャン
フォレストキャットの変異種(掛かり付けの獣医曰く”よく似た雑種”らしい)なネコの香美はでっかい毛玉のようだった。
(で、しばらく入ってると眠りこけて)
 舟を漕いでいた今の香美が湯に鼻を沈めた。しばらくブクブクあぶくを吹いていたが俄かに「ぶはあ!」と声をあげ飛沫
をあげ面をあげる。何事かとあたりを見回していたが、やがて眠っていたせいだと気付き、またひたる。心地よい湯にまた
ひたる。
(ははは。姿が変わっても変わりないなあ)
 ネコ時代とまったく同じリアクションに和む貴信。娘を見守る父のような心境だった。
(…………)
 まぶたの裏の瞳を寂寥に揺らめかす。両親と死別し友人も居なかった灰色の季節。
 けれど香美がいたからこそ、彼の生活は楽しかった。ささやかだが満たされていた、何てコトのない日常。
 それを貴信と香美はある日突然壊された。
(元の生活に戻りたいな……)
 ネコの香美を膝に乗せて、暖かな縁側でくつろぐ。
(たったそれだけだ。それだけでいい。僕たちが取り戻したいのはそれだけ、なんだ)
 今は1つの体に押し込められている貴信と香美。だが元に戻る手段がない訳ではない。
 ディプレス=シンカヒア。レティクルエレメンツ火星の幹部の分解能力を使えば願いは叶う。

──「俺ァ細かいこと大嫌い! 60兆総ての細胞ぜんぶキチンと分離? そらアレだよなあ。精密動作だよなあ。
──今のテンションじゃ間違いなくしくじる!! そしたら兄弟たち死ぬぜ!」

──「でも理論上はできる!! 実現できるのはきっと……俺の憂鬱が全部回復するぐらい熱い戦いをやった時だ!」

──「だから俺と戦え兄弟!! 俺を満足させろ!!」

──「でねーと分解しくじってよー!! ぶっ殺すハメになる!!


 7年前、ふたりを今の体に押し込めた当事者の1人たる彼はそう言い残して姿を消した。
 以来、逢っていない。
(いずれ来る決戦。僕は彼と戦わなくてはならない)
 元に戻るため、だけではない。様々な理由はあるが、ありていに言えば弱かった自分へのケジメをつけるために。
 ディプレスと戦わなければならない、貴信はそう考えている。
(……緊張しすぎているかな。僕)

──「フ。まあ慌てなくていいさ。惨劇に見舞われたのは昨日の今日……お前の精神は、いままだ困憊の中にある。そのう
──え残酷まで引き入れたら身が持たん」

 今の体になってすぐ。貴信は総角と出逢った。

──「……まあアレだな。人生の岐路という奴だ。疲れてもいる。メシを喰い睡眠をとり風呂に入る…… いまお前に求めら
──れているのはそういう、平生の判断を取り戻すための努力だ。勢い任せの決断は後々損だぞ?」

 彼は絶望し困惑する貴信を諭した。心のありようを説いた。

(あまり根を詰めるのも……良くないな)

 総角には感謝している。無力ゆえに被害者の立場に甘んじ、武装錬金を手にしながらも悪意ふりまく2人の敵を結局止
められず逃がしてしまった事実は貴信の心に深い影を落とした。ディプレスたちが新たな被害者を生んだら? その被害者
に出逢ってしまったら? 考えるだけで胸が苦しくなる。けれど総角はその答えの導き方を教えてくれた。教えながらも無理
強いはせず休息を勧めた。

 息を吐く。せっかくの入浴中なのだと気分を変える。

(入浴中!?)

 やっと現実に帰る。あまり気は休まりそうにない。

(だっ……大丈夫なんだろうか女性陣! 嫌がってたらそのすぐ出てチェンジしてもりもり氏たちと合流だ!)
 相変わらず目をつぶっている貴信。
 湯船は広い。両断したひょうたんを思わせる変わった形状で、その気になれば3ダースほどの生徒が同時に入れるだろ
う。そんな湯船の壁際に香美は居るから、貴信が直接他の女子を見るのは不可能だ。
 ただ──…



「え? 香美さんの見ている物も見えちゃうの?」
『そ!! そうなんだ! 僕たちは元より体を共有している身! それは思考や感覚だって例外じゃない! 視覚や嗅覚、
聴覚! 香美の得る情報は全部僕に筒抜けなんだ!! だからその! 体チェンジして男風呂行くべきだ僕らは!!』
 入浴前。沙織にあたふたと何もかも説明した。他の女性陣もそれは聞いていた。
「滅茶苦茶潔いわね」
 桜花は珍しく驚き同時に思い出す。秋水から聞いた話を。

──『僕は貴方が光球を受け止めている間に、光球をもう一つ撃ち放つ!』

──『それも正面からではなく、香美の機動力で貴方の死角に回り込み、本命となる二発目を放た
──せてもらう!! むろんこちらは外部からのエネルギーではなく、僕たちの全精力を込めて撃つ
──から当てれば僕の勝ち! 当たらなければ貴方の勝ちだ!!』

 最後の激突のとき。あろうコトか彼は手の内を明かした。言わなければ確実に勝てたにも関わらず、敢えて明かした。
 正々堂々真向からぶつかったのだ。
(気に入ってる訳ね)
 鎖と刀。エモノこそ違えど共に武術を嗜む貴信に秋水はひどく親近感を覚えているようだ。
 桜花としてはもちろん嬉しい。弟が自分の知らないところで人との絆を得ていくのは心から嬉しい。
(けど)
 見知らぬ誰かと縁を紡ぐたび姉弟の間隔が離れていく気もして桜花は寂しい。

 寂寥の主因は無自覚だ。
「よく分からないけど大丈夫!!」
 まひろは眉をいからせ鼻息を吹いた。
(いや貴方! 大丈夫じゃないのだが! というか香美と一緒にお風呂入りたいだけじゃ……!)

「ここまで説明する人なら、覗いたりしない……わよね?」
「貴信さんは誠実な方ですから。信じてよいかと」
「そうであります!! 貴信どのは卑劣卑怯な手段をば用いる方にありませぬ!!」

 千里と毒島と小札は同意。この時点でまだ服は着ていたので貴信は彼女らを見るコトができた。
(…………)
 ちょっと泣きそうになったのは、彼女らが白い大きめのバスタオルを小脇に抱えていたコトだ。
「巻いて入るの!? ガード固っ!」
 沙織はびっくりした。びっくりするというコトはつまりその、隠さぬ訳で、貴信は細っこい体から慌てて目を背けた。
「私は入らないぞ。核鉄を手放してみろ。何をされるか分かったものじゃない」
「斗貴子先輩もガード固っ!」
「というかアタックが手堅い……」
 千里は感心したような呆れたような顔だ。この時点で大体どういう仲か察したらしい。
「えー。一緒に入ろうよ。このまえ銭湯で一緒にお風呂した仲じゃない」
 斗貴子はまひろに袖を引かれるが、頑として動かない。

 そして見る。無言で笑いかけてくるヴィクトリアを。
 壮絶な顔だった。爬虫類のようにスリットが大きな冷たい目でねめつけるように見上げ、口は耳たぶの辺りまで裂けて
いた。
(見 た ら ど う な る か 分 か っ て い る わ よ ね ?)
(ひいっ!!!)
 強烈に眩いホライズンブルーの炎を背後でギンギラギンギラ焚きながら威圧する彼女の顔は、気迫ゆえかどんどん膨れ
上がるように見えた。視線が貴信の下から上へ登っていき、とうとう彼を押し潰しそうな巨岩サイズに到達した。
「私は……服も……タオルもなしで……入ります…………。気を……落とさないで……下さい……」
 鐶が袖を引いた。香美がそちらを見ると、無言でブイサインを繰り出した。
 仲間っていいなあ。貴信はしみじみした。


「ねーどうしてひかるん服着たままお風呂入ってるの?
「……これは…………羽……です……。私の体の一部……です」
 声が聞こえる。鐶はいつものジャケットとミニスカートらしい。
(ですよねー!!!)
 着衣はつけていない。裸だ。羽毛とて素肌、裸であるコトは間違いない。
 ウソは言われていないのだが、何だか貴信は、悲しくなったk。
『そういえば湯垢の大半占めてるのって人間の垢じゃなくて石鹸カスなんだよな!!』
 貴信にはウソをつくとき豆知識を披露する妙な癖がある。いまは別にウソなどついていないが、鐶のそれがキッカケになり
ついつい誰ともなく披露してしまった。
 独りが長い人間というのは、ときどきおかしなタイミングで独り言を呟くものだ。風呂でリラックスしているせいか、彼はつい
無防備に呟いてしまった。油断だった。女風呂にいてしかも香美が見聞きした情景が筒抜けだと宣言したのだ。これで近づく
女子はいない。ゆえに独り(厳密にいえば香美がいるが)過ごしている時のテンションで、ついつい言葉を発してしまった。
 それが、貴信の命運を狂わせていく。
「えっ。そうなんだ!」
『そう!! 実に71%が脂肪酸カルシウム!! 水分中のカルシウムと石鹸カスの化合物だ!!』
「他には?」
『タンパク質が10.8%! 次が遊離脂肪酸で6.2%! 垢はわずか5.9%に過ぎない!!』
「すごいね。貴信せんぱい物知り」
 とぷりという音がした。とぷり? 香美経由でそれを聞いた貴信はさあっと青ざめた。
(まさか)
「ねーねー。他には? 他になんか面白い話ある?」
 不意の声。そちらを向かんとする香美。点滅するレッドアラーム。やめろ、やめろ、そちらを向くな。焦燥の貴信。ブレーキ。
条件反射。眠そうに首を動かす香美。心の叫び。砕けるブレーキ。視覚。色の薄い髪。動く。ツインテールの遡行、たどり着く
前髪、濡れた眉毛。
 胸の前で両手を固め話をせがむ沙織が目に入った瞬間、貴信は全力で香美の顔を前に戻した。ゴキリという音に一拍遅れ
出てきた香美の抗議。聞く余裕はない。すさまじい動悸が終戦記念日のアブラゼミの合唱がごとく貴信の世界に木霊した。
(え! なんで! なぜ僕の隣にこのコが!!)
 本能が映像を突き付ける。ときどき総角がからかい気味にそのテの、ギリギリだが露骨ではない、際どさゆえにどこか
上品で芸術的な写真を見せてくるがそんな感じだった。世界のちょっと下劣な部分が純朴を軽く小突く現象だった。男性的
本能が、誠実で小心な貴信の理性をおちょくった。記録したての情景をボンボンボンボン投げてきた。
 桜色の肩。未発達な鎖骨。小さな顎から落ちる雫。そして腕の隙間からわずかに見えたささやかな膨らみ。
 もうそれだけで目を回して倒れそうな貴信だが辛うじて持ちこたえる。
(落ち着け! どうやら彼女はしゃがんでいるようだ!! 見えたのは肩とその周囲だけで──…)
 致命的な事態に気付いたのは、文句をひとしきり言い終わった香美が、湯船の、人のいない部分をぼんやり見た瞬間
だった。気付く。湯垢うんぬんを言いだしたきっかけを。入浴剤が使われていないからだ。湯は透明なのだ。だからある一点
にたまる湯垢が見えた。離れた場所のそれが見えるというコトはつまり。隣も。
 映像が巡る巡る。水の中の様子が巡る巡る。白い光のように入射する細腕。軽く浮く肋骨。新鮮なししゃものように引き締
まったお腹。おへそ。それから、それから……。
(ギャアアアアアアアア!! なぜ透けてるお湯ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!
 水面の揺らぎと煌めきゆえ重大な部分は見えなかったが、それでもすぐ横に全裸の少女がいるという事実は卒倒モノ
だった。女性にまったく免疫がない訳ではない。鐶や小札とは何とか普通に話せる。ただ、知り合って間もない少女が、
まったく無防備、総てをさらけ出した状態で傍にいるのは、ドキリを通り越してズキリとする。人見知りなのだ、貴信は。
「ねーねー貴信せんぱい。他にはー」
 一瞬タヌキ寝入りを決め込もうかと思ったが、そうなった場合、何をされるか分からない。腕を取り肩を揺する……。いず
れもマズい。裸の女子に接触されたら(たぶん僕、心臓が爆裂して死ぬ!!)と思ったので、おずおずと答える。
『そ、その!! ハイジのおじいさんは人殺し、とか!!?』
「本当なのソレ!!?」
(喰いつくんだ!!!?)
 貴信もまた驚いた。というのも、まだ人間だったころ、会話の糸口を作るため、同年代にこのテの豆知識を何度か披露した
のだが、残念ながらさほどウケなかった。だからこそ沙織も白け早急に遠ざかると踏み、披露したのだが、しかし逆効果だった。
(い、いや!! 話するために色々仕入れたのだから思惑通りといえばそうなんだけど!! けど!! ここでってのは!!)
 焦る。

 あとハイジのじいさんは軍隊にいるころケンカで人殺っちまったそうですよ。ソースは原作。

 沙織は話をせがみ始めた。何というか貴信はもう引き返せない。心中ひそかに香美へ沙織を見ぬよう命じると
『円グラフを発明したのはナイチンゲール!!』
「おお!!」
『電子レンジの両親はレーダーとチョコレート!』
「良く分からないけどスゴイ!!」
『死体のヒゲは伸びる!!』
「怖い!!」
 どんどん行く。


「フ。戦場で死ぬ奴より野戦病院で死ぬ奴の方が多くてな。ナイチンゲールはそれを円グラフ……正確にいえば鶏頭図に
まとめ、衛生改善を訴えた。彼女は統計学の開拓者でもあるのさ」
「確か……ロンドン統計学会初の女性メンバーでしたね師父」
「貴信の話か」

「声でけえからこっちまで丸聞こえだ」
「フ。奴めどういう訳か披露しているな。得意の豆知識を」
 男性陣は並んで体を洗っていた。
「電子レンジの件はあれだ。軍事絡みだ。1945年、アメリカのレイセオン社でレーダーの研究中、研究者のポケットに入っ
ていたチョコレートが、マイクロ波で溶けたのさ」
「それを食品加熱に転用した、か。ムム。我が龕灯の性質付与に利用できないものか」
「あと、死体のヒゲが伸びるのは怪奇現象でも何でもないぞ」
「戦士長」
 防人が男性陣の後ろに立つ。引き締まった体。腰にタオル1枚巻き付けている。
「毛穴に残っていたものが、皮膚の弛緩により出てくる。それだけだ」
「詳しいスね」
「むかし戦団にブラボーな検死官が居てな。火渡や他の戦士たちと一緒に何度か講義を受けた。石榴由貴。知ってるか?」
「いえ」
 最近戦士になったばかりの秋水なので分からない。剛太も首を振る。
『カタツムリの歯は6000〜1万5000!!』


「「「「「!?」」」」」


 轟く貴信の声にみなビックリ。

 縦60〜100列。横100〜150列。
 おろし金のように小さな歯が口の中にビッシリ並んでいる。

『そんな生き物を石器時代の日本人……食べていた!!』
「ぎゃー!! あ、でも、フランス料理でエスカルゴってあるよね?」
『あれは日本のとは種類が違う! むしろ貝に近い奴だ!!』
「せせせ石器時代の人なにやってるの! 選ぼうよ食べ物!!」

「なあ」
 剛太は壁を指差した。銭湯のように上の部分が空いており向こうの声は丸ぎこえ。
「そうだな。学校の施設だぞ。いいのか?」
 秋水は別な部分を心配した。寄宿舎に来て間もない。こんな破廉恥の土台を知ったのはつい最近らしくまだ割り切れない
様子だ。剛太はガクリとうなだれた
「そうじゃねえよ。栴檀貴信。アイツなんか絶好調じゃね?」
「いい傾向だと思うが。俺が言えた義理でもないが、学校生活を楽しめていない様子だったからな。あれ位がちょうどいい」
「なにを悠長な。あの少女や姉が裸を見られるかも知れないのだぞ」
 無銘がぶすりと釘を刺すが、返る言葉は「大丈夫。彼はそんな事などしない」。まったく取り合われない。
「フ。奴にも春が来るのかな」

 みんな一緒に頭をシャー。背後で防人、重ね当ての素振り。

 髪をアップにまとめた桜花は肩まで湯船につかっている。その隣の毒島はバスタオルを巻いているにも関わらず、鼻先まで
潜水中。素顔を見せるのが恥ずかしいらしい。
 ともすれば子供と保護者に見えるが2歳しか違わないペアを声が貫く。思いやりに基づく怒りの声が。

「斗貴子さん! お風呂ちゃんと入らないと疲れ取れないよ!」
「母親か! いい! 入浴なら後でする! 今は鐶たちを監視する!!」
 目も三角な斗貴子はセーラー服姿。鐶のように羽で作った訳ではない。普通の繊維でできた普通の服である。
 のっしのっしと肩をいからせ浴場内を練り歩く斗貴子に桜花は声をかける。
「あらあら。公衆浴場の係員さんみたいね」
「うっさい! だいたい桜花お前、戦士の癖に油断しすぎだ!」
「え……」
 同じく戦士な毒島が振り返る。
 その目は潤んでいる。責められたように感じたのだろう。そんな自分では火渡の役に立てぬと傷ついたのだろう。
 しまったという顔の斗貴子。桜花も首を曲げ両者を見比べる。気まずい沈黙が立ち込めているが平然と微笑む。
「役割分担よ。ねえ毒島さん。お風呂上がったら監視交代、津村さんが入ってるあいだ今度は私たちが音楽隊見張る……
それだけじゃない。そもそも休むのも仕事よ。津村さんだってさっきそう言ってたでしょ?」
「あ、ああ。そうだな。毒島も疲れているだろうし今はいい」
 普段なら「口が減らない」と怒鳴る腹黒い躱し方だが、さすがに気弱な少女が関わるとあっては矛を引く斗貴子だ。
「それに武器なら持ってきてるけど?」
 水中からザバリと取りだす核鉄。毒島も、顔を沈めつつ同じ仕草。
(抜け目ないわね)
 一連のやり取りに感心するヴィクトリア。戦士は嫌いだが、桜花の聡明さには目を見張る。
 そんな彼女は目で礼をする毒島にこう言った。
「ところで毒島さん。来年生徒会で会計を……」


「フ。あの声で会計か。フ」
「師父。どうしました師父」


 千里は少し呻いていた。湯気で曇った眼鏡もそのままに呻いていた。
 桜花。そして香美。ついでにまひろ。

 芸術的な彫刻のような美しい曲線を彩る妖しくも甘い影。

 大自然の息吹を感じさせる瑞々しい豊かな果実。

 少女らしいあどけなさと健康な成育を兼ね備えた奇跡のような青春美。

「ぐむむ……」

 バスタオルの下に押し込められた慎ましさを思い再び唸る。
 瞠目せずには居られぬ女性の象徴の持ち主に限って、一切隠さぬのだ。

 桜花が湯船から出る。白い質量が振動した。
 香美が伸びをする。鎖骨の下で水がぶるりと弾け飛んだ。
 まひろは湯船の底に両手をついてワニの真似。重力に引かれた母性の証が密着し黒い稜線を描いた。

 カキリ。千里は敗北感にうな垂れた。


「フフン」

 剛太の股座を覗き込んだ無銘は得意げな顔をした。

「なんだコレは……!!」

 秋水の股座を覗き込んだ無銘は眩い光に仰け反った。

「相も変わらずご立派」

 総角の股座を覗き込んだ無銘はかしずいた。

「大人だ! すごいぞコレは! マンモスなのだ!!」

 防人の股座を覗き込んだ無銘は興奮して叫んだ。



「……千里」
 ヴィクトリアは友人に密着していた。
 バスタオル越しにそっと胸へ手を伸ばす。
 いやいやをする眼鏡の少女の耳が唇に触れた。軽く噛む。甘い吐息が跳ね上がった。
 同時に抱きすくめた体がビクリと痙攣し力もまた拡散する。
 タオルの隙間から手を入れ膨らみを探し当てる。
 下からなぞり上げただけでもう千里は息を荒げグッタリとする。
「やっぱり。私より大きいじゃない」
 手に力を込める。掌全体で質量を確認する。そこは桜花たちを羨むほど乏しくはない。
 どころか標準よりやや上だ。だがそれを恥じる千里をヴィクトリアは非難しない。
 むしろ彼女らしい慎ましさに愛しさがこみ上げる。
 そしてヴィクトリアは千里の太ももにかかるバスタオルを跳ね除け──…

(……。なに考えてるのよ私)

 湯船に顔面をつけブクブクするヴィクトリア。
 明らかに自分より”ある”千里がそれ以上のランカーどもを羨んでいるのがムっときた。
 なので脳内で仕返ししたのだが予想以上に桃色な報復になって恥ずかしい。

(たぶん私が一番……)

 毒島の目もまた赤い。キツく巻いた筈のバスタオルがひょろひょろとズリ落ちるのだ。
 何度直しても落ちてくる。大変悲しかった。
 ヴィクトリアの肉体年齢は13。毒島は16。だが9cm負けているのだ。
 欧州人と日本人の人種的な壁の前に負けているのだ。

(やっぱり……男の人は……大きい方が…………いいので、しょうか…………)

 鐶は真剣に考えていた。目がいいので大体分かった。
 ヴィクトリア以上千里以下というところだ。
 やっと最近、女性としての体裁が整い始めたそこに手をあて考える。

(考えても仕方ありません……実行あるのみです)

「無銘くん…………おっきい方が好きですか?」
「し! 知るか! というか覗くな!!」

 壁に上りひょっこり顔だす鐶に無銘は怒鳴る。非常識だった。
「うわわわわわわわわわわわわわわ!?」
 剛太はおののいた。目が虚ろすぎて生首の幽霊に見えたらしい。

「で、お前ら、大きい方がいいのか?」
 防人がニヤリと笑って一同に問う。
「戦士長。ここからでは向こうに丸聞こえですが」
 秋水は粛然と返す。あと無回答。
(言わなくても分かるでしょ戦士長)
 鼻の辺りに一文字の傷引くジェスチャアの剛太。
「ノーコメント」
 無銘は顔を背ける。
「愚問! 小札であれば何でもだっ! フ!」
 大声の総角。
(勇者だ)(勇者だ)(筒抜けなのに勇者だ)
 男どもは思った。




(…………ばか)

 あまり長くない足をめいっぱい伸ばしていた小札は声と共に頬を染めた。
 俯いた顔の下で水面が煌めき、嬉し恥ずかしの微笑を映した。
 その顔を見た小札は気付く。
(ムム! この水面のきらめき!! 先ほどの洪水をば描く小説に転用可能!!)

 トキメキ<実況

 毒島<小札。

 どちらも2cm上である。



「ふっふっふ! さあ斗貴子さん追いつめたよ!」
 不敵な声。それぞれの思いに浸っていた女性陣がいっせいに顔を上げる。
「ちょ、まひろちゃん、やめろ! 私はキミたちを守るため入浴してはならないんだ!」
「問答無用! なにを隠そう私はお風呂入れの達人よ!!」
 乱舞する若い裸体があれよあれよと斗貴子の衣服を脱いでいく。
「ココはヌーディストビーチか」
 千里は呆れた。

「コラ! やめ! 変な……変なトコに手をかけるな!!」

 騒ぐまひろの声。苦しげな斗貴子の声。絹を裂くような悲鳴が時々ひどく艶かしくなる。
 全部、男性陣に筒抜けた。

(やばい。なんか先輩の純潔がやばそうで、なんかやばい)

 剛太はシャワーから出る熱湯を冷水に換えた。
 みなその用途については追求しない。そっと目を背けた。

「フ。あの声で純潔か。フ」
「総角。君なにがいいたい?」

 そんなこんなで入浴続き──…


 嵐がすぎた。

「フ。やっと貴信の豆知識披露が終わったわけだが、凄かったな」
 ざばあとかけ湯をしながら、総角。その肉体は細身ながら引き締まっている。
「かなり言ってなかったか……?」
「60超えた辺りで数えるのをやめた」
 背中を洗う剛太にシャンプーハット姿の無銘が答える。
「まさかフルーツパンチとポン酢の語源が同じとはな」
 髪を濡らし一瞬清純な色香をたたえる秋水は生真面目に頷いた。
「サンスクリット語で5を表す『パンチャ』が、5種配合のカクテルや調味料を指すようになり、パンチやポン酢に訛りつつ進
化したとは」
「細かいしどうでもいいし」
 剛太は手を振る。
「フ。楊貴妃はデブでワキガで」
「毛沢東は生涯歯を磨かず晩年は歯茎にコケ生えてたのか……」
「ホンダ2代目社長の弟はヤマハ5代目社長。ダイエー副社長もやり、大赤字回復させたのか。ブラボーだ」
「しかもそのダイエー創業者の息子の妻はホンダ創業者の孫娘」
「細かいしどうでもいいし」
 防人含め全員湯船に浸かる。

 特訓の疲れが出てきた。入浴時特有の眠気に剛太はうつらうつらし始めた。

(メールアドレスの@は英語の「at」じゃなくて古代ローマの壺を表す『amphora』の頭文字………………………………。
雷の多い年は豊作。理由は放電時のエネルギーが作る硝酸が地面に染み込み窒素になって植物育てるから…………。
シロクマの地肌は黒……。白く見えるのは体毛の反射のせい。ひもじいって言葉作ったのは貧乏人じゃなくて上流階級。
暗い所で本読んでも目ぇ悪くならない。焦げたもん少し喰うぐらいならガンにならない。虫歯放置すると、死ぬ…………)

 貴信の大声が蘇ってくる。隣で無銘が「キウイは皮ごと食べるのが正しい」とか呟いている。
 世界がだんだんグニャグニャしてきた。

(闘牛のウシは別に布の赤さにゃ興奮してない。モノクロに見えてるけど濃くてヒラヒラ動いてるから突っ込んでくる………。
イヌネコも花粉症になる。ムショで作られるお守りもある。「マジ」が生まれたのは江戸時代。(笑)が生まれたのは明治。
暮れに第九やるよーになった理由はしょうもない。戦後間もないころ生活に困ってた楽団員たちの年越しのバイト……。
いわゆる『警察官立寄所』。実際来るのはOBとか防犯ボランティア。現役ポリに必ず立ち寄らせる決まりはない……。
鬼平犯科帳で有名な長谷川平蔵。死後カラになった家に越してきたのは遠山の金さん。ノリスケは東大法学部卒……。
サハラ砂漠より大きな砂漠は南極大陸。寒冷地だが降水量的には砂漠。あと南極でカゼは引かない。ゴビ砂漠で洪水起
きるコトがある。砂漠の多いサウジアラビア。最近よく輸入するものは、砂…………………………………………………)

「消えねえ!!」
「!?」
 突如立ち上がり水面蹴立てる剛太に無銘ビックリ。


 以下、戦士組。
「レコードの溝のゴミは接着剤で取れ……? そもそもレコード自体あまり使わないのだが」
「ドーパミンのうち脳が分泌するものはわずか5%。残り95%は腸から……。あら。意外ね」
「独り暮らしするときは男物の洗濯物干すと防犯に。なるほど。火渡様に借りましょう」
 以下、日常組。
「歯を白くしたいならすり潰したイチゴでハミガキすればいいんだ」
「キャベツの芯に熱湯を注ぐと破かずに剥がせる……? 貴信せんぱいお母さんみたい」
「剥がれにくい障子紙には大根おろし塗るといいんですか」
 以下、ホム組。
「昔の方はワラをば食べていたのですか! お米の粉と混ぜ、お餅に!! 今度トライしてみまする!」
「え。ペンギンの足って……長いの……ですか? 短く見えるのはお腹の羽毛の中で体育すわりしてるから…………?」
「大腸菌は40万Gだろうと2万気圧だろうと死なない。けど地球はだいたい1G。体積130万倍の太陽でさえやっと28G。
地球最高気圧は深海の1100……ムダな性能ね。いったい何を想定してこんな進化したのよ……」


 女性陣みな総てふむふむと感心した。気付けば肌色の群れが貴信の周囲にいる。


「ブラボー。衣食住への詳しさは千歳並みだ。というか彼は意外に家庭的だな」
「フ。というか、当然の帰結だ」
「っ! そうか。人間時代の貴信には両親もなく恋人もなく友人さえも居なかった! なら自分で家事をする他……!!」
「……。いや貴様。真剣に納得するな。いくら栴檀といえどそこまで言われるとなんか哀れだ」
「まったくだ。てめェに言われると何か腹たつ」
 美形で、剣道全国ベスト4で運動神経バツグン、成績もトップクラス。副会長で人気が高く、その上まひろとも良い仲だ。
 鐶の義姉、リバース=イングラムがこの場に居れば「リア充爆発しろ」とスケッチブックに描くだろう。

 貴信はというと重曹や炭酸水を使った衣食住の便利知識をマシンガンのように披露している。

 女性陣はもはや聞き入っている。

 ここで彼女らが貴信周辺に集まった経緯を説明しよう。

 まず沙織にまひろが、香美に鐶と小札がそれぞれ寄ってきた。知的好奇心ゆえに貴信の豆知識に興味を示したのは千里
だが、さすがに入浴中、男性の傍に寄るのは抵抗があると見えて遠巻きにみていた。その手をヴィクトリアが取って友人たちに
合流したあたりで戦士も寄った。斗貴子の接近は必然だった。この点、自然の摂理というのはうまくできている。水にヌー群が
らばライオン来たる。人にホム群がらば斗貴子来たる。言わずと知れた食物連鎖である。豆知識に惹かれ集まったまひろたち
に近づいた鐶、小札、ヴィクトリアたちホムンクルス組は、瓜田に沓を脱ぐがごとくの疑わしい動きを見せた瞬間、無音無動作
で発動したバルキリースカートに章印を貫かれ絶息するだろう。斗貴子は核鉄を握り締め、ギラついたシアンのオーラを全身
から立ち上らせている。そんな彼女こそむしろ恐れたのだろう。随伴の桜花と毒島は酒乱の夫と旅行する母子がごとく「ヤ
バくなったら全力で止めて謝ろう」という顔である。

 貴信は斗貴子にビクビクしながら、けれど急に豆知識披露をやめたら怪しまれそうで怖いので、続けている。

『お風呂なので水ネタ! 7割海な地球の水は全部で約14億立方キロメートル! だけど約97%が海水で飲めない!」
「え、そうなの。淡水3%しかないの?」
『しかもその7割超が南極や北極の氷! 四捨五入すると僕らが使える水、地球全体の0.8%!! だけ!!』
 女性陣は思わず湯を見た。
『そのせいで世界には、キレイな水を飲めない人が7億8000万人いる!』
「!? まひろシャワー出しっぱなしよ!!」
「止めて来い! 早く!!」
 斗貴子の怒号を受けながらまひろは一子纏わぬ姿でダッシュした。色々揺れた。
「無駄遣い……。謝れ……7億8000万人に謝れ……です」
「まさに湯水が如き使える水! されどその澄みたるは奇跡! 穢れたるは病の元、飲めば危うい、訳ですねっ!?」
『けど混じり気のない純水や蒸留水、飲み方しだいで人は死ぬ! 水道水の塩素もガンとか起こすらしい!』
「どうしろと!?」
 沙織からすっとんきょうな声があがる。
『こんな二律背反は他にもだ! 睡眠不足だと肥満になって死亡リスク高まる! けど寝すぎても脳鈍って死亡リスク高まる!!』
「だからどうしろと!!」
 斗貴子は怒鳴る。
『そのうえ風邪薬の副作用はおろか早朝ジョギングでも死ぬ!』
「あらあら」
『なのにしゃっくり1億回続いても死なない!』
「すごい! すごいけど変! ヘンだよ人体!!」
『水に関してはほどほどが一番! 川が大腸菌だらけの国ほどアレルギー少ないし!!』


 話題は大腸菌へ。


(へえー。大腸菌は重力とかには強いくせに簡単に駆除されるんだな。で、清潔になったせいで生まれたのがO157か。本
来弱い菌なのか。獲得エネルギーの7割で毒素作って残り3割の力で細々と生きてるらしい。給料の大半ギャンブルに使っ
てるから医者行くカネなくてすぐ死ぬ、みたいな。だから汚い、雑菌だらけの環境のがむしろ死ぬ。生存競争に敗れて死ぬ。
だもんで泥遊びして腸内細菌満載の下町育ちは軽症で済むらしい。ヒドい目あうのは清潔志向な金持ち………………。って!
やべ。なに聞き入ってるんだ俺! というかここまでザっと数えただけでも30超えてるぞ豆知識。何だよ30って。増殖した
ムーンフェイス1体1体が披露できるレベルじゃねえか)

 もう剛太は唖然とする他ない。栴檀貴信の本領ここにあり。


『あとノーベル数学賞がないのはノーベルが数学者に失恋したせいじゃないかって疑惑あるとか!! アンデスメロンのアン
デスは地名じゃなく「安心です」の略で、エリーゼのためにはテレーゼのために作られ、ニンニク注射にはニンニク入ってい
なくて、駅前にある地図看板、実は地元商店街に押し売りされてる物なんだ!! 温室育ちというけれど実際の温室は二
酸化炭素が少なくて植物にはけっこう過酷、あと、火星は暑そうなイメージだけど実際は平均表面温度マイナス65度の冷た
い星(赤いのは岩石や砂に含まれる鉄酸化物のせい)とか……そんな感じだ!!』
「…………」
 みな、静まり返った。
 いや、音はした。香美(貴信)の横にいる沙織が手を打った。拍手。入浴中ゆえに水分をたっぷり吸った小さな手を、笑顔で、
ぱちゅぱちゅと叩き始めた。動きは、伝染した。鐶が、小札が、まひろが、続いて拍手をすると斗貴子を除く女性陣もそれに
倣った。

 割れんばかりの音が浴場に反響する。

「讃えられてるぞアイツ」
「フ。中学時代の努力がやっと花開いたという感じかな」
 湯船の中で顔を洗う総角の横で防人は
「ブラボー。おお……ブラボー!!」
 声を張り上げ呼びかける。声が届いたのだろう。女風呂からクスクス笑いが響いた。
(というか女風呂侵入して褒められるとかどういう了見なのだ!!)
 無銘は不満顔だ。
「彼は俺と違って様々な話題を持っている。その気になれば交友関係ぐらい簡単に……」
 秋水は考える。貴信という男は、アクこそ強いが根は誠実だ。そのうえ大量の豆知識を抱えている。
 なのに何故友人を作れないのだろう。
 考え込んでいると、深みのある声が耳朶に響いた。

「フ。俺は奴の上司だから分かる。あれほど讃えられたアイツが……いまどういう気持ちかを」


 女風呂。拍手の中、香美の後ろで貴信ははにかみ笑いをした。だがそれも一瞬で、口元は寂しげに結ばれた。


「二度とああいうコトはしない?」
 剛太は意外そうに問いかける。
「フ。そうだ。女風呂に入るコトじゃあない。豆知識の披露だ。恐らく奴は絶対しない」
「それはいったい何ゆえですか師父。奴めの性格ならむしろ喜び勇んでやりそうですが」


 今日はネタギレ。最もらしいコトを言うと女性陣は元いた場所に戻っていく。
 沙織もまた戻っていく。「面白かった! またね!」と親しみを込めた言葉をかけて戻っていく。
 水音が遠ざかっていくのを香美経由で確かめると、貴信はやれやれと息を吐く。
 力のぬけた体にお湯はいっそう染み渡るようだ。気疲れで固まった首筋がみるみる楽になる。

「いいの? ご主人?」
『ん?』
 香美が口を開いた。豆知識を伝えている最中ずっと黙っていた彼女が、ここにきて急に喋る。
 貴信との会話なら頭の中でもできる。なのにわざわざ口を開いて、だ。
「ご主人、本当はさ、もっとさ、お話したかったんじゃないの?」
 心配しているようだった。意識を共有している彼女は、どうやら貴信が持つ何がしかの本心に、気付いているようだった。
けれど分かりすぎるほど分かったからこそ、却って貴信の思惑が分からなくなり、つい口を開いてしまったようだ。
『いいんだ』
 香美の気遣いと心配に応えようとしたのだろう。
 貴信も敢えて口に出す。誰にも聞かれぬよう、普段と真逆、極限の小声で。


「フ。意外に思うかも知れないが、内向的な奴ほど人間をよく見る。他者の行動に対する感受性が強いというべきかな。
自分に及ぶ言動は実態以上に大きく受け止めるし、他の誰かが他の誰かに向けた言動さえ、我が身を通らばどうなるか
深刻に考える」
「それが豆知識とどう関係あるんだよ?」
「ふはは。馬鹿め。我は分かったぞ。要するに鬱陶しいおっさんを見ればああなるまいと決めるのだ、ああいうタイプは!」
 無銘は浴槽のヘリに仁王立ちして笑った。放送コードを通せる可愛らしいシンボルがプロプロ揺れた。

「中村。噛み砕いていえば、貴信は怖がっているんだ。『またか』。そう言われるのを」
 まだ分からぬ剛太はどちらかといえば外交的、らしい。秋水に防人は助け舟を差し伸べる。
「まあアレだ戦士・剛太。自分に置き換えて考えろ。例えば君がハト出す手品を習得したとしよう。それを戦士・斗貴子に見
せる。そしたら大好評だった。また見せるか? 見せないか?」
「そりゃあ…………見せますよ。斗貴子先輩が喜んでくれるなら人体切断だってやりますよ」
 ニヤリと笑う剛太。「若いな」と笑ったのは総角で、長い髪の房をくるくる弄んでいる。防人の言葉、続く。
「ところが、だ。君が2度3度手品を見せるうち、戦士・斗貴子がウンザリしたらどうする? どころか「もういい」と言われたら?
もちろん君が彼女のため懸命に手品の練習をしたとしてだ」
「そんな……俺はただ斗貴子先輩の笑顔が見たかっただけなのに……」
「落ち込むな中村。例えばの話だ」
 心底落ち込んだ剛太に秋水はやや呆れ顔だ。
「フハハハハ! 馬鹿め! 調子に乗り何度も繰り返すからそうなるのだ!! ひとたびウケた行為を、またウケると思い込み
何度も何度も執拗に繰り返せば煙たがられる! これぞ愚かな壮年のおっさんどもが如き行為! 師父だって母上にガチョーン
がたまたまウケたのを幸い毎日7回やって8日目に禁止令出されて愕然としたのだ!! そーいうの嫌がられるものなのだ!」
「むめ……おまっ! ガチョーン事件は関係ないだろガチョーン事件は!」
「ガチョーン事件って何!?」
 やや恥ずかしげに怒鳴る総角に落胆も忘れツッコむ剛太。
「ガチョーン事件。小札にガチョーンがたまたま受けて気を良くした総角が毎日7回やって8日目に禁止令出され愕然とした事件だ」
「なに説明してるの早坂!?」
「何って。君が知りたがっているようだから、今聞いたあらましを説明しただけだが」
「そうじゃねえって! 俺の言った何ってのはツッコミのアレで……あああ!! もういい!!」
 涼しい顔で疑問符を浮かべる秋水に剛太は頭をボリボリやった。水気が飛んで波紋を作った。
「あと秋水よ。つぎガチョーン事件に触れたら本気で怒るからな。サテライト30で分身して九頭龍閃・極ブチ込むからな」
 防人は一同を見回してからカラリと笑う。
「とにかく男はガチョーン事件を起こしがちだ」
「防人戦士長…………」
 総角は青ざめた。恨めしそうな半眼もした。珍しい表情だった。
(すげ。あの総角を)
(軽くやりこめてる)
 不思議なものでそうされると、いけ好かない総角に何となく連帯感が芽生えてしまう。同情というか、防人という”長”を共に
頂く間柄が実感のものとして刻み込まれるというか。やり手だが、中小企業の社長に過ぎない人物が、一流巨大企業の部長
クラスの肩書き相応の人間力にうまいコト巻き込まているような感じでもある。
「他人……とりわけ女性に何かウケると男はそれを繰り返したがる。だが、栴檀貴信は、そのガチョーン事件をどういった
経緯かは分からないが、とにかくどこかで見たのだろう」
「フ。どこだろうな。フ」
 総角は目を泳がせた。頬の汗は彼曰く入浴による発汗らしい。
「あー。ちょっとずつ分かってきた。内向的で人の行動大仰に受け止めちまうアイツだから、自分がそうなるのが怖いんだ」
「そうだな。豆知識が受けたからといって二度三度と繰り返すうち敬遠されるのを恐れている」
「ブラボー。2人ともよく理解してるな。ただもっといえば彼は──…」
「フ。自分が傷つくコトより、傷つけるコトを恐れている。不快な思いをさせたくない、そう気遣っている」

 だから豆知識披露はしない。男性陣は断定した。……貴信自身も、含めて。


 女風呂。

『僕なんかの、しつこい、承認欲求を満たすため、同じコト何度もやるなんて……よくない。きっと彼女らも迷惑だ』
「よー分からんけど、あそんで欲しいならそーいえばいいじゃん」
 香美の囁きに貴信はやや落ち込む。それができないから苦労しているのだ。会話以外の、豆知識披露のような、『なる
ほど確かに他者へ何か与えるけれど返って来る物は少ない』本質を持つ行為の本質に気付かず、中学時代それの確保
ばかりに血道をあげたのだ。人間関係構築へ前向きに取り組んでいるようで、その実すぐ目の前にいる級友たちからは
目を背け、楽な雑学読書に逃げ込んで。
『それが上手く作用しそうだからって、調子に乗るのは』
「あたしさ。ご主人、好きじゃん?」
 香美は伸びをした。それに伴う質量の重心変動にさえ真赤になる貴信だ。細い腕が水面に没し、熱さと水圧が心地よく
肌をくすぐる。
「さっきさ、さっき一緒に暮らしてるとき、イヤじゃなかったじゃん。さっき、何をいろいろいってたか分からないけどさ、さっき
いっしょに暮らしてるとき、ああいうのなかったじゃん。でもあたし、ご主人、好きじゃん。イヤなこと、ちっとも、せんかった」
『香美……』
 この少女に時系列の概念はない。過去は総て「さっき」である。7年以上前の生活も、まったく今しがたの豆知識披露も、
香美にとっては総て「さっき」。
「あたしはアレよ。やな奴見るとしゃーってなるじゃん。なんも考えずしゃーいう訳よ。でもご主人にはせん。さっきあたしより
デカかったのにさ、しゃーいいたくなることせんだじゃん。デカいのは基本やなやつだし、おっかないのもいてさ、くらいとことか
せまいとことか、たかいとことかやっぱ怖いけど…………でもやっぱ、ご主人いれば平気じゃん! 平気!」
 栴檀香美は、ホムンクルス化する直前、幼体の細胞の培養元を、子猫としての自分を殺されている。死骸は凄惨だった。
怒りに駆られたホムンクルスの貴信が、自分より遥かに無力な存在を縊り殺しかけるほど、惨たらしく。それほどの死を遂げ
るまで、暗所や狭い場所で虐待された挙句、高所から叩き落された記憶は、今でも彼女の心に影を落としている。

 にも関わらず、貴信が居れば平気という。貴信さえいれば大丈夫と心から思っている。
 それほど飼い主を好いている。
 暗く寒い段ボール箱の中で死に掛かっていた自分を助けてくれた貴信を、心から愛している。

「あたしがしゃーいう奴は。あやちゃんだって、ひかりふくちょーだって「や!」いう訳よ。じゃあしゃーいわんご主人はさ、大
丈夫じゃん。あやちゃんたちだってさ、イヤがってないじゃん。さっきもさっきもさっきもさ、こーいうトコ来るなって、いわんかっ
たしさ。ならさ、なら」
(さっき……ああ。この前とかあの時とか昔とか、旅途中で銭湯寄った時のコトか)
 すっかり桜色になった人差し指に生える産毛を桃色のザラついた舌でぺろぺろ舐めながら、香美は言う。
「ご主人はご主人で、いいじゃん?」
『………………』
 貴信は黙った。少し、泣きそうになったのだ。香美の言葉は、ネコゆえに、拙く、具体性にかけている。けれど、うまくいえない
ながらにも、一生懸命、貴信を支えようとしているのは分かった。豆知識の披露などせずとも、ありのまま、誰かに接すれば、
きっと道は開ける……そう言いたいのだろう。彼女は。
(本当にいいコに育ったな)

 7年前。ホムンクルスになった契機。貴信は殺意に駆られ、香美もまた暴走した。けれど2人は互いに制しあい、踏みとど
まった。貴信と香美とでは香美の方が遥かに凄惨な目に遭っている。何しろ、殺されたのだ。なのに、守れなかった貴信を
一度も責めず、『ニンゲン』もしくはそれに準ずる怪物たちへの憎悪はまったく抱いていない。

 月並みだが思うのだ。出逢えてよかったと。香美は貴信に助けられたと思っているのだろう。けれど

(それは僕も同じ。救われている)

 いつもすぐ傍にいる。たったそれだけの事が期せずして人ならざる存在になってしまった悲哀を埋めている。

(だからこそ……僕は元の体に戻りたい。昔のように、香美と一緒に過ごしたい)

 飼い猫と一緒に過ごす。たったそれだけのささやかな日常を栴檀貴信は求めている。

 求めているからこそ、元の体に戻しうる火星の幹部・ディプレス=シンカヒアとの戦いを、覚悟している。



 ややあって。
 貴信に目隠しした状態で香美が体を洗っていると。

「ねーねー。香美先輩。シャンプー貸して」
 河井沙織がひょっこり寄ってきた。ちなみに髪を洗うため、普段のツインテールは下ろしている。雰囲気は若干大人寄り
である。いつもが小学5年生なら今は中学2年生ぐらいだ。
『!!?』
 再びの接近に貴信は身を堅くした。それがいけなかった。
「おお。そういえば貴信せんぱいもいた。また何か豆知識聞かせて下さいね! 面白かったです!」
 雰囲気に似合わず年上には敬語を使えるらしい。シャンプーを借りると沙織は隣に座った。


(隣!?)
 さらっと成された行為だが貴信は内心思わず二度見するほど面食らった。(実際の映像としては見ていない)
 香美が体を洗うにあたり、貴信は極力ふたりの視界内に来ないよう女性陣に要請した。要請した上で、タオルで目隠しだ。

──「あの、普通、そういうのって女子がするコトなんですが」
──「ここまで見たがらないと却って失礼じゃなくて?」

 千里と桜花はつくづく呆れた。呆れながらも信頼したのだろう。「しょうがない人だ」という笑みを浮かべた気配がした。

 とにかく貴信は必死に女性陣を近づけまいと努力している。視界内にいるものといえば斗貴子ぐらいで、バスタオル1
枚でじっと睨みつけている。あとは知己たる小札や鐶でさえ距離を置いている。仲間だからこそ意を汲み見られないよう
配慮しているのだ。(でなけば後で総角や無銘と難儀なコトになる)。



(なのにこのコどうして隣に!?)
 貴信とて男のコだ。入浴後唯一向こうから話しかけてきた沙織をちょっと特別視してしまうのは自然の摂理だ。しかも貴信
の存在と性質を知りながら平然と隣に座っている。これで恋愛感情を期待しない男はいない。たとえ真実が「移動すんのめん
どいしココでいいや。貴信せんぱい絶対見ないし」なる適当な感情に基づいていたとしても、貴信自身どうせそういうオチだろう
と薄々気づいているとしても、やはり、こう、「あるだろ」とか思ってしまう、ものなのだ。


「あ、そうだ。貴信せんぱい」
 髪をわしゃわしゃしている音とともに沙織の声。目を閉じていてもシトラスミントのいい匂いだけは分かる。
『な、なんだ!!』
 ここで告白きたらどうしようとか考えて使いもしない返答いくつも用意するのがぼっちの悲しい性である。
「さっき皆でお題に沿って色々書いたとき、貴信せんぱい、どんなお話考えてました?」
 他愛もない会話。ホッとする反面ちょっとガッカリしつつ貴信は少し考えて、
『貴方と被ってた!』
「あ、香美せんぱい連れて避難するお話ですか?」
『そう!! でもネコ時代の香美だから厳密にいえば成立しなかった! と思う!』
 お題は「大雨で洪水の時、大事な人を連れて避難する」である。

「あ、貴信せんぱい。私ですね、勿体ないなーって思ってるんですよ」
 シャンプーを洗い流すと沙織は呟いた。口調には好意が滲んでいて、だから貴信は怖いのだ。会話がたくさん積っていく
のが怖いのだ。言葉のやり取りさえ一定量を超えれば誰とだって自動的に絆が芽生える……そんな幻想を抱いているから。
会話の絶対量が少ないから、そこからの分岐を実感として知らないのだ。「話して関係を築ける人」「築けない人」は悲しいけれ
ど確かに分かれていて、しかも前者と巡り合う機会ほど少ないのが人生なのだ。
 なのに沙織は、何がどう勿体ないか、話してくる。女友達にする感覚で、平然と。
「だって貴信せんぱい、色々知ってるじゃないですか。だったら、体験談だけじゃなく、もっとこう。不思議なお話書けたんじ
ゃないかなーって」
『……ゴビ砂漠が洪水になるって豆知識下敷きにして、とか!?』
「そーそー。そんな感じです。面白そうだと思う……あ、思いますよ!」
 敬語には不慣れな様子だが、貴信を立ててくれているのは分かった。
 いい子だと貴信は思う。自分が、自分の感情で手いっぱいの時、沙織はすでに他人の、貴信のコトを考えていた。
 真摯な人間を見たとき、貴信はその人物に恥じない対応をしたいと強く願う。この時もそれは出た。
『あの! は、話が書けるかどうかは分からないけど! 調べ物ぐらいならできると思う!!』
「んー?」
 向き直る気配がした。
『話が前後したようだ! すまない! 台本の話だ!! さっきの一連の流れで若宮千里氏の方向性は固まった! と思う!
でも時間はないし! 香美は速読が得意で、僕も記憶量はいい方だから! 調べたいコトがあるなら、その、使ってくれても
構わないのだけど! 迷惑じゃないだろうか!!』
 言い終えてから貴信がしまったと思ったのは、直接千里に言うべき話題だと気付いたからだ。しかも大声だからとっくに本人
へ伝わっている。貴信にとっては、そういうコトは、非常に間の抜けた気恥ずかしい行為だ。
「分かった! あ、じゃなくて、分かりました、です。うぅ。敬語難しい……。えと。任せて下さい、ちゃんとちーちんに伝えます!」

(もう伝わってるんだけど)
 湯船の中でツッコみながらも口には出さない千里である。彼女も貴信と同じで馴染み薄い人間とは話しづらい気質なのだ。
まして学年も性別も違うとなると、いきなり面と向かって「手伝わせて下さい」とは言いづらいのだろう。


「劇、一緒に頑張りましょうね! せんぱい!」
『あ、ああ! 僕も全力を尽くす!!』

 笑った気配がした。ネコ時代の香美のように元気のいい、たんぽぽのような声だと思った。

(というか……嬉しいなあ。後輩ができたの…………初めてだ)

 慣れない敬語にあたふたしている感じが、こう、グッときた。


 一方。沙織は。

「ね、ね。さーちゃんさーちゃん」

 まひろに手招きされたので合流。通常モードに。。

「どしたんまっぴー」
「香美先輩ってさ、貴信先輩と体共有してるよね」
「うん。そうだけど」
「ならさ……(ゴニョゴニョゴニョゴニョ)、どうだった?」
 いろいろ刺激的な言葉が飛び出した。沙織はちょっと真白になったが、

「はっ! どうなんだろう!」

 背後で稲妻を飛ばした。

「見よう!」
「うん!」

 てな訳で2人してそーっと忍びよる。貴信は気配を感じているようだが、特に話しかけてはこない。
 体を洗いに来たとでも思ったのだろう。

 それを幸い、隣に座るやしなやかな香美の両足の間に目をやる沙織とまひろ。




「10分湯船に浸かり5分休み水を飲むと老廃物が沢山でるぞ! 気が向いたらやりなさい!」

 男風呂では防人が呼び掛けた数秒後。



 沙織とまひろは放心した様子で湯船に浸かっていた。

「普通だった」
「女の人だった」
「こらこら勝手に見ないの。だいたい体つきが香美さんだから普通に決まってるでしょ」

 隣で桜花が顔を洗った。そうだねと頷いてこの件は片付く筈だったのだが──…

「じゃあ貴信先輩に変わる最中ってどうなってるんだろ……」


 千里の何気ない一言が事態を急展開させる。


 ポカンとした桜花とまひろと沙織が、すぐさま揃って香美を見たのだ。叫んだのだ。


「確かめましょう!」
「賛成!!」
「どどどどどうしよう、スゴいもの見ちゃうかも!!」
「お前ら何でそんなノリノリなんだ!」


 怒鳴る斗貴子は見た。隊列を組み歩き出した桜花小隊の背後で、頭を回転させつつ徐々に透明度を下げる鐶を。


「ステルス!? そこまでして見たいのか!?」


 毒島はちょっと香美の方を見たが、湯船に顔を沈めあぶくを立てた。刺激が強すぎるらしい。
 小札とヴィクトリアはすっかり温泉モード。肩まで浸かりほっぺに赤丸浮かべながら法悦の息を一吐きした。
 ある意味彼女らは属する組織においてお母さんなのである。
 気取った中間管理職やら我儘な蝶やらに覚える気苦労を、この時ばかりは忘れていた。
 そして明日に向かってチャージである。



 貴信を前に出すにはどうすればいいか?

 この命題の先鞭をつけたのはまひろである。

「あなたはだんだん眠くなーる。眠くなーる」

 どこからか持ってきた糸と五円玉を香美の目の前でぷらぷらしてみる。

 ぴしぴし。香美はじゃれつくだけで眠らない。

 まひろ、落胆。
「ダメだね。眠らせば貴信先輩前に出てくると思ったけど」
「香美さんに強いショックを与えるほかなさそうね」
「といってもどうするの? 暴力は良くないよ?」
 まひろの問いに桜花は笑う。笑って無言で斗貴子を見る。
「だから暴力はダメー!!!」
「なんでそれと私が直結する!?」

 泣き叫ぶまひろに斗貴子仰天。そこまで悪く思われているのかと内心ちょっと傷ついた。


「香美さん……頭殴って…………いいですか?」
「いきなりなにさ!?」
「ひかるんが行った!」
「おお。さすが優しい。斗貴子先輩なら無言で決着つけそうなのに」
「ええ。肺に貫手を一発! 崩れるや髪を掴み人中に膝蹴り!」
「ぼぼぼ暴力はダメだよ斗貴子さん!」
「さっきから黙って聞いていれば……お前らいくら何でも失礼だ!!」
 怒鳴る斗貴子に千里は内心頷いた。
(そうね。みんな言いすぎよ。いくら津村先輩でもそんなひどいコト)
「やってないだろ! まだ!」
(まだ!?)
 予定は、あるらしい。


 鐶の交渉、続く。
「私は…………香美さんに……消えて欲しい、です……」
『も! 目的はだいたい分かったけど! その言い方やめてくれないかな光副長!!』
「大丈夫……です。痛みは一瞬……です。後は虚無に帰すだけ……です」
『虚無に帰す!?』
 物騒な単語と貴信の態度だから悟るものがあったらしい。香美は腰に手を当て眉をいからせた。
「よーわからんけど、嫌! だいたいご主人なんか嫌がってるでしょーが」
「そうですね…………。無理を言ってすいません…………。引き下がり……ます」
 のそりと踵を返し去っていく鐶。その口元から漏れた小さな声を貴信たちは聞き逃さなかった。
「……………………ちっ」
『貴方だんだんガラ悪くなってないか!?』
(桜花の影響だ。絶対)
 斗貴子は呆れ顔で思った。

「むー。まっぴーもひかるんも桜花先輩も敗れた」
「残る頼みの綱は……さーちゃん……だけ…………です」
 すっかり1年女子トリオに馴染んでいる鐶である。
 沙織は、柏手を打って頭を垂れた。
「じゃあ貴信せんぱいお願いです! 変わる所、見せて!!」
『見せてって貴方!! すごい際どいコトいってるの分かってる!?』
「……あぅ」

 痛いところを突かれたとみえ、沙織は戯画的な丸顔でえぐえぐと泣いた。







「実際どうなんだ総角」
「……いや秋水よ。確認するのは色々ヤバいだろ。香美のままにしろ、ムクムク貴信になりゆくにしろ」
「ムクムクか……」
 剛太は想像したらしく「うげ」という顔をした。
「ムクムクはまずいなムクムクは」
 同じく青くなる無銘の肩を秋水は叩いた。
「大丈夫だ。こっちには戦士長がいる」
「?」
 呼ばれた当人含む総ての男性陣は首を傾げた。それが貴信とどう関係するのか。
「いざとなれば壁を壊してでも姉さんを救う。武藤さんも……」
「助けるつもりだ! こやつムクムクの魔手から姉達を助けるつもりだ!!」
「フ。というかそれやったら俺達社会的に死ぬからな」


 とりあえず女性陣たちは貴信の有する神秘を諦めたようだ。

「落ち着け。戦士・秋水。コレぐらいの壁なら壊(や)れるが、そしたらガールズは俺達のムクムクまで見てしまうぞ」
「……はい」
「はいじゃねえよ。どっちも素手で壁壊せるって前提で話進めてんじゃねえよ。おかしいだろ。気付けよ」
「フ。というかまだムクムク引っ張るのか」
(引っ張る……ムクムクしてないとき引っ張ると伸びて面白いけど言わないでおこう)
 さすがに自重する無銘であった。
「というか戦士・秋水。君はムクムクするコトがあるのか?」
 防人はニヤけた。やや下卑た話題だがスキンシップの一環という訳だ。
 秋水の美貌に微かな波紋が広がるが、しかし剛太たちはむしろ「よく聞いた!」という顔だ。
(いかにもスカしてるけど性癖の1つぐらいあるだろ!)
(フ。何しろ姉が桜花だからな。あのエロさを毎日見ていてアテられぬ筈がない!!)
(クク! 暴露しろ! 弱みを握り次第からかってやる! 「やーいやーい○○早坂ー!」とからかってやる!)
 秋水は答えた。
「ありません」
「いや、君だって健全な男子だろ」
「ありません」
「いや。こう……何かの弾みでとか」
「ありません」
「じゃ、じゃあ朝。朝は流石に──…」
「ありません」
 どこまえも毅然とした表情で答える秋水に男性陣は黙りこくった。

((((単にガードが固いのか本当にムクムクしないのか……一体どっちか分からない!!))))



「というか丸聞こえだ! そういう話題はよそでしろ!!」
 斗貴子の怒号と石鹸が飛んできて剛太のこめかみに突き刺さった。
「グハァ!!」
「!! 中村がやられた! 特に何ら下卑た話題をしていなかった中村がやられた!!」
「……遠まわしに秋水お前俺を責めていないか?」
 湯船に顔面を沈めたまま動かない剛太のそばで防人は少し汗をかいた。
「大丈夫!! 斗貴子先輩の投げたものなら俺なんだって平気ですから!! 返しますね先輩! 受け取って下さい!」
 ざばりと起き上がり声高らかに復活を宣言する剛太。彼の突き上げた投擲直前の石鹸を凝視したのは、無銘。
「……なぁ。コレ。奴が使いしものだったりは」
「ファ!?」
 剛太は奇声をあげた。一瞬言葉の意味を掴みかねるほどの歓喜に支配されていたようで、表情ときたら戯画的なヒヨコ
だった。



(石鹸! 斗貴子先輩の手に触れた石鹸! いやひょっとしたら肩とか膝とか足の裏を洗ったかも! それどころかあんな
トコとかこんなトコとか洗ったり!!?)
「言っておくが剛太。それ未使用の新品だからな」
 ポリエステルに包装されている石鹸を見た剛太の中で何かが切れた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 石鹸、飛ぶ!
 哀惜と慟哭の赴くまま轟然としなる剛太の手が生み出すかつてない爆発的加速!
 振り抜かれた指先から解き放たれた瞬間音速に達し荒涼索漠たる男性浴場から飛び去った!

 奇跡は、二度起こった。

 剛太の無念に呼応するよう、総角、無銘、防人らはひたすらに願った。

(神よ! なぜ石鹸を包装された! せめて剥き出しであれば、彼女の手に直接触れた物なら彼は絶望しなかった!!)

(我は認めん! いけ好かぬとはいえ、我が母上にするよう津村がため戦った奴が斯様な結末を迎えるなど……!)

(直撃を受けるべきは俺……。裁かれるべきは俺!)

 交錯する3つの強い願いはこの瞬間光速を超え、次元の壁さえ容易く突き破った。
 そして虚数軸さえ通り過ぎ不確定性原理の粒子と化した結果、あらゆる時系列と平行世界を彷徨う力ある光子と巡り合い
……召された。神の御許へと。

 絶対零度の宇宙背景放射によりこの世界の硫黄の因果を形成する、『三柱』が一つライザウィン=ゼーッ! なる神にも等
しき光子の具象、マレフィックたちが復活せんと画策する悪の大ボスは事情を理解すると「いいぜー」と頷いて、その絶対的
な権能──この世界に幾度とない開闢と終焉をもたらした──あらゆる因果を操作できる超弩級の武装錬金特性を、遠き
遠き隔絶宇宙に浮かぶ小さな星の日本の砂粒ほどしかない寄宿舎大浴場を音速で飛ぶ石鹸に寸分違わず照射した。

 果たして誰も気付かぬ中、未曾有の奇跡が巻き起こる。

 神は透明な包装の取っ手のギザギザに沿って袋を、斜めに開けて、石鹸を取り出さんとされた。

 まさしく神の専横であり決断だった。5709億6381年283日9時間56分4秒に一度できるか否かの介入だった。
 虹色のハレーションと共に、石鹸は、歪な開け方をされた包装に何度かつっかえながら、というか斜めに開けたせいで小さ
すぎる切り口からはいくら頑張って傾けてみても出なかったので、反対側の取っ手のギザギザから切れ目を入れてスゥーっと
裂いてはみたものの、あの中心部にある何かビラビラのついてる妙に厚い方へとやってしまい、最初の切り口と上手く合流
できず開けられず、もどかしい思いをしながら結局ハサミを使って最初の取っ手側を開封して最初からそうしとけば良かっ
たと後悔するという緻密極まる御業をわずか100億分の3秒でやってのけた神のお陰で、(石鹸は)ついに包装を脱出した。

(あ。最初の切り口ブッ裂いて横から出しゃあよかったぜ!)

 神が悔い虚数軸が黄昏に包まれる中、第二の奇跡、きたる!

 剥き出しになった石鹸が放物線を描く先で、湯船の縁に腰掛け一息ついていた、バスタオル姿の千里の胸元に、ぽよん
と入り込んだのだ。

 これは神ですら予想だにしなかった奇跡であった。大人しい眼鏡の少女は突如胸元に飛び込んできた石鹸にたじろいだ。
なぜならそれはぬめっていたからだ。剛太の絶望と、男たちの願いと、神素と、あと、換気の悪い浴場に立ちこめる湿気で
白いアルカリ性は独特かつ不愉快な摩擦係数の欠乏をきたしていた。千里が声にならぬ悲鳴を上げたのは、天井からナメ
クジでも落ちてきたのではないかと一瞬錯覚したからだ。恐る恐るそこを見ると石鹸が、香美たちビッグ3に比べれば見劣り
するが、確かに存し人柄を顕す、ささやかだが整った丘陵地帯の間に挟みこまれているではないか。

(〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!)

 取るべく慌てて手を伸ばした瞬間、その二の腕に接触した膨らみが中央に向かって弾圧され、石鹸をいっそう圧迫。腕を
動かすたび胸の中でぬめった石鹸が上下して逃げるのだ。いつしか胸を覆うバスタオルにシミが浮き始めた。不快感に顔
を赤らめジタバタするうち、泡が皮脂を落とし、ただでさえ滑らかな千里の肌から摩擦を奪う。そうやっていっそう滑りやすく
なった石鹸が、もとよりバスタオルによってきつく圧迫されている膨らみの中を侵していく。捉えどころのない硬いものが、柔
らかい部位に拒まれながらも暴れ狂う未知の感覚。徐々に甘い苦痛へと変わりゆく不快感。千里がどうしていいか分から
ず清楚な眉根をゆがめながら、目に涙を溜め軽く喘ぐ。喘ぎながらも除去すべく、手を動かしたとき、それは来た。


「っ!」


 痙攣する千里。目の焦点が一瞬大きくブレた。

 ブリュンという放出と滞留を兼ね備えた質感が胸部を襲撃したのだ。
 丘陵の麓から頂点へと一足飛びに登りつめた石鹸が、バスタオルの圧迫の赴くまま 敏感な部分を刺激した。
 おぞましいぬめりを帯びた堅いモノが右に左にと微妙な加圧で滑るたび、敏感な部分もぐにゃぐにゃと首を振る。そこが刺
激によって血流の集まる場所だとこのとき千里は初めて知った。保健体育では得られない知識だった。

 感じたコトのない艶かしい疼きにいよいよ体から力が抜ける。眼鏡の奥で瞳が艶やかに溶けていく。

「はっ!」

 千里は視線に気付き我に返る。斗貴子たちが一体何事かと見ているではないか。
 もう恥も外聞もなかった。どうとでもなれとばかりにバスタオルを剥ぎ取る。香美以外の女性が「!?」と目を剥く中、千里は
石鹸を掴み男子浴場めがけブン投げた。


「グハァ!!」


 石鹸、また剛太に直撃。


「ふーっ、ふーっ! 危なかった。いろいろ危なかった……」
「あの。ちーちん。前」
 沙織が、指全開の両手でザルな目隠しをしながら「うきゃー」とばかり見ているのに気付いた瞬間、千里はしゃがみ込んだ。
「ち、ちがいます! 石鹸が、その、胸に入り込んで、そのっ!」

(……将来有望ね。形じゃ負けるかも)
 桜花は思わぬ伏兵の出現に警戒を強めた。
「ちーちんまた成長してる。すごーい」
 まひろは瞳の前で輪を作りながら感心。
「タオル拾ったぞ。ほら。私が壁になるから早く巻きなさい」
 すごいイケメンなコトをいうのは斗貴子。
(勝)
(て)
(な)
(い)
 沙織、毒島、ヴィクトリア、小札はどうあっても到達できない領域を痛感した。
(フンだ……です。私の方が……ピンク色……です…………)
 大きさで負けた鐶は心の中で負け惜しみを言った。






 とりあえず充分浸かったので全員上がる。



 脱衣所。

「あー。頭いてえ。誰だよ。石鹸。2度目の方。誰が飛ばしたんだよ」
「腹が立ったのは分かるが、排水溝に丸ごと突っ込んで流したのは感心しないぞ」
「どうせ溶けるからいいでしょ。そもそも何故かふやけてドロドロでしたし」
 剛太と防人のやり取りに総角、ふと気付く。
(? まさか女性陣の誰かが使ったのか? だとすれば……)
 剛太は、使用済みの石鹸を、普通の男性ならまず喜ぶ幸運を切って捨てたコトになる。
(フ。どの道、津村斗貴子以外の女の使ったものになど興味ないだろうがな。つくづくストイックな奴)


「しかし……結局誰も覗こうとしなかったな。けしからんぞお前達。そういう馬鹿がやれるのは若い内だけだぞ」
 防人はため息をついた。
 男風呂と女風呂を隔てる壁は天井付近が開いている。よじ登ったり肩車すれば誰でも覗けるので、寄宿舎における男女の
入浴時間は本来厳正に分けられている。今日は戦士一同が時間外に勝手に借りたに過ぎない。
「俺はてっきり中村が覗くと思っていたが」
「まあ一度見てるし」
 そうか。流した秋水だがすぐに剛太を見る。
「いま君、何ていった?」
 垂れ目が更に垂れた。
「横浜の外人墓地で再殺部隊に襲われたときさ。円山の武装錬金でミニマムだった先輩が元に戻ってだな」
「あ、ああ。そういうコトか。成程」
 一方、総角と無銘は。
「覗き? フ。俺らがする訳ないだろ」
「そうなのだそうなのだ」
「キミたちもか。意外だな。やろうと思えばやれそうなのに」
 防人は「勿体無い」と目を細めた。
「フ。だって貴信の奴が香美と一緒に女湯行くたび無理やり気絶させてる俺らが」
「覗きなどできるか。これは奴への最低限の節義なのだ!」
「いやそもそも貴信を気絶させてる時点でどうなんだ……」
 秋水は呻いた。
「だいたい覗かれる方にもなってみろ。好きでもない男に無防備な状態を見られるのだぞ!」
「そうだ無銘の言うとおりだ。傷つくし悲しいし怖いだろう。可哀想じゃないか。だから俺は、フ。ふだん長ズボンな小札が川
の清流に入るときちょっとだけ裾あげて白い脛見せる仕草にトキめくようにしている」
「斗貴子先輩なら逆に長ズボンとかいいな……。ロングスカートも……」
 ぽやーとする男2人。ある意味ロマンチストだった。
(………………)
 防人は黙った。
(…………昔、心眼・ブラボーアイで覗けないかどうか三日三晩試したのは黙っておこう)
 結果だが、失敗だった。当然といえば当然だが。


「風呂上りといえばコーシー牛乳なのだ!」
 脱衣所で服を着ると、無銘はココアブラウン色の瓶を高々と掲げた。
「コーシーじゃなくてコーヒーな」
「というかキミ、さっき休憩したときも飲んでなかったか?」
(缶コーヒーを5〜6本飲んでいたな)
 秋水は思い出す。やたら上機嫌でブラックばかり飲んでいた少年忍者を。
 防人はちょっと心配そうに呼びかけた。
「ほどほどにしておきなさい。あまり飲むと胃が荒れるぞ」
「大丈夫なのだブラボーさん。我はホムンクルスなのだ。錬金術の産物にあらぬコーシーなどへっちゃらなのだ」
 そういって無銘はコーヒー牛乳をごくごく呷った。
 更に990ミリリットルのボトルコーヒーをどこからか取り出し一気飲み。

 数分後。

「おなか痛い…………」

 崩れた顔で涙ぐむ無銘が居た。

「フ。コーヒーそのものが胃を傷めるんじゃない。コーヒーに含まれるクロロゲン酸が胃液の分泌を促進するから胃壁が荒
れる。無銘の胃液は、ま、ホムンクルスだから錬金術製。故に胃の破壊は容易く胃痛も起きる」
 気取る総角に「いや最初に言えよ」とみな思った。



 そして浴場を後にする男ども。

 女性陣はもうしばらく入浴するらしい。



「さて、フロにも入ったしそろそろ今日の特訓は終わりだ」

 管理人室で防人が言うと剛太は「アレ?」と首を傾げた。

「じゃあなんでココに集めたんスか? 昨日は俺とか毒島とか音楽隊連中、適当な空き部屋で寝ましたよね?」
「ブラボー。よくぞ聞いてくれた戦士・剛太!」
 防人は景気よく部下を指差した。どうでもいい話だがすっかりこの男、司会属性である。
「俺の見たところガールズはどうやら台本作りで絆を深めたらしい! よって俺達も対抗すべきだ!」
「フ。結束を高める訳ですね。いや結束というか友情だな。なっ、秋水」
「なぜ俺を見る」
 ドヤ顔かつ期待丸出しで見てくる総角を秋水は持て余した。最近馴れ馴れしい認識票ヤローに辟易だ。
「とにかく結束だ。個人個人の能力の底上げについては今夜で一応のメドがついた。元々全員強いからな。今ある力を
武術の機微や重力の使い方でコントロールすれば、残り2日で何とかなる」
 だから次の段階に駒を進めるのだ、防人はそう言った。
「それが、結束」
「強くなった個人たちを連携させると」
「結束たって……いや、ブラボー? 早坂はともかく音楽隊連中はホムンクルスですよ? レティクル斃した後はどうせ処分
するんでしょ? あまり意味ねえっつうかか、手の内知られるだけ損つうか」
「……貴様ミもフタもないな」
 あまりに正論な剛太に無銘は呆れた。」
「戦士・剛太のいうコトも一理ある」
「フ。あるんだ……」
 総角の顔が青くなった。大プロジェクト成功後は提携切りますよといわれた中小企業社長の狼狽がそこにあった。
「だが、それもレティクルに勝てたらの話だ。俺達はまず奴らとの戦いに生き残れるよう最善を尽くさなければならない」
 防人は幾つかレティクルの……10年前、1995年起こった戦団との大決戦の情報を提示した。
「あの戦部でも幹部にゃ勝てなかったのか……」
「犬飼の祖父も追撃中重傷を負いそのケガが元で命を」
 ”幄瀬みくす”なる、強力なサイコメトリー能力の持ち主も成す術なく囚われたという。
「奴らはそれほど強い。そのうえ妙に搦め手を使う。俺達の動きを把握しているフシがあるし」
「フ。幹部一同連携を密にしている」
 今度は無銘が説明する番だった。
「一時期とはいえ所属していた鐶めの話によれば、水星と木星は管鮑の仲。陰謀術数においては奴らほど相性のいい者
はいないという。火星と月、天王星と海王星もタッグを組んでいる。悪といえど連携を軽んじないのだ、奴らは」
「仲違いしているようじゃ守れないってコトか」
 剛太が思い描くのはもちろん斗貴子である。守れるならホムンクルスと手を組むぐらい別にいいやと思うのが彼だ。
 嫌悪はノリだし(両親を殺されてはいるがさほど思うところはない)、戦士の本分どうこうにも拘りはない。斗貴子のため
だけ火渡にケンカを売り戦団から一時離反していたのはこの夏の話。
「戦士長が仰るなら」
 秋水に至っては、すでに何度も触れているが元が信奉者だ。結束どころか下につくコトにさえ抵抗はない。むしろ戦士と
との結束こそ困難であろう。(相手によっては拒む。斗貴子がいい例だ)。
「で、何をするんですか?」
「候補は2つだ。時間がないからな。どちらか好きなほうを多数決で選べ」
 防人は腰の傍で横向きピースをした。
「あの……俺ら偶数なんですけど」
 秋水。剛太。総角。無銘。いま居る4人を見た防人の頬にまた汗。幕末のとある人斬りは油をかけて焼かれたせいで全身
の発汗機能を失くしたというが、防人ときたら五千百度の炎に焼かれてなお汗をかくのである。
 彼は少し黙って、
「……。多数決だ」
 いざとなったら貴信を呼ぼう。そういう結論に達した。

「1つは演劇の打ち合わせだ。秋水はアクション、剛太は裏方、無銘は特効担当で貴信は文芸。総角は大道具。で、俺は
アクション監督な訳だが、今のうちそれぞれの絵を出し合いたい。各人何ができて何ができないか、何をやりたくて何をし
たくないか……といったコトをそれぞれ突きあわせるんだ。そういう意思統一を、役者裏方関係なく一丸でやってこそいい
演劇ができる」
「フ。ノミを入れ合う訳だな」
「俺らだけでそれやっても他の演劇部員が……え? そっちとはもう話し合った? 根回し早っ!」
「同じ集団行動でも剣道の団体戦とは随分違うな」
「おお。なんか軍隊行動という感じで燃えるのだ」
 千里が台本を上梓しだい即応できるように、基盤固めをしようという訳なのだ。防人は。
 このあたり数々の作戦行動を指揮してきた戦士長ならではの機微だろう。
「そして演劇作りを通し、時に協力し時に反発しあいながら互いが互いへの理解を深めていけば、戦闘においてもまた結束
できる!」
「おおー」
 みな目を丸くした。
 一見ただのお遊びのようで、お遊びだから取っ付きやすい目標設定である。





「もう1つは?」
「みんな一緒に少しえっちなビデオを見る!」
 なぜか防人はシルバースキンを着用して目を光らせた。で、解除。
「えーと」
 剛太は頬をかいた。
「フ。なるほど。共に見て親睦を深めると」
 もっともらしく呟く総角だがもうこの時点で残る3人はドン引きである。

 まひろと付き合ったとして手を出すか疑わしい秋水。
 斗貴子一点張りなせいで却って硬派に見える剛太。
 鐶の舌思い出して変な気分になりそうなんで、露骨なのは見たくない無銘。

「……。すごいなお前ら。フ。普通こういう展開なら喜ぶだろうに」
「総角、君、微妙に嬉しそうだな」
 いかにも自信ありげな微笑。よく見ると目元がちょっとだけ緩んでいた。
「というかないでしょ。見るもん。今からビデオ屋いって借りるんスか?
「大丈夫だ! 在庫なら沢山ある!」
「えー」
 秋水達は嫌そうに呻いた。みんな草食だった。テンションがどんどんどんどん下がっていく。
 防人はその空気を敏感に感じとり「引くべきか?」という顔をしたが、総角だけは何か妙に子供っぽい表情で、両拳を握り
「わくわくどきどき」と防人の挙措を見守っている。覗きはしないが、だからこそ合法的なエロが欲しいのだろう。

「期待されてるんじゃ……仕方ないな」

 防人は戦う。ただ1人のため……戦う。

「在庫というのはココに赴任するとき千歳に気付かれぬよう密かに持ってきた俺の私物!」
 押入れからダンボールを1つ取り出し指差す。シミとか破れとかだいぶ年季が入っていて、賞味期限か出荷日か、とにか
く「1996.7.2」という文字が見えた。
「それから生徒達から没収したよからぬもの!」
 大人でさえ一抱えするのがやっとなほど大きな透明なプラスチック製のケースは、本来衣装用らしい。銀成デパートのシールの
横に「HUKU」という斬新なロゴがあしらわれていた。中身は肌色面積がとみに高い。本やDVDのケースがたくさんだ。
「さすがに法律に抵触するような物はないが、いろいろある! 見たかったらいつでも言いなさい。こっそり貸してあげよう、
というか持ち主が必要なとき一時的に返しているしな」
「…………なにしてるんですか戦士長」
「男の、嗜みだ!」
 胸を張る防人。あまりに堂々としすぎていて、だから剛太と秋水は、若干ヒキ気味な自分達の方がおかしいのではないかと
思うのだ。
「どうしたそんなガッカリして。ん? ああそうか戦士・斗貴子や武藤まひろの写真がないからか」
「誰も求めてはいませんが」
 無表情で返す秋水の肩が叩かれた。振り返ると金髪の美丈夫が、膝抱え込む剛太を指差していた。
(中村…………)
 見たかったらしい。

「俺としてはキミ達が仲良くなってくれればどちらでもいいが……時間がない。すぐ決めよう。決を採る」
 どっちがいいか言いなさい。防人に促されるまま男達は希望を述べる。

「「「劇の打ち合わせ!」」」

「フ。えっちなビデオだ!」

 時間が凍った。総角の時間が凍結した。彼は信じられないという様子で他の3人を凝視しそして叫ぶ。

「お前ら空気読めよ!!」
「てめェが言うな!!! なんでこの流れでエロいビデオなんだよ!!」
 総角は立ち上がった。背中に垂れる長い金髪をファサリと梳り、そして答える。
「フ! 何故という問いこそ俺に言わせれば心外……いやもはや論外というべき質疑! 俺は最初から一貫して視聴派で
あるコトを表明した! し続けてきた! そしてそれはお前たちの有する議決権を剥奪するものではない! あくまで俺個人
の意思であるコトは部下たる無銘が打ち合わせを支持しているコトからも最早明らか! ザ・ブレーメンタウンミュージシャン
ズのリーダーとしての権能を一切使わなかったのだ! 部下にエロビを支持させなかったのだ! なら、ならば! 俺個人が
何を支持するかは勝手であり自由だ! 誰をも縛らず、裏切ってもいないのだからな!」
「すっげえこいつ、ガンガン来る」
「誰もが楽しめる普遍的かつ高度な娯楽のために協力し、頑張っていくんじゃなかったのか。総角」
「フ! かつて俺が演劇を評した言葉……わざわざの記憶、全くいたみいるぞ秋水。だが繰り返すがあくまで俺がエロビを推
進するのは個人の意思だ。無銘に支持するよう命じなかった時点で敗亡は明らか。仮に貴信が賛成したとしても、3対2
……結局は勝てんさ。むしろそれが分かっていたからこそ支持したのさ」
「ここでの反対が演劇妨害にならないと踏んだのか」
「そ」
「お言葉ですが師父、師父がゴネているせいで打ち合わせに移行できないのですが……」
 無銘の言葉を聞いた瞬間、総角の体が躍り上がった。
 九頭龍閃・極!? まさか部下に放つのかと秋水が無銘の前に立ちはだかった瞬間!
 総角は深く身をかがめた。胴体がほとんど地面に平行になるぐらい深く。平蜘蛛!? 新手の奇剣が来るのかと流石に
秋水が核鉄を手にした瞬間、総角の両掌が畳を叩いた。バシリという音に剛太は怯むが静寂はまだ遠い。更に連なる乾い
た残響。総角の両膝が畳を直撃し衝撃波が巻き起こる。猛烈な風の波に思わず秋水たち3人は揃って手を前にやり軽く
喘いだ。総角を中心に埃の嵐が舞い上がり彼を隠した。いったい何が起こるのだ? 警戒を強め周囲を見回す秋水たちが
晴れゆく風塵の奥に見たもの、それは。

「フ! 妨害してすまなかった!!」

 土下座で謝る総角だった。
「だっ」
 妙な声を漏らしながら秋水と剛太と無銘はその場に崩れ落ちた。「ズッコケか。見事だ」。防人は感心した。
「謝るのかよ!!」
 よろよろと立ち上がった剛太は怒鳴る。総角は微動だにしない。
「土下座は却って誠意がないよう見られるぞ。普通に頭下げるぐらいでいい」
「師父。実はちょっと楽しんでませんか」
「うん。まあ。少し。あとネタ発言で妨害するの空気読めてないし謝るべきだし」
 がばりと面を上げ、埃を払って立ち上がると、彼は額に指を当て一等星を浮かべた。
「フ。それに政争であれ闘争であれ俺を地べたにやれる奴などそうはいないからな。土下座もなかなか新鮮だ」
「オイこいつまったく反省の色がないぞ」
「こういう奴だ。怒ってもキリがない」
「そうだぞ新人戦士。フ。太陽は心に置くものであって見るものじゃあない」
「あ゛!?」
 剛太の怒りもなんのその。総角は両手を広げ恍惚と呟いた。
「フ。俺から目を背けろ。簡単だろ? 誰だって太陽にしてるじゃないか」
「な?」という顔をする秋水に剛太は黙った。本当鬱陶しい奴だと思った。
「まあ何だ。総角。お前はお前で正しい。そうだビデオデッキに俺のオススメを入れておこう。気が向いたら後で見なさい」
「防人戦士長……!!」
 がしっと腕を組むリーダー格ふたりに「こんな奴らが上司で本当にいいのか」と思う秋水たちであった。

 とりあえずテープを、入れる。
 何かのテープが入っていたので防人は出して、エロいのを入れる。

「ん?」
 一瞬何かを思い出しかけた防人だが、それは剛太の言葉に吹き飛ばされ消失する。
「つーか段ボールの中身全部エロいビデオなんスか?」
 呆れたようなような問いかけに即、呼応。高らかに笑った。
「甘いぞ戦士・剛太! 上から3分の2ほどは俺や火渡だ!」
「…………え」
「え」
「あっ(察し)
「フ。ままままさかそういう間柄だったのですか? 防人戦士長と彼…………」
「待て。そうじゃない。そういう奴じゃない。それは流石にブラボーじゃない。落ち着け。誤解するな。落ち着け」
 防人は冷や汗ダクダクで言葉を正した。
「訓練の映像だ。武装錬金や体術の。俺や火渡の若い頃の、訓練の映像が、訓練の映像が入っているんだ」
「それならそうと言ってくださいよ。ガチでビビりましたよ」
「俺もビビった。まさかそういう捉え方をされるとは思ってもみなかった」
 防人の頬にはまだ汗。
「特訓のテープ! 我は見たい! あとで見たい!」
「ん? ああそうか、キミはまだ人間の体になって間もないんだったな」
「そうなのだ。ゆえにブラボーさんの体術、参考にしたい!」
 いいだろう。防人がいうと無銘は「わーい」とバンザイして喜んだ。

「我が龕灯なれば記録もできる! 照射して参考にできるし、或いは筋繊維の情報だって性質付与できるかもだ!!」」

「流石にそこまで都合よくはいかないと思うが……。しかし君とビデオは相性がいいんだな」
 段ボールの中に入っているテープと無銘を見比べるうち、秋水は気付いた。
「しかし何でまた訓練の記録と、その、いかがわしいテープを一緒の箱に」
「フ。秋水よ。知らないのか。木を隠すなら森の中だ。秘蔵コレクションは普通のドラマとかのテープの下に隠しておけば
いい。後はアレだ。自分がふだん結構見ている作品で、しかも身内は絶対見そうにない、例えばダウンタウンの番組の
ような、部屋に置いてて不自然じゃないテープにだな、1時間ほどその番組録画して、10分余計な空白突っ込んで、そこ
からこう、ギルガメッシュナイトとかエロそうな深夜映画とか撮るのも効果的だ。巻き戻しさえちゃんとしとけばまずバレない」
 防人除く全員の冷たい視線に音楽隊リーダーはうっとりした。
「フ。完璧すぎて声もでないか」
「全然完璧じゃねえよ。賢しい。てかみみっちい」
「君は一体どこを目指しているんだ」
「そうか……。だからガキ使の後にあんなスゴイのが……」」
 防人はというと。
「まあ気にするな。男なら誰でもするさ。俺だって総角のようなコトはしたし」
 ポンと手を打つ。剛太はいよいよ呆れた。
「……だからなんでこんな連中がリーダーなんだ」
「こんなとは仕方だろ剛太。俺達の時代は今ほどネットが発達していなくてな。ビデオに頼らざるを得なかったが」
「隠し場所に困ったと」
 相槌を打つ秋水はだんだん悲しくなってきた。剣道部だからムサい男どものそういう話題を知らないわけではないが、彼
らは一種貴公子然とした秋水には配慮して振ってこない。なのにどうして尊敬しつつある防人とこんな話をしなくちゃならん
のか。
「千歳がよく部屋に出入りしていたからな。俺が留守のとき時々勝手に掃除するんだ。だったらどうにかして隠す他ないだろ」
 捨てるという選択肢はないのか。
「フ。ないさ!」
 何故か? 総角はいう。
「それは俺たちが……男だからさ」
「捨てられない。俺は絶対に捨てられない」
 俯き、静かに呟きながら拳を握る防人。声音も腕も震えていた。
「ブラボーさんカッコいい!」
「よくねえよ!! 女出入りしてるがエロビ捨てたくねえってだけじゃねえか!」
「中村……君最近荒ぶりすぎだ」
 とにかく防人たちが若い頃のエロ事情は過酷だったらしい。
「フ。年齢を示せるものがない俺は悲惨だった。自動販売機だけが神だった」
「知るか!」
「知るかとはひどいぞ戦士・剛太。あの頃はな、18歳になるまで店じゃ借りれないし買えもしない。頼みの綱は深夜の映画
や番組に──…」
「あとたまに木曜洋画劇場」
「そう。アレもブラボーだったな。ドバババザッブーンだった」
「……何がですか?」
「色々さ。とにかく録画し損ねればもう2度と見れない。つまりテープを捨てられるコトは死を意味する。流通品にしたって、
10代の収入じゃそうホイホイ買えないしな。いろいろ策を講じるほかなかったのさ」
「フ。だからこそ珠玉のエロに出逢えた時は感動だ!」
「そうだな。俺も心から叫んだ。ブラボー! と」

「あの。そろそろ演劇の打ち合わせしていいスか?」

 剛太が問うと防人はひどく哀愁を帯びた顔で頷いた。分かって欲しいのに分かってもらえなかったという顔だ。
 総角はそんな彼の肩を叩いた。やがてちゃぶ台に差し向かって座る2人は、なんだか第二次大戦を語る老兵達のような
寂寞に満ちていた。

「この前千歳にamazonの「最近チェックした商品」を見られてな……」
「お察ししますよ防人戦士長。俺は仮宅で宅配テロやられましたよ。小札に見られましたよ」

 彼らの語る惨劇は明日我が身に降りかかるやも知れぬものなのだ。
 剛太も無銘もただ震えた。

(というか君たちまだ18歳未満……)

 そもそもネットで買うべきじゃないと秋水は思った。



 そのころ女性陣の入浴が終わった。


「ところで男湯の方から聞きなれない声がしてましたけど」
 斗貴子が着替え終わると、頃合を見計らったのだろう、千里が話しかけてきた。
「聞きなれない声……? ああ。総角主税と剛太のコトか」
 無銘については同じクラスで秋水・防人は知己。そう判断して斗貴子は答える。
「前者はアレだ。スカした、偉そうな声のほうだ。栴檀たちや鐶の仲間で私達と協力している。いけ好かないがな」
「……な、なんとなく分かりますが」
 目を尖らせる先輩に千里は苦笑いをした。声や口調から人となりを大体掴んだらしい。
「もう1人……掠れた声の方は剛太だ。私の後輩に当たる」
「そういえば先輩って呼ばれましたね」
 だがどうしてヤブカラボウに? いぶかる斗貴子。千里は口を手で覆い思案顔で答える。
「どこかで聞いた気がするんですよ。結構最近……どこかで」

 かつて鐶が銀成学園を襲撃したとき、沙織を探し校内を走っていた千里は剛太と遭遇している。
 顔は見ていないし、彼もすぐその場を立ち去ったから、あまりハッキリとは覚えていないが。

「気になるなら紹介するが。実際逢った方がキミの疑問も解けるだろう」
「あ、すいません。わざわざ」
 千里は軽く一礼した。あまり話したコトのない斗貴子だが、こういう部分は好きである。後輩の些細な疑問など別に解消す
べき義務はないのに、わざわざ便宜を計ろうとしている。ぶっきらぼうだが面倒見はいいのだ、斗貴子は。
「でもお気持ちだけ受け取っておきます。その、台本の件がありますし」
「そうだったな。締め切りまで時間がない。確か……徹夜」
「ええ。何とか間に合わせます」
「勉強で慣れていると聞いたが、まぁ、あまり無理をしないようにな。少々遅れても構わない。パピヨンが何か言ったら私が
どうにかする。だから休みたければ休め。夜更かしは体に悪いし能率も下がる」
「はい。……ありがとうございます」
 不思議な女性だと思う。日常に溶け込もうとしないのに、その日常で生きる千里のような人間にはひどく優しい。守ろうと
もする。事務的なのに冷たさはない。テキパキとした、頼れる、部活の副部長という感じだ。


「台本、頑張らないと」


 斗貴子や小札たち非日常組と別れる。部屋へ続く廊下で千里は伸びをした。




「私はちーちん手伝うよ。お茶汲みとか細かい作業ぐらいなら手伝えるし」
「私も」

 沙織とヴィクトリアは千里を手伝うようだ。

「あ、貴信せんぱい貴信せんぱい。朝になったら一緒に台本見ませんか」
 髪にドライヤーをかけながら大きく手を伸ばし香美に呼びかける。
「さすがに一晩一緒は問題ありますけど、朝なら見てもらえると思うんですよー」
『……! あ、ああ!! 了解した! ところで時間は』
「えーと。時間はー」
 何時がいいだろうか。ヴィクトリアと話す沙織の姿に貴信はちょっとウルウルしていた。

(いいコだなあ……。僕なんかを誘ってくれて。あのコの為にも調べ物、頑張らないとなあ)


 香美はよく分からないが嬉しいので「えへへー」と笑った。


「私達はどうするの? ココで解散するなら私からブラボーさんに連絡入れるけど」
 桜花の申し出に斗貴子はちょっと考えた。もう夜は遅い。管理人室にいった所で就寝を言い渡されるだろう。
 小札たちの監視については、昨晩と同じく、適当な空き部屋に入ってもらい、かつて30人からのムーンフェイスを地引
網のように包囲したシルバースキンリバース(ストレイトネット)で以て軟禁すればいいだろう。
「まあ、電話すれば戦士長が向こうから引き取りにくるだろう。私も同伴した方が安全だってのに寝るよう薦めるんだあの
人は。任務で不寝番が必要なときはいつだって自分が引き受ける。私にだってそれ位できるのに」
 面白くなさそうにいう斗貴子の額を軽い衝撃が通り過ぎた。ちょっとギョっとすると視界いっぱいに笑顔が広がった。
「こらこら津村さん。そんなにブラボーさん邪険にしないの。気遣ってくれる人がいるのはいいものよ」
 桜花にデコピンをかまされた……と気付くや一瞬カっとなりかけた斗貴子だが、また気付く。言葉に潜む軽い重さに。
「……そういえばキミは実の両親に」
 捨てられ過酷な共同体に、という言葉は唇にぷにゅりと沈む白い人差し指に押し込められた。
「私のコトはいいじゃない。秋水クンが居るし思い出もある。いろいろ辛かったけど今はそれで救われてる。充分よ」
 でも、と見事な黒髪を揺らしながら生徒会長は言う。
「私に言わせれば津村さんの方が辛そうよ」
 それ以上は言わなかったが、本質は決して浅慮ではない斗貴子だから、何を言われているか位すぐ分かった。
(そうだな。私はホムンクルスに両親を殺された上に、記憶を、かつてあった日常を失くしている)


──「戦士・斗貴子。俺はキミに生きて欲しい」

──「できれば普通の幸福を味わって欲しいと願っている」

──「だからこそ戦う動機を今一度見つめなおすべきだ」

──「キミは日常を知らない。守るべき日常を」

──「キミだって誰かの目に映る日常なんだ。キミがいなくなって泣く者だっている。或いはキミを希望とする者も……」

──「だから俺はそういった物を知ってほしい。そういった物がキミを大切にしているコトに気付いてほしい」

 防人に言われた言葉は、秋水や、貴信と香美の助言を経て揺らぎになった。

 それが失ったはずの記憶を少しずつ少しずつ手繰り寄せている。

 毒島も台本製作の場を借りて励ましてくれた。わずか2000文字以内で語られた、赤銅島事件の首謀者のその後や、
被害者の”妹”らしき人物の存在もまた闇の彼方にある過去を呼び起こした。

 沈黙し少し戸惑う斗貴子の頭を桜花はそっと撫でた。

「津村さんは賢いからもうどうすればいいか分かってるわよね?」
「……戦士長と話す。私の過去についてもう一度」
「そうね。それが一番。大丈夫。津村さんなら秋水クンのようにはならないから」
「…………」
 金色の瞳の奥を少し湿らせながら斗貴子は桜花から視線を外す。他のものならぶっきらぼうながらに礼をいう所だが、
ふだん腹黒腹黒と嫌っている桜花相手だと少し言葉を出しづらい。
「あらあら。本当に分かりやすいわね津村さん」
 もう全部見透かしているのだろう。聡明な少女は眉をしかめつつもクスクス笑った。
 それが面白くないので斗貴子は目を尖らせた。
「……ホント最近よく笑うなキミは」
 斗貴子の知る限りでは、特訓中だけでも最低5回、心底から笑っていた。
 作り物ではない、まひろぐらいあどけない顔に驚いたから覚えている。
「………………」
 一瞬、桜花は目の色を変えた。何か気付いたらしい。しかしそれは言わなかった。すぐいつもの、魅力的すぎるがゆえに
却って社交辞令なのが分かる微笑を湛え、呟いた。
「ここでの暮らしが楽しいからよ」
「お前がいうとウソくさいし胡散臭い」
 ツッコみながらも流石に「むかしそれを壊そうとしていたくせに」とまでは言わない。
 桜花はそんな斗貴子をしげしげと見てから、はにかんで、笑う。
「楽しいのはきっと、みんなが楽しくしてるからよ。みんなが楽しいのは津村さんがいるからよ」
「どうした。桜花お前いったいどうした。大丈夫か?」
 狼狽すると彼女は露骨に唇を尖らせた。
「失礼ね。いまの言葉は本当だし、結構勇気だして言ったのよ」
「そ、それはすまないな。腹黒で、実際さっきも洪水のアレでズルしたキミにしては余りにしおらしいから、つい」
「失礼ね」
 胸を反らして威圧する──実際すさまじい威圧感だった。高尾山の前にエベレストが来たようだった──桜花に冷や汗
かきつつ謝る斗貴子。
「私怒ったから」
 ぷいと顔を背ける桜花。珍しい反応だった。ふだんの彼女なら、「あらそう」と冷笑して舌戦中断、ただちにより実効的かつ
悪辣な手段によって報復するところだった。それが露骨に怒りを示しつつ、攻撃はせず、かといって去りもせず、留まっている。
 どうしたものかと斗貴子が攻めあぐねていると、わざとらしい、拗ねた顔が向き直った。ちょっと楽しそうだった。
「怒ったから、この寄宿舎における津村さんの立ち位置、すごく綺麗な言い方しちゃう」
「お前……。私が腹黒じゃないお前を不気味がってるの承知で言ってるな」
「津村さんはね、もう日常の一部なのよ。まひろちゃんたちにとって、そこに居るのがもう当然になっちゃってるのよ。短気で、
強くて、一見近寄りがたいけど優しくて、それこそ何かの部活の副部長のように頼りがいのある人で、だから私もその……
『ブレーキかけてくれるかな』って信じて、その、時々、ふざけたり……できる訳で…………」
「どうした!? 桜花お前本当にどうした。!?」
 消え入りそうな声で恥ずかしそうに呟く腹黒生徒会長に斗貴子はつくづく面食らった。
「とにかく!! 津村さんのような異物がいるからこそ日常は面白いの!! あなたはおしるこにとっての塩なのよ!!!」
「異物!? 塩!?」
 斗貴子は愕然とした。言葉にもだが桜花への驚愕はそれ以上である。
 常に腹に一物あるからこそ本音を言うのが恥ずかしいのだろう。桜花は真赤になって叫んでいた。
 両目をギュッとつぶるヤケクソな叫びだった。
「いや本当、キミ、大丈夫か?」
 愕然とする斗貴子を映し鏡に自分らしからぬ行状に気付いたようで、「ぅ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」と声にならぬ声で唸り──
まひろはおろか小札・毒島よりも幼い顔だった。エンゼル御前にも現われない、10数年秋水以外に心を鎖してきた故の、深層
にある幼さが全開だった──それから脱兎のごとく脱衣所を逃げ出した。

『すごい……桜花氏が逃げた…………』
「よーわからん」
「桜花姉さんなだけに…………スクールに思うところ……いろいろ……あるのです……」


「桜花……」
 斗貴子はちょっと瞳を揺らすと。
「ふだんアレな奴が急にしおらしくなると決まって死ぬんだが大丈夫か?」
 半眼で呻いた。

「死亡フラグ……です。加速さんとか錬金術さんと違って救済措置……ありません……。桜花姉さんな……だけに…………」
『何の話!?』
 鐶に貴信が突っ込む中、小札はうんうんと頷いた。
「おそらく鐶副長のお好きなゲームの話だと不肖お見受けしました。懐いておられるのもその繋がりやも知れませぬ」
 何がなにやら。香美が顔をしかめる中、更に腕組みするロバ少女。
「うぅ。それに引き換え不肖は零と書いて「あや」……。地味かつありふれたこの名前……きっとゲームにないでしょう……」
「………………」
 鐶は黙った。あるか否か言った場合、小札が義姉に色々されそうな気がした。



「あ、桜花からメールが来た」
 斗貴子が、振動するケータイを開くと……



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本文:《私だって新たに開いた世界の中で迷いながら、戸惑いながら、少しずつ変わろうと頑張っているの》


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「え? ああ、うん」
 何をあの腹黒は言い出しているのだろう。思いながら続きを読む。


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本文:《さっきのはきっと津村さんにすら心開けるほど成長した証だと私思うの》


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「自分で言うな! 鬱陶しい!」
「桜花姉さん……お茶目さん…………です」
 当たり前のように覗き込んでくる鐶を後ろへ追いやる。貴信の謝る声がした。


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本文:《死なないでね津村さん。私……。津村さんが死んだら、悲しい!!》


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(すごいなこの文章。マトモなコト書いてるのに、感情というものがまったく伝わってこない)


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本文:《そうね。まひろちゃんが書いたらきっと伝わるのにね》


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(こっちの思考読んでやがるし!!)
 だったら書くなと思ったが、桜花なりに色々照れているのだろ。


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本文:《過去の件だけど、実は台本チェックに行く前、管理人室のビデオデッキに、ブラボーさんから渡されたテープをセット
しておいたわ。赤銅島関連の映像が入っているそうよ。興味があればヒマな時にでも見て》


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「で、自分だけシレっと普段に戻るのな! こっちは色々振り回されているのに!!」
 もちろん配慮には感謝しているが、桜花相手だとどうしても騒いでしまうのが斗貴子だ。


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本文:《マジメな話、レティクルはL・X・Eなんか比較にならないほど強いっていうわ。津村さんは強いけど、今までと同じじゃ
足元すくわれて終わるわよ。もうまひろちゃんたちにとっては日常の一部なんだから、その辺ちゃんと弁えてね》


──────────────────────────────────────────────────


「………………。早坂秋水といい桜花といい、どうして私にそういうコトばかり言うんだ」
 斗貴子は、自分を殺そうとしたホムンクルスを絶対に許さない。どころかこの夏、再殺部隊ではあるが、同じ人間を、戦士を、
殺しにかかってきたという理由で、殺さんとした。

 斗貴子は早坂姉弟をむかし殺そうとした。人間で、やり直せるとカズキが止めたにも関わらずだ。

(なのにキミたちは私に死ねと言わないんだな)

 それがカズキに救われたせいなのか、桜花たち本来の性質なのかは分からない。

 確かなのは、「殺す」以上の解決方法もあるらしい、というコトだ。
 もし桜花たちの言葉が、かつて襲い掛かってきた斗貴子の命を救うのなら、それはきっと恩讐を超えた事象になる。
 彼女らの目指しているコト……開いた世界を歩くコトは、きっとそういうものを目指しているのだろうと斗貴子は思った。


 そして最後の一文を読んだ斗貴子は、噛み締めるよう静かに目を瞑る。

──────────────────────────────────────────────────


本文:《津村さんが死んだら剛太クンだって悲しむわよ。そうならないよう彼は一生懸命なの。分かってあげて。ね?》


──────────────────────────────────────────────────


 すっかり静まり返った寄宿舎の廊下の角で、最後の一文を打ち終えた桜花は軽く俯いた。
 美しい顔。だが表情は、灰みがかった黒い影に隠され見えない。


 うら寂しい鈴虫の声だけがあたりに響く。
 無限の星の瞬く美しい空。されど桜を包むにはやや寒い。



 一方、斗貴子。


「あ……。参戦、おめでとう……ございます…………。ぱちぱち……」
「何の話だ!!」
 拍手してくる鐶に怒鳴ると(貴信はまた平謝りだった。完全に保護者だった)、腰に手を当て歩き出す。



「管理人室のビデオデッキに赤銅島のテープ……だったな。音楽隊連行しがてら見に行こう」



 その管理人室で。


「ところで防人戦士長、このビデオデッキに入っているテープというのは?」
「すごい奴だ! 。ガールズにはとても見せられないスゴイ奴だ」
「フ。それはそれは。小札に見られたら死にますね俺は」

 語る総角と防人は気付かない。
 そのテープを入れるため、何が出されたかを。

『赤銅島記録映像』

 そう書かれたテープはすでにちゃぶ台の上……。



 斗貴子は赤銅島記録映像を見るため管理人室へ足を進める。



「打ち合わせが終わったら共に見るか。総角」
「ええ。ぜひとも」


 打ち合わせが終わるまであと2分。
 斗貴子が管理人室のドアを開けるまであと2分15秒。

「懸案は女性陣だが、来るとき桜花が連絡する手筈になっている」
「フ。つまりメールがきしだい撤収。ここから浴場までは徒歩3分」
「余裕だな」
「余裕ですよ。バレる訳がない」

 笑いあう男達は気付かない。

 斗貴子が、小札が、あと鐶と香美とそのオマケが、徐々に近づいてくるのを。


(連絡は……いいか。桜花がしているだろう)


 その桜花は、斗貴子へのメールに色々エネルギーと頭を使ったので、つい、防人への連絡を忘れていた。
 どうせ直接逢うのだから、しない方が2人のためだと心のどこかで思っていたせいもある。

 ふだんならこういう局面でも念のため斗貴子か防人に連絡する桜花。

 その彼女が、斗貴子に対し珍しく舞い上がったため招いたミスが、

 「桜花なら連絡してくれるだろう」という防人と斗貴子の思い込みが。


 思わぬ事態を招く
「総角の技を、私が?」
 いよいよ管理人室が見えた辺りで、斗貴子は眉をひそめた。相手は小札。
「はい。九頭龍閃……もりもりさんが最も得意とされる飛天御剣流の技。斗貴子さんどのなら必ずや使いこなせまする!」
「……秋水から聞いてはいる。確か、一撃必殺の威力を有する斬撃を9方向から同時に叩き込む技だったな」
「はい」
「いや無理だろ」
「即答!?」
 目を剥きのけぞる小札はやや戯画的。
「そもそも何であいつら9発同時に攻撃できるんだ! 刀は一本だろ!」
「…………やろう。…………タブー中のタブーに触れやがった……です」
 誰でも一度は思うコトを斗貴子は述べた。これで二重の極みの練習をやり、更に傘で牙突をやれば完璧だ。
「いえ、不肖が言っておりますのはバルキリースカート……それもダブル武装錬金をした上でのお話でして……」
「……」
 今度は斗貴子が驚く番だった。
「確かに……8本の処刑鎌なら同時攻撃は容易い。それを剣道型の斬撃でか……。確かに、理に叶っているというか殺傷
力も高そうだが…………しかし残る1つはどうする?」
「ご主人言ってるじゃん。『何か刃物の武装錬金を借りればいい』って」
 貴信は自分の大声を踏まえたのか。香美に代弁させた。ここは夜の廊下なのだ。
「……たとえば…………私のクロムクレイドルトゥグレイヴとか……」
「或いは早坂秋水のソードサムライX……? 突貫しつつ繰り出せば9撃目になるが」
 いかにもブッ飛んだ技が急に現実的になってきて斗貴子は戸惑った。
「神速を旨とする飛天御剣流と高速機動を誇る斗貴子さんどのの相性は恐らくバツグン!」
「あと……顔も…………似てますし……」
「何の話だ! というか小札、なんだその呼び方は!」
「いえ、斗貴子どのというのは語呂が悪いゆえ……」
「え、なになにご主人。フンフン。えと、伝言。『確かに彼女はさんづけが一番しっくりくる』そうじゃん」
 どうでもいい。肩を落としつつ斗貴子は言う。


「やっとついた」



 管理人室のドアノブに手をかける。


 それが男性陣の破滅の発端とも知らず。






 打ち合わせが終わりさあHなビデオ見るぞと総角がリモコン操作した瞬間それは来た。

「戦士長。入浴終わりまし──…」

 ドアが開いた。管理人室は狭い。そこからテレビは丸見えだ。何を見ているかも。

(馬鹿っ! 総角ビデオ止めろ!!)
(マズイ。このままでは)
(我たちも一緒に見てたと思われる!!)

 一貫して視聴を拒み、つい先ほどまでマジメに演劇の打ち合わせをしていた剛太たちは焦った。
 総角ひとりの不手際で冤罪を被るのはあまりに悲惨であろう。
 だがビデオは止まらない。無情にも回り出すテープ。始まる再生。

(かくなる上は──…)

 誰もが絶望に顔を歪める中、鳩尾無銘、一世一代の賭けに出る!



 入室した斗貴子は用件を述べたのち……テレビを見た。

 再生はされている。チャンネルはビデオ用で、だからテープの中身は無情なほど忠実に映っている。

「なんだコレは」

 斗貴子は顔をしかめた。剛太はもう世の終わりだと頭を抱えた。


「みんなして戦士長の特訓なんか見て。そんなに武術が気に入ったのか?」


 秋水、剛太、総角、防人はみんな一瞬言葉を失くした。斗貴子の言葉の意味が分からなかった。再生されたのは、いかが
わしいビデオの筈なのに。

(どういうコトだ?)

 テレビを見る。確かに斗貴子の言うとおりだった。若い防人が突きや蹴りを繰り出している。

(っ。まさか!)

 総角が弾けるように振り返ったのは無銘。
 正座し膝に手を載せる彼は後ろ向きのため表情は見えなかったが、頬がおびただしく発汗しておりただならぬ様子だ。

(そうか! 龕灯!!)
(映像の性質付与! 津村が入ってくる瞬間、段ボールにあった訓練のビデオを複写!)
(ビデオデッキの中にあるお宝に上書きしたという訳か! ブラボーだ!!)

 無銘は息を荒げ、顎の汗を拭い、思う。

(危なかった……。マジで危機一髪だった…………))

 女性陣が去った後、無銘は胴上げされるがそれはまた別の話。


「…………」

 防人はテレビを見て黙り込んだ。

 若かりし頃の自分。赤銅島以前の自分。挫折など知らず懸命に訓練に励んでいる自分。


 技は今よりも拙い。なのに気迫は、今以上で……。


 寂しげに微笑する防人に秋水もまた黙り込んだ。恩義ある彼に何ができるか……考える。



「あ、ブラボー!」


 斗貴子と音楽隊の後ろから元気のいい声があがった。男性陣が無銘から視線を移す(総角はさりげなく停止ボタンを押
しテレビも消した)、栗色の髪が鐶や香美の間から躍り出た。

「やっと会えた! あのね、今日こそ名前を──…」

 そこまで言って急にハッと目を見開いたまひろは奇矯だが、普段からそうなだけに誰も特に何も言わない。

(ハッ! 斗貴子さんのお陰で、名字か名前が”防人”ってトコまで分かったけど、でも……)

 それを名乗っていないのは何故だろう。それを考えた瞬間まひろは本名の追求が防人にとってひどく辛い行為のように
思えてきた。

(だめだめだめ! 迂闊に聞いちゃダメなコトだった!!)

 目を向き合う不等号にして首をブルブル振るまひろに斗貴子たちは呆気にとられた。

(なんだ。急に飛び出してきたと思ったら)
(すっげえ落ち込んだ表情して)
(歌舞伎役者がごとく首を振り始めた……)



 防人だけがちょっと思案顔をしてから返答。

「フム。俺の名前の件か。そーいや特訓覗いてたしな。総角か毒島の口から聞いていても不思議じゃない」
「えっ!? ああえとそうじゃなくて実は斗k……あ! 違うよ! 斗貴子さんは悪くないよ! まったく無関係だから!!」
「語るに落ちてるぞキミ……」
 動揺しながら庇おうとする(むしろ暴露している)まひろに斗貴子が呆れる中、防人は軽く嘆息し目を瞑る。
「一部か……或いは全部か。どこまで知っているか分からないが、俺は本名で呼ばれたくないんだ。色々あってな」
 名前を呼ぶコトで距離を詰めたい、仲良くしたいとするまひろに、「君の気持ちは分かるしブラボーだ」としながらも、
防人は、「ただ」と静かに呟いた。瞳に愁いが満ちたのを斗貴子は見逃さなかった。

「俺は7年前その名を捨てた。もう誰にも呼ばれたくない」

 まひろはちょっと黙っていたが、ちょっと困ったように微笑して答える。
「そっか。嫌なら無理に呼ばないよ」
 普段こそ色々奇妙だが、引くべき時には引ける辺りさすがカズキの妹というべきか。
(……)
 それでも防人の胸は痛む。自分の弱さが巡り巡ってまひろに「らしくもない」配慮をさせ、心から笑わせずにいるように
感じたのだ。それでなくても以前、カズキが月に消えたコトを告げ、泣かせてしまった経緯がある。
 更に彼女の前には斗貴子。明らかにまだ過去を取り戻していないのが目に見える斗貴子。


「まあアレだ。本名はヒミツだが今日は特別。なぜ俺がブラボーと名乗っているか教えてやろう」
 聞きたいかと聞くとまひろは全力で手を挙げ頷いた。
「あれは7年前だ。俺は任務中、ある女の子と出逢ってな。”ブラブラ”している”坊主”だから、略してブラ坊ですね……そう
言われた」
「おお。それが由来」
 斗貴子の頭痛がまた蘇ったのにも築かずまひろは感嘆。

「その女のコは俺にとってとても大事な存在だ。大袈裟と思われるかも知れないが、彼女はいわば過去の希望の象徴なんだ。
だから……そのコに付けてもらったあだ名もまた、過去の希望の象徴なんだ」


「だから呼ばれるたび俺は強くなれる。過去出逢った希望を……実感できる」


「イイ話だ。イイ話だね。うぅぅ」
 まひろは滝のような涙をドバドバ投下した。コップの水を叩きつけているような飛沫が足元で弾ける。


(……総角)
(フ。そうだな秋水。恐らく名付け親は津村斗貴子。戦士長どのの意識が彼女に行ってる「ニオイ」がする)
(武藤まひろに聞かせるフリをしつつ、記憶喪失という津村めに、さりげなく聞かせ)
(先輩の記憶を……過去を、取り戻そうとしている)

 男性陣は気付いた。防人の目論みを。まひろに敬意を払いながら斗貴子に、先ほど日常を取り戻すべく命じた部下に、
その手掛かりを与えんとしているのだ彼は。


「あ。でもブラボー。そのコって……」
 まひろは不安そうな目をした。もし名付け親が既にこの世にいなければ、ブラボーと呼ばれるのも辛いんじゃないか、そう
いう目だった。
「大丈夫。そのコなら元気さ。毎日元気にやっている。俺とも離れ離れにはなっていない」
 良かった。豊かな胸に手を当て安心したようにまひろは細く息を吐き。

「あ、それならさ、ブラボー。あのね、希望っていうのは、振り返ってるだけじゃ、いつまで立っても昔のままだよ。サイズだよ」

 意外なコトを口にした。

「ム?」
「希望をくれたコがまだ元気ならさ、次は一緒にこんなコトしたいなーって考えた方がいいんじゃないかな。そしたらさ、その
コが付けてくれたあだ名もさ、呼ばれるたび、もっとこう、たくさんたくさん頑張れるんじゃないかな」
「……」
 防人は気付く。斗貴子をあくまで過去の希望と見ていたコトに。もうどうにもできない時代の象徴として見ていたコトに。

「そしたら、現在(いま)も一緒に生きてるから……この先も一緒に生きたいってね、希望がもっとこーーんな大きくなって」

 頭上に両手で輪を作り、

「もっと頑張れるかも知れないよ」

 そういってまひろは笑う。今度は心からの笑みだった。名付け親の人と幸せになって欲しいという願いがたくさん籠っていた。



 その顔に秋水は一瞬見とれた。



 一方、総角は。

「あの、俺、結構呼んでたんだけど。戦士長どののお名前」
「大丈夫! もりもりさんが他の方に疎ましがられるのはいつものコト!」
「それ励ましだよな、小札それ励ましなんだよな?」

 本名呼びを反省し、二度としないと決めた。

(私も……)

 毒島も改めるコトとした。



 そしてキャプテンブラボーこと防人衛は──…



                      『明日に。ああ繋がる今日ぐらい』



 防人衛はむかしから後進の指導に当たってきた。武藤カズキ、そしていまは亡き(と思われている)剣持真希士などがいい
例だ。古くからの付き合いがある火渡赤馬などは若くして早々に半ばトレーナーと化した防人を内心苦々しく思っているが、
──むろん例の五千百度の炎で誤って焼く前から──実際そちら方面の才能にもなかなか飛びぬけたものがある。
 武装錬金の特性ゆえだろう。一切攻撃力を持たない防御一辺倒の防護服。かれはその硬質を攻撃力に転化したい一心で
自らの体を鍛え上げた。鍛錬に近道はない。誰もが地味で苦痛と敬遠する過酷を繰り返してきた。何遍も、何万遍も。
 特別な才能を持たず、常にあらゆる動作をゼロから考え組み立ててきた防人だからこそ、教師たりうる。
 凡庸な新米どもに一から体の使い方を教授できるのだ。
 名選手が常に名監督たりうるとは限らない。才覚と教導は別なのだ。


 一から肉体を築きあげた防人だから、こと体の鍛え方はいちいち合理的である。精神論こそ重んじるが、前時代的な、苦痛に
耐えさえすれば万事解決という考えは無い。実戦において訓練通りの力を発揮するにはどうすればいいか、如何に精神を保つ
べきか……彼に育てられたものは常に、肉体のポテンシャルを最大限引き出すコトを意識する。
 だから彼は苦痛の少ないものを奨励するが、同時にそうでないものも併せて薦める。
 実戦において避けられない痛みや苦しみ、疲弊といった要素が酷い訓練を敢えてやらせる。「精神コントロールの訓練だ。
これができなければ到底ホムンクルスには勝てないぞ」、そう告げて。





 キャプテン・ブラボー。




 防人の対外的な名前である。由来はフランス語の「ブラボー」……ではない。

『ブラブラ坊主……仕事もせずにブラブラしている坊主』の略である。

 防人は7年前、ある島のある旧家に住み込んでいた。むろん潜入捜査である。その聞き込みと戦闘準備(ランニング・
トレーニング)でよく家を空ける姿に島民は、「仕事もせずブラブラして」と呆れ返ったものだ。

「略して、ブラ坊ですね!!」

 やがてそんなあだ名をつけた少女こそ……津村斗貴子。防人は津村家にいた。多くの場合ホムンクルスはその土地
一番の旧家を根城にする。津村家は正にその条件を満たしていた。防人が潜入したのは必然だった。

 斗貴子は、覚えていない。

 自分が一種の名付け親だとは。

 10歳以前の記憶がところどころ抜け落ちている。
 ホムンクルスが学校に押し寄せ友人を喰らい散らかす惨劇を見て以来、斗貴子は過去と日常を失った。
 一時期とはいえ一つ屋根の下で暮らしていた防人の本名さえ今はもう覚えていない。


 防人は幼い頃、ヒーローに夢見てた。

 弱い人々を守りたいと。

 辛い特訓に耐えればいつか世界総てを守れるヒーローになれると。

 そのためならどんな努力も惜しまなかった。思春期が過ぎ肉体ができあがる頃、努力は本当に実っていた。
 他の戦士が武装錬金に頼ってようやく斃せるホムンクルス。
 それと身体能力のみで渡り合えるほど防人は強くなった。
 自負に足る力量を手に入れたのだ。
 火渡のような総てを焼き尽くす最強の攻撃力などなくても、自分の瞳(め)に映る人々総てを守れる。
 きっと守れる。

『何でもいいから誰も泣かない世界が欲しい』

 静かな、けれど今にも叫びだしたくなるほど熱い想いで信じていた。

 訓練の中で。戦いの中で。過酷を烈しく斬り裂きながら信じていた。

 けれど斗貴子の故郷・赤銅島で。

 防人たちは救えなかった。島の人々を救えなかった。
 潜入捜査で知り合った斗貴子の親族も学校の生徒たちも。
 ホムンクルスに。
 喰われ。あるいは証拠隠滅の土石流に潰され。
 死なせてしまった。

 主犯格たちは少年だった。いったい何年生きていたかは不明だが、少なくても見た目は少年だった。

 そんな彼らがクラスメイトを、村人を、殺した。

 津村家住み込みの、交流のあった老人たちが同じく住み込みの少年に喰い殺されるのを目の当たりにしたとき。

 いたいけな声を漏らす主犯格たちをシルバースキンの拘束具(ストレイトジャケット)で圧殺したとき。

 防人の心は……冷えた。
 夢に静かに燃えていた心が熱を無くした。


 やがて防人衛は名前を捨てる。
 赤銅島の一件を機にヒーローを諦め──…

 力不足で斗貴子しか助けられなかった自分をまるで罰するように。


 名乗り始めた。

 キャプテン・ブラボーと。


 与えられた任務の中で最良の策を執り、最大の効果をあげるコトを第一に考えるキャプテン。
 それが新しい道だった。それが正しいと信じた。少年は限界を知ったのだ。自分には世界総て守れる力がない、と。限度
があり一定範囲にしか及ばない。そう、悟った。有限で、もはや進歩のない力だからこそキャプテンとして最良の策を執り、
最大の、効果を上げんと務めた。僅かしかないリソースを懸命に振り分けんとした。
 冷えた心の本質を大人らしい成熟の証、冷静と捉え防人は……いや、キャプテン・ブラボーは新たな日々を送り出す。

 それでいいと信じた。信じようとした。満足はなかった。赤銅島以前に時おり感じた手ごたえ、自分は目標に向かって確かに
進んでいるのだという充足感。それがない。キャプテン・ブラボーは新たな目標に向かって歩き出した。他の誰でもない自分
自身の決めたコトを達さんと動き出した。にも関わらず充足はない。

(いいんだ。俺は赤銅島を守れなかった。罰だ。これで……いい)

 底冷えを抱えたまましかし表面だけは柔軟に朗らかに振舞う。

 火渡というかつての盟友はそれが不服らしく

「いい加減気付けよ! 世界総て救うとかぬかしといてたかが島1つで諦めちまった奴が! 別な細かいコト誤魔化すように
おっぱじめて上手くいく訳ねェだろうが!! いい加減切り捨てろ!! 割り切れ!!」

 よく突っかかってきた。

 それと真っ向切って対立できない自分に喪失をみた。理念が凍り無意識の大海のいずこかへ埋没したのを知る。
 成長とはまったく違う変化。明らかに迷いだした舵。何処へも行き着けぬ指針だと薄々気付きつつ変えられぬ矛盾。

 夢。

 本当に叶えたいものはまだ遠くに見えている。けれど氷壁が彼とそれとを隔絶している。
 赤銅島の人々はみな善人だった。

 斗貴子の曽祖父・貴蔵は、『防人衛』の素直さを高く評価し雇い入れた。
 和服が気に入った、だから貫く……真っ直ぐで自信に溢れた姿勢は防人に大きな影響を与えた。
 後年核鉄を錬金戦団に返還してなおシルバースキンを模した特注のコートを着るほどに。

 津村家に仕える3つ子の老人はいつだって陽気だった。
 何かあるたび大声で大口で大笑する姿に幸福とは何か教えられた。
 長生きで、人に必要とされ、いつも笑っていて。そんな姿が防人は好きだった。

 斗貴子の両親は2人とも優しい雰囲気を纏っていた。祖父母は地引網に参加するほど元気だった。

 島民たちとも交流があった。
 針に糸を通したり瓶のフタを開けたりといった小さな手助けをしているうち自然と仲良くなった。

(皆、助けられなかった)

 夢見た結果、生き残った島民は斗貴子ただ1人。
 防人はキャプテン・ブラボーとして生きるほかなくなった。

 けれどその道も彼を救わなかった。むしろ道すがらずっと心は冷えていった。

 剣持真希士という、気のいい大型犬に似た。防人と同じように楽園を求めていた部下を麾下において亡くした時。

 心はまた冷えた。今にも泣きそうな顔を防護服の奥に押し込めた。

 求めていた筈の最良の策も最大の効果もそこにはなかった。挫け新たに選んだ道にも救いはない。何を選ぼうと結局は
そうなのだ……現実を知るキャプテンブラボーはそう思おうとした。すでに力が及ばぬと分かっている世界だ、理想も願いも
叶わぬが当然、だからこそ限られた条件の中で限られた力を揮おう。いっそう冷徹に振舞うべく務めたのは必然といえる。

 しかし武藤カズキという少年は。

『再殺後自らも命を絶つ』そう宣言したキャプテンブラボーをも救わんと奮起しそして勝った。

 偏えにありったけの想いと力を込めて撃ち貫く。

 たったそれだけで、戦歴も身体能力も遥か勝る『キャプテンブラボー』を倒したのだ。

 ……。

 その時「届いた」、届けられた感情は今でも防人の中に息づいている。

 小さな火が寒さの中で消えそうになりながらチロチロ、チロチロと。

 カズキは。
 世界の突きつける選択肢をある時期からずっと超え続けてきた。
 斗貴子とパピヨンの命を秤にかけやむなく前者を取ったときからずっとずっと超え続けてきた。
「命の取捨選択なんて無理」。まひろたちのみならず桜花や秋水まで救ってきた。

 彼は常に成功の祝福に預かったわけではない。むしろ逆だ。戦士として駆け出すやすぐ挫折を味わっている。パピヨンの
覚醒を止められず結果蝶野に連なる者およそ20名をむざむざ犠牲にしている。
 にも関わらず諦めなかった。咄嗟に斗貴子をかばい心臓を失くしたとき抱いていた想いはむしろ過酷に直面するたびます
ます強くなった。「死の痛みを誰にも味合わせたくない」。その一念は、失敗しても挫けても、失くさなかった。

 彼と自分の違いはなんだろう。

 防人衛の中で小さな疑問が渦巻き出した。

”大過なく積み上げ続けた者ほど挫折に弱い”。識者に言わせれば防人は典型例らしい。努力が面白いほど実を結びいつ
しかそれが普通と化した者にとって失敗は、例えば子供が突然親から無償の愛を打ち切られたような信じがたさで衝撃だ。
今まで通じてきたやり方がある日突然通じなくなる。ひたむきな者ほどそれを黒く鮮烈に受け止める。成功が却って免疫を、
『頑張ってもうまくいくとは限らない』現実との調整力を、弱めるのだ。

 あたかも絶対の防具を纏うものがそれゆえ打たれ弱くなるように。

 カズキは戦士になってすぐ挫折を味わった。未熟もいい時期に理念を挫かれた。であるがため早々に自らの力量、限界を
知った。ひたむきなのは詰まるところ失敗を恐れたからだ。生のままのありのままの自分で振舞えば必ず前轍を踏みまた
しくじる……。それゆえ自分の限界以上の力をいつだって振り絞った。

 突撃以外なかった。突撃以外、考える余裕がなかったのだ。

 与えられた任務の中で最良の選択を。
 そんなキャプテンブラボーの理念は。
 取捨選択などできぬという。
 武藤カズキの穂先に。

 銀の固着ごと撃ち貫かれた。

 パピヨンは言う。選択肢とは与えられる物ではない。自ら創り出していく物だと。
 結局のところ誰かが与えるモノはその誰かの都合を脱さない……長らく救われなかったパピヨンはそう信じているようだ。
 怨嗟と怒り交じりで些か公平性を欠いているが、一理ぐらいはあるだろう。




 甘んじて、いたから?





 胸骨に無数のヒビとともに届けられた超圧縮の太陽嵐。その疼きともに自問する。
 与えられる任務、戦団上層部から振って湧いてくる指令の一代行者たるべく務めた”キャプテンブラボー”。
 きっと組織人として間違いない。
 けれど個人としては? 
 世界を救わんと努力していた”防人衛”。
 その努力は、夢と熱情に彩られた輝く季節は、誰かが画用紙大にまで括った世界の景色だけ注文どおりに染め上げるが為
なされたものか? たったそれだけに帰結させるべく心血振り絞り過酷に耐えたのか?

 そんなコトを考えるとき、防人の冷えた心は僅かに振動する。
 脳細胞が分子運動し懐かしき熱を薄く紡ぐ。

 なのにかつて抱いていた夢。それを再開するのは絶対の禁忌で。封印に掠る程度で心痛がし瞳も潤む。
 守れなかったのだ。斗貴子以外の赤銅島の人々を。

 なのにまた夢へ向かうのは、世界総てを救うと広言するのは。
 罪、だった。
 火渡がいうように割り切って忘れて、また夢に向かって、それでまた犠牲を出したとすれば。
 反省の無さで人を殺した災厄と化す。加害者(ホムンクルス)と変わらなくなる。

 実直で剛毅で正義を愛する防人にとって犠牲は何より恐ろしい。
 いっそカズキのように全力以上の全力振り絞って『二度と誰をも死なせない』、そう断言し振り切れればどれほど楽か。

 ……。

 太陽の遥か下。繋がれた象がいる。まだ幼いころから右前足と杭をロープで結ばれ動けぬ象が。
 最初は、あがいていた。戒めを解いて遠くへ行こうと身をゆすり解かんとした。
 でもまだ小さかったから力はなく。杭はビクともしなかった。ロープも強く張り詰める一方、ちぎれなかった。

 7年経ってその象は知恵も力も蓄えた。体も昔とは比べ物にならないほど大きい。
 足を縛るロープは膨れ上がった前足に巻きつくのが精一杯という感じで、輪の一部が破れかかっている。
 杭だってもう抜けかけている。象の何てコトない日常の動きに少しずつ少しずつ地面から抜け続け……。

 象が今一度、渾身の力で身を揺すり足を揺すれば……ほどける、だろう。
 なのに彼は気付かない。現状に気付かない。
 むかし縛られた記憶ばかり先行し、むかし味わった無力感ばかりに気をとられ。
 いまの自分がどれほど強くなったか気付かない。

 カズキに超えられたとか。
 火渡の放つ五千百度の炎に身を焼かれたとか。

 そんな現実的な材料ばかりに足をとられ進めない。

 現実に存在する敵たちを砕くため努力したというのに。
 現実に囚われ動けない。

 それはひとえに──…

 心が冷えてしまったから。

 赤銅島で、ホムンクルスと知らず交流を持ってしまった少年を、その手で圧殺した時、

 心が、冷えたから。

 けれどカズキの思いを乗せた一撃は冷えた心に熱を与えた。種火を与えた。


 今一度燃え盛るか否か……今はまだ分からない。


 ……9月13日。夜。音楽隊も秋水たちもめいめいの部屋で眠りについたとき。

「つ……。やっぱり総角相手にムチャしすぎたか」
 誰もいない部屋で防人は、顔を歪めた。手を当てた肩の中で淀んだ痛みが鈍く跳ねた。
 一見以前と変わりないように見えても、攻撃は、確実に彼の体を蝕んでいる。
 技術で攻撃力をカバーしているが、体の方はその強大な負荷に耐えられないのだ。
 人が物を殴る時、その破壊力以上の反動が人体に及んでいる。
(いまの俺はヒビ割れた杭打機……か。聖サンジェルマン病院で言われたっけ)
 強力だが、それゆえ攻撃するたび壊れていく。火渡に与えられた”ヒビ”に関しては、深い傷跡を跡形もなく治せるほど
高度な錬金術医療を以てしても完治できないほど深いという。

(こんな体で、果たして決戦までに完成するのか……?)

『渾・身・爆・砕! ブラボー重ね当て』。カズキに一・撃・必・殺! ブラボー正拳を破られたのを機に着目した、13のブラボー
技14つ目の技。

(以前から研究しているが未だに実戦レベルにはならない。大戦士長から何度も言われたっけな。心に原因がある、と)

 秋水は伝えたかったようだ。自分のように克服できる時が来ると。
 総角は例を引いた。心が未来に向かって動いたからこそ、奥義においても新たな一歩を踏み出せた飛天御剣流継承者を。

(心、か。さっき見たビデオの俺なら……赤銅島以前の迷いなき俺なら、できたかも知れないな)

 いろいろな思考が動き出しそうになった瞬間、管理人室のドアがノックされた。続いてしたのは斗貴子の声。

「戦士長。いまいいですか。お話が──…」

「わかった。廊下に出よう。部下とはいえ夜中に男女が1つの部屋にいるのはマズい」


 斗貴子の話。過去。鍛錬。重ね当て。シルバースキン。火渡。千歳。元照星部隊。
 秋水の思惑。まひろの言葉。生徒たち。名前。本名。渾名。由来。過去の希望。
 繋がれた象。やがて衝突する強大な悪……マレフィックの、1人。

 総てが複雑に絡み合うのはもう少し先。

 彼の心が今一度燃え盛るか否か……今はまだ誰にも分からない。


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