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第097話 「演劇をしよう!!」(後編(1))



【9月14日・朝】

「あ」
「お」

 朝食を採るべく食堂に赴いた秋水はまひろと出逢った。これから食べるのだろう、色々乗せたトレーを持つ彼女は一瞬、
顔を赤くし目を背けたが、すぐいつもの──ただしちょっぴり汗を垂らした──笑顔で挨拶した。元気のいい声だった。秋水
も生真面目に返し席につく。

「あと2日だね!」
「……? あ、ああ。劇の話か」
 正面に腰掛けたまひろの相変わらずな突拍子の無さに何とか答える。残り2日。それは決戦までの日数でもある。
(パピヨンが企画した演劇対決。それが終わり次第すぐ俺たちは、誘拐された大戦士長の救出に向かう)
 秋水が劇で担当するのはアクション。斗貴子ともども殺陣を披露する予定だ。
(特訓もした)
 カズキの悪友たる六舛孝二の紹介で、『演劇の神様』なる人物の元で一晩だが修行した。……彼がやがて戦うレティクル
エレメンツの幹部の1人(天王星)と言う事実は流石に思考の及ぶところではないが、ともかくも及ぶところにおいては最善
を尽くさんとしているのが最近の秋水である。
(昨晩は中村に武術の機微を伝えるコトができた。あとは戦士長に何か……)
 できるコトはないか。食事を運ぶ間もそればかり考えた。味噌汁を啜り、アジの開きを行儀よく毟る間も思案にくれた。
 防人は、恩師なのだ。まだ音楽隊が敵だった頃から様々なアドバイスを貰い、それが秋水の窮地を何度も切り開いた。
(せめて新技……。13のブラボー技14つ目の技を会得する一助になれれば)
 防人は7年前の赤銅島事件をまだ引きずっているように見えた。これまで散々『過去』に縛られ数々の過ちを犯してきた
秋水だからこそ分かる。恩師ともいえる戦士長はいまだ7年前の過ちを抱えて苦しんでいる。
(結局最後に立たせるものは自分の腹臓からの声だ。俺自身そうだった。……総角の言うとおり)
 だから防人が秋水の言葉で再起する可能性はかなり低い。「きっかけの1つになる」程度だろう。
(それにしたって火渡戦士長や千歳さんに比べれば比重は低い)
 同じ釜の飯を食べた元照星部隊の面々なら、秋水よりもっと直接的な後押しができるだろう。
(毒島はどうだろう。それから……最近千歳さんとよく組む根来)
 できる、と秋水はみた。ただし心因的なモノに限っては間接的参与の方がよい、とも。双方とも防人とは秋水に毛が生えた
方程度の親密さだ。それでも防人の7年来の僚友たる火渡や千歳とは懇意だから、その関係性において彼らを刺激し、防人
に至るのが正しいのではないか。(秋水は知らないが、毒島の方はすでに昨晩、斗貴子に色々と働きかけている)。

(或いは……戦闘の補助)

 毒島にしろ根来にしろ、防人との意思疎通を欠いてなお存分にアシストできる力がある。それを以て直接支援し、戦況的
な意味において防人の新技の完成の一助となる……。それなら容易かろうと秋水は思うのだ。

(とりあえず問題は俺だ。いまだ自らの事さえ決着をつけられず刀一本しか持ち得ないこの俺がどうすれば戦士長を……?)

 答えは出ない。根を詰めるのも良くないと一息つく。いつしか軽く俯いていたようだ。顔を上げる。

「!!」
「!?」

 まひろと目が合った。どうやら思案にくれる秋水を眺めていたらしい。箸を口に突っ込んだ妙な顔のまままひろは硬直した。

「えと。すまない。それからいま迂闊に口を動かさない方がいい。君は箸を噛みそうだ。驚いた拍子に噛みそうだ」
 無言でコクコク頷くまひろ。そして箸を口から出した。半透明の糸が箸と唇を結びやや艶かしい。思わず秋水は目を逸らした。


(うぅ。気まずい、すごく気まずい。てか私気まずくなるの忘れてた。気付いたら正面に座ってたよ……)
 時刻は6:00を少し回ったところだ。食堂はガラガラ、朝練を控えた生徒たちさえまだ来ない。だから秋水からウンと距離を
取るのは容易いのだが、それをすっかり忘れていた。
(……だって、だって私)
 思わず両目から滝のような涙を零す。
(秋水先輩に告白みたいなコトしちゃったのスッカリ忘れてた!!)
 一晩眠っただけで忘れていた。

 実はさっきの遭遇に赤くなった時さえ忘れていた。反射的に顔が赤くなったのは何故だろうとしばらく考えていた。で、秋水の
正面に座って何か話しかけようとしたのだけれど、何か考え事をしているので邪魔したら悪いと、食事の音さえセーブしつつ朝餉
を味わっていたところ、「そうだ何でさっき私赤くなったんだろ」と気になって考えた。

 で、気付いた。秋水が毒島やら根来やらを考えているあたりで、気付いた。

(告白!! そうだ昨日! びっきーの地下壕の中で! 好きかも知れないって!)

 やらかしてしまった馬鹿げた自爆、致命的な失敗をやっと思い出し真赤になった。

(で! でもでも忘れたってコトは実は案外大丈夫……いや大丈夫じゃないよ!! そしたら秋水先輩迷惑!! 忘れちゃう
気持ちなんかであんなコトいったらダメだよ!!!)

 内心自分を叱りつける。箸でブロッコリーを摘んだまま赤くなったり涙ぐんだりユーモラスな憤怒を浮かべるまひろは百面相で
だから秋水は困惑した。結局なにをやっても迷惑をかける性分らしかった。

(というか……。忘れてても赤くなった訳だよね。じゃ、じゃあ……やっぱり?)

 ヴィクトリアに相談して一応の方向性らしきものは掴んだつもりだが、どうにも整理しがたい心情である。
 ここでやっと挨拶以外ロクに会話していないコトに気付いたので、ドーニカコーニカ話しかける。

「そ、そういえば桜花先輩は?」
「姉さんなら台本を見に行った」
「あ。ちーちんのトコに。5時ぐらいにはもう大体完成してたよ」
「そうか。……ん? 君はもう行ったのか?」
「行ったというかお泊まりだよ! 夜ね、ブラボーにお名前のコト聞いたあと、お泊りしたんだよ。さーちゃんやびっきーには
遅いって怒られたけど」
「成程。君も手伝ったのか」
 桜花から聞いたが、昨晩、秋水が、武術にいろいろ学びながらも翻弄される剛太を眺めているころ、女性陣はいろいろ
叩き台を出し合ったらしい。お題を設け2000文字で描く。各人さまざまの作品は、台本に行き詰まっていた千里にいい
影響を与えたらしい。それを裏付けたのがまひろだ。
「ちーちん結構ね、筆がね、乗ってたよ」
「そうか」
「ココどうしようって所はね、結構私たちアイディア出したよ。やっぱ書くと違うね。桜花先輩が課題出してくれたお陰かな、
私もさーちゃんもびっきーも色々描けたよ。あ、秋水先輩も良かったらどう?」
「考えておく」
「ちーちん言ってたよ。アクション得意な人はダイナミックな文章書けるって。秋水先輩なら渋くて熱い時代小説書けるよ
きっと!」
「……そうは言うが、俺はあまり小説読まない」
 まひろはおおという顔をした。意外だったらしい。
「意外だね。てっきり好きだとばかり」
「なんというか……薦められるコトはある。剣道部とかで。…………だが」
「だが?」
「何と言うか。薄味に思えるんだ。剣戟の場面。あ、剣戟というのは、その、いわゆるチャンバラだ」
「へー。チャンバラってケンゲキっていうんだ。変わってるねー。ん? 薄味ってどゆコト?」
「もっとこう、剣術というのは物凄いんだ」
「物凄いんだ。確かに秋水先輩、謎で秘密な組織で怖い人たちと戦ってる所あるよね」
 恋バナ嫌ってる所あるよね、みたいな軽い調子でいうが実際秋水は戦士である。修羅場の数は限りない。
「刀で刀を受け止めるのは死を意味する。折れるからな。だからそういうのを読むと緊張感が削がれる。俺がそういう目に
陥るときはいつだって死を覚悟している」
「死を覚悟!?」
 凄い言葉にまひろは驚愕した。
「頭や首、心臓を狙わないのも不満だ。鎧相手なら剥き出しになった部分の太い動脈を狙って戦闘不能にするのは当然だが、
真剣で小手を狙っているのは、或いは狙っても指にダメージがいかないのは疑問が残る。新撰組2番隊組長永倉新八で
さえ、池田屋事件でやられたんだ。指を切断したそうだ」
「怖いデス。剣術怖いデス」
 まひろはガタガタ震えながら、大人の小指ほどあるポークソーセージを食べた。
「あとダメージの描写にも不満がある。ほとんどの小説は刀が当たってもカッターが掠った程度の傷で済んでいる。だが実際は
……その、皮よりもっとマズい部分が切れる」
「皮よりもっとマズい部分……。その、お肉とか、骨とか?」
「ああ。掠った程度でも、白い脂肪が見える。その断面のあちこちから瞬く間に赤い粒が覗いてそれが一気に血溜まりになり
そして溢れる」
「うぅ。怖い。怖いよぉ」
 青い顔で脂身たっぷりの豚の生姜焼きを食べる。ケチャップをかけて食べる。
ひどい時には骨粉が舞い様々な部位が落ちる。胴体に直撃すると……はみ出す」
「はみ出す!? 何が!?」
 思わず立ち上がるまひろは小皿に乗った生レバーを見る。おいしそうだったのでパクリ。食べた。
「だからどうしても普通の時代小説は読めない。趣味に合うのは結果としては残虐なモノになってしまうから控えている。怖い
んだ。いろいろおかしな趣味に目覚めそうで」
「秋水先輩の小説……読みたいような読みたくないようなだよ」
 言いながら3杯目のご飯をお代わりしに行く。まひろの食欲は今日も絶好調。

 千里の部屋で台本完成の報を受けた桜花は食堂に向かうべく廊下を歩いていた。
 すると曲がり角から鐶が出てきた。
「あら光ちゃん。おはよ──…」
「うぉーヒナぁ! コネクティブヒナーっ!!」
「!?」
 なにやら喚きながら頭をグルングルン回しだした音楽隊副長に目を丸くする。
「あ。桜花さん……おはよう……です」
「いやおはようじゃなくて。なに今の!?」
「カップリングシステム……です……」
「ごめん全然分からないわ。なんでカップリング求めてそうなるのかしらね?」
 務めて冷静に、しかし引き攣った顔の生徒会長に虚ろな目は「色々あるのです」と呟き、説明開始。
「今日の……特訓は…………連携……です。他の人と……協力して攻撃する…………練習……です」
「え? あ、ああ。確かにブラボーさんから朝方メールが来たけど」
 それと今の奇行に如何なる関係があるというのか。
「私……は…………斗貴子さんと…………ツインユニット組む…………じゃなくて……同時攻撃の……練習するよう……
……言われました…………」
「はぁ」
 要領を得ないがとりあえず黙って聞く。生徒会長らしい配慮だった。
「つまりカップリングシステム! ……です」
「いやそこがもう分からないんだけど。一緒に攻撃してなんでカップルになるのかしら光ちゃん?」
「ところが……デカップリング……で」
「また新しい単語!?」
「うるさいな。朝から騒ぐな」
 無愛想な声に振り返ると腕組みする斗貴子がいた。
「助かったわ津村さん。光ちゃんがちょっとおかしいの」
「うぉーヒナぁ! コネクティブヒナーっ!!」
 斗貴子を見た鐶はまた頭を回す。そしていう。
「失敬な……誰がおかしい……ですか」
「あなたよ!!」
 全力で突っ込む桜花。彼女と鐶をしばらく黙然と眺めていた斗貴子は厳かに呟く。
「またか」
「また!?」
「ああ。さっき起こしにいったとき、急に特訓したいと言い出した。連携については私も戦士長から聞いてるからな。例の
地下特訓場でやってみた」
 やっと謎が解けそうだ。桜花は斗貴子の説明に期待を寄せた。
「そしたらデカップリングで……」
「だからデカップリングって何!?」
 叫びに斗貴子は「あ」と呟いた。
「悪い。コイツに毒されてしまった。連携失敗を指すらしい」
「厳密にいえば…………時間切れとか……操作とか……で……ナイスカップリングが解除されるコトを……ですね」
「もういいからしばらく光ちゃん黙ってて」
 しょぼーん。鐶はスーパーデフォルメで落ち込んだ。
「まあ、なんだ。要するに、連携攻撃が何かのアニメの現象に似ているらしい。それもどうやら幹部の武装錬金で見た未来
の奴らしいから私には見当もつかなくてな。で、うまくいけばナイスカップリングと喜び失敗してもデカップリングですねとシタ
リ顔でいう始末だ」
「あら光ちゃんうざい」
「で、とうとうブチ切れた私が連携放棄を言い渡したところ」
「うぉーヒナぁ! コネクティブヒナーっ!!」
「コレだ」
 どうやら作中で連携を拒まれてなお連携を強く求める敵キャラのマネらしいのだが、真剣に防人の指示に従っている斗貴
子にしてみれば面白くない。
「……光ちゃんは楽しそうよ。拒まれても楽しそう」
「コネクティブ斗貴子さん!」
 鐶が叫ぶ。
「アクセプション!」
 顔に横一文字の傷があるショートボブの少女もまた叫ぶ。
「だから私の声と顔を真似るな!! 何度言えば分かる!!」
(何度もやったんだ……)
 特異体質の無駄遣いへとムチャクチャ激昂し怒鳴り散らす斗貴子に思う桜花であった。

「このアニメ……キますよ。ガチャピンやムックと……コラボ……しましたから」
「知るか!!」
(光ちゃん自由すぎる…………)
 騒がしくなった一角をまひろと秋水は見た。桜花たちも朝食開始。


「でも津村さんと光ちゃんなら最強タッグじゃない?」
「実力的にそうだとしても、あんな奴と組めるか! こっちは真剣なんだぞ! アニメがどうとかフザけやがって!」
 サーロインステーキにフォークをブチ込みながら気炎を上げる斗貴子。いろいろ豪儀だった。
「まぁまぁ。でも、うまく連携すれば例のマレフィックとかいう幹部だって斃せるわよ。だって津村さんは私達の中でもトップ
クラスに強いし。光ちゃんに至ってはその津村さん含めた6人を圧倒してたし」
「アイツの力量自体は認めている。でなければ危機感を持って対処できない」
 ティーカップを口にしながら呟く斗貴子。飲んでいるのは紅茶。ステーキとはチグハグだが妙に絵になる。
「だがアイツは何だ。フザけやがって」
「そうかしら。私には結構真剣に見えるけど。そもそもフザけてるなら朝一番で特訓申し込んだりしないでしょ?」
「…………熱意があるのは認めるが」
 特訓中、恐るべきスピードで斗貴子の動きを理解し真似ていた鐶の姿が去来した。
 防人の指示もあり、訓練は素手で行った。(もっともホムンクルス相手に丸腰になる斗貴子ではない。待機状態のバルキ
リースカートを装着しおかしな動きあらばすぐ斃せるよう備えていた)。
「私たちは武装錬金なしで戦士長と戦った。目標は身体能力だけでシルバースキンを破るコト。剛太にも似たような課題を
出しているというが、こっちはホムンクルスがいるとはいえ素手……難度は高い。そのうえ試験とは違い戦士長は攻撃して
くる。防護服もまた戦闘状態……ミサイルが直撃しても爆ぜないというアレだ」
 同じ箇所に超神速で2発入れれば爆ぜる銀の肌はまさに連携強化にはうってつけ。
「難しいけど、呼吸さえ合えば達成可能な目標ね」
 鐶は、最初から斗貴子に合わせるつもりだったという。特異体質でさまざまな鳥や人に化けれる彼女である。模倣は十八
番という訳だ。
「20分もしないうち、アイツと私の動きがだんだん合ってきた。こっちが動いてから真似してるんじゃない。動く前からすでに
何を繰り出すか読んでるようだった」
「動きだけじゃなく、行動パターンそのものまで読み取った訳ね。さすが音楽隊副長」
 だが相手は傷負いたりといえ斗貴子の師匠筋。動きの癖など見抜いている。よって、普通のホムンクルスなら即死確定の
連携攻撃を捌き、いなし、或いは反撃し、悉く潰した。
「仮に攻撃が当たっても、戦士長だからな。うまく受け流し、同じ箇所への連撃を避ける。鐶の攻撃がみぞおちに当たれば
身を逸らしポイントをずらす。そして私の掌打を胸骨でといった具合だ」
 斗貴子は別にそういう事象に怒っている訳ではない。課題がクリアできない苛立ちを撒いているのでもない。
「私が奴に合わせようとしないのが悪い。鐶は即席にしては十分良くやっている。人間で戦士ならとっくに褒めている」
「あら。らしくないわね津村さん。結構ベタ甘な評価よそれ」
「だが遊ぶなと! アイツの真剣さは何と言うか趣味の真剣さだ! 一般人を守ろうという気がまるで感じられないおフザ
けの真剣さだ!」
「まぁまぁ。例の5倍速の老化のせいか大人びているけど、実際はまだ8歳だし。子供なのよ? 体質さえ普通ならまだ小
学校中学年。津村さんならやっと戦士目指し始めたって年齢よ」
「……」
 焼きしいたけに箸をぶすりと刺す。
「津村さんがもどかしく思うのはきっと、『ここまで完璧にマネできるのにどうして形だけなんだ』って気持ちがどこかにある
せいじゃないかしら?」
 ティーカップという琥珀色の湖に揺らめく瞳が映った。
「私はそこまでアイツを買っちゃいないし、形以上の……心からの同調だって求めていない。ホムンクルスだぞ? ずっと
ずっと敵だと見なしてきた存在を軽々しく信頼などできない。私の過去がどうこうという話じゃないぞ。習慣の問題だ。戦団
はホムンクルスを敵とした。私自身、ホムンクルスがもたらした被害だって星の数ほど見てきた」
 長くなると思ったのか、箸を置く。
「それでも任務だし、戦士長やお前の弟から言われた言葉もある。憎悪を抜きに鐶を見ようとしたさ。けど…………」
「けど?」
 沈み込んだ声音に先を予感しながら促す桜花。同い年なのだがどこか年上な雰囲気だ。
「被害にあった人を思い出した。理不尽な暴力に心傷ついた人。家族を奪われた人。畑や鶏舎といった生活の基盤を破
壊され悲嘆にくれる人たちもだ。戦団が事故死に見せかけ葬ったホムンクルスの奥さんや子供たちが泣く姿だって私は見
てきた」
 斗貴子は少しだけ泣きそうな顔をした。
「なのにどうしていきなりホムンクルスに心開ける? 過去は2つあったんだ。失ったものと、だからこそ得てきたものが。
憎悪は押しのけようとしても戻ってくる。覚えている過去が寄せてくる。それに目を奪われないよう務めても、「どうにか
したい」って気持ちまでは抑えられない。私と同じく地獄のような光景を見せられた人たちのため戦わんとする。それが
きっと私なんだ。固まってしまったんだ。仮に過去を取り戻しても変わらないし変えたくもない。だから……いきなりすぐ
鐶との完全な連携などできない。ホムンクルスの肯定もだ。だから……イラついている」
「でもそこが津村さんのいいところじゃなくて?」
 沈痛な声を平然と桜花は切って捨てた。出所は見ようともせず、ただ、にこやかに笑いながらカプチーノをかき混ぜて。
「昨日までの主義をホイホイ捨てれるような津村さんなら失礼だけど要らないわよ。だって私がいるもの」
「……桜花。お前な」
 一瞬昨晩の、いやに素直で不気味な彼女かと思ったが平常運転らしい。だからこそ斗貴子は嫌そうなジト目なのだが。
「私なら割り切れる。元・信奉者ですもの。でも戦団に従うコトだって吝かじゃないわ。やっぱり元・信奉者ですもの」
 長いものに巻かれる、柔軟だが明確な主張はないと桜花は自分を評し
「だから結局心から誰かと通じるなんてコトはないの。例えば『津村さん、私の言葉を信じて!』とか言われたらどうする?」
 斗貴子は一瞬難しい顔をしたが、桜花に何か思うところがあったのだろう。一層峻厳たる、だがどこかわざとらしい表情で
「悔しいが信じる他ないな。私にそう言うってのはつまり、かなり高確率で裏切られ大損ブッこくからブチ撒けて帳尻合わせ
て下さいってコトだろ。だったら信じるしかない。半ば陰腹を召している者の覚悟だからな。全力を以て相対する他ない」
 真剣に頷いた。
 桜花はキョトリとしてから噴き出した。俯いてくつくつと忍び笑いを漏らした。
「わ、私そこまで考えてなかったんだけど……。盛りすぎ……。なんで普通に返してくれないのよ」
「だから笑うな! 本当近ごろ緩いぞお前!!」
「というか騙したら私死ぬんだ。殺されちゃうんだ。それに、それに、陰ば……ぶふっ!! しゅ、秋水クンじゃあるまいし今
日び陰腹って、陰腹って……だいたい召しちゃない、いなっ(息が詰まった)…………(プルプルプル) あ、(プルプル) あと、死
にかけの私に……ぜ、ぜ、全力とかどれだけ信用ないのよ……。てかコレ、てかコレ、ぶっ。予防線、予防せ……(プルプル)、
予防線じゃないの……騙したら殺すって脅し……怖っ……だめ、だめ、面白すぎる……。津村さんやっぱり面白すぎ…………」
「ええい笑うのは勝手だが叩くな!!」
 いっそう背中を丸めながら斗貴子の肩をバシバシ叩く桜花を見ている影、2つ。


「桜花先輩最近よく噴き出すよねー」
「まあな」

 三角パックの牛乳を飲みながら呟くまひろに秋水も同意。姉の微妙な変化に戸惑う反面やや嬉しい。

 30秒後。顔をあげた桜花はまだ笑いを湛えながらまなじりの涙を拭いた。
「とまあ、信じな……ぶっ!!」
 見事な黒髪に付着したナルトを見た桜花がまた噴き出した。先ほど突っ伏した時、焼きそばについてたソレがついたらしい。
「いい加減落ち着け!!」
 斗貴子の怒声から15分後。
 やっと沈静した桜花が喋り出す。やっと話題は戻り連携について。

「とにかく私のような賢くてしかも綺麗な変節漢は誰も信じないってコトよ」
「自画自賛する奴とか下らないコトにいちいち噴き出す奴もな」
 桜花は満面の笑みを浮かべた。満面の笑みで誤魔化そうとした。
「でも津村さんは信念というか譲れない物を持っている。だったら誰かと通じ合える。信じて貰える」
 たとえホムンクルスでもと桜花はいう。
「いまは難しいとは思うけど、何かひとつ、通じ合えるコトがあるなら、本当に心からの連携ができるわよ」
「……どうもお前に励まされると反応に困るな」
 傷のある鼻の頭を掻く斗貴子。きまりの悪そうな表情だ。
「どういたしまして」
 だいたい心情を察したらしく桜花は微笑む。
「ところで津村さん。特訓でブラボーさんに逢ったってコトは」
「話なら昨晩のうちに済ませた」
 だがなんでヤブカラボウにと訝る斗貴子に濡れた黒髪(ナルトについた焼きそばのソースで濡れた)の貴人は笑う。
「いま武藤クンのコト考えたでしょ。なら日常どうこう考える。でもブラボーさんと語りつくしているでしょうから、まあ、もう一度
突き付けるというか確認のためよ」
「本当お前は反応に困るな」
 実際斗貴子は指摘通りの心境だった。

『通じ合える』

 本当にそれができた人物はたった1人だった。なのに斗貴子は一方的に断絶された。
 カズキだけが月に行った。

『通じ合える』

 前例はある。確かにある。その気になればまひろとだって桜花とだって秋水とだって、『仲間』として通じ合えるだろう。
(けれど……それをやれば)
 斗貴子は彼らの作る『日常』を得てしまう。


 昨晩。その辺りのコトを防人にも話した。


──「約束します。死ぬような戦いはしません」

──「桜花は言いました。私もまた。まひろちゃんたちの『日常』だと。彼女たちの生活の一部だと」

──「それを守るため死を避けます。怒りに任せていればどうなるか、早坂秋水が自身に照らし釘を刺しましたから」


──「ですが私自身が『日常』を得るつもりはありません」


──「まひろちゃんたちは、カズキを失いました。私はそれを阻止できませんでしたから……」

──「私のコトを気遣って下さったコトには感謝しています。それでも」

──「『日常』を、普通の幸福を、私だけ得るコトは許されません」


「津村さんは結局、武藤クンがいないとダメなのね」
「…………私個人の問題じゃない。まひろちゃんたちの問題なんだ」
 キミも知っているだろう、声を小さくして語りかける。10m以上離れたところにいる彼女は秋水との話に夢中で気付かない。
「ああやって明るく振舞っているが、ときどき消えそうな表情で空を見ている」
「そう、ね」
 もうずいぶん前のような気がするが、桜花もそういうまひろを見ている。銀成学園の屋上で月を見上げて泣いているまひろを。

 始まりはそこからだった。

 秋水を彼女に引き合わせた時から総ては始まった。それが8月27日の夜。実はまだ20日と経っていない。
 言いかえれば、まひろの人生のうち、秋水という存在が大きくなり始めたのはこの3週間にも満たない僅かな期間なのだ。
 
 生まれてから15年ほとんど毎日ずっと一緒だったカズキという存在の欠乏を埋めるにはあまりに足りない年月だ。

「まひろちゃんがどれほど落胆しているか……キミなら知っているし、分かる筈だ」
 桜花は頷く他ない。ずっと秋水を失うコトを恐れ生きてきたのだ。弟と兄という違いこそあれ、かつて恐れていた絶望を、
まひろは何の覚悟もしていない状態である日とつぜん突き付けられたのだ。
 そんな彼女の心情を考えれば、斗貴子が日常を欲しがらないのも当然だろう。
「でも津村さん。あなたの気持ちだって分からない訳じゃない」
 すっと真顔になり話しかける。
「あなたは、加害者意識を持っているけど、実際は被害者……といったら言葉が悪いかしらね。とにかく武藤クンのコトじゃ
まひろちゃんと同じくらい傷ついているのよ。感情的な面では納得できないだろうけど、でも、仮に武藤クンを止められなかっ
たコトを罪だというなら、津村さんは、大事な人を失うという罰をあのとき同時に受けてる。それ以上の判決は誰も望んじゃ
いないの」
 罰を受けるべきなのは私や秋水クンといった元・信奉者であって、ずっと誰かのため戦ってきた戦士ではない。
 と桜花は続けて、
「だいたい、津村さんがどれだけ罰を受けたってまひろちゃんたちの日常は帰ってこないわよ?」
 どころか、斗貴子が日常から遠ざかり笑顔を失えば失うほど、まひろの傷心も癒えなくなる。本来、喪失とは日常が時間と
ともに回復させるものだ。だが、まひろを治癒すべき日常は、彼女が斗貴子に慮って楽しさを拒むたび薬効を失くしていく……
生徒会長だけあり喋り出すと立て板に水といった様子で言葉がどんどんどんどん斗貴子の外耳道に放り込まれる。
「……なら、やはり私はカズキを」
「そう。取り戻すべきじゃなくて? それが一番でしょ」
 できるのだろうか、という顔をする斗貴子。
「パピヨンならするわよ。今も昔も白い核鉄を作るつもりだし、それが済めば次は必ず月に行く」
「変態は楽でいい。幾らでも常識を踏み外せる」
 八つ当たりかつ吐き捨てるようにいう斗貴子。
「あら。常識を言うなら人類はとっくに月に到達してるわよ? 津村さんなら宇宙飛行士になるぐらい簡単でしょうし、ロケット
だって『月に消えたあの人にもう1度逢いたい』とか何とかお涙頂戴の募金しまくれば必ず作れる。前例があればそれは、
『できるコト』で、できるコトは常識なの」
「簡単にいってくれるな」
「簡単じゃなかったら取り戻したくないの?」


「逆の立場なら武藤クン、もう絶対してるわよ?」


 …………斗貴子の心が一段と未来に向かって動いたのはこの瞬間だった。
 桜花が澄ました顔で切り返してきた瞬間、あらゆる物事への道筋が見えた。

「ああもう。けどどうして最後がお前なんだ。本当は戦士長が良かった。いろいろ心配させているんだ、それ位の義理は……」
(……ブラボーさんへの気持ち、ちょっと変わっている? 昨晩なにを話したのかしらね)
 いぶかりながらも謝る。謝りつつも説諭する。
「いますぐ日常を取り戻せないっていうなら、武藤クンに預ければいいじゃない」
「預ける?」
「ええ。武藤クンごと月から取り返す。だからそのために……生きる。今はそれでいいんじゃないかしらね」
 静かに笑う桜花。昨晩からのやり取りで彼女に対する感情が変わりつつあるのを斗貴子は感じた。
「カズキを取り戻しさえすれば、まひろちゃんたちもまた」
「そうね。きっと日常を取り戻せる。でも……一番大事なのは津村さんの気持ちよ」
「…………」
「もう1度いっしょに生きたいの? 生きたくないの? 肝心なのはそこよ。武藤クンへの気持ちがあやふやなら生きられな
いし、光ちゃんとの連携だってうまくいかない」
 静かだが芯の強さを感じさせる桜花の口調。斗貴子は膝の上で拳を握りしめ天井を見上げる。



「私は──…」



 気持ちなど、もうとっくに決まっていた。決まっているから、ずっと彼女は苦しんでいた。




千里の部屋。

「あ。貴信せんぱいだ。おはよーー」
「あ、ああ。おはよう」
 桜花に遅れること10数分。沙織に指定された刻限どおり、貴信は千里の部屋を訪れた。衣装は学ランである。
 呼び出し人はひどく眠そうだった。半開きの右目をこしこし擦りながら、なぜか左手に象のぬいぐるみを握っている。長い鼻を
リードのように握り締め散歩の最中だった。
(さすがに徹夜は厳しいよな)
 朝というコトもあり内外とも声を潜める貴信。最初こそ聞こえないのではないかと危惧していたが沙織には概ね通じるようだ。


 ややあって。部屋の中で。

「えーと。以上が台本の細かい情報」
「了解した」
 斗貴子たちの掌編を叩き台に、千里と沙織、まひろとヴィクトリアが夜を徹して作り上げた台本。
 そのあらすじとテーマを沙織から伝授された貴信は、静かな寝息に思わずベッドを見る。
 視線を追った沙織が、鐶顔負けの虚ろな瞳で「しー」とジェスチャアをした。
 若宮千里は……眠っていた。
「めっちゃ頑張ってたんだよちーちん。私たち3人と何度も議論しながらまとめて議論してはやり直して。多分、1人で原稿
用紙70枚ぐらい書いたんじゃないかな」
「……確か僕が女湯を出たのが午前零時半ぐらい。今は6時半にやや足りないぐらい。議論や休憩に1時間費やしたと仮
定すれば1時間に14枚……つまり、端数切り上げなら1分94文字……?」
 だいたい2秒で3〜4文字生産した計算になる。大人しい若宮千里の底力を貴信は垣間見た。

「これからの予定だけど、ちーちんは9時ジャストに起床。台本に誤字脱字などないかチェックするよー。でね、えーと、10
時になったら、今度は貴信せんぱいの集めてくれた資料をフィードバック。11時からは昨日の夜みたいに斗貴子先輩たち
に集まってもらって最終チェック。正午の5分前に監督へ提出する手筈……だよー」

 沙織は沙織は眠そうだ。昨晩香美経由でさんざん睡魔を味わった貴信なので、どれほど沙織が辛いか察するに余りある。
 口調が「素」で、後輩らしい敬語をすっかり忘れているコトは追求しない。
(どの指示も、メモにまとめて机の上に置いておけば済むのに……。それをせずわざわざ眠いのガマンしてまで僕に伝えて
くれるとは…………)
 自分の安眠よりも貴信に対する人の輪を優先したようだ。
 それが分かるから貴信は今から課せられる自分の使命に燃えてきた。

「それ台本のコピーね。ピンクの付箋が貼ってあるトコは、私もちーちんも『合ってるかなあ』って首捻った部分」
「なるほど。図書室で調べておく」
「黄色の付箋は豆知識を挟めそうな伝承とか物のあるトコ。蛍光ペンでマーキングしておいたよー」
「感謝する」
「あとは……えーと。ないね」
 千里が起きている間に残したのだろう。事細かに睡眠中の指示を記したメモ帳を見せる沙織。貴信は素早く確認した。レ
モン型の瞳を忙しくギョロつかせ……指示漏れがないコトを確認した。
「大丈夫だ。貴方は仰せつかった伝達の役目を見事を果たした」
「わーい……。ばんざーい。やっと……コレで…………眠れr」
 すうと目を閉じる沙織。1秒と経たず心地よさげな寝息が聞こえてきた。

(……眠いだろうに僕なんかをよく待っててくれた。ありがとう)

 後は務めを果たすだけだと台本(コピー)を脇に挟み立ち上がりかけた貴信を衝撃が見舞う。
(!!!!)
 睡眠中の沙織がもたれかかってきたのだ。徹宵特有の汗でしっとり湿った柔らかな髪の毛を頬に浴びた貴信は硬直した。
(ちょ、貴方! 僕は貴方のために急ぐべき責務が!)
 あどけない寝顔。男性の目の前で眠りに落ちる危険性などまったく考えていない寝顔。
(本当に子供だなあ……。もっと警戒心をだな)
 すっかり脱力した細い体にドキドキする一方で、逢って間もない、人外の男の前で熟睡する非をつい描く貴信だ。
(でも……どうしよう。本当は布団とか持ってきてあげたいけど)
 どけば沙織は倒れるだろう。床の上で転ぶぐらい沙織はドジこいたと笑うだろうが、万が一にも歯などを損傷しては一大事
だ。千里が先に寝ている理由を貴信は薄々察している。体力の温存なのだ。沙織が、貴信の伝達という、千里ならずともできる
作業を敢えて引き受けるコトで、唯一の台本執筆者、換えの効かないポジションのリソースの減耗を食い止めた。
(いわば彼女は捨て石になった。演劇部全体の活動を円滑にするため、僕に指定した刻限まで一睡もせず待ち続けた)
 そんな沙織が、やっと得た安眠の中で、歯や顔といった女性の命を損傷する。……絶対避けるべき事態だった。だから貴信
は支えになるべく座りこんだのだが、肩に、無防備に眠る幼い少女の頭が乗っかってくるのは大変刺激的だった。
(か、か、かといって肩を持って移動させるのは何というか……)
 考えるだけ赤くなってしまう。
 総角ならそれはもう優雅にやってのけるだろう。
 無銘なら若干どぎまぎはするだろうが、忍びらしい手際のよさで片付ける。
(ででででもでも、寝ているところを触られるとか、こんな僕なんかに触られるとか傷つくんじゃないのか! ああああと、恥
ずかしい! 女のコに触るとか……恥ずかしい!!)
 いっそ両手で顔面を覆ってしまいたくなるほど恥ずかしい。
(第一、移動させてる所に誰か来たら……終わる!)
 手伝うといっていた筈のまひろやヴィクトリアの姿が見えないのも気に掛かった。
 学園生活というものに、気性ゆえに参画できず、アニメや漫画といったサブカルでしか知らない人間は、得てしてそちら
方面の文法で物事を予測しがちだ。
(落ち着け。こういう時、迂闊に触ったりすると、ヴィクトリア嬢たちがタイミング悪く入ってきて誤解される。絶対される)
 クールダウンしようとしているのに、沙織ときたら不明瞭な寝言を漏らしながら頭をすりつけてくる。ネコ時代の香美にさ
れたら可愛いと喜ぶ仕草だが、年頃の少女にされると(まあ、男だから嬉しくはあるのだけれど)、パニックになってしまう。
(香美助けて! って寝てるし!!)
 あたふたしていると、ふと、沙織の髪型が目に入った。
(ツインテール、か)
 かつて自分たちを異形の体に押し込めた仇の1人。どういう訳か、素顔はハッキリ思いだせず、だから戦士には外郭た
る『赤い筒』を似顔絵として提出している。ただ……思いだした。沙織の髪型で思いだした。
(デッド=クラスター。月の幹部もツイテンテールだった。このコよりはもっと長かったかな。とにかく同じ髪型だ)
 悪辣なデッドを、7年前の貴信はあれこれ気に掛け説得した。直後の戦いで『何か』が起こり、記憶はあちこち虫食い状態
だが、『デッドの命を奪う』以外の方法で勝たない限り、自分も香美も本当の意味で救われないという確信がある。
(僕がこのコを……河井沙織という1年生が気になるのは……投影、なんだろうか)
 悩み始めたところで部屋のドアが開いた。
「何してるのよアナタ」
 嫌そうな顔を白い布団の向こうから覗かせたのはヴィクトリア=パワード。
 貴信は口パクで全力で「助けて」と呼び掛けた。




 白い布団の中で幸せそうに眠る沙織。
 ヴィクトリアの手によって貴信から寝具へと無事移動した。
 布団については、千里から「スペースが必要な時は私物勝手に動かしていいから」と許可を得ているとのコト。



「まったく。ちゃんと自分の足で部屋に戻るといっといて」
 腰に手を当て嘆息するヴィクトリアに貴信は疑問符を浮かべた。気付いたのだろう。彼女は答える。
「沙織の話よ。「アナタの布団予め持ちこんで置けば眠くなったときすぐ眠れるわよ」って言ったのに、断ったの。それでこの
ザマなんだから」
「……その、彼女ばかり責めないで欲しい。僕への伝達さえなければ、どうしようもなくなる前に自室へ戻れた筈だから」
「馬鹿ね。別にアナタが来る時間だけ起きてればいいじゃない。私と武藤まひろだって居たのよ。なら交代で眠った方が効率
的でしょ。それすら断って、徹夜してアナタを待つコトに意味があるって顔で、うつらうつらしてるんだから世話ないわよ」
(僕を……待つ)
 ちょっとドキドキする言葉だ。単に徹夜への好奇心と、子供らしい真直ぐな、良くも悪くも妥協のできない誠実さがそうさせた
のだろうと思いつつも、これまで恋人を作れなかった哀れさ、ついつい色よい返事を期待してしまう。
「しかもこのコ、武藤まひろに『ほらほら、朝一で食堂行かなきゃ秋水先輩と逢えないよー』とか何とか言いだす始末。で、
あのコ送り出したと思ったら、私に寝るよう促してココに残った訳」
 けれどそろそろ限界に見えたので、沙織の部屋に行き、布団を持ってきたら貴信が居た。という訳である。

 ヴィクトリアの嘆息はやまない。
「千里を見習いなさいよ。限界が来ると分かるや、予め用意していた携帯用のハミガキセットで口の中を清潔にしてから
自分の布団に入ったのよ」
「……眠った後の指示といい、つくづく徹夜慣れしてるな。流石優等生」
「ところで武藤まひろ、アレは本当に人間なの? 徹夜だっていうのに嫌になるほど元気だったわ。出したアイディアなら
多分千里以上よ。それを文章の体裁に整える私の身にもなって欲しいわね。日本語は喋れるけど書くの苦手なんだから」
「ん?」
「何よ?」
「いや……名前で呼ばないんだなと思って」
「は?」
「まひろ氏のコトだ。他のお二方は下の名前で呼んでるのに、彼女だけはフルネームなんだな」
 欧州の毒舌家は鼻白んだ。
「何かと思えば……当たり前じゃない。私は基本ソレよ。津村斗貴子、早坂秋水、中村剛太に総角主税…………錬金術
に関わる者は総てソレ。千里や沙織だけが珍しく例外ってだけよ。一応、錬金術とは無縁な人間関係だし」
「つまりその……不躾な質問になってしまうが、友達ってコトか?」
 普段から不機嫌そうな顔の中で眉が傾斜し、その谷底で薄いマグマが柔肌を焼いた。
「……友達ね。そう思っちゃ悪い?」


 このとき、若宮千里の睡眠は浅い周期に突入した。

 外界から飛び込んでくるヴィクトリアと貴信の声は、密やかではあったけれど、疲れが高じて却って眠れぬ状態の、しかも
執筆による興奮状態がまだ静まっていない千里の精神を覚醒させるには十分な刺激だった。

 薄ぼんやりと目を開ける。起きた時に電気が付いている時の独特な感覚が、夢ではなく現実なのだと実感させる。


「千里は……ママに似ているもの。優しいし、博識だし、一緒にいると心が落ち着くから…………友達でしょうね」


 名前を呼ばれた気がして意識を向ける。跳ね起きるのは性格上できないし、そもそも話題にされている時はどうしても
「寝ていた方がいいのかな」と思ってしまう。

「一時期は私の、勝手な投影で…………食べたくなって、でもそれが嫌で、寄宿舎から逃げ出したけど……」


(……え?)


 耳を疑った。一瞬ココが夢の世界なのではないかと千里は疑った。




「でも今は……普通の友達でいたいと思うわ。千里が許してくれるなら」




(どういうコトなの。口調も普段と違う。時々見せてるキツい方)

 息を殺し、寝たフリを続ける。それでも抑えられない戦慄が身を震わす。
「千里を食べる」。つまり……人を食べる。

 かつて寄宿舎で出逢った異形の怪物。映画かと見まごうばかりに裂けた口で以て千里を喰わんとした怪物。

 その存在が確定したのは銀成学園襲撃だ。あのとき取り乱したのを見ても分かるように千里はホムンクルスを恐れている。
 貴信と香美が”そうらしい”と気付きながらも動揺していないのは、斗貴子が見逃しているから安心という意識もあるが──…
 何より付き合いが短いからだ。
 ずっと一緒にいる人物が、例えば父親のように近しい立場の人間が”そうだった”と気付いた場合、斗貴子がどうあれ、
不審と恐怖を抱くだろう。

 ヴィクトリアの言葉、続く。

「沙織の方は誰かさんたちが誘拐していたせいで、本人とはまだ10日ぐらいの付き合いだけど、それでも戦士たちほど不愉
快じゃないのは確かよ。拒む理由もないし、時々子供っぽいけど千里のコト気遣ってくれてるのは分かる。……台本の件だ
って、あのコが津村斗貴子に声をかけなきゃ進まなかったでしょうし」
「2人とも上手く補い合っている感じだな。マジメ過ぎるから引っ込み思案な千里氏を、考えるよりも早く動ける沙織氏が
……助けている」
「片方だけと仲良くするコトはできないし、片方とだけ仲良くすべき理由もないし利点もない。だから沙織も……友人よ」
 眠っている(ように見える)千里、そして沙織を眺めるヴィクトリアの目は優しい。気付いた貴信はすかさず問う。
「そこだ」
「しつこいわね。一体何が言いたいの?」
 そろそろ女性特有の恐ろしい雰囲気を出してきたヴィクトリアに怯みつつも、貴信。
「そこまで分かっている貴方ならまひろ氏の重要さにも気付いてる筈なんだ。……ちょうど僕たちが早坂秋水その人に
倒される直前、彼と彼女の説得を貴方は受けた。であるがゆえココに戻った」
 続けた。沈黙が返ってきた。なおも喋る。トレードマークの大声を2つの熟睡顧みて封じ込める。
「まひろ氏のコト。決して軽んじていない筈なんだ。いろいろな相性の悪さがあって、時には本気で苛立っているかも知れ
ない。けど説得された経緯があって、しかも貴方が友人と呼ぶ2人にも欠かせぬ人だ。なら──…」
「友人かって……コト?」
 頷く貴信。並みのホムンクルスなら一笑に付し会話を打ち切るが、妙に力強い貴信の眼光につい本音を漏らしてしまった。
「…………正直、分からないわよ」
 遠くを眺めるような目をする。そうするとこの少女から刺々しさが消えるのに貴信は初めて気付いた。
「無駄に明るくて、空気が読めなくて、うるさくて、嫌だって言っているのに勝手なスキンシップを仕掛けてきて、私の踏み込
まれたくない部分にズカズカ入ってきて無理やり引きずりだした癖に、自分のコトとなると私以上に臆病になって、話聞いて
あげて解決策も教えたのに、不注意で間違って、自爆して、早坂秋水と気まずくなってるのよあのコ」
 非違を挙げるたび冷笑が広がっていく。何割かは文句を抱きつつ尚も傍にいるコトへの自嘲だろう。
「労力だけいえば接しない方が楽ね。まあ、もう慣れたけど」



「大体あのコは私が気安く呼んだら調子に乗るもの。いったん苗字を取り払えば次はあだ名で呼ぶよう求めてくる」

「そういうのが鬱陶しいから、フルネームで呼ぶの。だから──…」

「あのコだけは下の名前で呼ばないでしょうね。きっと」




「成程。理解した。……ところで」
「何よ?」
「すまない。よく考えたら貴方はホムンクルスが嫌いだった。なのに僕なんかとの会話につき合わせてしまって……」
 ヴィクトリアは鼻を鳴らした。
「謝るぐらいなら最初からしないで頂戴。本当、あの首魁といい犬型とい鳥型といい、頼んでもないのに絡んできて迷惑よ
 貴信は平謝りしながら退室した。



 遠ざかっていく気配を感じながら。
(……。まあ、でも)
 もたれかかってきた沙織を持て余しながら、いかにも「布団を持ってきてあげたいけど迂闊に動いてケガさせるのは嫌だし
かといって勝手に触るのも失礼なので助けて欲しい」という顔で、入室してきたヴィクトリアを見ていた貴信は──…
(それほど罵る価値もないわ)
 冷たい、だけれど少し柔らかい顔で瞑目して笑う。




(…………)

 その時、ベッドの中で千里は。

 ひたすら考えていた。先ほど聞いたヴィクトリアの言葉を一生懸命整理していた。




 廊下。

「あ!!」
「あ」

 朝食後すぐ調べ物をするつもりで足取り早く歩いていた貴信は見知った顔に遭遇した。
 リーゼントと眼鏡と大きな体がそれぞれ特徴的な少年3人。
 順に、岡倉英之、六舛孝二、大浜真史……同じクラスの男子たち。
(ヤバイぞ……)
 実は貴信、彼らにも存在を察知されている。
(昨晩、香美が女性陣の前でついうっかり僕に交代したようなヘマはしてないけど!! でも香美の後頭部にある僕の顔
……転校初日に見られている!!)
 髪の隙間から目が合ったのは確か大浜……恰幅のいい気弱そうな少年である。彼は当然覚えているらしく、少々ぎこち
ない仕草をした。そういえば沙織経由だが「話がある」とも聞かされている。
(……。正体を明かしたくもあるが今は沙織氏から託された調べ物がある!! バラすのは後!! 今は切り抜ける!)


 話ならばまたいずれ、そう言い、了解を経て歩みを進めようとした時、廊下の向こうから剛太があくび交じりに歩いてきた。
「あ!! 垂れ目!! おはようじゃん!」
 電光石火とは正に香美の挙動を指すのだろう。起きるなり貴信経由で剛太を認めた彼女は、あっという間に体の主導権
を奪い去り交代した。香美がそのしなやかな瞬発力を以て剛太に抱きついた瞬間、貴信はかぐわしい髪の中で真青になる。
(げ!! 交代した!! よりにもよってあの3人の前で!!)
 かねてより怯え交じりに貴信を見ていた大浜はもう虚脱状態だ。額に何本も縦線を走らせ、瞳ときたら戯画的なマルだ。
 岡倉は、リーゼントをしているだけあっていかにも不良な警戒感を浮かべている。
 唯一六舛だけは何の変化もない。それに救われた貴信は
「落ち着け2人とも。斗貴子氏が見逃してるなら無害だ。彼、人間じゃないっぽいけど」
(やっぱバレてる!!)と、心で鳴いた。
 唯一の救いは格好であろう。香美は学ランであった。昨晩の失敗を反省し突然交代しても成り立つよう──実をいうと掌編
執筆中トツゼン交代されたせいで、貴信は寝るまで女モノの服だった。桜花が時々噴き出したのは言うまでもない──男モノ
の服を着用した成果はすぐに出た。最もそれは『消火設備完璧にしたその日に火事が起きた』レベルの慶弔判然とせぬ出
来事ではあるが。

「ねーねー垂れ目垂れ目、今日はあそぶじゃん、あそぶ!!」
 一方剛太は、首に手を巻きつけてきた香美に辟易していた。
 逢うなり顔を近づけてきて、右に左にくねくね動きながら呼びかけてくるのだ。
 広く澄み渡ったアーモンド形の瞳はそれだけで魅力的だし、ちょっと視線を下げれば、交代時にカッターシャツのボタン上2
つ弾き飛ばした実績のある大きな膨らみの健康的な谷間が見えるのだが、剛太は決して骨抜きにはならない。
 実際貴信から視線を移した岡倉などは「チクショウ羨ましい」などと涙を浮かべているのだが、元はネコ型でしかも”あの”
貴信のDNAから出来ている──とはいえ遺伝要素だけいえば、彼の、かなり美人な母親の面影が色濃いのだが──と知
っている剛太にしてみれば鬱陶しいだけだ。つい谷間に一瞬目が行った自分自身も含めて。
(邪魔くせえ。さっさと食堂行って先輩に逢いてえってのに)
(って思ってるな新人戦士!! まったくつくづくブレないなあ!!)
 好ましく思う反面、もし、香美が、このさき貴信から『人の姿』として分離してしまった場合、貰ってくれないかなあと父親じ
みた思惑を秘めている貴信だから、複雑といえば複雑である。……もっとも、斗貴子からあっけなく鞍替えするような男なら、
香美を任そうとは思わないだろうが。
(……しかし、本当僕って、香美を娘みたく思ってるんだな!!)
 純粋にネコとして分離したのなら、7年前以前の、ごく普通の飼い主とネコとして暮らすつもりだが、万一人の姿で……
つまりは今みたく色々魅力的な女性の姿で貴信の体から離れた場合、もちろん家族だから一緒に暮らしたいとは思って
いるが、コト伴侶という問題になると、どうも自分以外の、もっとステキな男性の元に行くべきだと要らざるコトながら考え
ている。

 考えながら剛太の意を汲む貴信。意思と無関係に剛太から離れる香美。
 岡倉と大浜はどうしたものかと眺めていたが、六舛が指示すると食堂に向かって歩き出した。

(……彼らにも後で話しておかないとな)

 台本の写しを抱きしめながら(実際にそうしているのは香美だが)思う貴信。


 廊下。食堂方向へやや進んだ辺り。

「……つーかついてくんなよな」
「だってあたし、お腹すいた! すいた!!」

 食堂の道すがら、剛太はつくづく嫌そうな顔をしていた。香美がまとわりついてくるのだ。

「腹減ったんなら1人でいけよ!」
「むっ!! 垂れ目! あんた間違ってるでしょーが!!」
「何がだよ!
「あたしご主人と一緒! だから2人! そしてあんた足したら3人! 3人で行くじゃん!!」
『あの! すまないこんな屁理屈言わせて! 嫌なら僕らだけ先に行くから!!』
 右耳に人差し指を突き刺し苦い顔する剛太。香美1人でも充分かしましいのに、貴信のする微に入り細に入ったフォロー
がより一層耳にキンキン来る。配慮がまったく裏目なのだ。だから友達ができないのだ。
「うるせえ! 朝だぞ静かにしろい!!」
『ひい!!』
 強く叩かれたドアに怯える貴信。剛太はつくづく呆れた。
(ホムにとって寄宿舎(ココ)って餌場だぞ。サメが小魚の群れにビビるようなもんだぞ……)
「しゃー!! あんたご主人いじめたらダメじゃん!」
「馬鹿! ケンカ売んなって! 今のは騒いだお前らが悪い!」
 腕まくりする香美を抑える。すると彼女は「ごはん!」と叫んだ。
「うるせえよ。だからお前らだけで行けって」
「でもあたし垂れ目にサンマの切れっぱあげたいじゃん。さっきお腹いたいの治したお礼っ!」
 さっき……? 訝っていると貴信のフォローが入った。どうも9日ぐらい前を指すらしい。
(あー。音楽隊全員が負けて捕縛された後か)
 聖サンジェルマン病院で、総角のハズオブラブにかねてよりの怪我を治された剛太は、不要になった薬を、腹痛に苦しむ
香美にやった。
(確かムーンフェイスに蹴られたケガだっけ。薬全部包装ごと飲んだら完治……おかしいだろ)
「そ! そ! よーわからんけど、そ! だから垂れ目にサンマの切れっぱあげるじゃん!」
 からから笑って八重歯を覗かす香美は心底邪気がないようだ。だから怒鳴るに怒鳴れない剛太なのだが、
「つーかありがたく思ってんなら礼儀ぐらい弁えろよ」
 やや底意地の悪い要請をする。
「んみゅ? なにされーぎって」
「いい加減その垂れ目ってのやめろ。俺にゃ中村剛太って名前あんだよ。サンマはいいからそっちで呼べっての」
『まったく本当にすまない新人戦士。教えてはいるんだけどどーいう訳かちっとも覚えないんだこのコ……』
 落胆を見せる貴信に剛太は(ダメくせえ)と思ったが、何もしないまま垂れ目呼ばわりされるのも癪なので教える。
「覚えろ。な、か、む、ら、ご、う、た。な。復唱してみ?」
 香美は難しい顔でしばらく考え込んでいたが、やがて不服そうに形のいい眉をひそめた。
「ふくしょーってなにさ。光ふくちょーの仲間?」
 論外だった。剛太は頭を抑えて俯いた。

 ひとまず貴信が復唱の意味を説明したのでやってみる香美。
「な、か、む、ら、ご、う、た」
「よしやったな。じゃあ俺は?」
「垂れ目!!」
「よし俺1人で食堂行こう!!!」
 剛太は泣いた。いろいろ遣る瀬無かった。

『……香美。ありがとうって思ってるなら彼のコトぐらい名前で呼ぶべきだぞ』
「いわれても、なんかフクザツでわからん」
『覚えるだけの記憶力はあるだろう。ほら、早坂秋水氏の名前。一瞬とはいえ覚えていたし』
 かつて彼との決着後、一度だけ香美はその名を口にしている。
 もっとも、以後は白ネコ白ネコと(無特徴なところが似ているらしい。或いは剣道着が連想させるのか)呼んでいるが。


(何かきっかけ! あの戦いのような強いきっかけがあれば新人戦士の名前、或いは……)

(覚えるかもだ!!)




 食堂で予告どおりサンマをおすそ分けした香美はヴィクトリアを見つける。

「あ! おっかないやつその2! おっかないやつその2いたじゃん!!」
 まひろの隣で──当初は食堂の隅で人目につかぬよう食べていたがまひろによって連行された──ヴィクトリアは箸をく
わえたまま凄まじい目つきをした。秋水が一瞬本気で(噛み砕かれるのではないか)と箸の安否を気にするほどの迫力だっ
た。
「その2……というコトはまだもう1人食堂に!?)
 キョロキョロするまひろを離れた場所で見る影1つ。桜花である。彼女は正面に座る斗貴子を笑顔で見た。
(メチャクチャ痛めつけたもんなあ)
 剛太は内心頷く。斗貴子の斜向かいで食べるご飯はおいしかった。
「フザけやがって。もう1度ブチ撒けるぞ」
 そういう態度をして”その1”呼ばわりを招いているのだが、斗貴子はまるで反省しない。
 前髪の奥に影を湛え右目だけ光らせ威圧を湛え、立ち上がる。
「あー。コレ! いい感じのBGM流れ出したぁ。またか? またなのかァ?」
 ひょっこりテーブルの下から顔を出した鐶がぼやく。
「黙れ! というか何で金城の声だ!!」
「あら懐かしい。というか逢ったコトあるの?」
 それには答えず瞳の横に一等星を浮かべる鐶。
「この衣装……高かったのだよ!」
「知るか!! つか羽根だろその服!!」
 とにかく鐶の介入により斗貴子の闘志はしぼんだ。

 無遠慮にトレーを叩きつけるように置いた香美はヴィクトリアに話しかける。あまつさえ背中もバシリ。叩く。
「あんたさあんたさ、メール? メール、ちゃんと返事してくれるじゃん! えらい!!」
「お、香美先輩びっきーとメル友なんだ! 私もだよ!」
(貴信どういう事だ?)
(その! 彼女がここに来た当日香美がメルアド交換持ちかけてだな!)
 長らくその話は進展していなかったが、戦団に拘束されつつも銀成市に戻ってきた音楽隊とバッタリ出会ったとき、
(紆余曲折を経て交換に至った!)
 いろいろ要領を得ないが、とにかく、(結構前からそういう話があったのか)とだけ秋水は思った。
「そ!メルアド仲間よあたしら! あんたいい奴じゃんいい奴! なーんかつめたくてムカっとくるアレだけどさ! わりとメー
ルすぐ来るじゃん! 「あっそう」とかがほとんどだけど楽しい訳よあたし!!」
「食事中よ黙ってて」
 ぶっきらぼうに流しながらもその頬はちょっと赤い。
(あれほど嫌っていたホムンクルスとメールを……)
 秋水にはその心境の変化が嬉しかった。客観的に言えば、ホムンクルスなる闇の色合いの強い存在に近づいていくのは、
信奉者としての秋水が道を踏み外し償いきれない罪を犯してしまったのを見ても分かるように、本来あまり歓迎されるべき
コトではない。実際、もし、音楽隊帰還後ではなく、転校初日にアドレスを交換していたのなら、それが斗貴子の知るところと
なっていたのならば、例の内通疑惑をより強め、ますますヴィクトリアに戦士やホムンクルスを信じられなくしていただろう。
 だが、ヴィクトリアに限って言えば、かつて秋水が抱いていたような、世界に対する漠然とした厭悪を解きつつある証に……
思えた。

 香美とまひろはメールの話題で盛り上がっている。
(ああ鬱陶しい。こんなコトなら教えなきゃ良かった)
 メルアドを、である。なぜそうしてしまったかはヴィクトリア自身よく分からない。

 確か、飛び去っていくパピヨンを追いかけていた時のコトだ。
 喧嘩したわけではなく、ちょっとした意識のすれ違いで、そうなったのだが、他人とそうなったコトのないヴィクトリアは、
追いかけながら色々悩んでいた。

 香美たち音楽隊と出くわしたのはその時だ。

 悩むヴィクトリアに総角はいろいろ言った。尊大で、知ったような口で、どこか抜けている言葉だったが、不思議と心は
幾分和らいだ。

 そんなときに香美がメルアド交換を持ちかけてきた。
 転校初日にもそういう話があった。その日ヴィクトリアはゴロツキのホムンクルスに絡まれていて、香美は、「助ける代わり
にメルアドちょーだい」と勝手に決めてそして助けた。
 正直なところ、ホムンクルスぐらい、ヴィクトリア1人でどうにかできた。逃げるもよし核鉄を使い避難壕へ行くもよし。
 なのに助けられた。

(別に反故にすれば良かったのに)
 メルアドはずっと教えられなくて、何となく心に引っかかっていた。
 そこにきて総角の説諭である。音楽隊全体への印象が緩んだところで、(交換を)持ちかけられれば、それ位いいかと
してしまうのが人情であろう。
(……まあ、借りを作らないという意味じゃ最善手よ。いつまでも助けられたコト恩に着せられるよりはマシ。ずっとマシ)
 香美のメールはとりとめが無い。小札や鐶のどうでもいい日常風景とか、珍しい石とか、ヘンなネコとか、まひろ以上に
脈絡のない話ばかりだ。

 なのに……ヴィクトリアはいちいち総てに目を通している。

(本当、馬鹿馬鹿しいわね。借りなんてメルアド教えた時点で消滅。あとは来るたび速攻で消せばいいのに)
 迷惑フォルダにさえ振り分けていない。ヴィクトリアの携帯は普通に受信し続けている。
 いちいち返信してしまうのは、他人とのメールに慣れていないせいだ。ヴィクトリアはどうもこの機能を電話の延長線上
と捉えている。『携帯電話』に備わっている機能なのだから、例え迷惑な着信といえど何がしかのリアクションをすべきだと
思っている。妙なところで律儀なのだ。

(…………)

 香美経由で伝わってくる音楽隊の日常は、思い描いていたホムンクルスたちの陰惨な日常とはかけ離れていた。
 ……そう捉えるコト自体、香美を信じている証かも知れない。メールなど幾らでも偽れるのだ。本当は陰惨な日常こそ真実で、
香美はそれを隠しているとは思いもしない。

 とにかく、メルアド交換してから数日、流し読み程度で得た彼らの日常に対する思いが、無銘や鐶、貴信たちへの態度を
少しずつ柔らかくしているようだった。

(本当、鬱陶しい)

 嫌悪というよりは、まひろに対する複雑な情感に近い。違う点を挙げるとすれば、香美の方はやや動物的だ。ライオンや
トラにひどい目に遭わされた少女が、そんなコトなど何も知らない人懐っこいネコに、メールという電子の世界で、付きまと
われているような感じだった。
 傷を負わせた連中と同じカテゴリーだから、連想し、嫌ってはしまうが、無心に信頼を寄せてくる様にどうしても心揺らめい
てしまう。『ネコ科にもいろいろ居るのではないか』。そう思ってしまう。

「あ、そうだ! 黒くて大人しー奴!」
「誰よ」
 急に両手を打ち鳴らして叫ぶ香美にヴィクトリアは眉をしかめた。そういうコトがあるから心総て許せそうにはない。
(そうよ。許せるのは)
「ちーちんのコト?」
 まひろの呟きにドキリとする。フォークから小エビが転がり落ちスパゲッティの海に戻った。
(なにうろたえてるのよ私。思考を読まれたわけじゃなくて、猫型に答えただけよ) 
 しかし一番懐いている少女の話題となれば聞くしかない。香美に向き直る。
「千里が何よ?」
「あのコ、聞いてたじゃん」
 何をよと怒りかけたヴィクトリアの全身から血の気が引いたのは次の言葉のせいである。

「さっきあんたがご主人にしてた話の……ほとんど!」

 ……覚醒直前の香美は、うつらうつらしながらも、千里の気配に気付いていたらしい。
 すなわち……目覚めていた彼女の気配を。
「人ならざる身であるコトを謳う」ヴィクトリアの言葉に動揺する……気配を。

 秋水もまひろもさすがに顔色を変えた。

(……不覚ね)

 聞かれたコトもだが、それ以上に。

(一瞬……安心した。叫びだしたいほど動揺したのに、この2人が居て、ホッとした…………)

「どうにかしないと」という顔にすぐさま変じた秋水とまひろの存在に心強さを感じた自分につくづくと戸惑った。


 千里はこの時まだ知らなかった。一見無邪気な友人がどういう人生を歩んできたのか。

 その正体を。

 夥しい血を流し死に瀕する自分を冷たい爬虫類の目で見る未来を。
 のみならず正体を明かし、非情な現実を突きつける未来を。


 千里はまだ、知らなかった。




【9月14日。09:30】

 体育館で演劇に勤しむ生徒達の姿があった。
「……」
「どしたんツムリン?
 頭を抑える斗貴子の肩を叩いたのはエンゼル御前。
「どうしたもこうしたもあるか! とっくに始業ベル鳴ったってのに演劇部の連中練習続けてやがる!」
「熱心だからいいんじゃね?」
「いい訳あるかァ!! 授業ぐらいちゃんと受けろ!」
 怒鳴る斗貴子をまあまあと手で制しサムズアップのエンゼル御前。非生物的だが溌剌とした笑みだった。
「桜花が聞いた話じゃ例のちびっ子理事長が特別に許可くれたらしいぜ。授業サボって練習していいって」
 ちびっ子理事長とは最近赴任してきた「木錫」なる少女である。一見小学生にしか見えない彼女に学園運営の全権を任す
教師人に一言どころか億言いってやりたい斗貴子だ。もっともそこは錬金戦団に属する組織人、上の決定がいかに覆らない
物か知っているから──そもそも演劇部に居るのだって直属の上司たる防人の差し金だ。その程度の権益にさえ抵抗でき
なかった者がどうして理事長判断に抗えよう──口を噤む。
「というかエンゼル御前!? お前生きていたのか!?」
 浮いたまま、不満げにジタバタし始めるエンゼル御前。できそこないのキューピー人形に似ていた。
「やいやい久しぶりに逢ったってのいきなりそれかよ! 本体の桜花生きてんだから死ぬ訳ねーだろ!!」
「でもお前、昨晩2000文字の掌編書いた時も入浴の時も居なかったような」
「文章描くのって実は結構しんどいんだぞ! オレ様操ったままできる訳ねーだろ!」
「集中するため武装解除していたのか。そう言えば桜花の奴、後発の旨みかっさらう為に私たちの文観察していたしな」
 御前の説明によれば、彼女(!)のような感覚を持った共有意識の具現はそれだけで結構な負担になるらしい。単純にい
えば、視覚や嗅覚や聴覚や味覚が常人の2倍になる。人間は車の運転中ケータイを見るだけで事故る生物だ。基本的に
1度に1つのタスクしかこなせない。御前経由で雑多な視覚情報など確保するのは便利そうだが不便もある。
「それでも矢を高速で撃つ時はまだ楽なほうだぜ。基本的に同じ場所見てるからな。桜花はオレの視覚だけ使えばいい」
「スコープ覗きこむような感じか」
「そ。フロ入らなかったのは別に必要なかったから! なるべく武装錬金使いたくなかったし」
 それは特訓の疲れと無縁ではない。
(昨晩、桜花が課せられたのは精密性と連射力のアップ)
 斗貴子の脳裏に様々な情景がよぎった。
 特訓用に防人が特別に作った、吸盤付きの矢で以て、部屋を縦横無尽に飛び回る栴檀香美の額や腕、足といった様々
な箇所に付けられた的を射抜かんと悪戦苦闘していた桜花。
 普段使っている矢による速射訓練は、毎分240本から徐々にハードルを上げられ、330発の壁にしばらくまごついた所
でいったん中断。桜花の精神が尽きたのだ。一見無限に生成可能な矢ではあるが、やはり武装錬金、人の精神から生ま
れる以上限界もまたある。
 とりあえず武装錬金が使えるまでの手慰みにと防人に教えられたのは護身術。どうも彼は合気道にも通暁しているらしく、
2つ3つ基本的な型を、秋水の逆胴と引き分け剛太がいやに関心していた「重力」のレクチャーを交えつつ伝授。
 それを剛太よろしく自主的に練習していたのが斗貴子が昨晩最後に見た特訓風景。
(それから私は栴檀香美ともども上へ行ったからな。河井沙織の招集を受けるまでまだ何かしていたとみるべき)
「あー。別に大したコトしてねーって。ヘロヘロになるまで筋トレした位で」
 斗貴子は黙った。腹筋している桜花というのはどうも想像がつかない。
 とにかく、昨晩、掌編執筆において策謀を巡らせた生徒会長ではあるが、白鳥は水面の下で何とやら、いろいろ泥臭い
苦労によって御前すら出せないほど疲れていたのは確からしい。

「しかし……オレ様が言うのもなんだけど、今さら人間でしかも非力な桜花がちょっと武術かじった位で戦力になんのか?」
 御前のボヤキも尤もだと頷く斗貴子。きたる決戦でまみえる幹部……マレフィックは少なく見積もっても鐶や総角と互角。
格闘で対抗できるのはそれこそ全盛期の防人……海を割り地を裂く行為が比喩ではなく実際にできる超人でもなければ
まず無理だ。

「実際私もそう思っていたが……まあなんだ。風向きが変わったというか、やっといつもの風向きになったというか」
 斗貴子はスカートのポケットをまさぐった。やがて取り出したのは携帯電話。
「なんだよツムリン。なんかあったの?」
「つい先ほど戦団から連絡があったが、幹部連中との戦いは基本的に戦士10人以上で挑むらしい」
「……それって卑怯じゃね? いや、オレたちもひかるん相手に6人がかりだったけどよ」
「麻薬組織に団体戦挑む警察が居るか? 敵軍に数合わせる軍隊が居るか?」
「いや、いねえけどさ。でもお前ら正義の戦士なんだろ? いいのか本当に」
 御前は不満顔だが斗貴子としては異論がない。戦士はナイトでもなければスポーツ選手でもないのだ。もちろんサシに
拘る変わり者もいるにはいるが──撃破記録上位の連中は戦部始めだいたいそうだ──、多くの戦士はホムンクルスを
『災害』と捉えている。斗貴子は昨晩洪水での任務を書き綴ったが、そこに登場した艦長曰く「二次的な水害」であって「選手」
でないのがホムンクルスだ。火事や洪水、地震やバイオハザードへの対処中、「向こうは1つだからこっちも1人で」などと主
張する自衛隊員はいないだろう。それに似ている。

(待て。そんな戦士が昔いたとか事後処理班の古株に聞いたような。確か……釦押鵐目(こうおう・しとどめ)だったか?)

 斗貴子の疑念はともかく。
 ホムンクルスと災害は似ている。
 放置すれば犠牲者が増す所も同じだ。つまり一刻も早い解決が望まれる。
 なら数の暴力でも何でも使って解決すべきだというのが大勢の見方だ。
 その正当性にますます拍車をかけているのが、核鉄の希少性とホムンクルスの無限性。
 全部で100しかなくしかもその総てをいまだ掌握できていない戦団が向かうべき敵は、一定水準の設備さえあれば幾ら
でも幾らでも生まれてくる。斗貴子は先ほどレティクルを評し数で勝っていると言ったが、ホムンクルス全体と比べた場合、
その評価はまったくひっくり返る。大犯罪都市の中の警察署に100丁足らずの拳銃しかないとくれば、シンジケートの構成員
相手に「やあやあ我こそは」など言う余裕は皆無である。無言で包囲。撃つ。勝つ。そうでもしなければ我が身が危ない。

「新撰組も治安ゲキ悪な京都でソレやったっていうけど…………なんだかなあ」
 オクターブが高いのにヒキガエルのようにも聞こえる独特な声で嘆く御前。
 斗貴子の表情は何ひとつ変わらない。正しく合理的……そう心から信じているようだった。
「勝手に細分化されている無限の敵を、斃せるうちに各個撃破。被害を最小限に抑えるにはそれしかない」
「でもツムリン、桜花とか陣内とか花房相手にゃ1対1で──…」
「あれは流れ上、やむを得ずだ」
「じゃあ秋水ん時も?」
「カズキに加勢したかったがゴネられた。やむなく一騎打ちを認めたはしたが桜花が来るまでという条件付きだ」」

 実際、ヴィクター復活の際は迷いなくカズキと2人がかりで挑んでいる。

「敵が強く、しかし戦団が数で勝っているとあれば押し包んで殲滅するのが一番効率がいい」
「そーは言うけどさツムリン。再殺部隊の連中はそれしなかったじゃねーか?」
「あれは、剛太との遭遇戦含めて、指揮系統や人員の質に色々問題があったからだ。奴らは奇兵……我が強く他の戦士と
の連携が不可欠な正規作戦行動への適正なしと判断された連中だ」
 言われてみればなるほどと思う御前である。性格的に協力しない連中、能力的にフレンドリーファイア必須な連中、そういう
奴らばかりだったこそ再殺部隊は(結果として正々堂々の形で)斗貴子たちと1対1をやり各個撃破の目にあった。
「大規模かつ正規の作戦行動においては多対一が原則。でなければヴィクター1人にあれだけの人員を裂かないだろう」
 斗貴子の言い分はおよそ呑みこめた御前である。
 そも桜花の育ての親はまさに多対一の具現、実効性も正当性も痛いほどに分かる。分かるが──…
「それと桜花がどう関係あんだよ?」
「アイツが1人で幹部と向かう局面はそうないというコトだ」
 多対一の「多」の一部として戦団は使うだろう。……よほどの事態がない限り。
「昨晩教わった護身術はあくまで、後衛として、予想外の攻撃を避けるための手段に過ぎない」
「なるほど。後ろから矢ぁビュンビュン撃って前衛を補佐、たまに傷を引き受けるって役割さえこなせばいいんだな」
「そうだ。しかしたったそれだけのコトが積もり積もって勝利に繋がるのが集団戦だ。最低でも自分の身ぐらい自分で守れな
ければ思わぬところから切り崩され瓦解する」
「桜花の護身術は幹部を直接斃すもんじゃないんだな。幹部用の連携を崩さないための自衛策にすぎねえんだな」

 しかし。難しい顔の斗貴子に御前は「どしたん?」、問いかける。

「救出作戦や演劇発表まであと2日というが、合ってるのかカウント? なんか一昨日から「あと3日あと3日」と言われてる
し私自身昨日「あと2日」と呟いた記憶があるんだが……」

「それはアレだ。こーじゃね?」

 御前はどこからか取り出した紙にマジックで図を書いた。

一昨日の時点

■□□□■

「演劇発表まで『3日空いてる』。だからあと3日。


昨日の時点

□□□■

準備開始。使えるのは『3日』。だからあと3日。ツムリンの残り2日発言は勘違い。


今日の時点

□□■

準備できるのが今日と明日の『2日』だけ。だから残り2日。


 斗貴子は眉を潜めた。

「なんか胡散臭くないか?」
「胡散臭くねーよ。日本語が難しいってだけだよ。ブラ坊だって言ってただろ」


──「3日後の劇発表が終わり次第、キミたちには大戦士長の救出作戦に従事してもらう」

──「実はだ戦士・斗貴子。救出作戦開始までの3日間、俺たちは別の任務も託されている」


 な、という顔で御前は図を指差し何やら付けくわえた。


一昨日の時点

  ↓ この3日で特訓したり音楽隊の監視する。

■□□□■

      ↑ ブラ坊のいう「3日後」はココ。この日に大戦士長救出。


「ってコトじゃね? 作戦従事っていうけどすぐ救出するんじゃなくて、合流とかブリーフィングとかしてからだな……」
「もういい。考えたら頭痛くなってきた」
 あきれ顔で踵を返し御前から目を背ける斗貴子。日本語のややこしさをつくづく思い知った。
 そもそも今の大戦士長代行はあの火渡なのだ。
 今朝方やっと『いつもの戦団らしい多対一』がメールで回ってきたのを見ても分かるように、いろいろ指揮系統がゴタゴタ
しているのだろう。

(というか作戦開始の日ぐらいちゃんとしてくれ。いや、まあ、詳しく突っ込まなかった私も私なんだが)
 音楽隊との同盟がショッキングすぎるあまり最も基本的なコトを忘れてていた自分を斗貴子は恥じる。 
 日時は、果たして?
 ひょっとしたらどこかでしれっと指定されているかもしれないが、ちょっとした疳癪で変えかねないのが火渡の怖いところだ。
「とにかく戦士長に聞いてみるか」
 確か体育館(ココ)に居た筈……辺りを見渡すと割合すぐ、見慣れたツナギ姿が目に入る。
 彼は生徒たちと拳の素振りをしていた。

「そういやブラ坊、アクション監督だったな」
「ああそうだ。技の参考にとそのテの映画を沢山見たらしい。そういえば昨日女風呂から戻ってきたとき見たな。ビデオテー
プの沢山入った段ボール。自分の特訓だけじゃなく映画もいろいろあるらしい。あの人らしい。研究熱心だな」
 まさか底の方にあるエロスのカモフラージュとは知らない斗貴子は実直に頷いた。
「映画みまくってるならアクションの監督やるのも納得だな」
 御前に頷きつつも「これで総監督さえパピヨンでなきゃな」と毒づくコトは忘れぬ斗貴子。ちなみに問題の総監督はいまの
ところ来ていない。

「そーいやびっきーとまっぴー、あと秋水も見当たらないぞ?」
「若宮千里の件でいろいろあるらしい。……そっちは彼らにしか解決し得ない問題だ」

 とりあえず防人と合流し、質問。日付けは御前の説で合っているらしい。時間についてはこの期に及んでまだ未詳。
 火渡の適当さに呆れているとどこからか鐶が来た。来て、防人に話しかけた。

「君はキャプテンか?」
「?」
 何が何だかという彼に、鐶は、穿つような、厳然とした声で再度問うた。
「今一度問う。君がキャプテンなのか?」
「ま、まあ、キャプテンブラボーと名乗る以上、そうあらんと務めているが……」
 何が何やらという様子で答える防人に、虚ろな目の少女は一瞬黙り込んだが、どこかパアっと華やいだ雰囲気で親指を
立てた。いつも青黒い闇を背負っている少女が、いまは暖色かつ花柄の背景を得ているのを幻視した(してしまった)御前
と斗貴子、うんざりとした様子で言葉を交わす。

「なあ。ツムリン。アレって」
「言うな。たぶんまた何かのアニメに毒されてる……」
「冗談は……さておき…………ブラボーさんのお陰で……私……防御……得意に……なりました……」
 斗貴子はますます呆れた。

 鐶は昨晩の特訓でかなり防御力を上げた。もともと体質や武装錬金などの複雑怪奇な輻輳(ふくそう。多くの物事が一か
所に集まるさま)によって瀕死時に自動回復する鐶は、それ故にノーガードで敵に突っ込んでいくコトが多かった。それがため
ただでさえ年齢の蓄積が必要なクロムクレイドルトゥグレイヴの燃費をますます悪くしており、厖大な準備と、年齢枯渇時の
圧倒的脆さを抱え込む羽目になっていた。

──「フ。防御についてはホムンクルスたる俺が教えたところで真剣身を欠く。だから敢えて放置したのさ」

 内実の伴わない余技よりもむしろ長所を伸ばす、その上で不都合を感じたら治せばいい……総角の教育方針は、戦団
が得意とする6対1の戦いを終始優勢で進めながらも、最後の最後で負けた鐶に一考するチャンスを与えた。

「私は……考えた……のです。もし……防御が……できて…………年齢を……もっと温存できたら…………あのタイミング
での……ヴィクトリアさん乱入は防げましたし…………そもそも最終的な自力の差で…………体力の差で…………斗貴子
さんにも……勝てたかも…………と」
 これが後輩の戦士なら斗貴子も「よく反省した。えらいぞ」と諸手を挙げて歓迎するだろう。
 だが、いかんせん敵の、倒してなお未だその実力を警戒している鐶に言われると不愉快どころか肝が冷える。

「それに…………防御は…………踏み込みが甘い……と色々……切り払え……ますし……年齢的には……Eセーブみた
いで…………やってみると…………結構…………いい、です……。ちなみに今までやらなかったのは……面倒臭かった
…………だけ…………です……。私はスパロボも戦いも…………レベル上げて……ゴリ押し……大好き……です」

 ひどい脳筋だった。搦め手に次ぐ搦め手で人混みに紛れ戦士たちの年齢を削っていたクレバーさが嘘のようだった。

「……あ…………、インターミッションで陣形……かなり考えますけど……崩れたらゴリ押しで…………」
「……」
「崩れるコトの方が、多い、です」
 なんかもう鐶に付き合ってるとそれだけで時間がスローになった感じがするのだ。斗貴子は。
(そのくせ防御だけは上手くなりやがった! 今朝だって連携の特訓後に模擬戦をしたが、バルキリースカートの攻撃、10
発中4発は見事に捌いていた! かなり本気だったのに4割もだぞ!)
 一見小さな数字だが、斗貴子としては脅威である。高速機動の命中率が6割を切る相手といえば、虫型のような、矮躯で
しかも鳥型など比較にもならない速度のホムンクルスか……秋水。
 もっとも彼の場合は、捌くという生易しいものではないし、回避率の求め方も逆算的というか、「避けずに戦った結果、4割
の攻撃は捌かれました」という結果論にすぎない。鐶とは様子が異なる。

 斗貴子が処刑鎌を10回振りかざすとしよう。うち6本は紙一重で受ける。受けて嵐の中で間合いを詰めて、次の2本を刀
で思うさま叩く。すると斗貴子の足に衝撃が伝播しバランスが崩れる。最後の2本があらぬ方向に流れ外れるのは必然だ
ろう。そこで刀を斗貴子に突き付け勝つか、或いは逆に目つぶしの寸止めを受けて負けるかだ。

 そういう戦い方なので、彼の勝率は目下5分5分。被弾覚悟だから統計上の回避率は4割程度と芳しくない。
(だが鐶はちょっと防御を齧った位で、もう早坂秋水と同じくらい避けてやがる)
 飲み込みが早いのだ。斗貴子との連携を恐るべきスピードでモノにしているのを見ても分かるように、彼女は人を真似る
のが実にうまい。変幻自在の特異体質の副産物、「見て真似る」コトを行住坐臥行った結果は防御を伝授する防人にも
適用されたとみえ、真綿が水を吸うように初歩の防御を覚えた。
(かなり本気の戦士長は、私の攻撃を4回に3回は受け流す。もっと本気ならそもそもバルキリースカートが動く前に首筋を
後ろから叩いてくるが……)
 正直どのレベルに達するか想像もつかず少し怖い。「いきなり色々教えても身につかないから」と、初歩の技術だけ何度も
反復するよう申しつけた防人にはいろいろ感謝だ。(もっとも初歩の防御ひとつ覚えただけで鐶は以前よりずっとやり辛く
なっているのだが)


「しっかし、ブラ坊。よく鍛えたな……」

 御前の声。我に帰る斗貴子。開墾された現実世界は薄汚れたマットの世界だった。
 そこでは先ほどから受け身の練習が行われている。

「そーだ。後ろに飛ぶときは思い切って飛びなさい。ヘンに勢いを殺すと見栄えが悪くなるしそもそも危ない」
「うす!!」
 野太い声があがる。発生源は男子約10名、女子数名。そこから何度か後ろに飛んでは受け身を取っていたが、防人の
号令とともに軍隊よろしく整列した。

「よし。ちょうど半分にできるな。奇数は右へ偶数は左へ。昨日教えた通り打ち合え。パターンはDだ」
「うす!!」
 斗貴子は目を丸くした。生徒たちが殴り合いを始めたのだ。一瞬乱闘かと目を剥いたが、拳もつま先も相手に当たって
いるようで当たっていない。そのくせ顔のすぐそばを拳が通ると、一切直撃していないにも関わらず、首を捻じ曲げ旋回し
ながらマットに落ちる。

「すげえ。10人以上が暴れてるのに、吹っ飛んだやつ全然邪魔になってねえ」
 御前の呻きの意味を計りかねた斗貴子だがすぐ気付く。生徒たちは激しく動いているようで前後にしか動いていないのを。
あたかもめいめいが、別個独立した1本ずつの丸太の上にいるがごとく、他のペアに干渉しないよう、十分な間隔をとって
各自の動きを展開している。件の首を曲げ旋回した生徒も、動きこそダイナミックだが、立体的にみると仮想的な一本の
線からまったくはみ出していない。ほんの1m横でキックやパンチの応酬が繰り広げられているのに、掠りもせず、無事、
吹っ飛んでいるのだ。


 5分後。小休止の号令がかかり思い思いに休息する生徒たちをしり目に、斗貴子は防人に話しかけた。

「……たった1日でよくあそこまで仕込みましたね」
「基本はアレだ。戦団でやっている集団戦闘の練習。まあ、アレに比べれば楽だな」
 防人の話によれば、本来、戦士に伝授する戦闘というのは、高出力で押してくるホムンクルスをいなしつつ、一本の直線
から彼我がはみ出さぬようコントロールする独特の歩調を1か月がかりで仕込んでから移るという。
「こっちは両方生徒だからな。他の連中に当たらないよう口頭で説明すれば大体済む。ホムンクルス相手よりは楽だ」
 ニカっと笑う防人。斗貴子は一瞬呆れたが、珍しく微笑する。
「ずいぶん楽しそうですね」
「ああ。戦団じゃこういったアクションは別段珍しくもないというか、別に仕込まなくても普段通り戦うだけで十分見れるレベル
の奴らがわんさといたからな。改めて指導するのは……こういった指導をするのは俺的にも新鮮だ」
「ブラボー。おにぎりあるけど食べる」
「くれ。投げろ。昨日教えた投石の要領だ!」
 勢いよくいうと笑い声とともにおにぎりが防人の右手へ移動した。斗貴子を見て笑う防人。
「とまあ生徒たちとも仲良くなれた」
 斗貴子は柔らかな吐息を吐いた。飄々としているが面倒見のいい防人だ。寄宿舎管理人ではなく教師として銀成学園に
潜入していたのなら、今頃は大層人気者だったろう。
「ちなみにさっきの動きを教えるのもなかなか楽しかったぞ。平均台を使ったりとか、壁際でやるとか、撃ち合う彼らの傍を、
敢えて俺がうろつきぶつかって貰うとかな」
「あれは幾らなんでも過保護すぎでしたよー!」
「そうだブラボーは過保護!」
「過保護過保護!」
 野次が飛ぶ。防人がわざとらしく怒った表情を向けると生徒たちはどっと笑った。
「ま、お陰で集団での撃ち合いについちゃ安全が確保できた」
 満足げなアクション監督に御前はちょっと疑問符を浮かべた。
「でもアレってどういう意味があるん?」
「あー。それはだな」
 やや歯切れの悪い防人を押しのけるように声がかかった。
「オレたちやられ役なんスよーー!!」
 出所を見る。頭にタオルを巻いたニキビの少年が、朱い箸と数粒の米の乗った弁当箱片手に口に手を当て叫んでいた。
「そーそー!! 副会長と! 斗貴子さんにー!!」
「バッサバッサとやられる雑魚戦闘員ーーーー!!」
「い゛!?」
 斗貴子は面食らった。そういえばアクション担当だとは聞いていたが、しかしこれではまるで主役級ではないか。
「なんだ知らなかったのか。演劇部の連中、どうやらお前と戦士・秋水を盛りたてる方向で行くらしいぞ」
「そう……です……。台本はまだ…………ですけど……コンセプト……だけは……固まって……ます」
「むしろちーちんのヤローはそこをどう落とし込むかで悩んでたっけ。にしてもこんな居るのかよやられ役……」
 演劇部の動きをうっすらとだが掴んでいる御前でさえこの展開は予想外だったらしい。
「い、いくら多すぎじゃないですか戦士長」
「何を言う戦士・斗貴子! 主役の大立ち回りは基本だぞ! 10人でも少ないぐらいだ!」
 そうはいうものの、やられ役を引き受けた部員たちは、昨日今日入った斗貴子と違い、年単位でずっと演劇に関わって
筈なのだ。
「なのにポッと出の私なんかを引き立てるなんてどうなんですか」
「それなら大丈夫ーーー」
 また声。大部屋役者よろしく固まったままなのは一種の礼儀ゆえか。
「俺ら正直、何で最近入ってきた奴にって思った時期もあるっすけどー」
「ブラボーさんの教え方がうまいし、コレはコレで大事な役だってーー」
「理解したしィー」
「むしろこーいう役をやってこそ見えるものもあるだろうって考えたらぁー」
「そんなー、嫌じゃー、ないですよーーー」
 みな輝くような笑みだった。斗貴子はなんだかそれが目に刺さるように眩くて、ちょっと涙ぐみそうになった。
「という訳だ。みんな動くのは好きだし、俺の見たところ体を使った演技の方に才能がある」
 またまたそうやってウマいコトを言う。誰かが揶揄するようにいうと、やられ役一同はドッと笑った。
 それだけで斗貴子は彼らと防人の絆を実感した。

(……こういうのが、この人の日常、なんだろうな)

 斗貴子自身はカズキを取り戻すまで溶け込むまいと決めている。罪だとか罰だとか、今はそういうコトを考えてはいない。
 一種の、願掛けだ。
 防人が命じたようにすぐさま、日常を取り戻し、且つ、心から戦える理由を見つけるのは、難しい。
 願掛けとは仮託だ。いまは戻れないがいつか行く日常を忘れえぬための仮託だ。何が心から戦う理由となり得るか今は
まったく分からない。カズキを取り戻せるかという未来の不安。日常が詰まっている過去の亡失。あやふやで暗い両端を
持つ心だから右に左に揺れていて、だから斗貴子は思うのだ。「そんな人間が心から何かを叫べるのか、叫んだとしてそ
れが心からだと実感を以て納得できるのか」と。

 願掛けとは仮託だ。心境は変わっても状況は悪いままの現実において、それでも生きんと決意した自らの意思を振り返っ
て認めるための一里塚だ。覚えている限り死は選べないし、秋水のようにもならない。

 防人もそういう物を持っているのだろうと思う。
 いま通じ合っているやられ役の部員たちとの記憶がまた彼の原動力になって、また多くの人を育てて、彼らが誰かの希望
になる。防人自身も希望を得る。そしてまた、多くの、誰かを。

 そんな他愛もない話を斗貴子がすると、防人は静かに笑った。嬉しさと寂しさが半分ずつ宿った蒼い笑みを。
 斗貴子が「よくない話だったかな」と謝るべく口を開いた瞬間、それは来た。

「あの。銀のコート脱いでますけど、キャプテンブラボーさん、ですよね?」
 茶色いサイドポニーテールをした気弱そうな少女だった。斗貴子の知る顔で一番近いのは毒島だろうか。彼女の外見年齢
があと5つほど上昇すればこんな感じだろうと考えた。
「ム。キミは先日電車で逢った」
「知ってるんですか戦士長?」
 防人は答える代わりに斗貴子の頭を抱え、彼女ごと踵を返し少女から距離をとる。
 いわゆる露骨なヒソヒソ話の体勢だった。
「知り合いだ。あまり大きな声では言えないが……あの日は混雑していてな」
 さすがに斗貴子の勘は鋭い。(痴漢被害か)。無言で頷く防人。



 少女の悩み相談とは実に簡単だった。護身術を教えて欲しいとのコトである。
「ブラボーさんの手並みが見事で……私もああいう風に拒めたらって」
 相当怖かったらしい。と同時に、気弱だからこそ燃え盛る危うい炎をも瞳に灯していた。
(……あまり授けない方がいいと思うが)
(なぜ…………ですか……? 防人さんの教え方は…………上手……です……。私に教えたように……護身術を……
伝授すれば…………たぶん……初歩ぐらいなら……2カ月あれば……身に付きます……」
 斗貴子は首を振った。同時にやられ役たちも声を発した。

「あの。もしそのコに教えるんだったら」
「オレたちにも教えてくれませんか?」
「護身術とかかっこいいじゃないです」
「彼女守れるなら覚えたいです。お願いします」

 防人はちょっと黙って考えていたが、すぐニヤリと笑った。

「身を守る技ならいいのがあるぞ」
 技という言葉に少女の瞳が潤み頬が染まる。やられ役たちも歓声を上げた。
「陳式太極拳のな」
「おおすごい! ただの太極拳ではなく陳式ってのがカッコいい!」
「その名も…………玉女穿梭」
 おおー。誰ともなくどよめきがあがった。カッコいいですとは鐶の弁。
「何だよコレやけにカッコいいじゃんか! 穿つのかブラ坊、穿つのか!」
 御前がはしゃぐ──ちなみに演劇部員たち全員、御前の存在をあまり気にしていないのが異常だった。よく言えば銀成
学園は大らかであまり色々気にしない校風なのだ──と、防人は「いや」と首を振った。
「敵は穿たないが決まれば確実に戦闘が終わる! 俺自身、自分の技の参考にしたぐらい素晴らしい技だ!」
 と言われれば誰だって否応なく盛り上がるだろう。一撃必殺? とかブラボーさんが真似るぐらいだからさぞや破壊力が
あるんだろうとか様々などよめきがあがった。
「で、結局どんな技なんですか戦士長」
「逃げる技だ!」
 ざわめきが沈黙という特異点に圧縮され「えー」というビッグバンとインフレーションに転じた。
「えー。ブラボー。そりゃないっスよー」
「せっかく期待したのに……」
 まあまあと手で動揺を制しつつ、相談に来た少女にも軽く笑うブラボー。
「例えばの話だが、そうだな、ナイフを持った通り魔がいるとする。すでに数人に危害を加えた彼を、警察は路地裏に追い
詰めた。ところが犯人はひどい興奮状態。銃を使う許可は下りないが取り急ぎ逮捕しなくちゃいけない。……この場合、
キミたちは警察官たちに何を求める」
「何をって……そりゃ、ね」
「うん。逮捕してほしいと思う」
「ブラボー。それが人情であり普通だ。ではもし、逮捕の際、彼ら警察官がケガをしたらキミたちはどう思う? 命には関わ
らないがかすり傷でも済まない。動脈を傷つけられ、縫合が必要で、わずかだが一生神経が痺れる後遺症を負うとする。
…………そんな彼らをキミたちはどう思う?」
 鉄火場の数々を潜りぬけている斗貴子にしてみれば生ぬるいリアリティだが、生徒たちは少し思うところがあったようだ。
「え。ええと……」
「無傷で捕えて欲しかったと思います」
 うむと防人は頷いた。
「誰もがそう願うだろう。だが実際にはケガをする。オレが挙げたよりももっとヒドいケガだって負う」
「…………」
 最悪のケースを想定したのだろう。そしてそれは自分たちが知らないだけで、今もどこかで起こっているのではないかという
原因不明の罪悪感となって漂い始めた。
「警察官は、1日数時間……多い時は10時間近く、身を守るための術を、犯人を逮捕するための術を学んだ人たちだ。それ
も1年どころじゃない。何年も何年もだ。そして警察官になってからも鍛錬は欠かさない」
 防人が何をいいたいのか。斗貴子はだいたい分かっている。
「けれど、悪意や暴力の前ではどうしても傷つかざるを得ない。繰り返すが、1日に何時間も訓練する生活を、数年がかりで
続けた人たちでさえ、悪意や暴力を前に無傷とはいかない。たったナイフ1本持っただけの、碌に鍛えていない人の攻撃に、
傷つけられ、時には一生を左右するケガさえ……」」
「…………」
「ましてちょっとかじった程度の俺の護身術など却ってキミたちを死地に招くだけだ」
 だから逃げるのがいい。防人はそういうのである。
 では痴漢対策はどうすればいいか?
「大声をあげるとか……だが、それも難しい。というか異性の戦士長には分からない機微がある」
「私……とか…………桜花姉さん……とか……相談に……乗ります」

 という訳で女性陣預かり。

「ところでブラボー。他にはどんな護身術があるんスか?」
 やられ役の1人、ニキビの多いロンゲ君が手を挙げると防人は胸を張った。
「簡単だ。まず夜道を1人で歩かない。治安の悪い場所にも近づかない。雑踏ではちゃんと前を見てゆっくり歩く。人にぶつ
からないように……な!」
「そんなん技じゃないですよ」。ただの注意だ、生徒達はどっと笑った。防人は説教臭さを消すために大げさな身振りを交えた
のでそれがおかしかったのだろう。
「ならカツアゲを8割無事でやり過ごす方法とかどうだ」
「何をするんですか?」生徒の問いに答えて曰く「道具を用意する」。
「道具?」
「そ。3000円もあれば調達できる」
「まさか催涙スプレーとかいうオチじゃないでしょうね?」
「いや、そういう攻撃をすると奴らは逆上する。身を守るためのグッズで敵意を買うのはブラボーじゃない。俺のいう護身術は
もっと穏便に済ませるものだ」
 具体的には? 防人はニカっと笑った。
「ダミーの財布を用意する。1000円ぐらいの奴だ。そこに2000円詰めておけば相手はだいたい納得する」
「あげるのかよ!」
 茶髪の少年が立ち上がり鋭い声とともに裏拳をやると一座はまたどっと沸いた。
「まあ、2000円やって済むならそれでいいだろ。ケガしたらもっと損するぞ」
「それで納得しなかったら……本命の財布見つけそうな時はどうします?」
「予め靴下に1000円札を忍ばせておく。そしていかにもトラの子という感じで渡せばほぼ確実だ」
「どこまで用心深いんスか」
「てかブラボー、けっこう体格良くて強そうなのに言うコトしょぼい!」
 そういってやられ役たちはまた笑う。ブラボーは頭に手を当て大仰に目を泳がせてみせた。
「まあ、アレだ。迂闊に手を出すとやばいからな。自分がケガするコトもあるが、それ以上に傷害とか殺人は罪が重い。
敵に勝ったはいいがその後の社会生活まで影響が及んだらシャレにならない。賠償金とかどう払えばいいって話だ」
「あー」。 生徒達は一瞬ハっとした顔をするが「まあ、そうですけど」、とりあえず笑う。


「……そうだな。一般人は私たちと違う。敵は人間で、だから殺せば罪になる。戦士長はそうならないよう教えているんだ」
「究極の……護身……ですね」
 斗貴子と鐶は頷きあった。


「で! ダミーの財布を確実に渡すにも演技力がいる! 演技もまた体を使う行為だ。つまりキミたちが今回の役目を果た
せば……アクションをうまくこなせば、それは巡り巡って身を守る楯となる!」
「誰がうまいコトを言えと!」
「はいはい。ノせられてあげますよー」
 そういって生徒達はまた練習に戻る。

(だいぶいい関係を築きつつあるな)

 斗貴子がそう見た頃──…

 空き教室で秋水とまひろとヴィクトリアは悩んでいた。
「ちーちんがびっきーの正体に気付いたみたいだけどどうしよう」
 太い眉をハの字にするまひろは困り果てていた。
「事実をありのまま話す他ない」
 秋水は端正な美貌を一層鋭くしながら答える。
「どうでもいいけどどうしてアナタたちそんな離れて座っているのよ」
 ヴィクトリアは、ツッコんだ。
 2人は同じ列に座っているが、机3つ分ほど開けて相対している。
 しかもまひろは椅子に後ろ向きで腰掛けている。ロングのスカートがいろいろ無理のあるコトになっていた。
 秋水は黙然と黙り込み
「迂闊に偽れば君の友人の心証が悪くな「いや流すのも偽るってコトじゃない。答えなさい」
 話題を逸らそうとするが阻まれる。
「わ、私が悪いんだよ……」
 おずおずと手を挙げるまひろの丸い顔は薄いフレッシュピングである。
「秋水先輩が後ろに座ったときビックリしてついココまで来て」
「呆れた。アナタまだビクついているの? いいじゃない。自分で昨日言ったんでしょ。早坂秋水が好きかも知れないって」
「びっきーーーー!!」
 まひろの顔は真赤になった。ポンペイにある有名な「秘戯の間」もびっくりのポンペイアンレッドである。
「どうして私のヒミツを知ってるの! まさかスパイ! スパイなのびっきーは!!」
「いや、私もあの場に居たでしょ。というか避難壕(シェルター)だし、私なしじゃ行けないわよ」
「ふぐぅ〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 ちょっと膨れ面をしながら目元に涙を溜めるまひろ。
 昨日彼女は、秋水と、ちょっとしたすれ違いをしてしまった。結果、彼は謝りにきたのだが、そのときまひろはテンパるあ
まり、

──「私! 秋水先輩のコトが好きかも知れなくて!!」

──「でもソレが言い出せなくて思わず逃げちゃってたのーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」

 などとヒドい自爆をしてしまった。
 今それを思い出したヴィクトリアが思わず口を押さえるほどヒドい自爆だった。

「け、今朝だってソレ思い出した瞬間、秋水先輩の正面に座っているのが恥ずかしくなったんだよ……」
「思い出すって何よ。まさか素で忘れてたの? 普通忘れないわよねあんな出来事」
 女のコらしくない眉毛の下で長い睫が恥ずかしげに伏せった。皺のよったロングスカートに拳がきゅうっと押し付けられた。
「忘れてたの!? 昨日男湯に栴檀貴信捕まえに行った時はまだ覚えてたのに!」
 流石のヴィクトリアも声を張り上げた。全くありえないだろう、女子が告白を忘れるなど。
「すすすすっかり忘れてた訳じゃなくて、その、秋水先輩見た瞬間、なんか恥ずかしくなったけど……なんでかなーって分か
らなくて、ご飯食べながら一生懸命考えてて」
 ここでまひろの双眸が熱く潤んだ。傷みがちの髪の幕を梳きながら頬に手をあて悩ましげに俯いた。細いウェストも軽く
くねる。そこまでは恋に悩む正統派美少女だった。秋水もちょっと見とれていた。
 そしてサクランボのようにプリっとした唇が震えながら言葉を紡ぐ。
「先輩に告白したコト、タクアン見て…………やっと思い出して」
「え゛っ」
 秋水の表情がヒビ入り強化ガラスと化した。
「なんでタクアン見て思い出すのよ…………」
 まだ朝なのに1日フルに働いたような疲労感がヴィクトリアを襲う。秋水はと見れば顔に若干縦線が浮かんでいる。
 ヴィクトリアは彼がどれだけ告白されたかは知らないが、少なくても翌日忘れられタクアンを見て思い出されたのは今回が
初めてだろう。
 幾ら朴念仁でもあんまりな扱いではないか。
 秋水とて年頃の男性だ。異性にフザけた扱いをされ平気でいられる訳が無い。
 しかもまひろを大切に思っているのだ。傍観者たるヴィクトリアにさえ分かるほど大切に。
 なのに向こうはタクアンと同格扱いである。あんまりすぎて、冷酷無比で狭量なヴィクトリアさえ珍しく擁護に回った。
「あのね。早坂秋水は一応この学園のアイドルらしいのよ。中身はともかく顔はいいって言われてるし、剣道は知っての通りで
成績もトップクラス。おまけに生徒会副会長」
「え……秋水先輩、成績トップだったの」
「いま問題にしてるのはそこじゃないわよ! 何!? そこすら分かってなかったの!?」
「俺が成績トップだったのはL・X・Eの活動の一環だ。あまり褒められたものじゃない」
「知らないわよ!! マジメなようでアナタもズレてるわね! ちょっと黙って!!」
 マジメに返してくる秋水にますます瞳を尖らせながらヴィクトリアは言う。
「コイツへの告白、タクアン見て思い出すのは勝手だけど本人の前で言うのはどうかって話よ!」
「おお。びっきーが秋水先輩のために怒ってる」
「おこ……ば! 馬鹿ね! 早坂秋水のためなんかじゃないわよ! アナタの物言いがあまりにヒドかったから叱ってるだ
けよ!」
「俺のために怒ってくれたのか。感謝する」
 生真面目に頭など下げてくる秋水に引き攣れた呻きを漏らすほかないヴィクトリア。顔はまひろと同じぐらい赤い。
「ああもう! アナタたちは自分のコトからどうにかしなさいよ!! 千里の件は私がやるわよ! 私からちゃんと言うから!
沙織にだけ隠すのも悪いからあのコにも言う! ソレでいいでしょ!?」
「ウン。びっきーがそう言うなら任せる」
 鼻息を吹いてユーモラスに頷くまひろにヴィクトリアはコキリとうなだれた。
「どうしたヴィクトリア。気が重いならできる限り助力するが……」
 秋水に「いえ」と手を振り首だけ上げる。
「なんで任せられるのよ。一回逃げてるのよ私。それを信じるとかどういう神経よ」
 まひろは不思議そうに瞬きした。
「でも今は逃げてないよねびっきー」
「アナタね……」
 はあと嘆息する。ヴィクトリアはまひろのそういう所が嫌いで好きだった。無言の信頼という大仰なものをサラっと挟み
込んでくるのだ。あまりに無色透明すぎてただなる無防備の愚鈍に見える信頼を。
 実際のところ、今回のヴィクトリアは逃げていない。友人の中で一番率直に心寄せられる千里に人ならざる本性を知られ
て恐怖と不安を覚えてはいるが、それでも向かい合おうと思っている。
 だからといって完全に逃げを捨てられる訳が無い。
 100年だ。100年地下で培った後ろ向きな思考は簡単には変わらない。

「私だって正直逃げたいわよ」。ヴィクトリアはまひろに言う。

「昔、ママに似てるって理由で、千里を食べたいって思ったコト、本当は絶対バラしたくないわ。ホムンクルスで怪物ってい
うのは言うわよ。千里だけじゃなく沙織にも言うべきだと思ってるわ。でなきゃこんな私を友達だと思ってくれてるあの2人に
不公平だし。でもホムンクルスなのって、元を正せば戦団のせいでしょ。私は被害者だから、『同情してくれるだろうな』って
打算がどこかにあるのは否定できない。自分だけは特別で無害な可哀想な化け物だから、きっと友情だって続けてくれるっ
て…………要するに甘えてるのよ」
 言葉を吐くたびどんどん雰囲気が暗くなっていく。マイナス思考のドス黒い紫のオーロラが俯くヴィクトリアを中心に展開した。
「俺がいえた義理でもないが、君は少しマイナス思考すぎないか?」
「じ、自分をそんな悪く言っちゃダメだよ! びっきーは本当は優しくていいコなんだから!」
「ハッ。どうでしょうね」。自虐的な笑みを浮かべ視線を逸らすヴィクトリア。つくづく滅入っているようだった。
 まひろはそんな友人をあどけなく眺めていたがポツリと呟いた。
「びっきー最近明るくなったよね」
「どこが!?」
 ありえない言葉だった。
「いや、その、前はもっとドン底ーって感じだったけど、いまはなんかヘコみ方が面白い」
 ヴィクトリアは無言で笑った。爬虫類のようなスリットの瞳でただひたすらまひろを見て、笑った。周囲の気温が10度は
下がる冷たい笑みだった。

「ゴメン……」
「あなたって本当空気読めないわよね。だから名前で呼びたくないのよ」
「名前?」秋水の問いかけに何でもないと慌てて対応。早朝に貴信から言われた件がつい口をついたとはとても言えない。

──「まひろ氏のコトだ。他のお二方は下の名前で呼んでるのに、彼女だけはフルネームなんだな」

(フルネームで充分じゃない。こんな空気の読めないヘンなコ…………。そこまで親しくなんかしたくない)

 と思っているのに、今回の件のような、デリケートで触れられたくない話題には同席させている。

(なんなのかしらね。このコって。私にとってどういう存在なのよ?)

 考えても分からない。腹が立ってきたので怒りは総て貴信にブツけるコトにした。そもそも彼とのやりとりをして千里に
正体がバレたのだ。寝てると思い込み、彼女の部屋でつい暴露したヴィクトリア自身も悪いしそれは分かっているから、
別に今後彼を攻撃するつもりはない。だがそれでも内心で行き場のない怒りをブツける位、許されてもいいだろう。

(だいたい何よ。自分だって千里に正体バレた癖に無傷で済んで)

 昨晩、思わず香美から交代してしまった彼。千里の反応は「例え人ならざる存在でも斗貴子が見逃している限りは恐れな
い」だった。

(私がホムンクルスってコト明かそうと思うのは栴檀貴信のせいでしょ栴檀貴信の)

 それこそ昨晩の短編執筆時における桜花状態なのだ、ヴィクトリアは。
 貴信という捨石があり、それに対する反応が分かったから、前歴を前面に押し出せば何とかなる……などという打算が
脳裡の片隅で動いているのは否定しようがない。
 だから、嫌なのだ。
 大事だと思っている友人との関係を、彼女らの誠実さを利用して、お涙頂戴でうまく調整しようとしているように思えて、
たまらなく不愉快だ。

 というコトをいうと、秋水とまひろは「ネガティブすぎる……」と呆れた。

「姉さんはそういうコト考えないと思うが」
「素敵ね。真の腹黒なら迷わずやるっていうニュアンスが、「姉さん」って単語1つで充分伝わったわ」
 毒を吐きながらも頬はちょっと柔らかくなった。いつかまひろにも似たようなコトをいったが、自分のコトになると全く分かって
いないんだなと分かった。
「……姉さんには言わないでくれ」
「分かってるわよ」
 やけに深刻な表情の秋水に答えるが彼はまったく止まらない。傍に来るやまひろに聞こえぬよう声を潜め囁いた。
「そうは言うが君、昨日姉さんに武藤さんとの顛末を教えただろう。酷い目に遭った。不安なんだ。怖いんだ」
「…………。あれは悪ふざけがすぎたって反省してるわよ。さっきの陰口じみた発言、教えたりしないわよ」
 本当だなと2度3度、結構必死に念を押す秋水の後ろから飛んできたのはまひろの言葉。
「きっとびっきーは心を操りたくないほどちーちんやさーちゃんのコト、好きなんだよ」
「千里はともかく沙織とは付き合い短いわよ? なのにどうしてこうも気を遣ってるのかしらね」
 案外似た者同士かも知れない。沙織は子供っぽい。ヴィクトリアも100年以上生きてまだ思春期を脱し切れていない。
成長の遅さという点では似たり寄ったりだし、そもそも沙織はまひろほど突飛ではない。場の雰囲気に流されやすくはある
が、それをまひろよろしくぶっ壊すヤバさは良くも悪くも備わっておらず、空気もまたほどほどに読める。
(まあ、不愉快じゃないし、騙す必要もないし)
 千里ほど憧れもせずまひろほど持て余しもせず。いわゆる普通の友達なのだ。1人だけ教えないのは不義理だろう。
 などと考えていると秋水がまだ袖を摘んだ。
「姉さんには」
「しつこいわね……」
 呆れた。呆れながらも元はといえば自分の悪ふざけが原因なので、不承不承謝り2度としないと誓う。


 余談だが、昨晩、桜花が、風呂上りで斗貴子相手に「らしくもない」挙動をしていたのは、その直前、ヴィクトリアのメールを
見たからである。(防人への連絡のため携帯を開いたところ、未読なのに気付いて読んだ)
「弟が告白される」。それも桜花が憎からず思っているまひろに。
 桜花は母親かというぐらい内心小躍りしていた。寂しくもあったが我が事のように喜んでいた。


──「楽しいのはきっと、みんなが楽しくしてるからよ。みんなが楽しいのは津村さんがいるからよ」
──「どうした。桜花お前いったいどうした。大丈夫か?」

──「津村さんはね、もう日常の一部なのよ。まひろちゃんたちにとって、そこに居るのがもう当然になっちゃってるのよ。短気で、
──強くて、一見近寄りがたいけど優しくて、それこそ何かの部活の副部長のように頼りがいのある人で、だから私もその……
──『ブレーキかけてくれるかな』って信じて、その、時々、ふざけたり……できる訳で…………」
──「どうした!? 桜花お前本当にどうした。!?」

──「とにかく!! 津村さんのような異物がいるからこそ日常は面白いの!! あなたはおしるこにとっての塩なのよ!!!」
──「異物!? 塩!?」

── 愕然とする斗貴子を映し鏡に自分らしからぬ行状に気付いたようで、「ぅ〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」と声にならぬ声で唸り──
──まひろはおろか小札・毒島よりも幼い顔だった。エンゼル御前にも現われない、10数年秋水以外に心を鎖してきた故の、深層
──にある幼さが全開だった──それから脱兎のごとく脱衣所を逃げ出した。


──本文:《死なないでね津村さん。私……。津村さんが死んだら、悲しい!!》


 で、この始末である。斗貴子がうろたえたのも、その後、無銘が必死の思いでえっちぃビデオを隠蔽したのも。
 元を正せばヴィクトリアのせいなのだ。

 そうと気付かぬ本人は、(気付いてもしただろうが)ひたすら自嘲していた。
 秋水やまひろとのやり取りで幾分かは気楽になったが、やはりどこかで打算的な自分は許せない。

(間違いでも自爆でも……素直に告白じみたコトできる武藤まひろの方がまだマシよ)

 まひろは物笑いの種だが、それでも見ていると心に春風が吹きぬけるような爽やかさがある。
 尤も、まひろとヴィクトリアでは基盤がそもそも違いすぎる。
 前者は秘めたる好意に基づいているが、後者は後ろ暗さが源流だ。

(比べるコト自体おこがましいんでしょうけど)

 それでもまひろのような眩い存在が傍に居ると……仄かに想いを寄せるパピヨンさえ格別の敬意を払う少女を目の当たり
にしていると、ヴィクトリアは自分がどんどん惨めに思えてくる。といってもひどい絶望というよりは、思春期らしいチクチクとし
た痛み、誰からも無条件に好かれる存在が羨ましいというレベルで、そういう意味では既にもう、ヴィクトリアの心は、100年
いた闇の地下ではなく、ごく普通の日常に移行しつつあるのだが。

「俺はあまり偉そうな事はいえないが」
 思考の世界を切り裂いたのは秋水の声だ。姿勢を正しそちらを向くヴィクトリア。
「たとえ状況が直ちに真実を告げるコトを許さなくても、確約は前に進ませる力足りうる」
 一瞬言葉の意味を理解しかねたヴィクトリアだが…………思い出す。
(そういえば。私を地下から連れ戻したとき)

──「君にどうしても話すべきコトがある。寄宿舎に戻ったら……聞いて欲しい」
──「う、うん。寄宿舎に帰ったらね」

 秋水はまひろに約束した。カズキを刺した経緯を話すと。
 それは総角が秋水を地下に引きずり込んだコトにより順延されたが──…

──「……すまない。君にいうべき事、後回しになってしまった」
── まひろは無理な微笑を浮かべながら「大丈夫。待つのは慣れてるから」と頷いて見せた。
──「だが必ず戻ってくる。戻って必ず話す!」

 確約だけは残した。

(あの音楽隊の首魁を下せたのもそれがあるから。戻って話すという覚悟があったから。前に)
 目で問いかけると秋水は軽く頷いた。それだけで通じるという事実にヴィクトリアは少なからず驚いた。
(思えば早坂秋水ともそれなりの付き合いね)
 対面から1ヶ月と経っていないのに、正に百年の知己、ヴィクトリアがまだ人間だったころから付き合っているような気脈
の通じようだ。
(あの時アナタはこうも言ってたわね)


──「俺は昔……俺と姉さんを助けようとしてくれた者を背後から刺した事がある」

──「でも君はまだ俺のような危害を振り撒いてはいない!」

──「君の身がホムンクルスだったとしても、罪を犯していない限りはまだ普通にやり直せる!

──君の瞳は冷えてはいるが、決して濁ってはいないんだ! 昔の俺のように濁ってはいないんだ!」


 だからヴィクトリアはまだ逃げていないし、千里や沙織に、人外であるという事実やその経緯だけは話そうと思っている。

「後回しのようで気が引けるけど……いま言える本当のコトはちゃんと千里たちに言うし、それでも言えない部分があるって
コトもいうし、それはたぶん2人を怖がらせるってコトだって、しっかりと……伝える」

 ベストじゃないとは分かっている。他人にはまだるっこしく映るだろう。「いつか」を弱さゆえ永遠に先延ばすのではないか
という危惧もある。

 けれど人はいつでも大きな一歩を踏み出せるものではない。泥沼に囚われたものはモーションだけみれば笑えるほど卑小
な一歩をずっと繰り出しているものだ。しかしそれとて積み重なればいつか難路を踏破する……ヴィクトリアはそう信じている。
 でなければ、白い核鉄という、前人未到の研究に挑んだりはしない。
 千里とそれは無関係のように見えるが、ヴィクトリアの中では不可分なのだ。
 何か1つに事象の対し逃げを選べば精神はそこからたわみ静謐な緊張を失う。これも逃げていいあれも逃げていいと思う
ようになり……いつか地下へと逆戻りだ。
 それが嫌だから、引き上げてくれた秋水やまひろに抱く決して声高には言えない感謝を返したいから、拙くてもわずかでも、
『1歩』踏み出そうと足掻いているのだ、ヴィクトリアは。

 訥々とした語りを聞き終えるとまひろはグっと眉をいからせ拳を握った。
「心配ないよ! 猫被ってるびっきーも素直じゃないびっきーも、両方とも本当のびっきーだよ!」
「本当アナタって、好感度の上がらないコトばかり言ってくれるわね」
 ヴィクトリアの悩んでいる部分とは微妙にズレているし、茶化しているような物言いでもある。
 けれどまひろはまひろなりにヴィクトリアの持つ厄介な乖離を肯定しているようだ。
 いじられ揺らめく黄金の針束の傍の頬は呆れを湛えつつもやや赤い。
「大丈夫大丈夫。ちーちんにもさーちゃんにも言っておくよ」
「何をよ」
「いざとなったら、がぶがぶ係は私のモノって」
 意味不明だがだいたい察したヴィクトリアがツッコむより早く、
「びっきーにがぶがぶ! ってされるのはこの私だ! って言うから大丈夫」
「いやそういうのいいから」
「お尻のお肉ならちょっとあげるよ?」
「いらないわよ」
 半眼でぼやく。前も似たようなやり取りがあったが、どうもまひろは本気で言っているらしかった。


「とりあえずホムンクルスってコトは言うわよ。沙織にだって言う。でも、千里に対する食人衝動だけは別。すぐは無理」
「それでいいと思う。君自身の気持ちの整理もあるし、立て続けだと若宮さんたちのショックも大きい」
 秋水が言うとまひろも頷いた。それだけでホッとする自分に戸惑うヴィクトリアだ。
(私は……私が思っているよりずっと)
 2人を信頼しているのかも知れない。もし彼らと同じ言葉を自分で紡いだらきっと逃避だと嫌悪するだろう。
 なのに秋水の、ある意味ではかつてカズキの件を先延ばしにし続けた男の、言葉に、「それでいいんだ」と安心している。
 他者が同じコトをしたのなら傷の舐めあいと断ずるだろうに、だ。

 まひろについては、ようく考えると今回碌なアドバイスをされた覚えがないが、味方で、橋渡しもしてくれるのは分かった。
 言葉より態度の人なのだろうと今さら思う。口先だけじゃなく存在総てで物事に当たるから、時には非常に疎ましく思える。
けれど何事にも全力だから、事態をよくできるのだろう。

「とりあえず今から千里に話すわ」
「今から?」と秋水は眉を顰めた。桜花から聞いたタイムスケジュールによれば、今ごろ千里は就寝中かさもなくば勤勉にも
予定を繰り上げ執筆に勤しんでいるかだ。いずれにせよヴィクトリアの正体というショックの大きい話は控えるべきではない
か?
「そうかなあ。起きてるなら早いうちに言ったほうがいいと思うよ」
 まひろが言うには、台本はかなり神経を使うらしい。
「私も10行書いたところで力尽きたよ」
「あ、ああ」
 気の無い返事を漏らす秋水に構わず続ける。「たぶんびっきーのコト聞いてから、色々考えちゃってる」。
「そ。千里はデリケートだから。私への対応に気を取られてる。筆が遅くなってる。パピヨンから演劇部を預かっている私と
しては、その辺りもどうにかする責任があるの」
「早く話をすればその分台本のあがる確率も高くなる、か」
「そう」
 言葉少なに頷いて部屋を出ようとするヴィクトリアに秋水は声をかけた。
「パピヨンとは上手くやっているのか?」
 ヴィクトリアに少し動揺が走った。別に彼との白い核鉄製造は悪事ではないし、そもそもサプライズプレゼントとばかり、
密かに用意しているものでもない。ただ迂闊に期待を持たせて失敗に終わるのが怖いので黙っているだけだ。
 だから秋水が勝手に気付いたというならそれはそれで構わない案件だ。

 ただ、なぜ分かったのかという疑念が鋭い破片になって心臓を直撃した。

「総角たちとの戦いが終わった後、パピヨンが言ったんだ。君を探していると」
 疑問は解けたが新しい凝固が生まれる。
「……そんな話、初めて聞いたわよ。結構前じゃない。普通ならすぐ言うでしょ。アイツに気をつけろって」
 まひろはよく分かっていないようだが、パピヨンとの仲睦まじさについては、からかう程には知っているので特に何も言わ
ない。
「彼の性格はだいたい知っている。厳密にいえば、彼の血族の形質は充分知っている」
 かつて盟主として従っていたDr.バタフライについて秋水は手短に語り、
「1人の人物のため全力を尽くす家柄なんだ。パピヨンもまた武藤との決着を望んでいる。彼のためにならないコトはしない。
そして武藤の願いは命を守る……それだけだ」

 つまりパピヨンに接触されたヴィクトリアも悪事には加担しない、そう秋水は心から信じているようだった。

「そんなの……他の戦士は……」
「色々あったが大丈夫だ。心配しなくていい」
 その色々に想いを馳せてやまないヴィクトリアだ。あの日、学校で鐶との決着がついた後、戦士たちが慌しくどこかに
行ったのは知っている。つまりパピヨンの言葉は防人達にも聞かれた公算が高い。となれば、黙っていないのは斗貴子
だ。パピヨンがヴィクトリアと接触する。L・X・Eの基本図の縮小ではないか。黙って看過する斗貴子ではない。

 そしてヴィクトリアの想像はほぼ当たっていた。実際、ヴィクトリアを巡って一悶着あったのだ。

(説得……したんだ)
 ヴィクトリアならきっと錬金術を正しく使えると信じて。

 筋だけいえば斗貴子の危惧の方が正しいのだ。パピヨンは生誕の際、20数人を喰っている。その研究のための犠牲者
は今年の銀成市の失踪者数を全国平均の2倍にまで押し上げた。そんな人物の元に、今夏戦団をほぼ壊滅状態に追い
やった存在の娘を、個人的にも戦団に恨みを持つホムンクルスを行かせるなど、本来絶対やってはならないコトなのだ。
 しかもそれを推進するのが、L・X・Eの二大巨頭につき従っていた信奉者で、しかも斗貴子の想い人を後ろから刺した
人物とあればもう、冷静な議論で終わる方がおかしい。
 なのに秋水は大丈夫というのだ。どれほどの責任を背負い込んだか想像するだに余りある。

「そう。ありがとう」

 前髪から双眸に影を落としながら、ヴィクトリアは教室を出た。



 廊下を歩く。
 1歩。2歩。立ち止まる。

 少し、涙が出た。

 秋水やまひろのためにとやっていた白い核鉄の研究は、実のところ前者によって支えられていたのだと痛感した。
 彼が斗貴子相手に、道理を曲げた、一種非合法な抵抗をしなければ、ヴィクトリアはパピヨンから引き離され、やっと
見つけた希望さえ叶えられなくなっていたかも知れない。
 斗貴子は正しい。悪い訳ではない。言動は過激だが、それだってまひろたちのような日常に生きる存在を全力で守ろう
とする真摯さの裏返しに過ぎない。なのに道理を曲げさせるのは侮辱であり裏切りだ。

(私は……千里や沙織にちゃんと話す。今は無理でも、人喰い衝動のコトだってなるべく早く)

 辛くても痛くても、正しく生きなければならないと思った。でなければ秋水への示しがつかない。
 斗貴子はあまり好かないが、それでも、「守りたい」と思ったものを、世界の勝手な都合で捻じ曲げられた挙句、無残に
打ち砕かれ奈落に突き落とされるのは……やっぱり嫌だった。
 ヴィクトリア自身そういう目に遭わされたのだ。言い換えれば、他者に同じ思いをさせたとき、ヴィクトリアは憎んでやまな
かった戦団やホムンクルスと同じになる。

(でも……白い核鉄さえ作るコトができたのなら)

 きっと秋水やまひろのみならず、思いを挫かれ、憤っていた斗貴子さえ報われるだろう。

(見てなさいよ津村斗貴子。今回だけはアナタの間違いだって教えてあげる。喜びながら「ホムンクルスのお陰か」って
少し苦い思いしなさい)

 ひねくれた愉悦を浮かべると、少しだけ正体を暴露する恐怖が薄れてきた。

 ホムンクルスでも正しく生きるコトはできる。何度か接触した音楽隊の面々は少なからず誰も彼もがいい見本だった。





「ついて行きたいけど、びっきー的には1人の方がいいよね」
「ああ。彼女は彼女なりに思うところがあるんだ。それを信じよう」

 残された秋水とまひろはヴィクトリアに幸運が訪れるコトを祈った。
 祈ったのだが


「!!」
 急に紅くなって飛びのいたまひろに秋水は嘆息した。
「俺が退室する。君の方も整理を付けたいだろう」
「おおお、2人きりってコトに気付いて焦った私を察するとか流石先輩」
 リンゴのように染まった顔をそれでも感心に染めてまひろは答える。
「じゃなくて!! ああ、そんな、秋水先輩をひとり追い出すようなマネなんかしたらアレだよ、私進歩がない、全然進歩が
ないよ!!」
「いやだから、まずは気持ちの整理というか冷却期間を……」
「え! 冷却期間! 付き合っていないのにもう倦怠期! 私飽きられた!? 捨てられちゃう!?」
「頼むから落ち着いてくれないか」
 流石に秋水にも焦りが浮かんできた。もし通りかかった者に聞かれたらスキャンダルに発展する。秋水自身はまあ、元々
脛に傷のある身、銀成学園の生徒を化け物のいけにえにしようとした過去に比べれば女性問題など大したコトはないのだが、
まひろの方がバッシングを受けるのは忍びない。実際まだ付き合ってもいないのだ。今は恩人の妹として遇したいのだ。
「ゴメン……」
 まひろは静まった。シュンとなり申し訳なさそうに目を閉じた。秋水は聞く。「君はその、つまり、どうしたいんだ?」。
「どうって?」
「言いにくいが……その、俺への感情」
 言ってから秋水は少し首筋を赤くした。本当は、文脈としては、土壇場で竹刀をやたらめったら振り回す後輩に、「本当は
どんな攻め方をしたいんだ」と質問し、答えによってより適切なやり方をアドバイスするという、剣道部的な、筋道の通った
問いかけをしたつもりだった。だがいざ言葉を放ってみると、どうも空気との兼ね合いで妙な化学反応を起こしたらしく、非常
に気恥ずかしい。(口説いているようではないか)、そんな思いさえ去来した。

(………………)

 いつだったか、演劇で対戦する劇団の、リヴォルハインなる巨漢が言った。

──「秋ぽん自身の実感というのはどうなのであるか?」

──「あまりマジメに考えすぎず1つ素直になってみるのも手である」

 秋水はそういう目でまひろを見ないようにしている。例え彼女に頼まれたとしても、恋愛関係を築くのは、カズキを失った
傷心につけこむようで嫌なのだ。彼を刺した贖罪さえ行っていない男がどうしてその妹と付き合えよう。
 まして秋水の父親が浮気をした。一度だけ見た両親はそのせいでひどく争っていた。桜花と秋水がアパートの一室に
監禁され生死の境を彷徨ったのだって浮気が原因だ。浮気相手が双子を誘拐したせいだ。
 ……もし、傷心につけこんだ挙句、父親と同じ轍を踏んだら? カズキを刺したコトよりもっと辛い思いをまひろに味あ
わせてしまうだろう。

(共に居れば心は落ち着く。けれど横顔を見ているだけでいいんだ。俺はそれで満足なんだ)

 ころころと変わる表情。温かい笑顔。時おり見せる、心から人を気遣う心配そうな顔。
 眺めているだけで秋水は救われた気分になる。もう顔も思いだせない父が見せたこの世の様々な醜さとそれに対する
諦観が、まひろという存在を見るだけでポカポカと解きほぐされていくようだった。

 そんなコトを考える秋水が。

 清潔感溢れる見目麗しい青年がなんだか甘酸っぱい雰囲気を醸しながらじつとまひろを眺めるのだ。
 これでときめかない女子はいない。だいいちまひろは昔、兄を叩きのめした秋水に他の女子ともどもキャーキャー言って
いた。目の色を変え口をモニュっとさせた緊迫の夕焼け顔になるのも無理はない話だった。
「ど、どうって」
 動悸が高まる。どんぐり眼を困ったように細めながら考える。まとまらない。けれど何か言わなければ進めない。
「秋水先輩のコト、嫌いじゃないよ。お兄ちゃんのコトはショックだったけど、今でも一緒に謝りたいし、それで前に進んで
くれるなら嬉しいって思うよ。で、でも……その好きっていうのが……お兄ちゃんや斗貴子さんや、ちーちんやさーちゃん
やびっきーが好きって気持ち……と、その、違うのか同じなのかは分からなくて…………」
 言うたびまひろの顔は赤くなる。秋水の首筋も赤くなる。
 それをみたまひろはいよいよ同様の極地という風で、目をグルングルンさせながら秋水の肩を掴みブルンブルン。
「あああ!! どうしよ秋水先輩、どうすればいいかなあっ!! 私こんなんじゃ迷惑だよね! お話だってちゃんとでき
ないし実際さっきのびっきーの相談だって各個撃破だったし!」
「各個撃破!? 俺たちは負けたのか!?」
 本気で焦り先ほどのヴィクトリアを思い出す。とりあえず逃げる気配はなかったので安心する。
 そこでまひろの頭の傍で豆電球が閃いた。
「そうだ! いっそ付き合っちゃえば……」


 秋水の顔を見た瞬間、まひろは黙った。黙ったまま机の前に行きヘッドバットをかました。
「!?」
「いま私……すっごいコト言いかけた……。すっごいコトを…………」
 伏したまま呟く。栗色の髪が赤熱するほど恥ずかしがっているようだ。

「正直俺にはどうしようもないコトだが。無理をするのをやめる……っていうのはどうだろう」
「無理を?」
 伏したまま面を上げるという器用な真似をするまひろに秋水は頷く。
「俺は、ありのままの武藤さんにこれまで救われてきた。無理をせず、自分なりの言葉で、いつも一生懸命俺に向き合って
くれた武藤さんだから、俺は尊敬しているし、感謝もしている」
 恥ずかしくて近づけないないならそれでもいい。それでもきっと、武藤が帰ってきた時は、必ず一緒に謝ってくれる……
そう信じている。とも秋水は述べた。
 まひろはしばらくおずおずとしていたが、座ったまま背筋を正し、立っている秋水を上目遣いで見た。
「で、でも、秋水先輩とお話するのは嫌じゃないよ……?」
 照れているような申し訳なさそうな、それでいてしっとりとした好意に濡れた瞳に秋水は少々面食らった。
 嫌じゃないのに恥ずかしがって微妙な距離にいる。難儀な少女だった。
「そうだ。無理をせず秋水先輩に接する方法思いついた!」
「なんだ?」
「ええとね。私が普通に好きな人たちへの反応を当てはめてみるの」
「……つまりどういうコトだ?」
 秋水は首を傾げた。こうやってまひろ特有のカオスにいちいち真剣に対応するからだ。この男が貧乏くじを引くのは。
「例えば岡倉先輩やー、六舛先輩に大浜先輩にしてるような対応をしてみるの。そしたらあまり照れずに済むし、秋水先輩
はどう違うのかなーって分かると思う」
「そうか。まぁ、君が満足なら異論はない」
 要約すると「よく分からないがそれで気が済むなら」である。諦めである。
「という訳で〜。まずは秋水先輩をお兄ちゃんに設定します!」
「そうか」。秋水から表情が消えた。呆れ果てているのだが止めないあたり付き合いはいい。
「みゅみゅみゅ。みゅみゅみゅ。あ、コレはお兄ちゃんレーダーを変換してる音デス」
「そうか」。秋水の声が上ずった。顔も青ざめている。食虫植物に喰われかけるハエの表情だった。
 やがてエネルギーの充填は完了した。まひろは元気よく手を当てて秋水を呼ぶ。
「お兄ちゃん!」。…………言った瞬間開く教室の、ドア。
「なにアナタたちまだ居たの」
 入ってきたヴィクトリアは凍りついた。秋水もまた真白になった。まひろは……」
「ふぎゃあああああああああああああああああああああああああ!!」
 鳴いた。泣くではなく、鳴いた。
「お兄ちゃん、ね」
 ヴィクトリアは冷たく目を細めた。秋水を問い詰めるような表情になった。
「どうせあのコが勝手にやったんでしょうけど、万が一アナタの発案ならそれこそ姉にチクるわよ?」
「ち、違う! 俺じゃない! これには色々深い訳が──…」

 ややあって。

 一通り事実関係を把握すると、ヴィクトリアは嘆息した。

「呆れた。兄の代わりにはしないんじゃなかったの?」
「ち、違うよ! 誰風に接すれば無理せずいられるか試したかっただけで、代わりになんてそんな!」
「しかしこの作戦も失敗となると一体どうすれば……」

 真剣に悩み始めた秋水だが、ふと視線をヴィクトリアに移す。

「? そういえば君、若宮さんや河井さんとは」
「話したわよ」
 ヴィクトリアが述べたところによれば以下の通りである。

 千里の部屋に行くと、2人は既に台本チェックを行っていた。来訪に気付いた千里はやや硬い反応を浮かべたが、ヴィク
トリアはやや息せき切りながら自分の正体や、なぜそうなったかを述べた。戦団によってホムンクルスとなった経緯は、極力
泣かないように気をつけた。涙で同情を買いたくなかった。なるべく感情を交えず事実だけを述べて、そこをどう判断するか
は2人に委ねようとした。千里は最初驚いたようだが、段々と静かな表情になり、ずっと黙って聞いていた。逆に沙織は驚き
続けていた。目をムーンフェイスみたいにしながら「え!」とか「えー!」とか叫んでいた。
 やがて総てを語り終えると、千里はそっと肩を抱えて「よく話してくれたね」とだけ言って笑った。
 沙織の方も「うんうん」と納得したように笑って頷いた。

「……食人衝動のコトはまだだけど、それでも少しだけ気持ちに整理がついたわ」
 目が赤く、まなじりに涙の跡があるコトを見つけた秋水とまひろだが指摘はしない。

 きっとどこかでヴィクトリアは泣いたのだろう。受け入れてくれた千里や沙織を思い涙したのだろう。

 それを言わないのは、きっと1人で大事に抱えて行きたいからだ。

 だから秋水とまひろは、見つめ合って頷き合う。
 いまはただ、辛い壁を独りで乗り越えて人知れず泣いた少女を笑って祝福しようと決めて……そうした。


 正午。演劇部がいつも使っている教室で千里は固唾を飲んでいた。
「フム」
 パピヨンの目が動く。紫色の爪の生えた指もまた動く。パラパラと台本を捲る。
(びっきーがすぐ本当のコト教えてくれて助かったよ。ちーちん起きてからしばらく落ち着かない様子だったし)
 沙織は安堵のため息をついていた。ひとまず締め切りは守れたので一安心だ。
 もしヴィクトリアが何も言いに来なければ、千里は動揺のあまり落としていたかも知れない、そう思った。
 やがて教卓に台本が無造作に投げられた。
「まあいいだろう。この程度では完璧に程遠いが貴様らにしてはよくできている」
 演劇部員たちは付近の者と一瞬顔を見合わせたがすぐさま手を取り笑い合った。

 教室に響く歓声。ひとまず台本、完成。

 30分後。

 銀成学園食堂のテーブルに突っ伏す栴檀貴信が居た。
(流石に……疲れた。台本チェックは大変だった。山のような資料と朝からずっと格闘してた……)
 銀成学園図書室に入ったのが午前7時すぎ。14分で資料不足に気付いたので香美の体にチェンジして駅2つ向こうの
県立図書館にダッシュで突入。電車で21分掛かる距離だがそこはホムンクルスの高出力、生身だが8分で済んだ。
それから図書館を出るまで1時間48分ずっと調べ物をしていた。
(合ってるかどうか疑わしい部分の修正に、伝承や豆知識などの挿入…………若宮氏が書いただけあり台本は無駄がな
くそれでいて情報量はかなり多い

 いわゆるファンタジー物を千里は上梓した。38の自治領がひしめく島国のお話で、主人公はその中の小さな国の騎士
だった。隣国の姫とかねてより婚約の儀を結んでいたが、他の自治領の様々な政情によって引き離され……というヒロイック
なお話で精霊や妖精も出てくる。

(中世の民俗に鎧の仕組み。西洋の剣術。和洋中のいわゆる戦国時代な歴史をくまなく調べたのは自治領同士のパワー
バランスとか政情とかに厚みを持たせるためだ。島国についても色々調べたっけなあ。お陰で地理学的な島嶼(とうしょ)
の本を2冊余計に読む羽目に……。妖精と精霊…………たぶん120体ぐらいの身長とか伝承とか生息地とか習性とかひっ
くるめてゼンブゼンブ一気に覚えた…………。あと当然今まで上げたコトの豆知識本も。4冊読んだ。疲れた……)

 さらに、千里や沙織からオーダーは出ていないが、県立図書館に急行中、「衣装とか舞台装置とかプロップとか世界観に
合わせるべきだが台本執筆中にそんな指示飛ばす余裕あるんだろうか」と気付いたので、到着後真先にそのテの資料を
ありったけ借りた。「図書カードの作成は次回来館時に」。人見知りの貴信が珍しく初対面の司書に口数多く事情を説明
して了解を取り付けた。

 おそらく100冊以上は読んだ。2時間強でそれだけ読むのは一見不可能に思える。

 だが、貴信には香美がついている。あまり知られていないが彼女の特技は速読である。電話帳1冊程度なら一瞬で覚え
られる。チェンジして一気にページを捲くらせた。読むというより書籍を超高速のスキャナーに掛けては右に流す流れ作業
だった。
 急激に膨れ上がる知識の数々に貴信はめまいを覚えた。だがこと集中力となれば彼に勝る音楽隊員はいない。平均値
こそ総角に劣るがツボに入った時の一瞬一秒の凄まじさでは勝っている。それが証拠に、初めてハイテンションワイヤー
を発動したとき、爆弾を射出する5000のワームホーム相手に一歩も引かずただ香美に繋がる一点のみを見事に穿った
ではないか。
(当時のコトはあやふやだけれど大多数相手にただ1つのポイントを突いたコトだけは覚えている)
 精神世界を埋め尽くすページは無限に見えるほど莫大な有限。
 その中央に佇む貴信は深く息を吸い目を閉じた。
(僕の武装錬金の特性は……総ての真髄を捉える。余りある雑多な事象からただ1つの真髄だけを、重要なエネルギー
だけを抜き取れる)
 精神の具現が肉体世界さえ左右できるのだ。なんぞ根源で作動せぬのあらんや。
(そこだあ!!)
 鎖分銅を文字に撃つ。総ての真髄を捉えていく。文字が砕け七色に輝きながら透き通り鎖を伝って落ちていく。貴信の
心に落ちていく。覚える、という生易しい行為ではなかった。何もかもが貴信そのものになっていった。
 沙織に渡された台本を見る。ピンクの付箋があるのは補強が必要な部分。黄色い付箋がはみ出すページは貴信の
裁量において膨らませていい部分。

 良い物語を作ろう。寝ずに待っていた彼女のために。

 貴信はかつてない集中力を発揮し無限の文字を撃ち続けた。鎖分銅を飛ばし続けた。

(そこだ!)
(そこだ!)
(そ・こ・だあああああ!!)

 中世の慣わしも鎧の図解も剣の作法も四分五裂の国々が織り成す無数のドラマも島の知識も妖精も精霊も何もかも
が貴信の一部になり骨身になった。文字を穿つたび黄金色の躍動が貴信の全身を駆け巡り満たしていく……。


(すっごい集中力使った……。早坂秋水氏との戦いの次ぐらいに使った……)


 たった2時間程度で本100冊の知識を手に入れたのだ。ホムンクルスといえど思考回路はまだパンク状態であまり
何も考えられない。


 山のような資料を持ち帰った。40冊借りた。1人あたりの限度は20冊。今日ほど香美にチェンジできる体質を嬉しく
思ったコトはない。なにせ1体で2人分の貸し出しができるのだ。

 で、演劇部員たちに配った。

(もりもり氏のいる大道具とか、衣装作る人とか、小道具の人との連携はこれでたぶん取れる……)

 千里が貴信の資料をフィードバックしているころ、総角たちは貴信の説明を受けていた。
 世界観の説明を。
 貴信が千里に「これこれこういう感じだな!」と聞いて、その緻密さに瞠目された、ある意味では台本執筆者よりも詳しく
練り上げられた世界観を。

──「フ。貴信お前すごいな。台本できたの朝だぞ? どうして昼前にここまで世界観を構築できるんだ」

 総角が一筋の汗を垂らしながら驚いたように呟いていたのが印象的だ。


(香美のお陰だ。僕だけの力じゃない。資料のある県立図書館へ短時間で行けたのも、100冊の本を短時間で読破でき
たのも、全部全部香美のお陰だ)

 香美はネコゆえ、事情を、人間の演劇に賭ける情熱を、まったく分かっていないようだった。
 それでも貴信の必死な思いだけは分かったらしく、県立図書館まで全速力で走ってくれた。基本的に彼女は瞬発力で勝負
するタイプだ、持久力は乏しい。たった8分の全力疾走すら本来ならば嫌がる。1分ほどでバテてだらける。
(にも関わらず電車で21分掛かる距離を8分で詰めてくれた)
 途中藪を突っ切ったとき頬を切った。ホムンクルスだからすぐに治ったが、女のコが、娘のように思う香美にケガをさせる
のは貴信としては辛い物がある。けれど香美は文句1つ言わず駆けた。

 近道するためなら、苦手な、高い場所も狭い場所も暗い場所も、怯えつつ全力疾走した。

(調べ物だって楽じゃない)

 速読が得意といっても香美はネコなのだ。本には興味がない。貴信が必要としているからやってはみるものの、その行為
自体にはあまり感動を覚えない。カビ臭い図書館よりも外でちょうちょでもおっかけている方が好きなのだ。
 なのに、小難しい単語に目を渦巻かせながら必死になって4万2908ページ総て誤りなくスキャンした。

 もともと香美は病弱である。イメージにそぐわないが、ネコだったころから体が弱い。
 ホムンクルスになってからもそれは変わらない。かつて斗貴子にこっぴどくやられた後しばらく微熱が続き寝込んでいた。

(読破直後から香美は知恵熱を出している。口数も減った。そうとう疲れているのだろう

 貴信が、帰りに電車を使ったのは、香美の負担を減らしたいと思ったからだ。
 電車に間に合うよう出たのが9時10分。8分後駅に入り乗車。2分後出発。
 9時41分の銀成駅着まで貴信は普通に本を読んだ。そして7分後、学園にて千里へ報告。

(でもとりあえず台本はできた。嬉しいなあ)
 喜ぶ反面、貴信は少し悲しい。体育会系ならこういう時まっさきに仲間とスクラムでも組んで分かち合うのだろう。
 けれど貴信の傍には誰も居ない。総角も小札も無銘も鐶もめいめいの役割があるとかで今日はいない。
(ま、まあ、1人なのは慣れてるし、別に──…)
「貴信せんぱい、前いいですか?」
 柔らかな声が掛かった。見上げると、トレーを持つ沙織がいた。光の加減でときおり黄色く見える髪を左右でピョコピョコ
束にしている少女だ。
(あ……)
 ささやかなツインテールが蝙蝠の羽根のように膨れて見えた。デッド=クラスター。朝方少しだけ思い出した仇敵の風体
は、もちろん図書館へ行く道すがら防人に報告済みだ。もっとも髪型だけだから参考になるかどうか妖しいが。
「あ。ごめん。疲れてる? 別のところ行った方がいい?」
「いや、そういう訳ではなく何というか!!」
 つくづく女性慣れしていない貴信だ。あわあわしながら首を振り手を振り「お好きにどうぞだ!」などと叫んでしまう。
「お好きにどうぞなんだ……。じゃあお好きにどうぞしますねー」
 困ったように顔をしかめて微苦笑しながらもトレーを置く。(困ると顔がクシャっとなるコなんだな)。貴信はそんなどうでもいい
癖に気がついた。
 河井沙織。
 高校生にしては幼い風貌で、ヘタをすれば肉体年齢12歳の鐶より子供っぽく見える。にも関わらず先輩の貴信に敬語を
使って接するあたり、学生としての常識はあるようだ。貴信は、まひろと騒ぐ彼女を何度か遠目で見ているが、クラスに7人
はいる元気なコといった感じで、敬語はイメージとかけ離れていた。実際本人も無理というか配慮して使っているのだろう、
朝方睡魔に囚われていた沙織はいつものままの口調で貴信に語りかけていた。
「台本の件、ありがとうございます」
 トレーをガッと横にのけるや深々と頭を下げる沙織。貴信はまたも慌てて手を振った。
「だ!! 大部分は若宮氏が作ったもので、僕はちょっと肉付けをしたにすぎない訳で!!」
「でもちーちん結構感心してたよ……じゃなくて、してましたよ。こんな短時間でよくここまでって」
 頷く沙織に貴信は「それなら」と言葉を切る。謙遜しすぎも却って無礼だと思ったのだ。
「あ、ちーちんはいま監督と細かいところ打ち合わせ中でして、だから私が来たのです!」
 マジメくさりながらも幾分砕けた様子で沙織は告げた。彼女らしいペースが感じられて貴信的には好ましい。
(フォローうまいなあ。羨ましいなあ)
 担当者がなぜ来ないかという不審な点を自然に庇っている。これは演劇部員というより友人としての心遣いなのだろう。
 貴信はとりあえず話題を探す。気まずい沈黙が訪れぬよう無難な話題で場を繋ぐ。
「それにしても台本ができて良かった!!」
「あ、やっぱり嬉しいんだ。じゃなくて、ええと、嬉しいんですね」
「ああ! 香美の苦労が報われたからな!!」
 ほぉーという顔を沙織はした。「?」貴信が不思議そうに見ると、沙織はちょっと眉をしかめながらクスクス笑った。
「貴信せんぱい、本当に香美先輩のコト大事に思ってるんですね」
「そ、そりゃあ香美だって無理をしたんだ! 結構全速力で走ったし、本100冊ぐらい一気に速読したし!」
「100冊も!?」
 目を白丸にして横隔膜を震わす沙織に貴信は気付く。(そういえば香美の特技の話してなかったっけ)。
「ど、道理であれだけ詳しくいろいろと……」
「そうだ! 一番偉いのは香美だ! 僕は彼女の記憶から要点だけ抜き出したに過ぎない!!」
「いや充分すごいよ!!」」
「素!?」
 敬語も何もなしに突っ込んできた沙織に貴信は驚く。
「だって台本渡して帰ってくるまで3時間しか経ってなかったよ!? あれはアレだよ、ちーちんの自由研究並だったよ!!」
「それはスゴイ奴なのか!!」
「スゴイ奴だよ!! 古代ローマについてヒくほど詳しく調べた夏休みの自由研究並だよ! 6月からコツコツ調べてた
夏休みの自由研究レベルだよ!!」
「6月からやってた夏休みの自由研究!?」
 足掛けおよそ3ヶ月ではないか。明らかに宿題のレベルを超えている。
「そ、それに僕たちの調査が匹敵すると!!」
「するよするする! だからちーちんも感心してた!!」
 いつの間にやら立ち上がりブンブン頷く沙織。相当興奮しているらしい。
「貴信せんぱいやびっきー達ってみんなそれだけ頭すごいのって、斗貴子先輩に聞いたんだけど、「いや処理能力自体は
一般人と同じだが」って言ってたよ。つまり貴信せんぱいは人間としてすごいよ。すごい。香美先輩もすごい」
(まひろ氏と一緒にいるときのテンションだ……)
 意気込んだ様子でまくし立ててくる沙織。それでも”ホムンクルス”という単語を避けるあたり空気の読める少女だった。
「私は本とか読めないし、テスト前でさえ教科書から要点抜き出すのできないし、尊敬しちゃいますよ本当!」
 しちゃいますという単語に貴信はちょっとクラっときた。「します」ではなく「しちゃいます」。いかにも後輩な、しかも元気のい
い物言いは男性として色々グッとくるものがある。
(いやいやいや)
 内心かぶりを振って落ち着かんとする貴信。女性の感奮と好意はまた別の物なのだ。「うおお」となっても「ぽっ」とはして
ない物なのだ。資料100冊、合計4万2908ページ相手に研ぎ澄ませた審美眼はそのへん鋭敏に捉えている。見極めを
誤れば大変なコトになる。世界観1つ構築するだけでモテるのなら、ティーンエイジャー向けの小説の作者たちは誰も彼も
カバー折り返しでボヤいたりしない。後書きでクリスマスイヴを呪ったりしない。
(むしろそういうのと無関係だからこそ作ってしまう訳で!!)
「貴信せんぱい、作家になれるかも知れませんよ!」
 沙織は感動の赴くままファイティングポーズを取り、顎の前で軽く拳を突き上げるがイマイチ貴信は嬉しくない。
(え、僕はあれなの? カバー折り返しでボヤくタイプって思われてるの?)
 悲しかった。ちなみに沙織は、ボヤきではなく、ビシッと決めた白黒写真の下に略歴だけが淡々と書かれているカバー
折り返しを想像していた。巻末に作者のあとがきではなく、「解説」とかいう、あなた誰なのって人がアレコレ書いてる本、
千里が学校の図書室で借りてくるような中高年向けのハードカバーを、想像していた。

「……ショックじゃない!! ちなみに納豆は時計回りに10回半時計回りに20回かき混ぜて食べるのが一番おいしい。空気が
入ってふわとろになるんだ!」
「何を急に!!?」


「しかし色々調べていましたよねー。ガーディアン妖精の設定にローマ法王のコト盛り込んでくるとかビックリです!」
「あ、あれか! バチカンの衛兵は必ずスイス人じゃないといけないっていう!」
「そうそう」頷きながら沙織はメモを取り出した。どうやら書き留めていたらしい。何枚かめくり本読みのように読み上げる。
「1527年、時の法王クレメンス7世が、ローマ皇帝の攻撃から逃げるときに、142人のスイス兵に助けてもらって、何とか
逃げ延びるコトができたから、今でもバチカンの衛兵はスイス人じゃないと駄目……初めて知りました!」
「げ、厳密に言えばスイス国籍保有だけど、妖精にもそーいう設定あった方がいいかなあって!!」
 言ってから貴信は「しまった」と思った。
「で! でも設定とか必要なんだろうか! 演劇は2時間までって決められてる訳で! 出せるかどうか分からない細かい設
定に拘るのは本末転倒というか誰もが陥る罠というか!!」
「? そう? 見えないトコも作りこんでこそいい作品ができるってちーちん言ってたよ?」
 沙織はメモを熱心に読みながら首を傾げる。(このコ、集中が飛ぶと素になるな)。貴信の理解はまた深まる。
「あ、あった。コレコレ、私が一番好きなのコレ!」
「なんだ!!」
「主人公に飲ませて弱体化させる毒に、ウナギの血を採用したトコ!」
「イクシオトキシンだな!! フグほど猛毒ではないけれど、目に入れば炎症を起こし、摂取すれば呼吸困難などが起きる!」
「私ね、これ、”いい櫛””音””貴信せんぱい”で覚えた」
 貴信の笑いが固まった。わずかだが肩を落とした。
「ど、どしたん! 嫌だった! 嫌だったらやめるけど……」
「そうじゃない」貴信は手を振りポツポツと語りだした。
「…………貴方は、毒を持つ鳥を知っているか」
 ぎょえっと奇妙な声を漏らし沙織は飛び上がった。
「なにそれ怖い!! 噛み付くの!? がぶがぶーって噛み付いちゃうの!!」
「いや、羽毛に含まれているだけだ! 寄生虫対策だから、僕らを攻撃したりはしない!!」
 ズグロモリモズ。ニューギニアに生息する鳥。頭は黒く腹は橙。
「可愛い感じだね。今度調べてみるよ。で、それがどしたん?」
「その羽毛に含まれる毒素の名前……ホモバトラコトキシンなんだ」
 沙織は真白になった。目を簡潔極まる円にして、口をポヤっと半開きにした。その状態で、言う。
「”ホモ””執事(バトラ)””こと””貴信せんぱい”!」
「そう!! そんな感じで鐶副長とかが言うんだ!!」。涙ながらに叫ぶ。「毒素系はいつも僕が絡む!! ひどいんだ!」
「あー。言っちゃった私が言うのもアレだけど……ひどいね」
 貴信は涙ぐんだ。沙織は当たり前のように彼の頭を撫でた。ドキっとする貴信だが沙織は平然とご飯を食べ始めた。
(だから、そういうの、マズいんだが!!)
 どんどんどんどん沙織に対する感情が揺らいでいく。貴信の肉体年齢は17歳なのだ。2つ下の少女に翻弄されるのは
どうも座りがよろしくない。
「ね、貴信せんぱい貴信せんぱい」
「なんだ」
 沙織はフォークでマカロニを持ち上げた。
「マカロニって」
「実は中国生まれ!!」
 ぐ……。沙織は少し涙ぐんだ。
「台本終わったあと図書室で雑学の本読んで仕入れたのに……」
「さ!! さすがにこの分野で負ける訳にはいかない!! いやもう本当ココで負けたら終わりだし!!
「マカロニ。一説によるとイタリアではなく中国にルーツがあるとか。かのマルコ=ポーロが持ち帰り、ローマ法王に献上した
ところ「マ・カロニ」……イタリア語で「おお、すばらしい」と述べたからその名がついた」
「そ! そうそう! それ……ってアレ?」
 不意の声。栴檀貴信は振り返る。冷めた目つきの眼鏡少年がそこにいた。
「六舛先輩!!」
「あ。ああ……」
 貴信は震えた。沙織はアセアセと両者を見比べた。
(そ、そういえば貴信せんぱい六舛先輩たちに呼び出されてた! 震えているのはきっとそれを思い出したから!!」
 真青になった貴信は叫ぶ。
「マカロニ先に言われた!! この分野で負けた!!」
「ソコなの!!?」
 肩や髪を逆立てるほど沙織驚愕。


 ズーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン

 小札零は真白になって硬直していた。

 演劇部員の声が響く。

「えー。ではくじ引きの結果、ヒロイン役は小札零さんで」
 拍手が響く。小札は白いまま大粒の涙を瞳に湛えた。



 その教室を覗きながら。

「アイツ、ヒロインになったのに落胆してるぞ」
 斗貴子は無銘に話しかけた。
「母上はナレーション希望だったからな……。ところで看護師さん、用事とは?」
 2人が振り返るとメガネを着た理知的な顔つきのナースが居た。斗貴子は二度三度、聖サンジェルマン病院で見かけた
コトがある。錬金戦団の関係者だ。
「単刀直入に言うわ。戦士・津村。総角主税にサンライトハートを使用させてもいいかしら? それから犬型のボク。アナタの
本当の両親が分かったわ」
 2人は衝撃を受けた表情で立ち尽くした。


「ヒロイン……なぜに不肖がヒロイン……。桜花どのまひろどのヴィクトリアどの……見目麗しき方は他にもおられますのに
なぜに……なぜに……ヒロイン…………。うぅ。さながらコレは雑巾を黒板に飾るような晒し上げでありましょう……」

 小札は真白なままブツブツぼやいた。


 とりあえず食堂に移動する斗貴子と無銘。
 入り口で、六舛と大浜、岡倉と貴信という珍しい4人組みとすれ違ったが特に言葉は交わさず遠ざかる。

 少し時が流れ。3人は机に座っていた。ナースが年下2名を迎え撃つような座り方だった。

「私も結論からいいますが……私は、反対です」
 総角主税にサンライトハートを複製させる件だ。
「事情は分かりました。夏前に、カズキのヴィクター化を調査するため採取したサンプル。あれを総角に使わせれば、奴も
カズキの武装錬金を使えるでしょう。戦団がヴィクター討伐で疲弊している以上、戦力は1つでも多く欲しい。サンライトハー
トは使える者がいれば攻撃力は増すでしょう。それは分かります。戦士としては賛同すべきでしょう」
「けど……女性としては反対ってカオね」
 ナースはさして怒った様子もない。細長いコップに入ったカフェラテをストローで吸った。窄まる唇を見た無銘はちょっとド
キドキした様子で視線を外す。
 斗貴子は申し訳なさそうに視線を落とす。スカートの前で指を組みきゅうっと締める。
「サンライトハートは……私が名前をつけた武装錬金です。発動したのも私が核鉄を与えたから」
「子供のように思ってる?」。ナースの問いに斗貴子は否定も肯定もしない。それでも非常に大切に思っている気配を無銘は
察した。
(いわば武藤カズキとの絆の証。他者に複製されるのは好まない、か)
 無銘は総角を師父として慕っているが、だからといって大事なもの総て彼に捧げろとは言いたくない。
「ホムンクルスが、散々私たちを引っ掻き回した総角主税が、カズキの武装錬金を振るって戦うのは、正直見たくありません」
「正論だわね。実際火渡戦士長も反対している。あっちはホムンクルスの戦力増強を危惧してだけど」
 ナースは言う。戦士の中で自分の武装錬金を複製してもいいと申し出たのは全体の約2割に過ぎないと。あとは斗貴子の
持つ愛着や感傷か、火渡の持つ警戒と不信で、拒んでいるとも彼女は告げた。
「分かったわ。上層部からの命令だったけど突っぱねておく」
 斗貴子は少し気色ばんだ。
「待ってください。上層部が絡んでいるんだったら、私なんか無視してもいいんじゃ」
「私ね、正直上層部(うえ)には腹が立ってるの」
「はあ」
 彼方をにらみ語気を荒げるナースに斗貴子は気の無い返事をした。
「こちとら救出作戦前でてんやわんやしているのよ。薬や医療品の調達でほうぼう駆け巡らなきゃいけないわ医者や看護師
集めなきゃいけないわ金で動く病院と交渉して入院先確保しておかなきゃいけないわ、忙しいのよとにかく!」
 若くて美人だが性格は少々キツいらしい。金切り声を上げ始めたナースに無銘は軽く震えた。
「そんな時に、どこから嗅ぎ付けたか知らないけど上層部の奴ら、武藤君から採ったサンプルを総角に使わせたらどうだ
とか言い出すのよ! いや別に提案するのは結構だけど何で私たちがやらなきゃいけないのよ! こちとら医療関係者
よ! 人治すための本分一生懸命貫いてるときに、専門外のしかも思いつきを何でやってやらなきゃいけないのよ!!」
「お気持ちは分かります。落ち着いて」
(スゴい。あの津村斗貴子が宥めてる)。無銘はビビリながらも感心した。
 ナースの愚痴は止まらない。「事後処理班とかにやらせなさいよ何で私たちが」、口中でぶちぶちぶちぶち言っている。
「大体!」
 机がたたかれた。ナースの瞳は憤怒の炎を宿していた。
「殺そうとした人の力を今になって使おうとするとかどうなのって話よ!? 私たちが苦労して集めた検査結果を救うため
じゃなく殺すための方便にしたのよ上層部は! 人を救いたい、生きたいって願っているまだ若い子を、殺そうとしたのよ!」
 なのに今さらその武装錬金を利用しようとしている。熱を吹くナースに無銘はまったくそうだと内心喝采を送った。そういう
人道に悖る行為の片棒を師父たる総角に担がせるのもまた気に入らない。
「ボク分かってるようね。ホムンクルスだけど偉いぞ」
 頭が撫でられた。キレイなお姉さんにそうされると少年心がきゅんきゅんする。小札にされるのとはまた違う。魚を生でむぐ
むぐする香美とは対極、知性を纏う「お姉さん」に褒められるとなんだか心がぽうっとなる。
「撫で撫でしたら落ち着いたわ。とにかく戦士・津村」
「はい」
「救出作戦が近いせいで、上層部から使える物は使えと打診されたけどそれはそれだけの話なの。あなたが、武藤カズキと
一番縁の深いあなたが拒むならそれはもう「使っちゃいけない」物なのよ。私は断っていいと思ってる」
 ショートボブの影から小さな謝礼が漏れた。
 ナースは結局、峻拒を貰うためやってきたのだろう。使わせたくなかったのだろう。
「ですが……やはりサンプルは総角主税に持たせて下さい」
 なっと目を剥いたのはナースだけではない。無銘また愕然とした。
「貴様、矛盾しているぞ。正直師父が嫌われるのは面白くないが、普段の挙動が挙動でもある。嫌われても仕方ないと思わ
ぬ訳でもない。……本当にいいのか! 想い人の武装錬金を託していいのか!」
「そうね。上層部は劇的な戦力増強を期待しているようだけど、あの認識票の特性上望み薄よ」
 ナースは説明する。
「まず、複製できるのは旧型のサンライトハートなの。小型化した「改(プラス)」の方じゃない。あの認識票がDNAから複製
できる武装錬金は、そのDNA採取時点のものに限られる」
 従ってヴィクター化が進行する以前に採られたDNAからは旧・サンライトハートしか複製できない。小型ながら状況に応じ
て大型化可能な、取り扱いやすい「改(プラス)」は少なくても聖サンジェルマンン病院供出のDNAから複製不可能。
「旧型にしても、DNA使用による完全再現はたったの5分。それ以降は劣化コピーとしか使えない。うまくいっても再現率は
80%程度。それは相性次第で半分にも1割にも成り得る」
 習熟の問題もある。決戦までに使いこなす特訓をするのなら持ち込めるのは必然的に劣化コピーとなる。数日齧った程度
のそれが上層部の求める「大幅な戦力増強」となりうるか怪しい。
「ぶっつけ本番で100%完全に再現したとして本人並に使いこなすのは無理だ! 師父はああ見えて何度か失敗しないと
覚えないタイプなのだ! マレフィックどもとの戦いでは僅かな失敗が命取りになる。いきなりは危険なのだ!」
 必ずしも託す必要はない。それがナースと無銘の一致した見解だった。元を正せば上層部の思いつきなのだ、実効性は
薄い、なのにいたずらに斗貴子の心をかき乱す提案……だから乗る必要はないと彼女らは言う。
 斗貴子は俯いたままだ。
「それでも……反対するのは『私だけ』なんです」
「?」
「きっとカズキなら、迷うコトなく託すと思います。『不完全でもさ、ぶっつけ本番でもさ、それでオレの武装錬金が誰か助けら
れるなら……いいじゃん。いろいろ大変なんでしょ? 手は1つでも多い方がいいよ』とか何とか……お人好しなあのコは
笑ってサンプルを渡します。私の感傷も今言われつくしたような正論も一切合財無視して従って、愚かなのに笑うんです。
それが。それが…………カズキなんです」
 自分よりも当人の気持ちを考える斗貴子をちょっと見直す反面、それでも無銘は納得できない。立場からいえば総角
サイドで、彼の手が増えるのは成程ひいては自分たち音楽隊の生存確率上昇にも繋がるだろう。
(だが、それでいいのか?)
 かつて総角が初めて斗貴子と見えたとき、彼は期せずして『カズキとの別離』という辛い記憶を見せてしまった。無銘に
語ったところによるとそれはひどい後悔の1つらしい。

──「フ。流石の俺もああいう手段は好まない」

──「武藤カズキ……だったか。彼とセーラー服美少女戦士については踏み込んではならぬ領域があるようだ」

──「できるコトなら俺はもうそこには踏み入りたくない。誰だって触れられたくない場所はある」

(師父とて語っていたではないか。なのにサンライトハートを預けるのはどうなのだ。かつてホムンクルスよりこの街を守りし
希望の象徴たる突撃槍(ランス)をホムンクルスに託す……? 武藤カズキはともかく津村斗貴子の心は救われんだろう!)

 すでに斗貴子はカズキに一心同体を破約され傷ついているのだ。深く深く傷ついているのだ。
 そのうえ彼の意思を汲み、自身は一層傷つくという構図はどうしても見逃せないものがある。
 無銘もまた兵馬俑の敵対特性で、斗貴子を傷つけたコトがある。その時の索漠とした、苦い勝利の味が蘇る。

(敵対特性は人の姿になれなかった我の歪みの投影。いまは二足で立っている。未だ甘んずる道理なしだろう)

 昨晩打ち合った剛太を思い出す。彼はいけ好かない奴だが、それでも斗貴子のために戦っている。
 傷ついた人間が居て、でも誰かはそれを治そうと必死に戦っていて、けれど前者2つを容赦なく傷つける存在も居て。

 無銘は三番手になりたくなかった。なりたくないのに敵対特性で斗貴子や千歳、鉤爪の戦士といった戦士を…………
正心を以て戦う人間達を傷つけてきた。命は奪っていないし、状況や運命がそうさせた部分もある。

(けれどやはり心底納得できる勝利ではなかった)

 総角の借り。自分の正心。それらに適合した解決策を無銘は懸命に考えた。


「……貴様が」
 斗貴子は顔を上げた。
「貴様が使うのはどうなのだ。師父が複製された物を、100%完全再現されたものを貴様が使う」
「……。現実的じゃないな。私にはバルキリースカートがある」
 無銘の語調に何事かを感じながらも斗貴子の語調は暗い。
「現実的……だと? 話に聞く武藤カズキは現実とやらに縛られる奴なのか?」
 煽るような物言いに(だが図星だからこそ)斗貴子が無銘を睨んだ瞬間、ナースはパンと手を打った。
「どうせバルスカは敵の懐に飛び込まなきゃ通じない武装錬金よ。そのブースター代わりにはなると思うけど」
「しかし……」
「ああもう!! 貴様は暴虐を極める癖にこういう場面になると途端に歯切れが悪いな!!!」
 無銘はキレた。憤然と仁王立ちするやビシリと指差した。
「直接逢ったコトはないが、あやつが貴様を捨てるようなマネをし深く深く傷つけたのは知っている!! だったらその痛み
の僅かでも奴の武装錬金に負わせてやればいいだろう!! 心の臓とは直結しておらんのだ! 貴様はどうせまがい物だ
と師父の武装錬金複製を嘲っているだろうし好都合ではないか!! いくら傷つけようが武藤カズキそのものの生命には
何ら影響が無いのだ! だったらココまで負わされた傷の分だけ戦いの痛みを肩代わりさせてやれ!! 貴様は強いのだ!
とっとと胸の黒々を降ろし復調しろ!!」
「貴様……」
 ギャンギャン喚く犬型に斗貴子は歯噛みした。
「黙って聞いていれば言いたい放題! ホムンクルス如きに私の気持ちなど分かるか! 分かられてたまるか! そもそも
貴様らホムンクルスがいるからカズキは死んだし戦いに巻き込まれた!! 偉そうに説教しやがって!! できる立場か!!
だいたい今さら劣化コピーに八つ当たりしたって空しいだけだ!! それでカズキが帰ってくるわけでもなし、ホムンクルス
にサンライトハートをパクられるだけ損だ丸損だ!! あと桜花と似たようなコトいいやがって! 不愉快だ!!」
 こうなると売り言葉に買い言葉である。かねてより抱いていた不満、音楽隊との共闘に対するストレスが大爆発した。無銘
は無銘で基本子供だから、自分の好意が踏みにじられたように受け取り逆上。喧々諤々の口論に発展した。
「ハイハイ。ボクたち口喧嘩はそこまで」
 3分後、両者の声が涸れてきたのを見計らいナースは平然と目を瞑りつつ仲裁。
 肉体疲労を利して仲裁を成功させるあたり流石医療従事者である。
「私としてはサンプルさえ総角に預ければいいわ。上層部への良い訳の手間は省けるし。第一使い方までは指示されて
いないもの。戦士・津村が持とうと構わない」
「だから私は処刑鎌だけで」。なおも言い募る斗貴子の口に手が当てられた。
「ちなみに、あなたがダブル武装錬金を発動した状態で複製版のサンライトハートを手にしたら、結構な破壊力を生める
んじゃないかしら」
 斗貴子はちょっと両目を揺らめかせた。
(……。その場合、手数は9。…………『9方向』を同時に攻撃できる)
 言葉が、去来する。


──「九頭龍閃……もりもりさんが最も得意とされる飛天御剣流の技。斗貴子さんどのなら必ずや使いこなせまする!」

 昨晩、音楽隊の面々と交わした他愛のない話。

──「確かに……8本の処刑鎌なら同時攻撃は容易い。それを剣道型の斬撃でか……。確かに、理に叶っているというか殺傷
──力も高そうだが…………しかし残る1つはどうする?」
──「ご主人言ってるじゃん。『何か刃物の武装錬金を借りればいい』って」

 クロムクレイドルトゥグレイヴ。ソードサムライX。
 それらのピースがしっくり嵌らなかった欠落に……手応えが来る。

(サンライトハート……突撃槍(ランス)も『刺す』限りは刃物)

 防人はカズキへの敗北を機に新たな技を編み出そうとしているらしい。
 剛太も筋肉や重力の使い方を学習し、戦力向上に努めている
 秋水に至っては、行住坐臥の総て剣の境地へ繋げていく。
 桜花すら過酷な射撃の訓練に重視しており確実にレベルアップ中だ。

(私も……切り札を持つべきなのか?)

──「桜花は言いました。私もまた。まひろちゃんたちの『日常』だと。彼女たちの生活の一部だと」

──「それを守るため死を避けます。怒りに任せていればどうなるか、早坂秋水が自身に照らし釘を刺しましたから」

(死を潜り抜け、人々を守り抜き、桜花がいうように『日常を預けた』カズキを取り戻すためには)

 力が要る。
 鐶や総角をも凌ぐ敵がひしめくレティクルエレメンツと戦って生き延びるには。
 力が要る。

(だがそれを総角から……ホムンクルスから借りる是非はどうなんだ)

 鐶との連携にさえ悩んでいる斗貴子なのだ。思い出深い武装錬金をいけすかない総角に複製され、かつそれに縋るような
マネにはやはり抵抗がある。
 生きる為、行き場のない憎しみは持たないよう心がけている斗貴子だが、実際に見て、記憶に灼きついた光景は決して
ホムンクルスを肯定させるものではない。
 傷つけられた人間が居て、でも誰かはそれを治そうと必死に戦っていて、けれど前者2つを容赦なく傷つける存在も居て。

 ホムンクルスとはその三番手なのだ。許されるものではない。音楽隊は自前の食料で人喰いを避けているというが、心底
信じる気にはならない。

(戦士がホムンクルスと馴れ合うようになれば、力なき人たちは本当に何も信じられなくなる)

 剛太や桜花なら総角をただのコピー機程度に見なして上手く利用するだろう。
 防人や秋水なら総角個人にのみ帰する一種の敬意を払い取り扱うだろう。

 カズキがいれば驚くほどの気楽さで肩を押すだろう。
 何だかんだでパピヨンと仲良くやってる少年だ、総角が人を苛まないと知るや複製能力を物珍しがりサンライトハートを
作らせて、「お揃いだね」とばかり斗貴子に持たせてはしゃぐだろう。

(答えは出そうにないな)
 ナースも同じ結論に達したようだ。「総角主税がサンライトハートを使う状況が来るとも限らない」。杞憂だと言いたげだ。
「総ては状況次第なのだ。師父が複製され、且つ、貴様が真に守りたい物が転がっているのなら使えばいい」
 無銘は相変わらず皮肉気だ。
「まあ、出し惜しみゆえの犠牲を出し生涯悔いたいのならば別だがな」
 憎まれ口を叩いているが、斗貴子は少し気付く。冷静さを取り戻すと記憶の言葉が違って聞こえる。
「……」
 少し瞳の深奥を揺らめかせ息を吸い、言葉を吐く。
「言っておくが私は生ぬるい物言いを返せないからな。期待するなら声を掛けるな。そうすれば作戦前だ、人々を苛まない
限り私からは仕掛けない」
 無銘はムっとした。ナースは無表情に語った。
「ハイハイ。お礼を言いたいけど馴れ合い嫌いだからどうしても言えない、優しくされてもキツい返事しかできないから好意
で何かいうのはやめて欲しい……そう言いたい訳ね。でも何となく配慮には気付いたから以後イチャモンつけるのは自重
する、と」
 ツンデレか、それも男の。淡々というナースに斗貴子は「なっ」と呻いたきり言葉を失くした。
「?? ツンデレって何なのだ?」
「ボクみたいなコのコトよ。というかボクへの話まだだったわね」
 無銘の身が固くなった。
「我の……本当の両親のコトか」
「そう。戦士である可能性が極めて高いわ。父は釦押鵐目(こうおう・しとどめ)。母は幄瀬みくす(あくせ・みくす)」
 かつて音楽隊が連行されたとき、総角は無銘の両親について調べて貰えないか戦団に具申したらしい。
 幸い、無銘が生まれた10年前の決戦において戦団は勝利を収めていた。
「我の生誕地……いつぞやの龕灯で見た。恐らくあれはレティクルの当時のアジト」
「調査の結果、囚われていたボク……鳩尾無銘君のお母さんがホムンクルス幼体投与後、死亡したのが分かったの」
 死亡、という単語に無銘は一瞬立ちすくんだ。辛うじて信じていた何かを壊された、そういう表情だった。
「その母親が幄瀬みくすという戦士か」
「断定はできないけど、高確率ね。そして彼女は妊娠していたし結婚もしていた。その夫こそ釦押鵐目」
 会話に加わった斗貴子はふと首を傾げた。
「さっきから聞いていると、可能性が高いとか断定はできないとか歯切れが悪いな。他に何かあるのか?」
「石榴由貴先輩」
 耳慣れない単語に一瞬小首を傾げた斗貴子と無銘だが、氷解とともに短く叫ぶ。
「それって確か」
「ああ。昨晩風呂に入ったとき、戦士長が話していた。声が丸聞こえだった」

──「むかし戦団にブラボーな検死官が居てな。火渡や他の戦士たちと一緒に何度か講義を受けた」

──「石榴由貴。知ってるか?」

「彼女は何か掴んでいたようよ。10年前の決戦後、どうしても腑に落ちない点があるって周囲に漏らしていた」
「じゃあその石榴っていう戦士に聞けば──…」
 意気込む無銘だが、ナースは首を振る。
「先輩はもう、死んだわ。10年前の決戦の後しばらくして変死体で発見された。事後処理班の調査によれば、自殺らしいわ」
「じゃあまさか、押収したって資料も……」
「ほぼ同時期、消されていたわ。釦押・幄瀬両戦士のDNA情報ともども」
 ナースが答えると斗貴子と無銘は黙り込んだ。非常にキナ臭い雰囲気を嗅ぎ取った。
「というか、10年前に資料がなくなったのにどうして今回分かったんですか? この、鳩尾無銘の両親のコト」
「聞き取り調査よ。当時を知る戦士たちや、レティクルから押収した資料を読んだ事後処理班への」
「成程な。資料はなくともその時代生きていた者たちの記憶は残る。情報の純度は落ちるが……我が母胎の顛末は酸鼻ゆえ
語り継がれる、か」
 前髪に表情を押し込めながら無銘は寂然と呟いた。
「ただ、あくまで確率が高いという話よ。DNA情報が失われている以上、遺伝子鑑定で実の親子かどうか調べるのは不可能
に近い。両戦士の親族からDNAを採り判別するって方法も無くはないけど、救出作戦に間に合わないのは確かね」
 ナースは言う。すぐに真実は分からない、と。
「石榴先輩のコトもある。第一、鳩尾君をホムンクルスにした幹部2人は鳩尾君の両親について直接言及した訳でもない。
覚悟して。これからの戦いの中で思わぬ真実が出てくるコトを」
 医療関係者らしく、調査結果の孕むあやふやさをも説明するナース。斗貴子は考える。
(レティクル側の資料を詳しく調べれば何か分かりそうだが、10年前消されたとあれば調べようが無い)
 それを読んだという事後処理班たちが一言一句総て正確に覚えていれば検証のしようもあるのだが、実際問題無理だろう。
 釦押鵐目。幄瀬みくす。
 彼らが、人間としての無銘の両親なのかどうか斗貴子には分からない。
(石榴由貴って検死官は何を掴んでいたんだ? 検死官というぐらいだから幄瀬みくすは調べた筈だ。そして戦士長がブラボー
というほどの腕を持ちながら「腑に落ちない」点を見つけた。私が彼女の立場ならどうする? 決まっている。レティクルの資料を
読む。どういう殺され方をしたのか、どういう環境に置かれていたのかまず調べる)

 けれどそれでも払拭できぬ「違和感」があったからこそ、彼女は周囲にいろいろ漏らしていたのだろう。

(何だ? その違和感というのは……何なんだ?)

 資料さえあればそれが分かりそうなのに、ない。斗貴子は歯がゆかった。無銘の出生を解き明かしてやる義理はないのだ
が、それでも生まれに不審な点のあるホムンクルスが傍にいるのは落ち着かない。

「ところで我の父親……と目される釦押鵐目とかいう戦士は?」
「行方不明よ。戦士・幄瀬の死亡後からずっと行方不明」
 無銘生誕を取り巻く黒い霧がいっそう濃くなるのを2人は感じた。



 そして。津村斗貴子も鳩尾無銘も気付かない。

 釦押鵐目という元・戦士が。

 顔も体型も変わり果てた細菌型ホムンクルスに生まれ変わっているコトを。

 リヴォルハイン=ピエムエスシーズと名乗り既に銀成学園を訪れているコトを。

 いまはまったく気付けない。




 栴檀貴信が正体と事情を話し終えると、大柄な少年……大浜真史はホッとため息をついた。
「つまり、人間じゃないけど、悪い人じゃないんだ」
 だから言っただろ、斗貴子氏が見逃してるんだから。大きな肩の後ろで六舛孝二は事もなげに呟いた。何やら文庫本を
読んでおり関心の薄さが丸見えだ。
「そうはいうけど、頭の後ろに顔があったら普通にビックリするよ」
「すまない!! なるべく髪で隠すようにしているんだが!!」
 いやこっちも騒ぎすぎた。大浜は頭を下げた。大柄だがずいぶん気弱……貴信は少し似たものをかんじた。
「人間とかそうじゃないとかそんなんは重要じゃねえだろ!!」
 気炎を上げたのは岡倉英之。一般的に「リーゼント」と呼ばれる髪形をしているから、大人しい、文化系の貴信としては
怖くて怖くて仕方ない。カズキの友人3人を恐れている理由の大半は岡倉がいるからなのだ。
「なにが問題なんだ岡倉?」 
 冷めた声で六舛が問う。喧嘩中なのかと貴信が心配するほど冷徹な反応だが、どうもそれが当たり前のやり取りらしい。
「貴信と香美ちゃんが分離して元の体になりたいって分かるし応援してえよ! けど、そしたら香美ちゃんはどうなっちまう
んだ!!」
「どうって……貴信君が言ってたでしょ。元通りネコになるって」
「というか自分でいま言っただろ。元の体になりたいの分かったとか何とか」
「いーーやーーだーーー!! そしたら今のボンッキュッボン! な香美ちゃんがいなくなっちまうううううう!!」
 頭を抱えて大きく仰け反る岡倉に香美は「しゃーっ」と吹いた。
『あんたうっさい!! あたし疲れんての!! 走ったりヘンなペラペラやったりで眠いしだるい!!』
「あ、悪い香美ちゃん。起こしちまったか」
 真顔になり声を潜める岡倉。
(……)
 貴信は少しショックを受けていた。
(そうか……。元の体に戻るってコトは、香美が元の子ネコになるってコトは……)
 いまの香美が居なくなる、というコトだ。
(中村氏のお嫁さんには……なれないのか)
 元々ネコだし戸籍もないし、そもそも先方にそのつもりがないから実現の可能性は薄い。分かっていたから、衝撃という
ほどのコトはない。
 ただ、この7年ですっかり香美を「人間」のように思っていた貴信だから、岡倉の指摘には心揺らめくのだ。
(元に戻るだけさ。元に……)
 言い聞かせてみるものの、どこか寂しい。


「しかし……同じDNA使ってるのに本当違うよな。貴信と香美ちゃん」
「よ! よく言われる! 香美は僕の母親似なんだ!!」
「ああ。なるほど。貴信君のDNAに含まれるお母さんの遺伝子で色々女のコしてるんだ」
「貴信は父親似だからな。まあよくいる似てない兄弟って奴だな」
「カズキとまひろちゃんもあんまり似てないしな」
「秋水先輩と桜花先輩が似すぎなんだよ。二卵性なのに」
 ガヤガヤ。岡倉たち3人が話し始めた途端、貴信はひどい疎外感を覚えた。
(やばい!! 慣れないグループ特有のアレだ!! すでに出来上がっている人間関係だけいつもどおり回転し、新参
者たる僕ひとりが蚊帳の外というアレだ!! 関係構築の救いの手が伸びてくるのを待ってるのに何も来ず、終了時間
とか終業時間までずっと黙っている悪いアレだ!!)
 焦っていると、肩がポンと叩かれた。振り返ると六舛がいる。先ほどまで視線の先にいた筈の彼が突如背後にいるの
はなかなか怖い。後ろに張り付いている香美はそういう恐怖を見張るのに最適だが、どうも今は知恵熱で寝込んでいる
ため見逃したらしい。
「あ、あの」。もじもじとする貴信に冷たい声がかかった。「芸をしろ」
「え?」
「だから芸をしろ。ほら、豆知識とかいっぱい持ってるだろ。言え」
「ととととというが貴方の方がむしろ色々知っているような!!」
 さきほどマカロニの披露を先取りされたコトもあり貴信の歯切れはどうも悪い。
「というけど、大浜は少し人見知りだし岡倉は慣れるまで絡み辛いぞ」
 黙っていてもどうにもならない、言外にそんなニュアンスを混ぜる六舛。
(う……)
 輪の中に入れといわれても、長年の失敗ゆえに尻込んでしまうのが貴信だ。言い換えれば、どうせ失敗するからしなくて
いいとどこかで思っているし、もっと厳密にいうなら、本当の意味での失敗はほとんどなく、むしろ、勇気の無さゆえ数多くの
好機に乗り損ねてきたという方が正しい。挫折というよりは頓挫、それも進捗率0.1%時点での頓挫というか中断に彩られて
いたのが人間貴信の青春だ。
(……でも)
 総角の言葉が蘇る。

──「弱さゆえに節義と正しさを守らんとするお前はその美点を知られさえすれば確かな信頼を得るコトができる。自信を持て。
──たまには心を開いてみろ。人間だった頃とはもう違う。いまは仲間を、俺を頼れる。ヘマをやっても庇ってやるさ。頑張ろう。
──俺たちと共に、楽しい学園生活のために」

 沙織にいろいろ謝り、それなりに話ができるようになったのは、きっとこの言葉のせいだろうと貴信は思う。

 自分とは対極で、積極的にいろいろな人間と関わりを持ち、自信たっぷりに沢山話ができるのに友達はゼロの総角。

(どうしてあの人は……あんなに社交的なんだろう。どれだけ頑張っても友達ひとりも作れていないのに……!!)
(いやご主人。それってもりもりが、単にさ、くーき読めてないだけじゃん)

 精神世界で香美はジト目をした。いちいち部下にディスられるリーダーである。

(でも!)
 貴信の心に火がついた。
(友達1人も作れない人でも自信たっぷりに生きるコトはできるんだ! 誰とはいわない!! ああ、誰とはいわないが、
僕はそういう人を……知ってるじゃないか!!)
(……ご主人。それ多分もりもりのしたかった励まし方とちがう。絶対ちがう)
 貴信は勇気を貰った。ときどき「秋水と友達になりたいなあ」とか寂しそうに呟いている総角から……勇気を!

「岡倉氏! あなたの髪型はリーゼントじゃない!!」
「何い!! どっからどーみても前髪がでっぱってるこの髪型はリーゼントだろうが!!」
 意を決し叫ぶ貴信に岡倉は驚愕。
「本来のリーゼントは両側の髪を後頭部でぴったり合わせるものだ!!」
「じゃ、じゃあ岡倉君の頭ってなんなの?」
 大浜はどぎまぎしながら問う。
「ポンパドールだ!! 元は女性貴族の髪型! フランス国王ルイ15世の愛人の髪型だ!」
「成程。ポンパドール夫人か」
「そう!! なのにリーゼント呼ばわりされているのは、1950年代の日本でリーゼントとポンパドールを混ぜた髪型がは
やったからだ! そのまま名前も混同されリーゼントと呼ばれている!」
「という訳だポンパドール。今日も立派なポンパドールじゃないか。お前ほどポンパドールの似合う男、俺は他に知らないぞ」
「いーやーだ!! これはリーゼントだよ!! リーゼントなんだよお!!」 
 驚愕の表情で両掌を上に向けワナワナと震える岡倉。「オレのアインデンディディーが、アイデンティティーが!!」大声
を上げていると香美が「うるさい!」と怒鳴るのでますます彼は追いつめられた。

 数分後。

「貴信テメー、なんかエロい知識を言え!」
「えええ!?」」
「えええじゃねーよ! お前のせいで俺はエラい目にあったんだぞ!!」
 大迫力のリーゼント……もといポンパドールを揺らめかせながら迫る岡倉。エラい目も何もちょっと六舛にポンパドール
ポンパドールと連呼されただけではないか。
「エ、エロい豆知識ってそんな」
 流石に持ってないよ、大浜が取り成す。
「植物も受粉の時に濡れるとか、ナプキンやタンポンは奈良時代にはもうあったとか、日本で作られるコンドームのおよそ
半分が自動販売機で売れているとか、東海道中膝栗毛の弥次さんと喜多さんはホモカップルとか、男性のシンボルも
骨折と似たケガをするとか、ルソーはマゾで強姦未遂の逮捕歴があるとか、「甚だしい」の「甚」って文字は男女の交わり
が元とか……そんなのしかないけど……」
「あるんだ!?」
「パッと出てくるあたりスゴイな」
 友人2人が驚く中、岡倉だけは厳しい顔で貴信の肩を掴んだ。
「てめえ!」
「す!! すまない!! ご期待に添えなくて!!」
「話せる奴じゃねえか!!」
「ええええ!?」
 直接的なエロスがないにも関わらず気に入ったらしい。岡倉は肩を組み「ヨロシクな」と告げた。

(友達できたのコレって? どうなの!?)

 貴信は嬉しい反面、戸惑う。



「あの……不肖がクジにて務める定めをば授かりましたヒロインとはどのような役で?」
「中世のね、隣国のお姫様!」
 小札の問いに、スタイリスト……沙織は答えた。
「で、でしたらなぜにこのような格好を」
「恥ずかしがらない恥ずかしがらない。可愛いよー」
 ナレーション役を毒島に取られ落胆中のロバ少女は姿見を見るやいっそう頬を染めた。

 彼女は、黄色のネコミミパジャマを着ていた。袖が余るほどだぶだぶした長袖長ズボンに……ネコミミフードが小柄な肢体
を可愛らしく彩っている。

「お姫様がなぜにネコミミ!!?」
「寝室でくつろいでる場面に必要なんだよ。あ、ちーちんや貴信せんぱいのせいじゃないよ。私の独断!」
「きゅう……」
 泣きながら、渡された手袋を嵌める。マンガチックな肉球がもふもふと縫い付けられている。
「では時間がないので台本読み! 鳴いて小札先輩! にゃあだよ!」
「…………」
 大きな瞳を潤ませる。沙織は許してくれそうにない。観念したように視線を外し……
「にゃ、にゃあ…………でありまする」
「いいにゃあ頂きました!! それじゃ次は肉球こっちに向けて構えながら鳴いてみて。甘えるように!」
「にゃ? にゃああ……。にゃあ〜〜……なのです」
「驚いたように!」
「ニャアッ!!」
「じゃあ次はベッドに四つん這いになってお尻をこっちにクイっと突き上げて斜め45度に振り向きながら切なげににゃあ!」
「ううう!! ナレーション! 不肖はナレーションがしたいのであります…………!!」
 流石に最後のは恥ずかしくてできず涙する小札であった。


 防人のところにいった秋水は、やられ役たちと殺陣について打ち合わせをした。
 いうまでもなく、主役である。周囲の強い推挙を受けながらも、くじでの配役を強く進言した彼は、まったく強運、見事主役
を引き当てた。余談だが斗貴子は小札こと隣国の姫を攫うライバル……邪悪な騎士をゲットした。これも本人はくじでの配役
を(略)見事に引き当てた。

「いいだろう。色々モヤモヤしているからな、ここらで徹底的に暴れてやる」

 俯いて前髪の影で表情を隠しながら不気味に笑う彼女の反応に、周囲は期待半分恐怖半分といったところだ。

「ハハハ!! ハハハ!! 加減なんかしなくていいぞぉ!! 殺すつもりでかかってこい!!」
「押忍!!」
 10人からのやられ役が飛び掛っては素手でいなされ吹っ飛んでいく様は壮観だった。

「……大丈夫なんですか津村は」
「ああ。彼女なりに楽しんでるようだし大丈夫だ。みんなの方もな。吹っ飛んでいるが、あれは演技だ」
「でやああああああああああああああああ!!!」
 180cmはある男子生徒を片手で持ち上げたまま吼える斗貴子。支点はみぞおちだった。手首から先をめりこませたまま
軽く40cmほど浮かべている。支点の反対側、つまり男子生徒の背中のある一点から円状の衝撃波が、内から外へ波紋
のようにいくつもいくつも広がっていく。裂帛の気合が轟くたび男子生徒は痙攣した。四肢もまた不自然な方向に踊り狂う。
 やがて咆哮が終わると、波紋の中心点から円錐状の衝撃波が突き抜けた。
 手を振りぬく斗貴子。男子生徒は飛んだ。軽く25mは飛んだ。
「あの……」
「演技だ」
 防人は断定した。
 秋水は思う。演技だというならなぜ決死の表情で生徒を追いかけキャッチしたのだろう。床板を踏み抜いてまで……。
「悪い。力加減を誤った」
 慌てて防人たちに合流し頭を下げる斗貴子。男子生徒はいいよいいよ手を出して笑った。
「ブラボーがいると安心して吹っ飛べますからドンドン来て下さい!」
 ほかのアクション担当たちも声をそろえた。
「殴り飛ばされたやられ役がドンドン舞台の上から消えていくとかカタルシスじゃないですか!」
「お客さんも喜びますよ!!」
「青タンできますけど、その痛みがなんだか燃えるんです!!」
 すっかりみんな爽やかだった。白い歯を見せて楽しそうに「ああ殴って欲しいこう殴って欲しい」とか述べている。
「あ、斗貴子先輩。練習終わったら一緒に食事しませんか!」
「オレたちブラボーと一緒に打ち合わせするつもりなんですよ!」
「ブラボーはウマカバーガーが好きらしいんですよ! 可愛いですよね!?」
「あ、ああ。考えておく」
 斗貴子がだんだんグッタリしていくのが目に見えて分かった。


「ああそうだ。ところで2人ともちょっと大道具の所へ行ってくれないか。アクションで壊す用の物、色々作って欲しい」

 防人から目録を預かり大道具の元へ。


「大丈夫か?」
 廊下で問う。言葉少なげに肯定が帰ってくる。
「しかし……あのコたちすっかり戦士長に懐いているな」
「人を育てるのがうまいからな」
 分かる。斗貴子は生真面目に頷いた。
「まだ30にもなっていないのに、戦団では名トレーナーの評判が高い。実際私だって戦闘の手ほどきは受けた」
「武藤を育てたのも戦士長という。彼が短期間で俺の倍伸びたのは、姿勢や意欲も大きいが、何よりあの人が指導役だった
からだろう」
 ショートボブの少女に揺らめきが生じたのを見て、思わず秋水は謝った。
「気にするな。割り切れない気持ちもまだあるが、生きてそれをどうにかしようと思ってる」
「生きて、か」
 秋水は少し考え込んだ。斗貴子は昨晩に比べ余裕を得たようだ。桜花からも落ち着いたとも聞いている。だからふと、防人に
について聞きたくなった。長い付き合いだ、何か知っているかも知れない。
「ところで、戦士長も悩んでいるらしいが」
「知っている。新技……重ね当ての開発に難航しているのも含めて知っている。……自分もいっぱいいっぱいなのに、私のコト
を気遣うんだから……。本当、お人好しだな…………」
「俺に何かできるコトはあるだろうか」
 斗貴子は横目でちょっと秋水を見てから黙った。
「私もあの人に何かしたいとは思っている。けれど付き合いが長いのに未だ分からない。できるとすれば結局は生きるコトだけだ。
子供を死なすのが嫌いだからな。この街に来てすぐ部下を……LII(52)の核鉄の戦士を亡くしてもいる。これ以上の被害が出ない
よう務めるコトでしか私はあの人に報えないと考えている」
 明確な答えではないが、否定もない。以前何かあるたび秋水を咎めていたのを考えると、格段の進歩だろう。
 さらに斗貴子はいう。
「助力したいと考えるのは勝手だが、局面を見てすべきだ。キミの武装錬金は搦め手に弱い。相手を見誤れば却って戦士長
を苦しめるコトになる」
「成程」
 曲解すれば「でしゃばるな」と言われたに等しいが、しかし秋水は感心した。生真面目な性分だから、「戦闘で防人を助ける」
コトしか考えていなかった。それが却って事態の悪化や防人の悲嘆を招くとは思いもよらぬ指摘だが、まったくもって筋の通った
理屈である。
「前に出るのも場合によりけりか」
「そういうコトだ」
 秋水は初めて斗貴子が先輩なのだなと気付いた。年齢こそ同じだが、戦歴においては遥かに先達だ。実力以外の事象が
生死を分かつ戦場の鉄則を知り抜いているようだった。
「……質問に答えてやったんだ。キミも私の問いに答えてくれてもいいだろう」
「答えられる範囲であれば」
 少し壁が薄くなった気がして秋水は微笑した。
「総角主税の九頭龍閃。私はあれについて調べたい」
 とここで言葉を切り、手短に理由を述べる。


「W武装錬金とサンライトハートでアレを……か。確かに突進力や機動力、破壊力とも申し分ないな」
「だが私は現物を見たコトがない。昨晩戦士長相手に改良型を試したそうだが、その時私は若宮千里の部屋にいた」
「分かった。俺から総角に聞いてみよう。サンライトハート複製の件も含めて」


「あ、秋水」
 顔を見るなり総角は嬉しそうに笑った。
(素だ。素で返してきたぞ)
(……よほどキミと友達になりたいらしいな)
 唖然とする秋水と斗貴子に色々気付いたのだろう。「フ! フ!」と咳払いする総角。

「フ。ようこそ我が工房へ。そろそろ防人戦士長どのからアクションで壊す大道具の目録を預かってきたと見たが…………
外れかな?」

 背景でバラを咲かせて麗しく問う美丈夫に黄色い声がそこかしこから上がった。

「ま、まあ合ってはいるが」
 言われたとおり目録を渡す。さっと目を通した総角は自信ありげに微笑んだ。
「ところで総角。別口で話が──…」


 教室を出て廊下で話す。


「フ。理解した。サンライトハート複製の件はそちらのセーラー服美少女戦士の裁量に任せよう」
 かつてアリスで悪夢を見せた借りがあるからな。そんな謝罪をしかし悪びれもせずやってのける総角に斗貴子は大変
不服そうだ。(サンプル含めお前の物でもなし、なんでこうも偉そうなんだ)、そんな囁きさえ秋水は聞いた。
「九頭龍閃の方はどうするんだ総角」
「飛天御剣流の継承者でもない俺が他に向かって伝授する是非はいろいろあるが……。フ。今は火急の時、人を救うため
とあらば伝播させるに吝かでもないさ。元は人々を時代の苦難から守るための剣…………歴代の比古も緋村抜刀斎も
泉下で納得するだろう」
 勿体つけた様子の総角。秋水が忙しない気分になったのは、斗貴子の短気を鑑みたからだ。長い前口上は好まぬ少女だ。
「さっさと教えろ」。そんな喧嘩をふっかけそうなので先んじて言う。
「では、さっそく技の方を──…」
「フ。もう見せた」
「何だと
 斗貴子を見る。少し目の色が変わっていた。
「ウソじゃない。喋っている間に……前から2回うしろから2回、超神速の総角が私を通り過ぎた」
「……」
 やっと剣風らしきものが髪を揺らした瞬間、銀成学園生徒会副会長はじっとりと汗ばんだ。
(剣を持っていないとはいえ、まったく気配が感じられなかった)
 そういえばと思い出す。昨晩、九頭龍閃・極なる新技の糸口を見せていた総角の姿を。彼はどうやらあれからも鍛錬した
らしい。
(俺との再会のときも出し抜けにしていたな。どれだけ好きなんだ九頭龍閃)

「とにかく、身の入れ方や突進の仕方は分かった。腑に落ちない点があるとすれば──…」
「フ。あるとすれば?」
 目を瞑り得意げに反問する音楽隊リーダーに斗貴子は眉を引き攣らせたが務めて静かに言う。
「九頭龍閃っていうのは突進技……で合ってるな?」
「ああ。そうだ」
「9発目は刺突…………突進力に任せて相手を貫く」
 斗貴子は頷くと、不思議そうに聞いた。
「じゃあ何で私をすり抜けたんだ?」
「え」
「え」
 男2人が間の抜けた声を上げる。
「3度目にやっと気付いたが、総角は攻撃後私の真後ろに居た。けどおかしいだろ。相手に向かって突進する技なのに、
ぶつかりはせず、しかし仕掛けた後すぐ真後ろに現われる。……一体どういう原理なんだ?」
「総角」
 秋水の反応は早かった。自分は使えないから分からないという顔で、振って湧いた難問を丸投げした。
「…………俺にだって、わからないコトぐらい、ある」
「いや、分からないじゃないないぞ! 不完全なまま使って敵を仕留め損ねたら私の方が死ぬんだぞ!」
「仕方ないだろ! なぜだか使うと勝手に相手の背後にワープしてるんだよ!!」
「勝手にって! そんなあやふやな技によく命を預けられるな!!」
「落ち着け津村。単にすれ違っているだけかも知れないだろう」
「でも私は見たぞ! 私を中心にキレーに壱から玖までの数字が浮かんでいるのを!! あれ全部通そうと思ったら真正
面から斬りかかるしかない! すれ違い様じゃムリだしよしんばやれても威力が下がる!!」
「フ……。確かに剣術において体のバランスは重要…………すれ違いで9発総て一撃必殺にするのは難しい。体のあちこち
がブレるからな」
 だから真正面から行く他なさそうなのだが、そうなると「なぜぶつからずにすり抜けるか」よく分からない。
 余談だが、緋村剣心への奥義伝授のシーン(弟九十六幕)では彼と師匠、すれ違っているように見えるが……。
「まあアレだ。使えば自動的に相手の背後へ行く。超神速の世界はいろいろ複雑なのだろうさ」
「納得いかない……」
 斗貴子は目を尖らせるが、なるものは仕方ない。
「それよりもだ。フ。バルスカとサンライトハートで九頭龍閃とかすっごいワクワクするんだが」
「ワクワクって。君……」
 俄かに落ち着きなく微笑する総角に秋水は呆れた。
「フ。いっそあの新人戦士からモーターギア借りて足につけるってのはどうだ?」
「機動力は増すだろうが……そうなると剛太は丸腰だぞ?」
「ついでに俺の複製したニアデスハピネスを背中につける!」
「もっと早くなるだろうがお前が複製したパピヨンの武装錬金とか正直すっごいイヤだぞ!! 2倍どころか2乗で!」
「総角」。真剣な青年の声に斗貴子は声を張り上げる。
「ほら! ふざけるから早坂秋水が──…」
「戦士長からシルバースキンを借りれば防御も恐らく完璧だ」
 グッ。サムズアップが交わされる。総角は目を不等号にして、秋水は生真面目なままで。
 何事か通じたらしい。
「キミたち……」
 ゲンナリする斗貴子をよそに、総角、どこからか取り出したスケッチブックに筆を走らせ、
「フ。つまりはこういうコトか」
 上手に絵を描く。見た斗貴子はますます肩を落とした。

 シルバースキンがバルキリースカート8本を生やし、サンライトハートを構えている。
 踵にはモーターギア。背中からは巨大な蝶の羽。

「これが津村の最終形態……」。生唾を飲む秋水へ怒号が飛ぶ。「違う!!」。
「ええいゴテゴテしすぎだ!! だいたいコレ戦士長でも成立するだろ! 私でやる必要あるのか!?」
「フ。だが空は飛べるさ」
「飛べるから何だ! お前それ、何だかいい感じのフワっとしたコトを言いたいだけだろ!」
「フ。飛ぶだけにフワっとか。うまいな」
「黙れ!!!!」
 怒鳴る斗貴子は秋水を見るや青ざめながら赤くなる。器用な顔芸だった。
「ち! 違うぞ! たまたまなんだ! うまいコトいったつもりはないからな!!」
 気のない返事を秋水がもらす間にも斗貴子はドンドン羞恥を怒りに変換する。
「そもそもこうやって戦力を一極集中させるのは得策じゃないんだぞ! これだけやって負けたら私の核鉄のみならず剛太
たちの物まで奪われる!!」
「だが2人ともいえば喜んで貸すような……」
 まさか、といいかけて斗貴子は息を呑む。

──「先輩がそれで強くなれるんなら喜んで!」

──「ブラボー! 戦士・斗貴子は無敵だぞ!」

(やりかねない……)
 特に防人は全員の力を1つにとかいうノリが大好きそうだ。
「フル装備は男のロマンだ。……フ」
「俺も少し見てみたい。サンライトハートで加速してモーターギアで加速してニアデスハピネスで加速したら恐らく」
「光速を!」
「超える!」
 頷きあう馬鹿2人に「んなわけあるかあ!」、力の限りツッコむ斗貴子であった。

「というか何でサンライトハート描けるんだ! 戦団がサンプル寄越すってコトは使えないってコトだ! 使えないってコトは
見たコトないってコトだろ!!
「フ。コトコト言い過ぎだぞセーラー服美少女戦士。お前はじっくり煮込んだスープか?」」
「うるさい! 殺すぞ!!」
「写真だけなら戦団拘留中に見た。ちなみに写真だと複製不可、これ豆な。フ」


 同刻。別の部屋で。

「困った人を助けるぞー(困ったー!)」

「死んじゃう人を助けるぞー(ギャー!)

「颯爽! 登場! ねこさんだー!」

 ネコミミパジャマ姿で踊る小札。だんだんノッてきたらしく楽しげである。



 いろいろあって秋水と斗貴子、大道具を見るコトに。
(ふたりともやられ役たちと殺陣の打ち合わせをしに戻りたかったが、何やら総角が結構気合の入ったパンフレットを
配りコレはいいとかアレはすごいとか子供のように一生懸命説明してきたうえ、袖を振り払うと (´・ω・)という顔をした
ので嫌々付き合うコトにした。もちろんパンフレットは自作である)

「というか何でもう洋風のができているんだ!」
「貴信が世界観を固めたのは午前中だ。3時間と経っていないのに……」

 部屋は高級貴族の調度品で溢れていた。縁に黄金と翠色の宝石がちりばめられた鏡台。シンプルだがセンスのいい
キャビネット。高級感あふれるデスクなどなど枚挙に暇が無い。ハリボテだが城の外装もまた半分ほど出来上がっている。
「フ。どうだ。指揮官が有能だからこういうコトになる」
 マントがあれば翻しただろう。音楽隊リーダーは後ろ髪をかきつつ得意げに胸を逸らした。
「それは分かったが……なんで髪形を変えたんだ総角」
 秋水は不思議そうに彼を見た。先ほど九頭龍閃を使ったときは長い金髪を無造作に垂らしていたのだが、今は前髪を
左にまとめウェーブをかけている。
「フ。久々の趣味さ。俺は髪型を変えるのが好きだが最近忙しかったのでできなかった」
「親方、襟足がタコさんウィンナーみたいです」
 大道具の1人が口に手を当て呼ばう。後は防人とやられ役たちの関係性が再現された。
(こっちはこっちですっかり人身掌握してやがる……)
 仲良きコトは嬉しき哉だが、例え防人と同じコトでもホムンクルスがすると辛口評価せざるを得ないのが斗貴子だ。ここま
で対音楽隊に何度も催した危惧を一通りしてため息で締めくくる。
「ちなみに俺がいま手がけているのはコレだ」
 どこからか設計図とイメージイラストを取り出す総角。何やら甲冑姿の騎士が描かれている。
「……自分の像じゃないか」
 整った目鼻立ちと長い髪はどこからどう見ても総角だった。
「フ。この世で一番見栄えのいいモチーフを探したらこうなった。まったく俺というのは罪な奴だ」
 聞けば木彫りで作るらしい。
「等身大だからな。結構な集中力がいる。フ。俺は俺の持てる芸術的感性を総てつぎ込むつもりだ。傑作を作る」
「確かに舞台にあると派手でいい。アクションも映える」
「そうだろうセーラー服美少女戦士」
「机や本棚だけじゃ物足りないと思っていたしな」
「だろう?」
「こういうのが壊れるとお客もきっと喜ぶだろう。任せてくれ」
 斗貴子は無感動に頷き──…
 総角は目を点にした。
 大道具たちの喧騒が2人をすり抜けた。遠くから季節外れの「石焼〜きイモー」が響いた。
 音楽隊リーダーはちょっと唇を動かしたが、動揺しているせいか、うまく笑いに固着せず無感情へと崩れた。それをどう
にか微苦笑へとまとめ上げ辛うじて呟く。
「えーとだ。あの、そもそもこの像、壊すためじゃなく観賞用に作るのだが?」
「他はともかく顔は精密に作ってくれ。舞台を転がったとき面白いからな」
「蹴るんだ!? サッカーボールのように吹き飛ばすんだ!!?」
 聞く耳持たずの斗貴子に軽い顔面崩壊を喫しながら叫ぶ総角。素らしい。ダダ漏れだった。
 その肩を秋水が叩く。援護を期待したのだろう。(あとスキンシップがちょっと嬉しかった)、振り向く総角。顔が輝く。
「総角。形ある物はいつか壊れるんだ」
「諦めろと!?」
 叫ぶ総角。斗貴子はちょっと俯き加減になった。瞳には逡巡の色。
「正直なところ私だって無闇な破壊は好まない。他の演劇部員たちはみんな頑張っているんだ。若宮千里や戦士長……
みんな自分の持ち場で一生懸命やっている。なのにそれらが結実する舞台上で私だけが私怨を晴らすなど到底許される
コトではないだろう」
「フ。じゃ、じゃあ何故俺の像を壊そうとするのかな」
「表情が腹立つからだ!!」
 イメージイラストを指差す斗貴子。秋水もそれを見て顔をしかめる。
 総角像はドヤ顔をしていた。
「フ。どうだこの俺らしい表情」
「だからこそ腹が立つし壊したいんだ!!!」
「……総角。君にもいろいろ原因があると思う」
「いいか!! 大事な像を壊されたくないのならせめて表情を変えろ!! ミロのビーナスとかみたいなの色々あるだろ!
彫像特有の白目剥いた無表情なら私だってココまで怒らない!! なんで像にまでしたり顔で見られなきゃいけないんだ!
こちとら気乗りしない演劇のため演劇の神様とかいう訳の分からない男の元で修業したりいろいろ苦労してるんだ!!!
それが特訓と並行だぞ!! この前の戦いの傷も完全には治ってないし正直かなり辛いんだ!!! そのうえ先々のコト
に頭悩ませてるから精神的にもいろいろ来ている! それで迎える本番中にどうしてお前のドヤ顔に『フ、非才ながらそれ
なりに頑張っているじゃないかセーラー服美少女戦士』みたいな馬鹿げた目線浴びせられなきゃいけないんだ!!」
「落ち着け。津村。落ち着くんだ。落ち着こう」
 やや蒼くなった秋水が手で制す。斗貴子はちょっと深呼吸した。もっとも流れは止まらない。
「いいか! とにかく私はもうかなりいっぱいいっぱいなんだ!! 戦士長や桜花たちがいなければとっくに潰れているか
暴走しているかってぐらいアレコレ抱えているんだ!! 総角の像のドヤ顔なんぞ見たら確実に本番お構いなしに暴れると
いう自信があるしむしろそうなる前に宣告しただけまだ有難いと思え!!」
 ぜえはあとまくしたてる斗貴子。大道具たちは何事かと視線を集中させたが
「短気なようでスゴい自制心だ」
「嫌いだけど最高傑作はなるべく壊したくないという優しさ」
「予めイヤな点を告げる。口調は乱暴だけど対話は放棄してないね彼女」
「そして生徒会長たちにも何やら感謝しているらしい。支えてくれてありがとうと」
 いい人だという結論で落ち着く。
「さあ親方はどう出る?」
「だ、だったら俺は本番中このコにシルバースキン着せるからな! 何が何でも守るからな!!」
「このコとか言いだした!!」
「いっさい譲歩するつもりなしだ!!」
「子供っぽい!! いやそこは譲ろうよ! 落とし所見つけようよ!!」
「どれだけ自分のドヤ顔好きなの!?」
「脅威! 灼熱のオヤカタあらわる!」
 口々に喚くギャラリーがひっと息をのみ黙ったのは、アメーバのように漂ってくる粘着質な紫の殺気ゆえだ。
「言っても分からない、か。そんなに自分像をブチ撒けられたいらしいな」
 斗貴子はとうとう目を三角にした。牙剥く口を同じ形のピースで埋め尽くして織りなすは修羅の表情。
「副会長止めて」
「止めて早く止めてーー」
 無責任な要請にうっと息を呑む秋水。傍観者だったのが急に当事者になった。もっとも先ほど九頭龍閃のすり抜け問題
を桜花ならばかくやあらんという流麗さで総角に丸投げし自身は傍観者に徹したのだ。その因果、ツケが回ってきたといえ
なくもない。。
「いや、俺が言って止まるような津村では……」
 言い淀むが、しかし、彼女が昨晩どころか数週間前から落胆を引きずっているのを知りぬいている以上、流石に全面支援
せざるを得ない。火に突っ込む仲間の消防士を止めるには羽交い絞めより消火がいい。総角へと向き直る。
「念のため自分像はやめた方がいいぞ。手もかけるな。君の技量なら、壊されても胸が痛まないレベルのものは10体近く
作れるだろうし、それだけいればだ、俺がこの理不尽にさせられた仲裁の怒りをぶつけたとしても、1つぐらい無事で済む」
「さらっと何言ってるの副会長!?」
「壊すんだ。そしてこの仲裁嫌なんだ」
 後半はともかく、前半において保険をかけろ。秋水はそういうのだが総角は止まらない。
「いーや!! そんなんしたらセーラー服美少女戦士に負けたみたいで気に入らない!」
「親方それダメなパターンです!」
「たーめ息交じりに練る♪ おかしな妄執のレーシーピーの中に♪」
「「「負けフラグ入っちゃった!」」」
 ギャラリーが呆れる中、総角は吠える。吼えるではなく吠える。弱そうだった。
「いいか! 自分像を1体だ! 最高傑作を作り、且つ、守る!! そうでもせねば俺の威厳は保たれまい!!」
 絶対これ壊されるし威厳もズタボロになる……秋水はそう思い説得を重ねたが、頑として聞き入れられない。

「絶対壊す!!」
「守り抜く!!」

 顔を突き合わせ睨み合う斗貴子と総角。

 果たして、木彫りの総角の運命や如何に!!


「というか予算大丈夫なのか? 現時点でも既にかなり使われているようだが……」
「……流石。そういう所は副会長らしいな」
 斗貴子は感心したように呻いた。あと総角を見るたび睨んでいる。
 秋水が部屋の一角を見ると、最低でも4つの新しい大道具の製造が始まっている。設計図を3人の生徒が囲んで何やら
協議したり、枠のようなものをいじくりながらもうちょい右とか少しずれてるとか確認しあう女子2人、角材にカンナを当てる
のは体格のいい角刈りの男子で、本棚作ろうという呱々の声もまた上がる。
「フ。材料費ならば心配ない」
「まさかお前……盗んだのか!」
「!! そうか! かつて総角は鐶を使い、避難壕複製に必要なヴィクトリアの髪を盗んだ。似たようなコトをしても不思議では」
「フ。待て。信用ないのは分かるが、せめて話を聞いてから疑ってくれないか。頭ごなしに否定されると結構傷つくんだが」
 声を落とす総角に秋水は思う。(むかし俺たちを好き放題手玉にとった君が悪い……) 自業自得である。
 総角はいう。
「一言でいえば俺の伝手だ」
 伝手? オウム返しに頷く斗貴子に彼はお馴染みのキザったらしい笑いを浮かべ瞑目した。
「10年もあちこち旅をしていれば「縁」というのが生まれる。街や村を共同体から救ったなんてコト、数えきれない程あるのさ。
中には何かあったら力になると連絡先を伝えてくれた人々もいる」
 秋水は理解した。
「つまりその中に製材業や林業に従事する者がいて、便宜を図って貰ったと」
「フ。ご明察」
 これぞ絆の力、人と人との温かな繋がりなのだと総角は言った。
 人脈は何物にも勝る財産であり、つまり俺たちの旅は無駄ではなかった。
 感涙さえ浮かべながら演説する総角を斗貴子はしばらく見つめ──…
 言い放つ。
「成程。要は恩を着せ、タカった訳だな」



 言葉が銛のように収束し胸を穿つ光景を秋水は生まれて初めて目撃した。
「お前そういう言い方をするか!!?」
 軽く涙を溜め叫ぶ親方に部下たちは思うのだ。
(ほら自分像の件で譲らないから)(津村先輩が毒吐くのも仕方ないよ)(今からでも遅くないから妥協しようよー)
 当初こそ、大道具なるモチベーションの上がらぬ作業の必要性を存分にとき、やりがいを発掘した総角に心酔していた
大道具たち。先ほど黄色い声がかかったのも見ても分かるように、金髪碧眼の自信に溢れた容貌は数多くの女子と一部の
ナヨっとした男子に好評嘖嘖(さくさく)、総角は大人気だった。
 しかし身から出た錆、残念な言動が飛び出すたび段々と「あ、ダメだわー。この人恋愛対象にならないわー」という目を向
けられ始めていた。もっともだからこそ一見完璧すぎるがゆえ敬遠していた生徒たちがこのあと、「助力してやるよ」と奮起し
想像以上の結果を残すのだが。それはある意味音楽隊のありようの再現だった。

「俺は、俺はだな! 割引されるのが結構辛かったんだぞ! 先方が命救われたから4割引きでいいっていうのを口八丁で
丸めこんで2.5割引とかわざわざこっちの損が多い条件設定したし、あと持っていいって言われた資材だって本当は19枚
全部貰っても足りないのに奥さんみたらいかにも臨月で数カ月以内に物入りになるの確実だ!! だったら『フ、3枚もあれ
ば十分ですよ』とかつかなくていいウソついて遠慮した俺は果たして恩を着せタカったと言えるのか!!?」
 親方お人好しすぎる……。大道具のそこかしこで微苦笑が浮かんだ。、
「あ、ああ。それは……その、なんだ。悪かったな」
 必死だわ普段と違いすぎるわ泣きギレされるわで流石の斗貴子も腕組みしつつ決まり悪げに謝罪する。
「この短期間で調達したというコトは、どれも近場だったのか?」
「フ。そこまで都合よくはいかないさ秋水。遠方の方が多い。ま、鐶に乗ればだいたい何とかなる」
 剣道部副部長は納得した。鳥型の彼女をナビすれば、例え方向音痴といえどどうにかなるし資材もイケる。
「そんなこんなで材料費は軽減した! むしろ損していないかって! 知るか! さっきのセーラー服美少女戦士の物言い
にムカっときたんでこれから昔弱み握った悪い連中強請りに行く!! フハハ! 俺の悲しみと損失を補填するがいいクズ
どもめ! 刃向ってもムダだからな! 刃向かってもムダだからな! だって相手……俺だぞ!! 負けるか! フハハ!!」
「八つ当たりか……」
「君……小さすぎる……」
 気炎を上げるやヘルメスドライブを起動し消え去る総角。呆れるほかない斗貴子と秋水である。

(というか津村!)
(!!)
 小声の秋水に斗貴子は気付く。生徒たちの視線のなか総角は空間を跳躍した。つまり武装錬金を使ったのだ。
 特訓用にと一時返却した核鉄をいまだ持っているのは、防人がいつもの如く便宜を図ったせいだ。そこはいい。
(マズい! 生徒たちに錬金術の存在を知らしめる訳には──…)
 振り返るまでの0.5秒で事後処理班への通報も含め8つの対応策を講じる斗貴子の鼓膜を呑気な声が爪弾いた。
「さすが親方。小札先輩直伝のマジックまた成功!」
「すごいよなー。木材切るとき日本刀とか、傘の骨に鎌ひっつけたヘンな武器とか出してるし」


「マジックとはいい方便だ。誤魔化す必要はないか。……ところで津村。立てるか?」
 盛大なズッコケから力なく立ち上がりながら頷く斗貴子。
「というかアイツ……人の武装錬金で何してくれてんだ!!」
 サンライトハートについては譲歩した癖にこうである。まったく天才の基準というのはよく分からない。




 暗黒騎士の部下その1、中ボスクラスの役を振られた鐶も防人のいる体育館へ向かう。
 道中、無銘と出会った。
「我は特効担当。龕灯でエフェクトをつけるのだ。だからやられ役たちとブラボーさんと話をした」
「そう……ですか……」
 ぼやーっとした表情でそれから2つ3つ演劇に対する雑談を交わすと話を変える。
 心配そうに軽く視線を外して、聞く。
「ご両親の……件…………聞きました。…………大丈夫…………でしょうか?」
 聖サンジェルマン病院で見かけたメガネナースが校内にいるのを不思議に思った鐶が声をかけると、先ほど無銘がされた
ような話が一通り聞かされた…………という情報を訥々と述べると無銘は「そうか」と腕組みをした。
「戦士である公算が高いらしい。父は釦押鵐目、母は幄瀬みくす」
 特に感慨はないらしい。忍びゆえに100%確証がない限り信じられないのか、それとも実の両親への思慕がないのか。
「半々だ。何より我にとっての両親は師父と母上をおいて他にはない。実感がそうなのだ。育てて頂いた恩がある。栴檀ども
が加入したころは確かに実の父母を求めていたがそれも当時の異形ゆえの揺らぎを満たしたいと願ったからだ。それを
師父と母上は収めてくれた。だから…………実感として」
「リーダーと小札さんが…………両親…………なのですね」
「無論だ。実の父母の復仇をしたい気持ちならあるが、そこに悲憤はない」
 頷くと無銘は少々申し訳なさそうな顔をした。
「…………貴様相手にこのテの話題はしたくない」
「私がお姉ちゃんに……お父さんとお母さんを殺されたから………ですか……?」
 諾も否も述べない少年は浅黒い肌に複雑な波濤を浮かべた。そういう部分が鐶は好ましく思っている。むしろ先に繊細な
部分に切り込んだのは鐶なのだ。なのに無銘はそこから連想される事柄、鐶の事情を汲んでどうしようかと迷っている。
「……大丈夫…………じゃありませんけど…………気持ちの整理はついてますし…………そこからどうすればいいかも……
無銘君に……教えて貰いましたから…………耐えられます…………」
 途切れがちな言葉にそれでも強い意志を込めると、無銘は「そうか」とだけ頷いた。心持ち嬉しそうだった。一度鐶が弱り
切った所を見ているから、色々心配で、それだけに乗り越える意志が見えると安心するのだろう。
「あと貴様は我を慰めようと両親の話題を切り出したつもりなのだろうが、そうはいかんぞ。我は貴様を守れる程度には
強いのだ。心配は無用なのだ!」
「はい…………無銘君は強い…………です」
 いいこいいこ。頭を撫でると犬少年は顔を真赤にして怒鳴ってそれから逃げて行った。

 まひろもまた体育館へ向かう。
 主人公の騎士の従者役を仰せつかったはいいが、アクションなどしたコトがないので参考にと足を運んだ。
 ……。 体育館には4つの入り口がある。
 そのうち校舎から直結しているのは東北である。まひろは校舎から歩いてきた。その一角の空き教室で、ヴィクトリアの正
体についての協議を秋水たちと重ねたあと演劇部の使う教室へいき従者を拝命したのだから当然だ。
 鐶は、総角と共に大道具の使う教室へ何度目かの資材搬入をこなした後、東北の入り口から体育館へ入った。
 同じく校舎から来るまひろが同じルートを通るのは原理からいって当然なのだが、しかし途中でまひろは足を曲げた。
(はっ! このまま何も考えず入ったら秋水先輩と鉢合わせちゃうかも!!)
 かといって東北の入り口で中を窺うのも少々マズい。何度もいうが、校舎への最短の道なのだ。副会長としての仕事が
突発で舞い込んだりしたら目も当てられない。まひろは急行する秋水と遭遇し気まずい思いをするだろう。
 のほほんとしている癖に、少女らしいというか、羞恥に対しては鋭敏なまひろは、普段ならば絶対使わない体育館への
ルートを取った。
 すなわち東北とは真逆の入り口。西南側から中を窺おうと決めたのだ。
(グラウンドから一番近いけど秋水先輩剣道部だし滅多にご用はないはず!)
 抜き足差し足で体育館を迂回する。やがて目当ての入り口が見えたとき、まひろは小首を傾げた。
(あれ? 誰かいる)
 一瞬秋水かと思って肝を冷やしたが、遠目からでも女性と分かるほどメリハリの効いた人物でだからひとまず一安心。
(制服着てない。先生?)
 普通は不審に思って距離をとるのだが、そこはよくも悪くも人見知りをしないまひろ。好奇心の方が勝って歩み寄る。
(こんにちはー)
 小声で呼びかけると、体育館のドアの隙間から中を覗いていた人物は露骨に肩をビクリとさせた。
 それからギギっとまひろを見る。
(わー。綺麗だー)
 一言でいえばお姫様だった。ふわふわとした乳白色のショートヘアーはウェーブが掛かっている。
 幻想的な雰囲気だが服装はパーカーにジーバンというラフな感じで、そのくせ出るところは出てウェストなどは女王蜂か
というぐらい細い。(桜花先輩よりもスタイルいいかも)。感心を込めてしげしげ眺めていると、その女性は困ったように
微笑んだ。

 といっても、『彼女』が笑い以外の表情を浮かべるのは、それこそ『憤怒』に駆られたときぐらいなのだが。
 

 リバース=イングラムというレティクルエレメンツの海王星の幹部は困っていた。

 人間だった頃の名前は玉城青空で、読んで字の如く鐶の親族……義姉である。
 先ほど彼女の話に上った両親殺害の犯人こそ彼女なのだ。

『波』(マレフィックネプチューン)という肩書きを持つほど強く、並みの共同体なら1人で殲滅するほどの力を有しているから、
別に人間のまひろ1人など力づくでどうとでもできるのだが、元来は温和でやや人見知り傾向の大人しい少女、『怒らない限り』
荒事は好まない。
 たおやかすぎて、一時期周囲が勝手に呼んでいた『泣くな吠えるなあばれ海』とかいう2つ名さえ自然消滅するぐらいなのだ。
 余談だが『波』という新たな敬称、彼女の伴侶たるブレイク=ハルベルトに言わせればこれほど彼女を表す単語はないと
いう。海なる王の星を示し、『音波』を源泉にもつ必中必殺の能力をも示唆し、静謐なる清楚と劇的な激甚の二面性の”波”を
も言い当てておりしかも言葉少ななリバースらしくひどく短い……というのがブレイクの太鼓判だが、本人的には割とどうで
もいい。「泣くな〜」がイヤなら何か自分で名乗れと言われたから適当につけた。それだけだ。

 悟っているのだ。自分の本質を伝えるのは言葉ではなく──…
 拳、だと。

 その辺りはともかく、リバースが困っているのは彼女曰く”少々やばい”現場を押さえられたからだ。
(困った。学校に不法侵入し光ちゃんを盗撮していたら、見つかっちゃった)
 少々やばいどころではない。明らかに犯罪であった。
 カメラは銀成デパートの家電量販店で2時間前購入。19万9800円するデジカメを一括払いである。
 ちなみに3万円安いデジカメの方が、あらゆる面で勝っていたのだが、店員さんとまったく話せない極めて重度のコミュ
症たるリバースだからそういう情報は得られない。「一番高ければ性能もいいはずよー!」とアホ毛をその名前っぽくフリフ
リして何も考えず買った。頭はいいが人との協同が絡むと途端に力押ししかできなくなり、カメラのような大損をぶっこく残
念なタイプだった。

 まひろはティッシュを差し出した。リバースは鼻血を垂らしていた。もちろん愛する義妹の姿に夢中だったからだ。
 やられ役を掌底で9mほどブっ飛ばしたり、防人の粉砕ブラボラッシュを回し受けで凌いだり、ハリボテ人形の頭部に接着
されたロン毛のカツラの一端を足の親指と人差し指でもって引っつかみ変則的なフランケンシュタイナーをかました挙句、
落ちてくる背中を膝蹴りで真っ二つにする光景の数々にリバースは、

(ああ。殴られたい…………)

 欲情していた。要するにぽんこつだった。

(強くなった光ちゃんにボコボコにされて色々伝えられたい……)

 へぁへぁと可愛らしく息せきながらどうしようもないコトを考える。それでいてかつて鐶が美姫として憧れた白い面頬はま
すます洗練されフッ素燐灰石のようなツルリとした艶かしさを放っているから始末が悪い。義妹に劣情を催し息を荒げ
鼻血を垂らしている救いようのない醜態すら難病に喘ぐ薄倖の美少女……なのである。まひろもそう捉えた。
(ある意味では難病だし喘いでいるし、薄倖で美少女なのだが、いろいろしょうもなかった)

 まひろはまったく物怖じしない。リバースが喋れないと悟るや身振り手振りで接触する。
(厳密にいえばリバース、喋れないのではなく、”喋らない”。乳児の頃ノドに負った障害のせいで大きな声こそ出せないが、
やろうと思えば最低限の会話はできる。そしてやろうと思わない)、

(うぅ。ヘンな人に捕まっちゃったよう)

 不法侵入の盗撮犯に言われる義理もないのだが、とにかくリバースは心の中で泣きべそをかいた。
 実父と義母を惨殺したあげく義妹が虚ろな目になるまで監禁した彼女こそヘンな人なのだが、あいにくまひろはそういう
事情を知らないし、知っていても秋水にしたよう贖罪の道を示さんとする掛け値なしのヘンな人なので、とにかく評価通りの
接触を続ける。

(てか私が黙る必要なかった! さっき挨拶したとき聞こえてたみたいだし!)
(やっと気付いた!)
 リバースは安堵する。笑うとまひろも一層親しみを覚えたのだろう。(ブラボー撮ってるの?)と聞いた。
(おー。このコ勘違いしてるみたいだねー。ブラボーさんは有名人だからソレ目当てだって思いこんだみたい。じゃあ乗りま
しょ。光ちゃん目当てだって知られると厄介だし)
 頷く。さらに画像データの中で防人が全面に──鐶の動きが早すぎて彼しか映せなかった”ハズレ”の──出ているもの
を選択し、見せる。まひろは信じたようだった。
(さて退散、と。長居したらこのコの性格上、ブラボーさんと引き合わせるでしょうね。そしたら光ちゃんと思わぬ再会をしちゃ
うもん。再会はひと段落ついてから)
 ニコっと笑ってから立ち上がり颯爽と去っていく……と見たのはまひろだけで、リバース的には
(というか怖い、怖い怖い怖い。いまブラボーさん呼ばれたら私めは見つかるのよ。呼ばないでね頼むから本当怖いの怖い
怖い怖い。ひいいいいい)
 いまにも走り出したいほどの恐怖に内心ガチガチ震えながら、極力疑われない早歩きで校門を出る。

 壁にさっと背を預ける。そして体育館の方を覗き込みたい衝動に駆られたが、そこを不審に思われると怖いので、ぴょん
と校門を横切って全身全霊の横目でさりげなく窺う。まひろが体育館に入っていくのが見えた。

(ホッ。追っ手はいないようね。良かった良かった。めでたしめでたしー。ぶいぶいっ)
 ほかほか笑顔でチョキを作りながら歩き出すと、横目に見覚えのある黒い影が映った。
「先から窺っておれば……なーにしとるんじゃ”りばーす”」
 頸板状筋が本日2度めのぎこちない回旋をする。声を掛けた人物をたっぷり3秒は見つめたリバース。慌てた手つきで
どこからかスケッチブックを取り出して、マジックペンも出して、しかし落としたので慌てて拾って、それからキャンバスの前で
10秒ほど考え込み、キュキュッ、何やら書いた。そして何度か見直しをするとスケッチブックの前後を入れ替えた。
『ぎゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!』
「遅いわっ」
 壁から剥がれたのは少女だった。高校の前で姉を待っている小学生のような背丈で、髪はすみれ色。ポニーテールの結
び目にかんざしをつけているのが古風だった。纏うのはシックだが品の良い黒ブレザーで短いスカートから覗く足には黒タ
イツ……に見える鎖帷子。
『イソゴちゃんごめんなさい。私めはつい誘惑に勝てず光ちゃんを盗撮していました! あの栗色の髪のコが話しかけて
くるまで人目がないのをいいコトに画面ごしに光ちゃんをぺろぺろしていました!! 拠点に戻ったら写真現像して焼いて
食べようと思ってました!!』
「ヌシ……義妹めと別れたころよりひどくなっておらんか?」
 カビ臭い口調を放ちながら胡乱下な目をする彼女の名はイオイソゴ=キシャク。鳩尾無銘が狙う仇の1人である。
 そんな彼女にひどいと評されたリバース、ニコニコしながら答える。スケッチブックに文字を書いて。
『だって約2年ぶりの光ちゃんなのよー! ナマ光ちゃんよ! 昨日デパートで画面をつけていない光ちゃんは見たらもう
いろいろ脳汁がドバドバでて昨晩は一睡もせず抱き枕くんかくんかしていましたですっ!!』
「おちつけ。語調がおかしい。
『でねっ! でねっ! 光ちゃんは天使だったの! 強いから力天使っていうのかなあ! 劇終わったあと芸能プロダクション
がこぞってスカウトしにきたらどうしようかしら!! もちろん光ちゃんの持つ銀嶺のような神々しいミラクル級の可愛さは
日本全国どころか宇宙全域に広がってしかるべきなんだけどそうなると私と殴り合って愛し合う時間がなくなるでしょ! でしょ!
だからどうしようって悩んでいるの!! きゃー!! でもコレって幸せな悩みぃー! 不幸自慢の皮かぶったノロケ><』
 イオイソゴは天を仰いだ。
「はぁ。どうしてこうも変な連中ばかりなんじゃ。調整役やらされるわしの身にもなれと」
 見た目こそ少女だが500年以上生きている老獪極まる忍者の肩にタテ線6本が掛かる。
『ところでクラちゃんの演劇の方どうなんですか? 銀成学園の演劇部はけっこう色々進めてますよー』
「フム。確か対決する手筈……じゃったな。早坂秋水めと津村斗貴子めは勝とうと色々画策しておるようじゃが、こちらは別
に勝てずともよい」
 リバースは無言でバンザイした。何度も何度も。鐶の勝ちが確定したのが嬉しいらしく『今夜はビフテキ!』とまで書いた。
「勝敗は問わん。問わんが……”まれふぃっくあーす”の候補を見つけるにはそれなりの対決をせねばならん」
『確かマレフィックアースってウィル君の恋人だったんですよねー』
 そうじゃ。イオイソゴは頷いた。
 校門の前を過ぎていく通行人たちは一瞬妙な顔つきをしたが、リバースがいつの間にやらハンディカメラ(デジカメとは別に
購入していた)を持っているのに気付くと、「劇かレポート? スケブはカンペ?」と半信半疑ながら納得し目を外す。

「うぃるめが遠き過去……いや、未来かの? とにかく奴の時系列においてむかし愛した『勢号始』……この世の閾識下を
流れる巨大な闘争本能の具現を降ろし、かつ再動させるに相応しい候補。いわゆる寄り代を見つけねばならん」
『リヴォ君も一枚噛んでて作った私めは鼻タカダカなのです!』
「わしへの……皮肉かぁー!! わしは鼻低いの気にしてるのに!!」
 涙を溜めながら両手を挙げて猛抗議するイオイソゴ。しかしペロペロキャンディーを貰うと満面の笑みになった。
「わーい飴じゃ飴じゃ!! わーい!!」
(チョロっ! イオちゃんチョロっ!)
 リバースが呆れるなか、幼い老婆は飴を平らげ唇をぺろりと舐めまわすと会話再会。
「とにかくじゃ。最後の幹部たる”まれふぃっくあーす”の復活は急務。きたる大決戦において我らが勝つにはきゃつを蘇らせる
ほか生き残る目はない」
『けど、人間の身で降ろせるのイオちゃん? あ、敬語めんどいのでフランクに行くわよ』
「む?」
『だってマレフィックアースって、すごく強い代わり、肉体への負担もすごいんでしょ?』
「そう、じゃな。わしらの中で唯一降ろせる盟主様ですら1分が限度」
『最近ではディプレスさんが適合する兆候を見せてるけどー、それでも最高28秒…………1年に10秒延ばせれば奇跡っ
ていうペースなのよね』
 じゃな。イオイソゴが手を差し出しと慣れた様子でリバース、チロルチョコを3つ握らせた。
 ついでに歩き出す。さすがに偶然鐶と出逢ったらまずいと判断したのだろう。イオイソゴはついていく。

 手近なビルの屋上で、2人のやり取り、続く。

「勢号始というのは頤使者(ごーれむ)での。その体は特別製……というのは以前話したな?」
『ええ。まずパピヨニウムでしょ。それから小札ちゃんのお兄さん、めっちゃ強いと評判のアオフさんの血のしみ込んだ土に
それから、王の大乱とかいうでっかい争いで死んじゃった、約30億8917万人の怒りや悲しみ、絶望や怨嗟といったドス黒
い感情が主成分なのよねー』
「ひひっ。りばーすめの必中必殺能力もその黔(けん)極まる感情、恨みがましき負の声を使っておるがそれはあれよ、湯屋
の風呂釜より、ひしゃく一杯の水をちょいとばかし拝借し敵に浴びせているにすぎん」
『勢号ちゃんの体はアレよね。ダム。ギネス級に大規模なダム。しょーじきかなり強いと自負してる私めの能力でも勝てる気
がしないわ』
「何せ堤が未知なる金属とわしが知悉する限り最強の”あおふ”めの遺伝子情報の混合じゃからの。並みの人間なら斃死確実
の必中必殺能力とて、ひひ、手をば焼こうという物じゃ」
『それだけ強い体でさえ、97年しか稼働しなかった。勢号ちゃんの完全な依り代とはならなかった』
「れてぃくる最強の盟主様でさえ1分少々しか持たぬのは必然よ。分解能力を持つ”でぃぷれす”が、『憑依に伴う肉体崩壊
という事象そのもの』を分解するという、いささか概念的、茫漠たる試みをしてなお28秒しか持たぬのじゃから、まあ、他の
ホムンクルスでは降ろした瞬間消滅よ。わしやヌシを含めてな」
 ヴィクターでも無理ですか? スケッチブックに頷く少女。
「他の存在より生命を吸わねば立ちゆかんというのはまこと脆弱よ。ひひ。そも”まれふぃっくあーす”を支えるには原子力発電所
が百基単位でいるからの。それだけの”えねるぎー”を自家生産できぬものが降ろそうと試みたところで無駄なこと」
 人目がなくなったせいか、稚い老媼の口ぶりは次第に時代がかっていく。本質、らしかった。
「破壊ないしは分解について並々ならぬ執着をもつ侶儔(りょちゅう。仲間)2名なら浸食に抗い同調もできようが”ヴぃくたー”め
には斯様な執心があるかどうか。奴は死にたがっておるようじゃったからの。呆気なく生を手放しかねぬ危うさがある」
 なによりいま彼は月にいるのだ。候補にするのは現実的ではないとイオイソゴはいう。
『なのにウィル君やリヴォ君……銀成学園の生徒の中に器がいるって騒ぐのよねー』
「ひひっ。まっこと奇怪ぞ。次元俯瞰、禁断の7色目のわざを持つ小札めではなく、ただなる生徒に強大きわまる”まれふぃっく
あーす”…………如何な条件適合によって一致をみるか想像もつかんがそれはそれ。忍びである以上、拝命はただ果たすのみ」

『いまのところの最有力候補は……』
 ヴィクターの娘、ヴィクトリアだとイオイソゴは頷いた。


「彼奴が眼鏡に叶うか否かは別として、嘗(こころ)みるは捕らえるは先……。まずは演劇に多少細工をば施そうぞ。ひひっ」


 銀成学園。教室。

 廊下に面するドアから何やら面妖な白い煙が流れ込む。
 チロチロと蛇の舌のように揺れ動くその煙は、教室のほぼ中央で台本をチェックしていた千里の肩に触れた。

 数度息をした彼女は、つまり煙を吸った彼女の顎がかくりと跳ねた。

 急激な眠気。平素なら明らかに異常な現象だが千里は疑わない。徹夜の反動だろう。微かにそう思いながら身を丸め
机に突っ伏す。

 シャープペンシルが1本、木の床に落ちてバウンドした。 

 その先で教室のドアが開き、小柄なすみれ髪のポニーテール少女が歩み寄る。

 くずおれた千里の下敷きになる台本はしかし……垂直に落ちた。
 それまで机上に総ての面積を預けていた筈の台本が、表面の板はおろか教科書を入れる金属板の空洞をもすり抜けた
のだ。しかも恐るべきことに、台本は落ちゆく中で、花が秘するよう机の下でぴっとりと密着していた太ももさえスカートごと
貫通した。なおも落ちる台本。その端が接する椅子のパイプを見よ。落下軌道に沿って焼きゴテを当てた飴のようにジワリ
ジワリと溶けているではないか。そのくせ折れもせず曲がりもしないのだ。若宮千里は代わりなく腰掛けており甘やかな息を
吐きながら突っ伏す体には微塵の動揺もない──。真鍮の柱のうち台本が通り過ぎた部分もまた復元する。水滴のついた
部分は光の屈折により実態より大きくそして歪んで見えるというが変質は明らかにその曲率を超えている! 台本の辺は
明らかにパイプの中ほどまでめり込み、かつ、どろどろと泥のような流体運動を起こしている! ああ、ここ銀成学園の一角
にこの世のものならざる幻妖の光景が展開した!

 そして微かに覗くふくらはぎさえ肌色の水を櫂でなめすように鮮やかに蹴立てここに台本は床へ落ちた!

 何という怪奇! 端倪すべからざる魔神のわざ!

「忍法・蝋涙鬼もどき──」

 うっとりと呟いた少女……イオイソゴ=キシャクの手めがけ飛ぶものがあった。
 それは机や千里の至るところか水面を跳ね上げるよう飛んだ黒い粒で、ドングリにも似ていた。

 数を数え、そして床を見たくの一は満足げに頷く。

 やがて床の台本に手を伸ばし。そして──…



 パピヨンの研究が忙しいので、変わりにヴィクトリアが演劇部を見るコトに。

「ヒロイン役はロバ型ね。ちゃんとやってるかしら」

 教室のドアを開けると向こうから眩い光が差し込んだ。灼かれた目を横手でかばうヴィクトリア。光がやんだ。霞んだ目から
手を剥がし恐る恐る中を見ると……

「ご機嫌麗しゅう。助監督さま」

 お姫様がいた。ロングのスカートの裾をつまんで上げて深々とお礼をする気品溢れる姫がいた。

「誰よアナタ」
「小札さんだけど……」。ギャラリーの呟きにヴィクトリア、驚愕。


「だって……拝命した以上懸命にやらねばならぬ訳で…………」

 素に戻った小札は両目を戯画的に楕円へ潰しえぐえぐ泣いた。
「呆れた。まだナレーションに執着してるの?」
 聞くが返事はこない。見れば藁を両手で掴みポリポリ齧っているではないか。
「なにか?」
 なんでもないという他ない。つくづくマイペースな少女だった。

「と言うかなんでちゃんとお姫様できるのよ。普段あれだけ騒がしいのに」
「え、ええと。その」。小札はちょっと目を泳がせた。が、やがて意を決したように居住まいを正す。
「実を申せば不肖、むかしはひどく内向的でして……」
「は?」
 意外すぎるあまり些か恫喝的な反問的が飛び出した。ロバ少女は肩を震わせた。
「ええとですね。あまりにビクビクしておりましたゆえ、もりもりさんから「得意の実況するよう喋れ」と仰せつかりまして」
「待ちなさいよ。じゃあ気弱なときから実況得意だった訳?」
「言葉を高速で発するのと堂々たる会話は似ているようで違うのです……」
 ヴィクトリアはボクシングを想像した。サンドバック相手なら好きに打ちのめせる選手が必ずしも相手選手と上手く打ち合
えるとは限らない。
「じゃあ……まさかとは思うけど、お姫様キャラの方が”素”だったり……?」
「れ、礼儀作法につきましてはお家(いえ)の方で厳しく躾けられておりましたし…………」
 おずおずという小札だがヴィクトリアにはひどい驚きをもたらした。
「なにアナタ。ひょっとして良家の令嬢?」
「良家といいますか、錬金術的には由緒正しい家柄でして」
 少し小札の顔が曇った。あまり聞かれたくないらしい。
「ちなみに当時は巫女服でした」
「そこは聞いてないわ」
 といいつつも「似合いそう……」と思うヴィクトリアだった。境内を箒で掃いている巫女服小札。嵌っていた。

「ほ、本心本質がどうあれ、勢いでどうにかできるものなのです! つまりは!!」
 あたふたと言い繕う音楽隊の賑やかしに演劇部監督代行は「耳が早いわね」、皮肉交じりの冷笑を浮かべた。
「正体バラしてもやりようはやる……慰めているつもり? 生意気ね」
「とととととんでもありませぬ、参考までにと申し上げただけでして……」
 ガタガタ震えるスーパーデフォルメにヴィクトリアは嘆息した。
「やっぱり千里や沙織との件、知ってるようね。いえ、ネコ型経由の情報から予測した……というべきかしら?」
 小札はコクコク頷き、「困難もありましょうがヴィクトリアどのなら大丈夫かと!」、いつもの調子で景気よく笑った。
(……)
 少しだけ心が動いたが、不安はつきない。
(話したのはあくまで私がホムンクルスってトコだけ。なった経緯こそ含めたけど)
 千里にかつて食人衝動を催したコトだけは伏せている。黒い事実がまだあると告げ期限のさだめのない話す約束
を取り付けたが、明かすのはまだ怖い。
 千里も沙織も信じている。人を殺したくないから母親のクローンの肉をずっと食べ続けてきたという背景は、悲劇的で、
だから母に似た千里を食べたくなった事実もまた慰められるに十分だ。しかも現に襲ってはいない。友情が続き10年
経てば「実はあのとき叩こうと思った」レベルの笑い話で済ませられるだろう。
 けれど信じているからこそ、予想外の、しかし当たり前の反応をされた時が……怖いのだ。
 友人を食べようとした怪物として突き放されたら、母親に似ている千里に見放されたら、やっと来れた暖かな地上から
凍えた地下へ突き落とされ、そして二度と立ち上がれなくなりそうで……ただ怖い。

 もしそうなれば千里を憎み……敵対するだろう。
 敵対すれば秋水やまひろのみならず、人間総て憎悪しかねないとヴィクトリアは恐れている。
『ヴィクターの娘』として、『地球に多大な害悪を振りまきたい何者か』と手を組み、錬金戦団相手に大反乱を起こす絶望的な
未来さえ幻視できた。

 現実に戻る。小札の澄んだ目が2つすぐ傍に浮かんでいる。
 彼女は無心に信じているようだった。
 ホムンクルスでありながら災禍を撒くコトなくおよそ10年過ごしてきた音楽隊。
 それに属しているからこそ、人ならざる者でも正しくあれると信じているようだった。


(……そうね。この期に及んでおかしなコトをすれば、このホムンクルスたちより下ってコトになるじゃないの)


 ホムンクルスへの憎悪はまだ溶けない。存在していなければヴィクトリアの父は大戦士にならず妻ごと過酷な運命に巻き
込まれなかっただろう。だから自分を直接怪物にした錬金戦団と同じぐらい憎んでいる。
 だが、嫌ってやまない存在の中にも、ヴィクトリアの仮想的より些かな真っ当な存在がいるとなれば、それはもう超えるし
かないだろう。嫌っているからこそ、それより劣るのは我慢ならない。

 ……そんな題目に好感という感情を押し込めてヴィクトリアは己を鼓舞する。


「基本的に演技は実況の応用……なのです!!」
 言い放つや姫の顔になりたおやかなセリフを吐く小札。文句のつけようのない演技だった。
「癪だけどすごい順応性ね。褒めてあげるわ。日本には声だけで俳優をする職業があるらしいけど、アナタはソレ向きね」
 ギャラリーから何かして欲しいという声があがる。
「スレてやさぐれた感じの女の人やってください!!」
 提案にヴィクトリア、「それは無理だよー」とか応じつつ内心馬鹿かと鼻を鳴らした。
(ロバ型の声はなんだかホワホワしてるのよ。毒気がないし弱気だし無理よ流石に)
「あんたさあ、急にそんなリクエストして応じられると思ってる訳? だとしたら信じらんないマヌケぶりね。はぁ。頭痛いわ」
「!?」
 頭へ気だるそうに手を添える小札にヴィクトリア驚愕。ギャラリーからは喝采。迷いなき覚悟に喝采を。

「……アナタ演技の幅広すぎるわ」
 感嘆混じりの呆れを伝えると、「とんでもない」。小札は両掌をぱたぱたした。
「子孫どのの真似をばしただけでありまして……」
「はい?」
 問い返すとロバ型少女は「しまった!」という顔をした。
「な!! なんでもありませぬ!」
 タイミングよく演劇部員から何やら指示がきて小札はそちらにピュローっとすっ飛んだ。
 取り残されたヴィクトリアは思う。小札が先ほど漏らした言葉の意味を。

 彼女は、確かに、言っていた。


(……子孫?)


 謎めいた言葉を、さりげなく。

(『子孫』? あの犬型……じゃないわよね。話に聞く限り義理の子供だし、第一さっきロバ型が披露した口調と噛み合わない。
だいたい子孫って言葉は、そうよ。正にそう。アイツと……)

 パピヨンと、Dr.バタフライぐらい隔絶した世代間に用いられるべき言葉だ。

(それを使うって……どういうコトなの? あのロバ型、もしかして未来が分かるの?)

 考えても結論は出ない。いっそ小札に聞こうかと身を乗り出した瞬間、大道具の演劇部員が駆け込んできた。
 親方……総角がいないし連絡がつかないのでちょっと監督してくれないかという要請だ。

(あの馬鹿リーダー)

 思考を中断された苛立ちを、かねてよりの嫌悪感に混ぜながらヴィクトリア急行。




「メチャクチャ作ってるわね……」
 部屋に着くとヴィクトリアは猫かぶりも忘れて唸った。
 そこは第4会議室という広い部屋だった。少子化の影響で空いた教室2つを壁くりぬき合体させた……とは監督代行た
るヴィクトリアが使用許諾の手ほどきをする桜花から得た情報だ。会議室とあるが実際はレクリエーション専門である。新
入生を集め銀成学園について説明したり、進学希望の生徒達のため、外部から専門学校や大学の担当者を招きディスカッ
ションを行う。そのほか英語検定などの各種資格試験の会場になるコトもたまにある。

 それだけ広い部屋のおよそ半分が大道具……家具や調度品に埋め尽くされているのだからヴィクトリアの感嘆、全く以て
やむなしだ。家具工房というより夢の島ね、ちょっと毒のある比喩も浮かんだが製作陣の手前それは言わない。

「すみません。親方が「いいぞ! これもいい! フ!」と褒めてくるもんだからノっちゃって」
 大道具の1人が困ったように頬をかいた。ただ顔はひどく明るい。おいしいお菓子をつい食べ過ぎてしまった子供のような
顔つきだ。生きてきた年月だけいえば高校生など孫かひ孫のヴィクトリアだから、つい釣り込まれて笑ってしまった。
「いっぱいあるに越したコトはないよ。で、私は何をすればいいのかな」
 ニコニコと笑いながら間延びした声をあげる。忘れられがちだが対外的にはそれで通しているのがヴィクトリアだ。


 仰せつかったのは細々とした世界観とのすり合わせだ。いざやってみると中々サジ加減の難しい作業である。監督代行
だから鶴の一声など幾らでも放てるのだが、それをやると現場責任者の総角やトップたるパピヨンとの齟齬が出てくる。
 組織にとって大事なのは連携なのだ。
 100年前ヴィクトリアは、自分を人質にした共同体が「数ばかり頼りにした結果」、なおヴィクターに蹴散らされるのを見た。
 戦団のお粗末な対応もまた『身を以て』知っている。無関係なヴィクトリアを怪物にするような、自浄作用のない組織、腐
敗を喰いとめるシステムのない集まりに個々の協力などあろう筈がない。だから問題を先送りにし、結果最近、1世紀越し
のツケを払わされた。
(何トカっていう霊獣が病気を撒いた時もそう。本部への感染を恐れるあまり一部の幹部が無理やりな封鎖作戦を取り……
派遣した戦士たちの暴走を招いた。病気で死んだ人より戦士に殺された人の方が多いっていうんだから……笑えない。ちゃ
んと一枚岩なら、反対派がすぐ暴走を止められるほど『連携』のある組織なら…………パパも私も感染の被害者たちも、
無残な目には合わなかった)
 ヴィクトリアは戦団が嫌いだ。ゆえに音楽隊に催した反発がここでも起こる。
 勝手な行動を慎み、システマテックな調和を目指す。
 仰せつかった世界観とのすり合わせに……明確な方針、背骨を生みだす。

(とりあえず分類しましょう。私が対処しても問題ない部分……欧米文化に沿っているかどうかのチェックぐらいならやって
いいわね。本場で育っている以上、いずれは意見を求められる。知識は少し古いけど、舞台は中世、むしろ新しいぐらい)

 さらにそれ以外を「大道具の領分」と「監督の美的感覚」に分ける。

(前者はアレね。総角主税への嫌がらせをまず考える。やれば大道具担当として非常に迷惑するコト……方針が根底から
壊れそうな意見や理不尽な縛りを考える。考えた上でそれを避ける)

 もちろん善意ではない。「忙しいのにアナタが不在で迷惑した、しかし領分は侵さず対処した」と恩を着せ毒を吐くためだ。
 それでいて演劇部全体の活動の妨げにならないのだから楽である。
(後者……パピヨンの好みについてはだいたい分かってる。食い違っていそうな箇所を簡潔にまとめてレポート提出。写真
さえあれば説明文は最低限で済むでしょう)

 文章の按分すら考えるヴィクトリアである。明らかにパピヨンが顔をしかめそうな部分には言葉を裂き、問題なさそうだが
念のため……という物については写真の該当箇所に赤丸を振ろう、簡潔にしよう、そう決める。

「えらく慣れていますね……」

 大道具の女子が感心したように呟いた。

「んー。普段やってるコトの影響かな」

 白い核鉄の精製絡みでいろいろレポートを上げさせられている。最初のころは提出物を骨のように細長い指でパンパン
はたかれながら、やれ長いだの分かり辛いだのアレコレ言われた。ゆえに熟考を重ねるうち、情報の取り扱いがすっかり
うまくなったヴィクトリアだ。

(認めたくないけど。これもアイツのお陰……かな)

 頬を淡いピンクに染めながら瞳を潤ませる。厳しいがついていけば向上をもたらしてくれる美しい蝶を思うと心臓がトクトク
高鳴った。


「ところで監督代行、鈴鹿サーキットで色々問題に対処していませんでしたか?」
「マジ。じゃあ能力高いのも納得だ」
「ブラボーは鈴鹿市の市長っぽいよな」

「な、なんの話〜」
 苦笑する他ないヴィクトリア。遊園地? まったく心当たりがなかった。



「フ。他行中迷惑をかけたな」
「拭きなさいよ!!」

 やがて帰ってきた総角は返り血だらけだったので、取り敢えず、叫ぶ。


 着替えた彼はヴィクトリアの残した仕事をてきぱきと処理した。パピヨンとの協議が必要な問題については直接話合うと
いうコトに決定。留守中生じた問題を大道具たちから吸い上げると方針を遅滞なく指示。ヴィクトリアと共に部屋を出る。

「留守にするのは勝手だけどケータイぐらい出なさいよ」
 部屋を出るなり毒のある声をぶつける。音楽隊の首魁は予期していたらしく「すまない」と笑った。
「フ。予算確保のため悪党どもを甚振っていてな。まさか叫喚の向こうで打ち合わせる訳にもいくまい」
「メールの返信ぐらいできそうだけど? 人の武装錬金を盗めるぐらい器用なんだし、できるでしょう?」
 さりげなくアンダーグランドサーチライトの件を皮肉るが、柳に風、総角主税は飄々と謝り言葉を継ぐ。
「フ。学校の部活動だからな。火急の用はまずないさ。それに……俺が不在でも監督代行どのはしっかり仕事をしてくれる
と信じていた」
「何ソレ。丸投げじゃない」
 憤然としながら大股で一歩踏み出すヴィクトリア。一瞬よぎったこそばゆい感情を誤魔化すためだが金髪サイドポニーの
美丈夫に見抜かれているようできまりが悪い。
「言っておくけど」「ん?」。切り出しへの返答の合間を運動場からの掛け声が縫って行く。ランニング、だろうか。イチにっ
イチにっというリズミカルな声が廊下に軽く木霊した。
 それが3つ増えたのを合図にヴィクトリアは歩みを止め振り返る。目は鋭くそして冷たい。
「例のアナタの似ているとかいう知り合いのコトなら聞いてもムダよ。私だってもうほとんど覚えちゃいないんだから」
「フ。何が飛び出てくるかと思えばそういうコトか。心配には及ばんさ。奴への道筋ならば既についている」
 もはや過去に拘る必要はない、時は未来に向かって進むのみ……大道具の親方の癖に主演男優じみた大仰な身ぶり
手ぶりを交えつつ朗々と述べる総角にヴィクトリアの不快指数とコメカミの怒りマークはぐんぐん増える。戦士たちが何やら
大がかりな作戦に備えているのは知っている。捕らえられた音楽隊がわざわざ戻ってきて共同戦線を張る以上、総角のいう
自分そっくりの男が敵なのだろうと察しも付く。しかし尊大な物言いよ。まひろでさえ状況説明に対する誠意はある。ただ遺憾
ながらその誠意は一般的なものとあまりにズレており、だから時々ヴィクトリアの眉をしかめさせてしまうのだが、十元連立
かつ非線形偏微分な重力場の方程式でも解くつもりで挑めば何とか理解できるし嫌悪も消える。なにせスカラー曲率だの
計量テンソルだのを含む難解なまひろ方程式は向こうから一生懸命、心を砕いて説明するのだ。そのうえ解がいつだって
誠意と分かっていれば解くモチベーションも湧こうというものだ。
 総角はいじわる問題だ。正答を見せまいとする韜晦の徒だ。彼ぐらいの難物と言えばもはやパピヨンぐらいしかいないが
彼は基本、本心剥き出しだ。伝えたくないコトは「伝える必要なし!」と真向から言ってのける。総角のような一種フニャフニャ
した物言いは絶対しないし腹が立つ。
 だいたいむかし情報提供を求めたのだから、それなりの説明をしろ……。
 というコトを言うと少しズンとした物を感じたのか、普段の余裕が若干崩れた。
「フ。というが、素の俺も色々アレだぞ?」
「聞いてるわ。大道具の人たちから。津村斗貴子とやり合ったそうね。自分像? 随分いい趣味してるわね」
 更にヴィクトリアは言う。「気弱なロバ型に実況吹き込んだっていうけど、アナタのそれはスカした態度?」とも。
 総角は深く息を吐いた。
「フ。これも生き延びるための施策なのさ」
「ふぅん。態度の割に切羽詰まってる訳ね」
「そうだ。フ。10年前、音楽隊を立ち上げた俺は……決めた。仲間は絶対に失わないと。一団を率いる長である限りは、
揺らぎやすい己の本質は封印すると」
「あまりできていないような気がするけど」
「フ。自分でもそう思う。だがマシになった方なのさ」
 説明、か。俺そっくりの男の……。総角は息を吸うと語った。


「そう。アナタはクローン。あの男……メルスティーン=ブレイドのクローンなのね」
 話をまとめるとヴィクトリアは少し逡巡した。先ほどメルスティーンについては殆ど覚えていないといったが、かつて寄宿舎
前で総角と話した時から幾つか思いだした事項もある。言うべきか言うまいか悩み始めた彼女を総角は静かな微笑で見る。

(フ。俺は奴の名前までは言わなかったぞ? ま、貝のごとく口を閉じたがる者に無理強いはしないがな)


 とにかくヴィクトリアは話を聞く。
「奴は小札の兄……俺の親友が死ぬ原因を作った。決着はつけなければならない。それには組織が必要だ。作る以上は
俺が責任を持たなくてはならない」
「だからそういう態度? 正直好かれるとは思わないけど」
「フ。手厳しいな。だが組織を纏めるのと組織人に好かれるのは似ているようで違うのさ。嫌われようがタガがしまればそれ
でいい。組織人を守るのは結局のところ……タガ、だからな」
 分からぬヴィクトリアではない。不完全な組織がどれほど害悪を撒くか先ほど考えたではないか。もっともその”タガ”がヴィ
クター再殺という締め付けをしたと言えなくもないので、全面肯定はかねてよりの対総角感情も相まって難しい。
「音楽隊ってヘンな組織ね」
「フ。だが人に害悪をもたらす連中を集めた覚えはない。悲願を達するため人を殺めてはならないのさ。戦団に追撃され
我が身さえ保てなくなるし、そもそも復仇の名分さえ失う」
「分からなくはない……そう言ってあげるわ。私をこんな体にした戦士が誰かめがけ『仲間を殺された! よくも!』と熱を
吹いたらきっと許せないし邪魔もする」
 そうだろう。総角は頷いた。
「俺たちはつまるところ、負債を返したいだけなんだ」
「負債?」
「ああ。負債だ。鐶も無銘も、貴信も香美も、小札も俺も……世界に背負わされた莫大な負債を返したいだけなんだ」
「……」
 ここまで触れあってきた音楽隊たちを思い出す。誰もかれも瞳の奥底が悲しげだった。笑っていてもフザけていても、
どこか遠い昔を見ている気配がした。
 5倍速の老化。犬にされた屈辱。元の生活、別々の体。兄の復仇。親友への餞。
 運命との、決着。
「求むるはただの人間のただの普通。だがそれを得るには戦わなければならない。戦って勝ち取るほか道がないんだ。
怒りも不服も忘れ静かに暮らし天命を待つという選択もあるだろう。それもまた、ただの人間のただの普通と言えるだろう」
 だが…………総角は顔を下げる。拳に力が入る。
「諦め屈するのはどうしてもできない。俺たちだけが安らいでも意味がないんだ。歪んだ循環は断たれない。どこかでまた
新たな被害者を生むんだ。新たな被害者が加害者になるよう……産むんだ。そうやって連中は……俺の複製元率いるレ
ティクルエレメンツは、世界を、静かにしかし確実に壊していく。見逃せる訳がない」
 一度も得意げな、耳障りともいえる笑いを漏らさず音楽隊首魁は語り切った。
「それがアナタの本音ね」
「そうだ。そしてお前の知るメルスティーンの現在でもある」
 多くは語られなかったが、ヴィクトリアはハッキリと理解した。
(私にクローン技術を教え、ママともども一時期保護していたあの男は……)
 徒党を組み、総角たちのような被害者を生んでいる。そこさえ分かれば十分だった。
 吐息をつく。いま初めて総角がメルスティーンを呼んだコトに気付く。微かに強い語調、悟られているコトを悟る。
「アイツは賢者の石研究班の班長……ママの上司よ」
「フ」
 目礼をする総角めがけ情報を叩き込む。
「100年前、黒い核鉄を作った研究班。その班長だけど武装錬金の特性が特殊だから、試験的に戦士見習いもやってい
た。本人がそう言っていたから間違いないわ。それから……」
 3ヶ月弱だがヴィクトリアとアレキサンドリアを守っていたコト、日本に渡る手伝いもしたコト、クローン技術をヴィクトリアに
教えたコト……思いだせた限りの情報を伝えて行く。総角は静かに聞いていた。
 そして語りは記憶を呼び覚ます。
「……いま思いだしたコトも語っていいかしら」
 美丈夫は軽く笑い瞑目した。
「まず…………クローンだけど……確かアイツのは『記憶』までは引き継げなかった筈よ」
「フ。なるほどな。お前のクローンはアレキサンドリアどのの研究補助のため進化発展したもの……。彼女のネットワーク
を作るには記憶の引き継ぎが不可欠だからな」
 脳、という単語を避けるあたり最低限の礼儀は心得ているらしい。率直に書けば、アレキサンドリアは”脳”だけの存在
だった。無数の脳をつなぎ合わせネットワークを作り、白い核鉄精製に必要な演算能力を確保していた。
「記憶とはノウハウの蓄積……。同水準のアルゴリズムがなければいくら繋ぎ合わせても無駄だから」
「思考パターンの元となる記憶すら複製できるようお前は熟達したという訳だ。フ」
 ヴィクトリア独自の方法だと総角は褒めるが、当人は浮かない顔だ。
「けど、メルスティーンが記憶まで複製できなかったのは100年前の話よ? 今はどうなってるか……」
「フ。いいさ。いずれこの目で確かめる。他には?」
「他には──…」
 声が蘇る。清涼感があるがどこか凶を孕んだ声が。


──「マレフィックアース。ぼくは何年かかっても召喚する」

──「完全な、形で」

──「召喚には戦いが必要だ。肉体、精神、霊魂。それらが犇めき合う戦場こそ必要だ」

──「ぼくは『あの街』をそこに定める。ぼくにとっての『始まりの場所』、忌まわしきあの街を」


「…………」
 聞いたままを伝えると総角は少し黙り込んだ。
「あの街……。始まりの場所……。どこだ? 10年前の決戦の場所? いや──…」
 視線に気付いたのか彼はそこで言葉を切る。
「フ。すまない。伝えて貰っているにも関わらず時間をとるような真似をしたな」
「別にいいわよ。最後は……アイツの武装錬金について」
 総角の目が俄然真剣味を帯びた。ヴィクトリアが気押されるほどだった。武装錬金の弱点を期待したのだろう。それは戦
いに直結する要素、互いの勝敗を分かつ最高機密なのだ。総角ならずとも清聴は必至だろう。
「壊れる、みたいよ」
「フ?」
 結論から語るのは基本的に歓迎される行為だが、あまりに前置きがないと却って伝わりづらいとヴィクトリアは知った。
「20体ぐらいの共同体……それも全員武装錬金持ちから私たちを守っていた時のコトよ
「フム」
「14〜5体斃したかしら。アイツは突然武装錬金を使うのをやめて素手で戦い始めた」
「…………」
「最後の1人が10コほどの核鉄を持って逃げたあと、私、聞いたの。どうして途中から素手だったのかって」
「それで」
「アイツは答えたわ。『区別がなくなる』……って。意味はよく分からなかったけど」
「フ!」
 戸惑い気味に呟くヴィクトリアの前で総角は軽くガッツポーズをした。
「なによソレ。構えるとき「フ!」って少し気持ち悪いんだけど」
 ジト目向けられても勢いは止まらない。
「お前はいいコトを言った。それはきっと奴の弱点だ! 一見無敵な武装錬金だが、確かにな。『区別はなくなる』」
「……?」
「フ。少々取り乱したか。しかしお手柄だ。欠如ゆえ生まれた武装錬金は欠如ゆえに破られる……。奴の武装錬金は、破
壊衝動を満たすための産物なんだ。それは自壊をも含んでいる。ゆえに使えば使うほど、昂れば昂るほど、根源的な欲求
は己をも壊すんだ」
「じゃあ、『区別がなくなる』っていうのは、つまり」
「奴の武装錬金が、他者と自分を区別しなくなる……というコトだ」
「自分をも壊し始める…………そういう解釈でいいかしら」
 答えると総角は満足げに頷いた。「握手を求めたいがお前は嫌がるだろうから敢えてしない」とも言い、頭を下げた。
「いまの奴の特性は『合一』。相対する武装錬金特性と一体化し無効化する能力だが恐らくその根源は自他の区別なき
破壊衝動。本質は変わらない。奴が歪んだ循環を敷く以上変わらない。ならば」
「能力を限界まで引き出させれば」
「壊れる、だろうな。別を己とし、己を己とし、ウロボロスが如き果てしのない循環に巻き込まれ……壊れる」


 パピヨンが居ると聞いた部屋に行ったが蛻の殻。通りかかった生徒に聞くと1時間ほど前飛び立つのを見たという。


「携帯も通じない。いつものコトだけど」
「フ。番号を教えているのかパピヨンどのは」
 まだ居るし……。総角の存在に肩を落とす。
「落胆するコトはないだろう。フ。返礼代わりに俺とアレキサンドリアどのの関係を教えたというのに」
「旅の途中、女学院の奇怪なウワサを聞き付け侵入したところルリヲつけた生徒に捕捉されたってだけじゃない」
「フ。だがその”だけ”が重要なんだ。お陰で俺はルリヲヘッドをも……」
 いいから。強引に会話を打ち切る。
「フ。失敬。しかしお前、パピヨンどのに随分信頼されているんだな。着信を嫌う彼が教える……相当だ」
 信頼、という言葉に足が止まる。我ながらちょろいと反省した。どうも総角はパピヨンへの感情を見抜いているようで、だ
から耳障りのいい言葉で足止めしたのだろう。振りかえらず刺を投げる。
「アナタ私に何かさせるつもりでしょ」
「フ。ご明察。秋水絡みで助力を願いたいゆえ些か回りくどい阿諛(あゆ。おべっか)から始めたが……しかし本心でもある」
 信頼されていると聞けば、かねてより彼に想いを馳せているヴィクトリアだから悪い気持ちにはならない。ならないのだが、
総角から聞くのは何だか腹立たしいし屈辱だ。かといって頼みだけ聞くのも腹立たしい。
「……本当、性格悪いわね」
「フ。ならば秋水絡みの依頼を取り下げよう。その上でパピヨンどのへの指摘をも取り下げる。さればしこりも残るまい」
 軽く鼻で笑う。
「演劇部の監督代行を任せているのは信頼している証だ、委任しても見たいものが見れると踏んだから、彼は私を立てた
……でしょ?」
 手を当てた腰を曲げ意地悪く見上げるとたじろぐ気配が頭上でした。
「図星ね。言っておくけど私。それぐらい任された瞬間に気付いてたわよ」
 腰を伸ばし胸に平手を当てる。光沢のある金髪の房が揺れる様に、音楽隊のリーダーは脱力し笑う
「俺……最近いいトコないような気がするんだが」
「素がそうだから気取っているんでしょ? だからもっと情けなくしてあげる」

 得意気に薄い胸を逸らし笑う。いわゆるドヤ顔で言い放つ。

「早坂秋水の件、引き受けてあげるわ」


 ……………………。


 ヴィクトリアはこのあと、引き際を見極めるコトの大切さを知る。
 総角を見くびって追撃した愚を心から恥じる。


「昨日から、秋水とあのお嬢さんが少しばかりギクシャクしている。俺はそれを治したい。……フ」
「……。そうね。武藤まひろの方が意識して変になってる」
 先ほど正体の件で話した時もひどい有様だった。机1つ分離さないとダメなぐらい照れまくりだった。
「フ。お嬢さんの方が告白……じゃないな、推測だが、恋愛と取られかねないほど大きな好意を迂闊にも伝えたというところか」
(合ってる……)
「彼女は恐らく自分の気持ちがよく分からない。秋水を憎からず思っており感謝もしているが、しかし恋愛に発展させれば
武藤少年を失った津村斗貴子を差し置き一人良い思いをしてしまう。だから躊躇いがあるのだろう」
(合ってる!)
「しかも周囲もまた苦しんでいる。友人や後輩、戦士長どのに桜花たち……みな武藤カズキという存在の欠落に、日常の喪失に
等しく苦しんでいる。なのに自分だけが兄の代わりを見つけるのは、秋水を兄の代わりにしようというのは到底できない……
大方それだろ? 板挟みの右にいる好意の相方は」
(合ってる!? なによコイツどうして分かるの!? 盗聴!?)
 驚愕を隠しきれないヴィクトリアに総角は笑う。
「フ。盗聴じゃないさ。ただの経験談。なにしろ傍に同じ道を辿った奴が居るからな」


「ぴゃっくふ!!」


 台本を呼んでいる最中、小札零はくしゃみをした。洟をすすると不思議そうに周囲を見た。




「フ。本来ならその溝は少しずつ埋めるのが正しいが、しかし今は決戦前だ。日常にモヤモヤを残しては助かる秋水も助か
らん。ゆえにショック療法だ! 強引に治す! ここらで奴とお嬢さんの関係を正常化させる!!!」
「楽しそうね」
「フ。お前は気乗りしなそうだな」
 笑いかけられるとヴィクトリアは歯切れ悪そうに答えた。
「……別に。いっておくけど昨日相談は受けたし、困ったら話すよう伝えてもいるわよ。まったく協力しないつもりはないわ」
「だがそれ以上の積極攻勢に出れない理由……お前は恐らく気付いている!! フ!!」
「!!」
 俄かに活発になった総角にヴィクトリアは驚く。
「フ。ズバリ対抗馬の消滅!! お前はそれをしそうだから悩んでいる! 違うか!!」
「なにそのテンション……。まあ、……否定しても、どうせ暴くでしょうけど」
 痛いところを突かれたという顔で黙る。
「お前はパピヨンどのを憎からず思っている! だが彼はあのお嬢さんを憎からず思っている! なにしろ好敵手の妹だか
らな! 面影を見出し憎からず思うのは無理もない!」
「アナタの世界には憎からずが満ちてるのね……」
 妙な返ししかできないヴィクトリア、昨日の光景を思い返す。


──「私のせいで捻挫しちゃったんだよ。放ってなんかおけないよ……」

── 彼女を除く全員がほぼ同時に息を呑んだ。秋水はやや感嘆したらしい。パピヨンは黒い笑みを大いに浮かべた。
──(馬鹿ね。放っておく方がいい場合もあるのよ。今がそれ)
── なのに愚直にも助力を考えている。だがそのひた向きさはこの場の男どもの琴線に触れて仕方ないものらしい。
──(……羨ましいわね)
── パピヨンが異性の挙動に心くすぐられ笑っている。でもそれを成したのは自分ではない。まひろを見る。いかにも困惑の
──極みで自分は無力だという雰囲気にしょげかえっている。いまどれほどスゴいコトをしたかなどちっとも知らないのだろう。
──それがやれないコトに無念を覚える者がすぐ傍に居るとは、知らないのだろう。
──「…………」
── 自らの周囲だけ暗くなっていく錯覚。それがヴィクトリアを襲った。過去何度か味わった苦さ、結局何をやっても報われない
──のだという絶望的な感覚。やや形を変えたそれが肌を寒くしていく。
(──いつまで経っても進歩がないわね私。本当、嫌になる)


「つまりだ。フ。お前は秋水たちを応援したい! 恩人だからな当然だ! だが一方で彼らをくっつけるコトは、あのお嬢さんを
秋水に宛がうコトは、パピヨンどのが特段の感情を寄せる彼女を手の届かない場所にやるコトだと気付いてもいる!」
声も出せない。一般的にいえばそうと気付いて止まるのはひどく真っ当な部類なのだが、捻くれている割に妙なところで潔癖
な──さらに言えば屈折とは穢れへの抵抗なのだ。簡単に折り合えない部分があるからこそ歪んで見られる──潔癖なヴィク
トリアだからどうも自分を許せない。
「お前は要するに、上手く立ち回ってしまうのを恐れている!」
「……っ」
 言葉が刺さった瞬間ヴィクトリアは総角の真価……数多くの武装錬金の本質を直感で見抜き自らの物にしてきた鋭さに気付く。
(組織の長として粗が目立つから見くびっていたけど……洞察力については恐らく一流。いえ……超一流)
 そういえばと気付く。彼が預かる大道具たちを。ジャンケンで決まったせいで裏方作業を嫌悪していた彼らの心を瞬く間に掴み
目的を与え、やりがいを創出した手腕は驚嘆に値する。態度こそ鼻につくが、それでもたった6人で戦士たちを手玉に取れる精強
極まる共同体を作り上げたのは事実だ。心を掴み、能力を的確に伸ばすという点では紛れもなくリーダーだった。

 彼がいう「ヴィクトリアの恐れる上手い立ち回り」とは?
「フ。恩人たちの仲人になりつつ意中の男の気も散らす、だ。もちろん狙ってやる訳ではなく、恩人2人への恩返しが元だが、
やってしまうと余りに丸く収まりすぎる。だから、怖い」
 あまりにズケズケ言われ過ぎたのでヴィクトリアは真赤になった。腹が立つやら恥ずかしいやらだ。
「……だからこそ、フ。迷っている。応援という名分のもと、あの3人の意思を無視して利己的な行為を働こうとしているんじゃ
ないか……と」
「…………」。少し拳が震えた。「……だって」。軽く反応する総角。
「そういう感情があるって気付きながら、あの2人をひっつけようとして、けれど失敗したら最悪じゃない。あのコは能天気に
見えるけど傷つきやすいし、今だって十分に傷ついているの。早坂秋水だってそう。支えになる物を求めている」
 なのに強引に結び付けて破局したら? 2人は現時点より更に傷ついてしまう。ヴィクトリアはそう言った。
「それは恩義と敬意ゆえの悩みだと思うがな」
「……私的なものよ。ママだって、パパがいなくなってから寂しそうだった。パパもきっとそうよ。……。ええ。私はきっとあの
2人にパパとママを重ねている。仲良くする姿を見て、失った物を満たしている。だから……くっついて欲しいけど、引き裂
かれるのは見たくない。パパとママが戦団にされたのと同じコト…………あの2人にはしたくない……」
 総角は厳かに述べた。
「お前は結局、あの2人が好きなんだ。両親の代わりとしてじゃない。あの2人そのものが好きなんだ」
 頬に熱が点る。総角に言われるのは羞恥でしかない。
「自分の手で引き裂きたくないというのが何よりの証拠だ。お嬢さんに至ってはパピヨンどのさえ一段高い所に置いている。
だから彼女を傷つけるのはパピヨンどのの世界を傷つけるように思えて恐れている。だから……見守りたい。けれど同時
に…………応援したい」
「……。アナタ胡散臭いというか、ちょっとマインドコントロールされかかってる気分なんだけど?」
 なんだか心にネバっこい物が忍び寄ってきているようで辟易するヴィクトリアだ。そもそも彼女を使って秋水たちを取り持
たんとする総角なのだから、応援せよというのは当たり前だ。誰だって意のままになる考えは肯定する。しかしそういうイエス
マンほど不誠実で信じがたく、最悪の事態において何ら助力しない事実をヴィクトリアはこの100年でいろいろ見てきた。
「フ。そう捉えるのは思考力がある証拠さ。無理にとはいわない。まずは自分で考えればいい」
「というか、私の感情を見抜いてる癖に、破局するかもしれない応援に乗り出すつもりなの、アナタ」
「フ。第三文節だけは違うぞ? うまくいくと踏んだからやろうとしている」
 そこが総角とヴィクトリアの一番の違いらしい。ネガティブな彼女と違い、ポジティブだった。
(単におめでたいだけよ)
 吐き捨てるように思う。
「そもそもだ。フ。決断とは、重大事ほどスパっと処理できないものさ。リスクをさんざんと思い患い、不安に駆られ、何度も
現状の良さを思い返し、壊すコトを恐れ、正気を疑い、自らを低く見ながら尚、やらねば死ぬのだという焦燥に駆られながら
判をつき、怯え倒す」
「だからこそ口の上手い誰かさんに唆されて下すコトはありえない……私なら末尾にそう足すわ」
 ニヤリと笑うと総角も鏡映しになった。

 笑いだしたのはどちらが先か分からないが、肩を揺する時間はなかなか愉快だった。

 嫌いだし、受け入れるつもりもないが、油断ならないからこそ加減なく丁々発止ができる相手だと知る。
 見縊って追撃すべきではなく、偽計を疑いながらその間隙をつく算段練りつつ追うべき敵と…………知る。



「とにかくだ。パピヨンどのは武藤カズキに執心しているが、その妹に好意を寄せる確率は低いと思うぞ?」
「ひょっとしてまた分野別1位の席?」
 反問に総角の頬が綻ぶ。いつか交わした話題を覚えられていたのが嬉しいらしい。
「そうだな。彼はそこに代替物は置かない。置かないからこそ、お前と研究しているのさ」
(白い核鉄のコトまで見抜いてる……。もしかしたら、例の『もう1つの調整体』。白い核鉄の素体になると見越した上で……
渡した?)
 本題ではないため突っ込めないが、とにかく総角はいろいろ見透かしているようだ。
「フ。それにお前1人が損を背負い込むのが正解だとは限らん。むしろそれはそれであの3人の意思を無視した、利己的な
行為といえるだろう」
「詭弁ね」
「ああ詭弁さ。だが自己犠牲ともいえる。そしてその一見不正解に見える悪手すら全力でやってのける男こそが、パピヨンど
のの1つしかない分野別1位の席を占めている」
 暗に「お前はパピヨン好みだ」と言われヴィクトリアは目を逸らした。顔から熱は引きそうにない。
「大体だな。フ。いま、公私ともにパピヨンどのを支えているのはお前ただ1人だぞ? 研究のためとはいえ、本来一匹狼の彼
が追い出しもせず危害も加えず傍に置いているコト自体すでに脈アリだと俺は見ている」
 だからいちいち動揺する必要もないし、まひろに劣等感を抱く必要もない。彼は欲しいと念ずればすぐに手に入れるし、手に
入れるのならそれはもう「カズキの代わり」ではなく「まひろそのもの」として求めるのだ……と総角はいい
「だが手に入れちゃいない。つまりただの好敵手の妹として遇してるにすぎないのさ」
「本当、口が上手いわね……」
 総角はどうも見栄えが良すぎる。あちこち突っ込みどころがあるのに、端正な顔立ちで自信たっぷりに言われると、少女
らしい恋愛願望も相まって、つい信じてしまいそうになるヴィクトリアだ。これもまたリーダーの資質というべきか。論理的な
正しさより疑いようのない、一種ペテン師みたいな態度こそ人の心を動かすらしい。
「まぁいいわ。とりあえず武藤まひろに水だけ向けてみましょう。今のどっちつかずな態度は見ていて正直腹が立つし」
「フ。では俺も秋水のため協力しよう。友に春を呼んでやろう。フ。奴は作戦後おそらく春水になるだろう。フ」
「くだらない……」
 何をこの男はいうのだろうと呆れつつ作戦名:まひろ正常化作戦……スタート!



 早坂桜花、河井沙織、栴檀香美は従者の役に。
 従者といえばメイド服だろうという男子(総角含む)の熱い要望により衣装は急遽にそれに。

「私達は」
「バイト先で着てるからいいよね」
 というか借り物だし。桜花と沙織は呟きつつ着用。
(そーいやバイトしてたな)
 剛太は思い出す。いつぞや残党退治の件で訪れたメイドカフェを。
(あん時ゃ大変だった。やる夫社長とかいうのがディケイドっつー訳のわからんものに変身して……)
 結果、秋水ともども自分の武装錬金に変形した黒歴史は一刻も早く忘れたい思い出だ。
「んみゅ。ひらひらして動きづらい……」
 香美も着用。スカート丈がやたら短く胸元もかなり開いている。そのうえネコミミで尻尾もある。
 特筆すべきは足で、なんとガーターベルト着用だ。しかもグロック17のモデルガンを差し込んでいる。
 岡倉始め男性陣から万来の拍手が鳴り響いたのも無理はない。
「どうなのよこれ。垂れ目どうよ?」
「ヤロウどもにはウケてるしいいんじゃね」
 つっけんどんに答えながら視線を逸らす。内心穏やかではない剛太だ。
(畜生! この前の早坂桜花に続いてまた見とれかけた!!)
 一番の目当てはもちろん斗貴子だ。だが今のところ着用する気配がない。剛太は男泣きに泣いた。
「つーかさ。めーどって何さご主人!」
『男の夢だ!!』
「ブ厚いようで薄っぺらい答えだなオイ」
 貴信の断言にジト目を返す。

「香美さん。コレ着たら剛太クンを『ご主人さま』って呼ぶのよ?」
 嫣然と微笑む桜花に香美は渋い顔をした。
「なんでさ? 垂れ目は垂れ目じゃん。ご主人と……。んみゅ? ?? ん? んーみゅ?」
 大量の疑問符を浮かべ小首を傾げる香美。
「どうしたんですか香美先輩。なにかあるんですか?」
「どーせ大したコトじゃないだろ。コイツはいつもこーだし」
 剛太が呆れたように呟くと、香美は「よーわからんけど」と前置きして
「なんかハッキリせんけど、ご主人はご主人、垂れ目は垂れ目じゃん。おんなじよーな気もするけど別じゃん」
 しぶしぶという様子の彼女だが、桜花と沙織の粘り強い説得に応じ……ついにそのワードを、剛太に!!
「ご主人っ!」
 元気いっぱいに笑って八重歯を覗かすネコ系美少女。その破壊力は場に居た18名の桜花派を一瞬にして香美派に塗り
かえるほどだった。剛太における斗貴子換算でいうならホムンクルスの首を切り落とした返り血を濁った川の水で洗い流した
あとの軽く湿った産毛ほどに匹敵する。つまり彼は……不覚にもときめいた。
(だあああ!! しっかりしろ俺! 最近ヘンだぞ! 早坂桜花だのネコ型にいちいち揺らぎすぎだ! しっかりしろしっかり
しろ俺には斗貴子先輩しかいないんだしっかりしろ!!)
 手近な柱に頭をガンガンやる。
『難儀だ!!!』
 貴信的にはそこが好ましいのだがだからこそ積極的に香美を売り込めない訳でもどかしい。さりとてあっさり「香美さんは
任せて下さい!」とか言われたら逆に拒んでしまうだろう。保護者もまた難儀だった。

(『君は僕の未来だから』。……もう覚えてないかも知れないけど、ネコだったころのお前は一人ぼっちだった僕にとって、
……”未来”だったんだ。だから元の生活に戻してあげたいし、お婿さんだって用意して、それから……家族と仲良くのんびり
…………過ごして欲しい。過ごして、欲しいんだ)

 貴信と分かたれたとき、彼女がネコに戻るか人間の形のままいるかまだ分からない。
 いずれにせよ貴信は、香美が幸せになる道を用意してやりたいと心から誓った。

「あのさご主人」
 今度は貴信を呼ばったらしい。相槌を返すと香美は「あのさ!」と元気よく呟いた。

「やっぱ垂れ目はご主人じゃないわけよ。うん。ご主人はご主人だけじゃん!」

 いいコだなあもう!! 飼い主冥利につきるとばかり貴信も号泣。

「なんだって! 先輩が衣装合わせでメイド服を!!」
 情報筋(岡倉)から話を聞いた剛太は教室を飛び出した。
 彼が出たのは後ろの出口。入れ替わりに前の入り口から千里が入ってきた。
「後姿しか見えなかったけど、さっきの人なにをあんなに急いでいたの?」
 いろいろあるのよ。総てを包み込む菩薩のような笑顔の桜花に彼女は追及を諦める。
「というか……あの、私は脚本担当なんですが」
 メイド服を着ていた。清楚の体現だった。床すれすれのロングスカートに白い靴下。着慣れていない様子、仄かに上気し
た頬。生真面目な次期メイド長候補といった様子でこれまた男子達、湧く。
「実際に着てみるコトで台本にもリアリティが出るのよ?」
「そうだよ。それにちーちんさっき見に行ったら教室で眠り込んでたじゃない。気分転換も必要だよ
「もう書き上がっていますし気分転換ならもっと他の……。というかせめてヘッドドレスを」
「えー。リボン似合ってるよちーちん」
 ピンクの大きなリボンを頭頂部にでんとつけているのが地味目な少女にはかなり耐え難いらしい。

「メイド服より……パイロットスーツがいいの……ですが」
 惨禍はまだまだ続く。次の犠牲は、悪ノリした沙織がどこからか拾ってきた鐶。
 こちらはごく普通のミニスカート。足はいつもと違いストッキング着用。胸には緑のリボン。
 肩はフリフリ。キドニーダガー片手にぼーっと経っている。
「可愛らしい中にもそこはかとなく漂う野性味。悪くは……って何を語っておるのだ我は!」
 一番見せたい相手が照れたようにそっぽを向いたので鐶的には大満足。


 やや長めのスカート。白タイツ。控えめな胸にかかった何本ものチューブ。そしてヘッドドレスをつけるは……ガスマスク。
「どうしてソレ取らないのはーちゃん!!」
「嫌です恥ずかしい!!」
 沙織が抗議するように毒島はいろいろブチ壊しだった。


 小札はもう真赤だった。それほど短くもないスカートの後ろが捲くれていないか何度も何度も振り返っては確認した。足
には何もつけていない。裸足スタイルを提唱したのはもちろん鐶だが、ただでさえミニスカートを恥じて赤らんでいる小札が
裸足というのは何だかひどく背徳的だった。「いいな」「ああ、なんかいい」。男性陣から上がる声にますます赤くなるロバ少女。
「な、なんだかすーすーするのです」
「すーすーだってよ」「いいな」「ふだん長ズボンしか履いていないコのスカート姿ってのはいいもんだ」「すーすーかあ」。
「きゅううう」
 とうとう小札は目をレトロな少女ギャグマンガのごとくハイライト全開にして桜花に泣きつく。ギャラリーを指差す彼女の
いわんとするコトは1つだった。
「はいはい皆。あまり小札さんからかわない」
 さすが生徒会長とうべきか。群集がかもし出す一種卑猥な感想の囁きあいは一瞬で鎮圧された。
 しかし小札の涙は止まらない。
「首からネクタイっていうのが一番ショックなのであります……」
 桜花とおそろいだった。彼女のは服越しでも分かる豊かな谷間に挟み込まれていた。
 小札のはストン! ペラン! だった。絶壁と平行に吸い付いている。
「うぅう」
「フ! だがストンペランで平行に吸い付いているのは最高に、良いッ!!」
 どこからか現われた総角が叫ぶと男達は熱く頷いた。妙味とはそこであろう。


「というか私着替えてから仮眠取ります!!」
 よほど先ほどの教室で眠りこけたのが恥ずかしいのか──実際にはイオイソゴに無理やり眠らされただけなのだが──
千里は前のドアから脱出し走り去った。
 入れ替わりに後ろのドアが開いた。みなギクリとしてそこを見る。何か鬼気が感じられたのだ。地獄のように赤黒いオーラさえ
感じ取られた。鐶が無言でダガーを構え香美が背中を逆立てしゃーと鳴く中、それは来た。
「だから何度言えば分かる剛太! 写真なんか取るな! 恥ずかしい!!」
 メイド服が現われた。そのメイド服は赤かった。緋色のまだらが点々とついていた。
 そして物言わぬ剛太を引きずりながら教室に入ってきた。
「桜花ァ!!」
 生徒会長を見るなり鬼のような形相で吼えた斗貴子にギャラリーたち絶叫。沙織もビビり毒島も戦き香美もぎょひいと仰け反った。
「ダイゼンガー見参! ……です。むぐむぐ」
 鐶は無表情でドーナツを食べた。そして笑う桜花。
「あら津村さんお似合いじゃない」
 斗貴子だけはレトロなメイド服だった。襟元に巻いた紐を蝶々結びにし、細い肢体にぴったりなスマートな脳紺色のドレス
とエプロンを纏っている。手袋もしておりそれは純白で裾が三角形にギザギザと波打っている。白のロングソックスはこれま
た長いスカートの中へ伸びており肌の露出は皆無である。ヘッドドレスも三角の衣装があしらわ、王族のティアラのような高貴
さがある。
「くそう! こんなヒラヒラした物きてアクションができるか!!」
 目を三角にする斗貴子だが心配はひどく実利的だった。羞恥に基づいていない辺り彼女らしい。これに関しては男子も
賛否両論だ。羞恥こそ史上とするものと、それを超えた部分でどこまでも自分を貫いている部活動の副部長的な気質が
いい、怒られたいという若干被虐的な嗜好を披露するものとで斗貴子評は分かれた。
「あら。怒らなくてもいいじゃない。似合ってるわよソレ」
「うるさい! あれほどスカートの丈は短くしろといったのに! だいたいなんだエプロンの端のこの文字!」
 みなそこを見る。「赤べこ」という文字が染め抜かれていた。
「明治初期の牛鍋屋の名前だけど。明治15年にはもうメイド服を導入していたとか」
 六舛の解説に「そういうコトを聞いてるんじゃない!」。怒鳴る斗貴子だが彼と桜花相手でそうしても無駄なので諦める。



「私なんだかチャンスを逃した気がするの」
「そうか」

 ある場所で千歳がぼやくと根来は言葉少なに頷いた。



 教室にメイド服着用のパピヨンが入ってきた。


「帰れエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!!

 空き缶は全力の叫びを突っ切り黒板に直撃した。斗貴子の右手から放たれたそれはパピヨンの顔の真横に突き刺さっ
た。ウーロン茶のかぐわしいな粒が黒いスーツの肩に振り注いだ。」

「おおおお、おぞましいっ! おぞましい格好をするな! 今すぐ着換えろ! 全速力で!」
「断る」

 あとは飛びかかる斗貴子。繰り出されるバルキリースカートをひらひら避けるとパピヨンは去っていった。

「メイド服っていうかいつもの服にエプロンドレスつけて王冠つけただけだったわね……」
 桜花は遠い芽をした。



「貴殿のいうチャンスとはなんなのだ」
「チャンスなの」

 木漏れ日の下、ベンチに並んで座った千歳と根来。遠くの道路を車が1台通り過ぎた。
 2人は黙ってコンビニのおにぎりを食べた。


 やいのやいの騒いでいると、対戦相手の劇団の代表者が来た。
 秋戸西菜。元声優でいまは劇団員だ。
 というのは表向きで、実はいずれ戦士たちと敵対するレティクルエレメンツの幹部である。
『黄泉路に惑う天邪鬼』(マレフィックプルート)。リバースやイオイソゴのような音楽隊との因縁はないため表立って行動している。

 コードネームはクライマックス=アーマード。通称はクラちゃん。(リバースしかそう呼ばないが)

(戦士さんたちにもこの上なく顔は知られていません。普通ならホムンクルスの身で近づいたらヴィクトリアさん辺りに感づか
れるかも知れませんが)

 内心クライマックスはほくそ笑んだ。

(いまの私は実をいうと人間とこの上なく同じ状態なのです! リヴォルハインさんの『目的』の副産物だとか! しかしリヴ
ォルハインさん何が望みなんでしょうねー? 錬金術の犠牲者総てを救うため大いなる目的を抱いているとかいってますけど
その副産物が調整体の私をこの上なく人間じみた状態にするっておかしな話です)
 とはいえ副産物が当初の目的と合致した試しもないから逆算は無理だと諦めるクライマックス。そもそもWEBブラウザだって
素粒子研究の過程で生まれたものなのだ。それを知る者は少ないだろう。誰だってインターネット用に作られたと思うだろう。そ
れと同じだ。爪楊枝の、こけしのような2本の筋だって本来は製造工程の不備をごまかすためのものなのだ。技術未熟なりし
ころ、切削行程において必ず焦げ目ができてしまったので、隠蔽と外観向上を兼ねてこけし状の筋を入れた。いまでは焦がす
コトなく切削できるが好評のためワザとつけている……というコトは誰だって知らない。副産物と原因は必ずしもイコールでは
ないのだ。ただし「≠」ばかりではなく「≒」もまたあるとクライマックスは思うのだ。

 それはともかくクライマックス入室。

「こんにちわ! この上なくこんにちわです!」

 またかという顔を生徒達はした。
(美人なんだけど色々残念だよなあの人)
(喋らずずっとニコニコ笑っていれば恋愛対象になるのに)
(馬鹿。無口だけど笑顔デフォルトなコなんて三次元にやいねーよ!)

「ひぷちん」

 どこかでゆるふわウェーブのアホ毛少女がくしゃみをした。

「なるほど。台本も完成してアクションのメインさんたちも特訓して、大道具さんもやられ役さんもこの上なくいいリーダーに
恵まれて、世界観設定も完璧、特効には若手だけれど有能な人を起用、その他小道具などの細かい役割も万全と!」
「え、ええ、まあ」
 監督代行のヴィクトリアは(激励? 忙しいのに鬱陶しい)とか思いつつにこやかに対応する。

 クライマックスはいろいろ話して見学して、「いっしょに鎬を削ってこの上なくいい劇しましょう!」と笑って手を振り教室を後に。

 廊下。

「それにしても私たちの劇はどうなるんでしょうか。脚本、ブレイクさんが今日上げてくれるって予定でしたが……」

 1人ごちていると天井から少女が落ちてきた。蜘蛛か。バイオハザードの蜘蛛か。突っ込みたくなったクライマックスだが
相手はいろいろ格上のため我慢する。
「イソゴさん。この上なくどうしたんですか?」
「ひひっ。台本じゃよ。写しを手に入れた……」

 写し、という点が引っかかったがコピーした物を配るのだろうな、程度の意味にしか取らずクライマックスも本格練習突入。

 劇の準備はいよいよ大詰めである。

「と、いう時に武藤まひろは色々浮ついてて話にならないの」

 音楽隊と戦士を集めたヴィクトリアは、先ほど総角と相談したまひろ正常化作戦についての概要を述べる。

「ぷっ」
 桜花は笑った。斗貴子は窘めながら「しょうもないな……」と呆れた。
「そ、それは女のコとして恥ずかしいのでは……。ショック療法としての効果は期待できますが」
「戦士・秋水にも刺激が強そうだな。しかしブラボー」
 毒島と防人は概ね賛成の方向。
「古人に云う。断じて行えば鬼神もこれを避く」
「元のまっぴーに戻るなら……アリ…………です……」
「あったかいやつ! あたし好きじゃんしたいしたい!!」
『落ち着け香美! 武藤まひろ氏がされなければ意味がない!!』
「確かに進まねばならぬ時もありましょう。不肖がそうでありました」
「フ。俺は発案者。今さらどうこう言わないさ」
 音楽隊の面々もノっている。
「とりあえず別にアナタたちは何もしなくていいわ。見てるだけでいい。いかにも劇の練習って顔で居ればいいわ」
 本来なら戦士にもホムンクルスにも頭を下げる義理はないし、助力だって仰ぎたくはないヴィクトリアだが、今回ばかりは
演劇という大義名分がありしかも両勢力とも指揮下にいるのだ。一ホムンクルスとしてではなく、演劇部の監督代行として
助力を願い出た訳である。

 そして計画は第二フェーズへ!


 教室が理容室になった。
 どこからから運び込まれたシャンプー台の前に、てるてる坊主よろしく水色のシャンプーケープをつけたまひろが座って
いる。後ろには秋水。両者とも困惑している。

「ほ、本当にこんな場面あるの?」
 頬に血潮を乗せながらまひろは聞く。監督代行に聞く。
「あるのよ。主人公の騎士と従者が心を通わせる場面なのよ」
 適当なでっちあげをしながら(ちなみに戻ってきた千里にも言い含めてあるので是正勧告の類はこない。沙織もついでに
作戦を聞いた)進めるようヴィクトリアは促す。
 なお、剛太は先ほど斗貴子にやられた傷が元でいまだ気絶中。保健室送りになったため千里との対面はない。

(つくづくしょうもないな)
 作戦概要について反復した斗貴子はため息をつく。桜花は緊張気味な弟をくすくす見ながら小声で相槌。
(洗髪作戦。頭を洗わせてショックを与えて元に戻すとかマニアックねヴィクトリアさん)
(私の提案じゃないわよ。音楽隊のリーダーの発案よ)
「フ」
 無言でサムズアップし一等星を目元に浮かべる総角主税。
(こう、女のコが気になる異性に頭洗われるとかグッと来るだろ? 頭だぞ頭。撫でられるだけでもかなりヤバいのに洗う
だぜ洗う。触れるのってアレだぞ、髪の奥にある頭蓋骨を覆う包皮!)
(あら総角クン言い方がいやらしい)
(普段だれにも見られぬ、本人さえよく知らぬ領域に男の指が侵入するんだ。シャカシャカとやられしっとりと湿る頭皮!
蕾のように頑なだった部分が徐々にほぐされ快感を覚える!)
(いや……快感というかちょっと気持ちいい程度だろうアレは)
 理容室での洗髪体験を引き合いに出す斗貴子だが総角は止まらない。
(フ! 分かっていないな! これは洗髪ではない!)
(じゃあ何さもりもり)
(プレイだ!!)
(プレイって……)
 無銘は呆れたように呟いた。
(フ!! 20年来通ってる理容室のおじさんと気になる男のコじゃ頭洗われる反応は違う! 格段に違う! これはもう
愛撫のようで恥ずかしいぞ! かなり恥ずかしいだろう! だから俺は見てニヨニヨできる! フ! できるのさ!)
(もうやだこのリーダー!!)
 貴信が泣き笑いする中、防人は追い討ちをかける。
(あとコレをやるとシャンプーを洗い流すとき無防備なうなじが見放題でブラボーだ!)
(いや……やったコトあるんですか戦士長。誰に……)
 どこかで千歳がくしゃみをするなか洗髪が始まった。


 まひろはひどく恥ずかしかった。ただ頭を洗われるだけならまったく気にしなかった。だが秋水にされるとなれるとどうしよう
もなく恥ずかしかった。ただでさえ告白じみた出来事で顔がマトモに見れないのだ。にも関わらず頭を洗われるときている。
(うぅ。私シャンプー使わないよ。いつものお米の砥ぎ汁で洗っているから……臭ったら恥ずかしいよ……)
 なんとも珍妙なものを使っているが、平安貴族の嗜みでもあるからある意味優雅で風流だ。
 秋水が手を上下させると白い液体が勢いよく放たれまひろの髪についた。もちろんコレはシャンプーであるから何ら問題な
く健全である。銀成学園生徒会副会長が手を上下させたのはシャンプー容器のノズルに対してだからごく当たり前の洗髪行為
を嗜んだに過ぎない。結果、ごく薄い紫の濁りを帯びた無色の粘液が髪の至るところにマダラを作り垂れ始めた。
「んっ……」
 とうとう秋水の指が茂みに分け入った瞬間、まひろは諦めたようにため息をついた。
「動かすぞ」
 秋水は律動を始めた。栗色の髪を梳り梳り敏感な包皮(頭蓋骨の)の形状を確かめるように指を動かす。言いようのない
快感がまひろの背筋を駆け抜けた。
(秋水先輩の指……意外にゴツゴツしてる……)
 見目の麗しさとは裏腹な逞しさが髪の奥に刻み込まれる。頭皮全体がしっとりと濡れるまでさほどの時間を要さなかった。
毛根の奥に溜まった皮脂がシャンプーの界面剤によって引きずり出され、緊張性が甘やかに汗ばむ。
「あっ」
 つむじを強く擦られ思わず声を上げると「痛かったか」。声がかかる。首を振る。振り返り、見上げた。
「そこ……気持ちいい。もっとして……欲しいの」

 もっとも顔が美しく映えるというナナメ45度で熱く潤んだ瞳を上目遣いにしてくるまひろ。
 朴念仁の秋水といえどたじろがぬ訳がない。
「あ、ああ」
 どぎまぎしながら指を動かす。

(フ。どうだこの状況!)
(なんか……いいわね)
(ブラボー。おお、ブラボー)
 頷きあう総角と桜花、さらに防人だが他の戦士や音楽隊は「ついていけない」という顔である。
「2人ともイケないカンジ! どうなっちゃうのコレ!」
「…………」
 沙織は口の前でパーを作り千里は眼鏡を真白にして俯き加減。
(私が背中踏んだときはいつも通りだったのに……)
 端々でオンナの顔を覗かせるまひろをからかいたいやら怯むやらでフクザツなのはヴィクトリア。

 十指を鉤のように曲げ力を込め動かす。傷みの目立つ栗髪の川を深く梳りいった指先が濡れた頭皮をなめしていく。剣客
であって美容師志望でない秋水だから洗髪などどうすればいいか分からない。他人の、まして女性の頭を洗浄するなど初め
ての経験なのだ。桜花は姉だから自分のそれぐらい自分で洗っていた。だから秋水は自分が洗うときのようにまず頭頂部
から丹念に洗い出した。塗りこめたシャンプーが泡を立てるたび指先は滑らかになりまひろの頭を摩擦する。当初こそ時おり
鼻にかかった甘い声を漏らしていたまひろだが、徐々に刺激に慣れ始めたとみえ今は秋水の成すがままだ。それでも恥ず
かしさは消えぬと見え、動悸の見え隠れする荒めの息を絶え間なくついている。

「! だ、だめっ!」
 突如としてまひろが声を上げたのは秋水の指が側頭部に伸びた瞬間だ。
「ケガでもしているのか? だとしたらすまない」
「そ、そうじゃなくて、あの……」
 ぽつぽつと経緯を述べる。
「むかしカブトムシ取りに行ったとき、森の中で転んじゃって」
「ん? あ、ああ。転んだのか。それで?」
「木のね、枝切ってボコってなってる部分に頭ぶつけちゃったの。左ね。左の真ん中の方」
 要領を得ないが秋水は慣れているので黙って聞く。まひろは耐えられないというように長く息を吐きながら続ける。
「……コブが、コブがまだ残ってるの。髪伸ばしてるのもそれ隠したいからで、だから、あの、ええとね」
「触られたくない?」
 まひろの目の色が大きく変わった。驚いたように見開いたまましばらく硬直した。やがて彼女は目を伏せて恥ずかしそうに
「うん」と呟く。
「そうか。じゃあ避け──…」
 避けよう。言いかけた秋水の運命を奈落に突き落とすのはヴィクトリアの声。
「駄目よ。洗って」
「びっきー!? 何を!?」
 はっと顔をあげ抗議しかけるまひろを遮るのは総角。
「フ。これは劇の練習なんだ。ちゃんと側頭部も洗わねば成立しないなあ」
 悪魔のような顔つきだった。格好の責めどころを見つけたという表情で、だから秋水は危機感を催した。
「いや総角、彼女は嫌がっているしやめ「あなたも役者さんでしょ秋水クン」
 氷のような桜花の声。有無を言わせぬ迫力があった。
「わ、わかった……コ、コブ、触られても我慢する」
 意を決するまひろだがその身はひどく固い。コブに手が触れたときに至っては思わず身をよじった。
「まひろちゃんどうして今動いたの?」
 桜花の鋭い問いにまひろは目を泳がせる。
「え、それは」
「くすぐったいとかそういう理由はいいの。髪洗われるときにヘンな声を上げてお客さんが喜ぶと思って?」
「……喜ばないよ」
「じゃあどうしていま体を捩ったの? 分かっているならガマンできたわよね?」
 練習だから良かったけど、練習だからって手を抜いていい訳じゃないの。ネチネチと責める桜花。
(姑か!)
(ドSすぎます……)
 斗貴子と毒島は呆れた。なぜなら桜花が時々笑いを堪えるのが見えたからだ。弟を取られる嫉妬をブツけているというより
は、未来の義妹があまりに可愛いからついイジめたくなったという様子だ。
 剣客でしかも弟の秋水がそんな機微を悟れぬ訳ではない。顔が少し険しくなった。
「フ。というか本番中の艶かしい生の反応……むしろ喜ばれるべきではないか」
「総角。君……」
 やや沸点に達したのか。手を止め声音をザラつかす秋水。しかしまひろに止められる。
「だ、大丈夫だよ秋水先輩」
「しかし!!」
 彼女は振り返る。振り返って微笑する。正体不明の疼痛に面頬はやや苦しげに歪んでいるが、それでも精一杯笑って見せる。
「げ、劇のためなんだから、くすぐったいのもヘンな感じなのも我慢するよ。私ひとりが耐えればいいんだから……」
 力のない笑み。純粋な言葉。それらがズギャーン!! 穢れた三匹の傍観者の胸を貫く。
「がはあ!」
「うぐっ!」
「ツっ!!」
 防人が大口開けて血を吐き、桜花が美しい眉を顰め、総角が脂汗を流しながら胸を押さえ大仰に呻く。
「良心を貫かれたか」
「というか、そろそろやめませんか。こんなコトやって本当に武藤サンがもとに戻るんでしょうか……?」
 不毛だという毒島の意見に無銘、貴信といった良識派も頷く。
「いえ……私は……こーいうの……興味津々なお年頃なので…………もっと……見たい、です」
 ゾンビ目ながらも鼻息吹いてすっかり意気軒昂なご様子の鐶。その視線の先には、いよいよコブをまさぐられ切なげに太
い眉根を寄せるまひろが居た。ふっくらとしつつも小ぶりな桜色の”たぶ”はさっきから半開きで濡れ光る歯と共に、くぐもった
声をひっきりなく大いに覗かせている。コブを避けようとする秋水にちゃんと洗うよう促すのは健気だが、ぬめる指先が予測
不可能かつ想像以上の加圧を与えるたび瞳の焦点をなくしビクリと痙攣する。丸々とした健康的な顎(あぎと)が跳ね上がり
血色のよい喉首さえ無防備に晒すのを鐶は見た。
「いいです……若い女のコ…………いいです。うふふ……」
「貴様もうら若き少女だろうが……」
 オヤジ丸出しでまひろを見る鐶に無銘は呆れた。
「…………」
 小札はもう言葉も無い。しかし視線をまったく逸らすというわけではなく、時々チラチラと横目で見てはサッと顔を赤らめ視
線を外す状態だ。
「痒いところはございませんか」。そういえと言われた秋水がしぶしぶながらに従った。
 痒いところはコブだった。爪を立て軽く書かれる。
「あ……」
 薄目を開けて喘ぐまひろ。指の動きが早くなるたび吐息もまたすすり泣くよう早くなる。

 彼女の羞恥は最高潮に達していた。詳述は避けてきたが、演劇部員たちも遠巻きにまひろたちを見ている。普段の挙措
からは想像もつかない色っぽい反応に男子たちはドキドキしている。そんな好奇と希薄な情欲の入り混じった視線に晒され
ているのを感じると体の奥が熱くなり、名状しがたい切なさが、夏場行くプールの消毒槽に浸かった時のようなえもいわれぬ
疼きが脳に連なる脊髄全体にムズ痒く付きまとって……たまらなくなる。

「ふ、ふぅ。ふぅ〜〜〜。秋水クン、コブを、コブを重点的に洗うのよ……」
「そうだ。行け。秋水。お嬢さんが一番感じる部分をやれ」
「大丈夫だ戦士・秋水! 最初は嫌がっていても段々ブラボーになってくものだ!
「ゲスだ!! 桜花先輩たちゲスだ!! 致命傷負ってもなおまっぴーのイケないとこ見ようとしている!!」
 沙織が白目になっておののく中、千里はため息交じりに斗貴子を見た。
(ええい。私は混乱を収拾する舞台装置か!)
 毒づくが実際まとめられるものは斗貴子しかいないという目線が注ぐ。何しろ防人と総角というリーダー格からしてあの体
たらくで、生徒会長も暗黒面に落ちている。力づくができそうな鐶も艶かしい姿態に夢中と来ている。
 ゆえにデウスエクスマキナは終局に向かって動き始める。

 しぶしぶながらまひろのコブをまさぐる秋水。
「ふぁ」
 身を捩りそうになりながらも必死に耐え上体を豊かな胸ごとぶるると震わすまひろに歓声があがる。
「ウム! いいぞ戦士・秋水!」
「フ。もっとやれ」
「まひろちゃん、その絵いいわ! スゴくいい!!」
 無責任な声。機械仕掛けの神はついにキレた。
「君らいい加減にしろーーーーーーーーーーーーーっ!!」
「あの秋水が怒鳴った!?」
「てっきり戦士・斗貴子が〆ると思っていましたのに! 意外です!!」
 洗髪をやめ肩をいからせ監督代行に詰め寄る青年。恐ろしい気迫だった。「俺の九頭龍閃を破ったとき以上だな」。限り
なく信用の薄い総角の言葉だが、この時ばかりは誰もが真実だと直感した。ぎんぎんぜんと輝くシアンのオーラは明らかに
ヤバい代物だった。
「ヴィクトリア!! これは本当に劇の一環なのか!!」
「そ、そうよ」
 目を逸らすヴィクトリア。秋水は息を吐き矛先を変える。
「台本には無かったが若宮君! 加筆の依頼はパピヨンから来たのか!」
「い、いえ。……ヴィクトリアの個人的な依頼です」
 一瞬一同を気まずそうに見ながらも真実を告げる台本執筆者。
「ちーちん裏切ったーーーっ!!」
「いや裏切るだろコレは!! だいたいこの場合はウソつかない方が正しい!!」
「ま、まあ、落ち着け。戦士・秋水落ち「戦士長はしばらく黙っていてください!!」
 はい。返事するや正座になる防人。
「戦士長が気迫で負けるって……。どんだけブチ切れているんだ秋水」
「ヴィクトリア! 若宮君はああいっているが……今一度問う! 本当に、今のは、劇の一環なのか!!」
「それは」
「一 環 な の か」
 顔を近づけ墨絵調ですごまれては流石のヴィクトリアとて白状せざるを得ない。

「で、目的はなんだ」
 正座する一同をぎろり。睨みまわす秋水。誰が真実を語れよう。まひろを元に戻したいがため仕組んだなどといえば正に
秋水と化した鋭い言葉で首を刎ねられそうな気迫がある。
 もっとも、誰も真実を告げないとあればそれはそれで不興が増すのだが。
 秋水は苛立たしげにため息をつき怒鳴り散らす。
「断っておくがこれは信義の問題だ!!! 何が目的かは知らないが劇にかこつけ彼女を苛もうとするなら俺は君たち全
員を敵に回してでも守る側に立つ!!」
「ええい。何で我たち、たかがシャンプーでここまで怒られねばならんのだ」
「しっ……です。ブチ切れてる人に……正論……通じない……です。適当に怒らせておけば……勝手にエネルギー使い果
たしてそのうち大人しく……なります……。ソースは……お姉ちゃん……です」
 えらく手馴れた(そして反省のない)言葉を吐く鐶であった。
『はは! ここだけ見た人たち、まさか原因がシャンプーとは思わないだろうな!!』
「貴信! 君だけは違うって思っていたのにどうして止めなかった!!」
 あ、いや、その。オロオロする貴信を救うのは無心の助け舟。
「あ! あのコいやってゆーならあたし代わりになるじゃん! 洗う! 白いの!! じゃーってやる!!」
「栴檀香美、君も少し黙って欲しいんだが」
「なんでさ!! なんであたしはじゃーってせんのさ!! してほしーって言ってんじゃん! する! 白いの!!」

「……とにかく。二度とこういう悪ふざけはするな」
「すごい! 香美先輩が怒れる大魔神を鎮めた!!!」
「いや。単にアレは空気が読めていないだけだ」
「ネコ、だもんなあ」
 無心すぎるわズレているわで生真面目な秋水は怒るに怒れなかったのだろう。

 しゃー。
「〜〜♪」
 秋水に髪を洗ってもらった香美は満足顔だ。(ちなみに後頭部にいる貴信は邪魔になるだろうと気遣い、自ら腹パンして
気絶した。先ほどのまひろ洗髪を見過ごした罪を償うため腹をパンしたのだ)


「まったく。津村がいながらどうしてああなった!」
 怒りながら踵を返すと、てるてる坊主状態のまひろが「あの」と呼びかけてきた。
「すまない。君にも悪いコトをしたな」
 いいのいいのと手を振りながら(シャンプーは自力で洗い流したらしい。甘い匂いが秋水の鼻腔をくすぐった)、まひろは
はにかみ笑いを浮かべた。
「えと。さっきの。ありがとー」
「何の話だ」
「私がイジめられるなら、斗貴子さんたち敵に回してでも守る側に立つ!! って所」
 軽く声を上げると秋水は僅かの間、沈黙した。
「……君には、数え切れないぐらい支えられて貰ったからな。守るのは当然だ」
 まひろは答えない。答えないかわり少しうっとりした表情で目を逸らした。
「? というか君。普通に話しているような」
 目をぱちくりとしたまひろは「アレ?」と呟く。
「そーいえば照れないね。さっきのが恥ずかしすぎたからかな?」
 アレに比べれば会話ぐらいへっちゃらになったみたい。まひろはそういってニコリと笑った。
「でも良かった。これでやっと秋水先輩と普通にお話できるよ」
「あ、ああ」
 以前の状態に戻ったまひろを見て秋水は軽く思った。自分の方はどうなのだろうかと。

「グッ!」。ヴィクトリア、彼らに背中を向けたまま軽くガッツポーズ。ミッションコンプリートである。

「ね、ね。貴信せんぱい。私のメイド服はどうかな?」
 沙織はノースリーブだった。スカートは短く太ももまで靴下を履いている。ツインテールの根元に結んだ紐リボンともども
活発な印象を振りまいていた。
「に、似合う! 凄くいいと……思う!!」
「ふへへへ」
 満更でもなさそうにふやけた笑いを浮かべると、どこからか取り出したパック入りのプリンを同じく出所不明のスプーンで
掬い貴信に差し出した。
「褒めてくれたせんぱいへのお礼だよ。あーんして、あーん」
 すっかり敬語を忘れている、言い換えればだいぶ懐いた沙織はキラキラした目でプリンを差し出す。
 貴信はいろいろ逡巡したが、断るのも悪いと思い応じた。

 やがてプリンが無くなるころ、貴信はたぶん今日が人生最良の日だと心の中で感涙に咽んだ。



「ちなみに今日は大浜の誕生日だ」
「!!?」
 六舛発言をきっかけとする思わぬ誕生日パーティを経て時は流れる。練習と準備は着々と進み──…






 いよいよ発表前夜。総ての練習を終えた秋水と総角は寄宿舎管理人室の地下に居た。



「以上で対サテライト30は終わりだ」
「そうか。協力感謝する」
 秋水がこの数日重点的に行った特訓は、ムーンフェイス対策である。
「フ。奴もレティクルにいるからな。やはり育てられた以上、決着はお前の手でつけたい、か」
「ああ。道を誤らせたなどという理屈をつけるつもりはない。だが恐らくこの地上で最もムーンフェイスの本質を知っている
のは俺だろう」
「地球を月面のようにしたい、か。フ。だいそれている、L・X・E時代から毛色が違うと思っていたが……」
「それを骨身に沁みて知っているからこそ斃さなければならない。生かしておけばまた別の組織に行き災禍を招くだろう」
「フ。生真面目なコトだ」
 からからと笑う総角。秋水は頭を下げる。
「なんにせよ君がいなければ奴への対策は練れなかった。重ねて感謝する」
「フ。ムーンフェイス以外にサテライト30を使えるのは俺ぐらいなものだからな。友が必要とするなら惜しみなく助力するさ」
 余裕綽々に笑う金髪の美丈夫。見事な黒髪の剣士は「友、か」と囁く。
「俺は正直友誼の感じ方が分からない。心を鎖してきたからな。武装錬金ではなく竹刀で、竹刀で普通の剣道を戦いとは思っ
ているが、友誼かどうかは分からない」
「フ。友というのはなる物じゃない。いつの間にかなっているものなのさ」
「そうか」
「しかし気をつけろ。ムーンフェイスは廃棄版とはいえ、例の『もう1つの調整体』を手に入れている」
「ああ。逆向凱だった鈴木震洋の体内から抜き取るのをこの目で見た。決戦ではそれを使ってくるだろう」
「何が起こるか正直俺にも予想がつかない」
 余裕じみた笑いを消す辺り警戒のほどが見て取れた。秋水もその一端に気付く。
「ダブル武装錬金」
「フ。普通に考えれば60体に増殖かな。優秀な奴なら30×30を想像する」
「……900体」
 ぞっとする光景だった。30体でさえ精密な攻撃ができないのだから、900ともなれば原始生物レベルの判断力になるだろう。
 普通の、核鉄ならば。
「だが『もう1つの調整体』は死んだはずの逆向さえ呼び戻したありえからぬ武装錬金。俺らの想像など」
「超える、だろうな」
 極端な話、900体のムーンフェイスが分裂前と変わらない精密姓を有するコトだってありえる。
「しかも900で収まればいい方だ」
「総角。まさか君の考えているのは……」
「フ。そのまさかさ」
 総角はとんでもない数字を持ち出した。
「最悪の場合………………になる」
 秋水はぞっとする思いで口をつぐんだ。想像するだにおぞましい現象で、だからもう言葉を発する意味さえ感じられなかった。


 よってしばらく沈黙が続いた。
 地上からの鈴虫の声さえ聞こえない完全防音の部屋。いるのは秋水と総角だけ。
 他のメンバーは既に寝ている。防人でさえ「終わったら適当に帰りなさい」と地上に続くハッチを空けて布団直行だ。

「しかし演劇が終わったあと、俺や戦士長、無銘たちが銀成市に留まるとは思ってもみなかった」
 ぽつりと呟く。総角は首肯した。
「フ。ヴィクトリアのお嬢さんから俺のクローン元……要するに敵の首魁だな。奴が100年前『何か』を目論んでいたのを
聞いた」
「『始まりの場所で破壊活動をする』……だったな」
「ああ。俺の調べによれば、奴……メルスティーンはかつてヴィクターを追撃する再殺部隊の一員だった。武装錬金の特性
が強力でな。フ。特性破壊という物騒な能力を持っていたのさ」
「あれだけ強く、自己修復能力さえ有するヴィクターが修復フラスコを要するほど追いつめられたのもその特性ゆえか」
「そうだ。奴の武装錬金の名は『ワダチ』。大刀だ。フェイタルアトラクションの重力操作はおろかヴィクター化がもたらすエ
ナジードレインとそれのもたらす修復作用をもメルスティーンは破壊した」
「だがあと一撃で斃せるというところを」
「フ。そうだ。偶然居合わせた爆爵どのに妨害された。いかに特性を壊せる大刀といえど、アリスの霧……チャフなどという
質量莫大な武装錬金が相手とあらば難儀する。まして……フ。爆爵どのご本人から聞いたが、不意打ちだというからな。ヴィク
ターに集中しているところに乱入されてはワンダーランドに迷い込むのも無理はない」
「そしてそこからメルスティーンの運命は狂った……」
「フ。奴がココ銀成を始まりの場所と呼んでも不思議ではないだろう」
 ゆえに総角は防人に進言し、彼経由で火渡から一部戦士の残留を願い出た。
「大戦士長どのの救出作戦に従事するのは、俺と鐶、それからセーラー服美少女戦士……この3人だ」
「少ない気がするが、すでに現地には犬飼や円山、戦部もいる。根来や千歳さんも合流する手筈だから」
「フ。そうさ。こちら側のトップ3が行くなら問題ないというのが火渡戦士長どののご判断だ」
「確かに津村なら……この数日で君の九頭龍閃を完璧に模倣しつつある彼女なら問題はなさそうだ」
 精神的にもかなり落ち着いてきた。案外本物の日本刀を持たせれば飛天の奥義さえ使えるかもなと総角は冗談を言う。
「天翔龍閃……だったな」
「フ。俺の九頭龍閃・極を破れるほど太刀行きを早くできるのなら、バルスカの鎌でも技名に”擬括(もどき)”さえつければ
それらしくはなるだろう。もちろん秋水、お前のソードサムライXでもな」
 その辺りどうだろうと思うのは生真面目な性分ゆえだ。奥義というのはその流派を長年研鑽したものだけが与えられる
ものなのだ。修練に修練を重ね、剣の「奥」にある「義」を体得してこそ初めて威力を発揮するのだ。
「……俺は、俺なりの奥義が欲しい」
 それも精神の根底から発する想いを現わすものが。
 九頭龍閃を破れば飛天の奥義に達すると総角はいう。
 だがかつてそれを破った秋水の技は、逆胴は、抜刀術を極めたものではない。
 ただひたすら腹臓からの声に従って、困難の中、一歩も引かず剣を振りぬいた覚悟あらばこそなのだ。
「フ。ならばあれを極めるほかないだろう。『一刀は万刀に化し、万刀は一刀に帰す』」
「小野派一刀流か」
「フ。そうだ。あらゆる変化は一刀から起こる。一刀を起こすものは詰まるところ心だろう。心が九頭龍閃を破ったというなら
後はただそれを極めるだけだ。極めればそれはお前だけの奥義となる。これまで培ってきた『万刀』……あらゆる事象への
心の動きもまた最後の一刀と化し……敵を、破る」
「あらゆる事象への心の動き、か」
 秋水は目を瞑る。期間にすれば3週間にも満たないが、思えば随分長く戦ってきた気がする。
 まひろと屋上で出逢い、総角と再会し、ヴィクトリアのため奔走し、貴信や香美と戦い、千歳や根来、防人たちの協力で無銘
も下し、小札に対する誓いも守り、鐶に負け、ムーンフェイスには幾度となく苦渋を舐めさせられ、そして幕間と呼べる日常
の中で、剛太と思わぬ友誼を結び、斗貴子とも少しずつ溝を埋め、毒島とは特に何も無く過ごしてきた。
(姉さん、最近よく笑うようになったな)
 以前は笑顔こそ得意だが心から満たされていない気配がした。今は違う。童女のように箸が転がっても笑っている。
(俺もそれだけの変化を遂げたのだろうか。遂げるだけの『万刀』……振ってきたのだろうか)
 まひろが元に戻ったとき抱いた疑問がいま鎌首をもたげる。
 音楽隊との戦いが終わった後、秋水は誓った。
 勝利をもたらすため協力してくれた仲間たちに力添えがしたいと。
(いまは分からない。だが『万刀』だけは振り続けなければならない。始まりにして終わりの『一刀』のために)
 カズキの、ために。
(武藤さんにも誓ったんだ。彼が戻ってくるまでこの街を守ると。出なければ俺の贖罪は終わらない)
 右手を握る。
 かつて彼が「「諦めるな!」といい握ったそこは、今でも確かな感触を覚えている。

 無力と咎の果てに与えられた、たった一つの確かな物。

 拳を握る。彼に及ばぬとしても精いっぱい力強く。

 秋水は微かに相好を崩し、それから瞳と頬を引き締めた。

「フ。それがお前の一刀か。いい刀だ」
「ああ」

 言葉は不要だった。実感さえあれば幾らでも立ち上がれる。誇りが胸を満たした。




「ところでヴィクトリアから聞いた」
「フ?」
「君が音楽隊を作った理由だ。歪んだ循環を断ち、これ以上の犠牲になる者を失くす。…………立派だと思う」
「フ。10年もすればお前も似たような領域に至れるさ。俺のように……救われたからな」
 誰にどう救われたのか。秋水は聞きたくなったが総角のゆったりとした笑いは無言でそれを拒んでいる。
「ま、戦いが終わり、友となったら教えてやるさ。俺を救った……小札の兄。どんな奴で何をしたか、な」
 聞けるかどうか今の秋水には分からない。

 けれど、拒みながらも尊敬できる部分があると認めている総角と友誼を結べたのなら──…

 秋水は1人で世界を歩くという願いを、自分に勝つという誓いを。

 果たせるような気がした。

(何にせよ、まずは演劇だ。そして……レティクルとの決戦も)

 その果てに友誼と一刀があると秋水は、信じた。



 ……。

 信じた時刻は9月15日23時48分。

 結論から言えば。
 総ての決着がつくまで40時間もなかった。

 1万年を超えるウィルという少年の時間旅行も。
 100年前から続くメルスティーンの戦いも。
 10年に達する総角たちザ・ブレーメンタウンミュージシャンズの旅も。
 1年にも満たない秋水の贖罪の戦いも。

 何もかもがあと40時間以内に大きな決着を迎える。
 9月17日の夜明けと共に戦いは終息するのだ。



 時はまず演劇発表……9月16日に至る。


 これまで物語に現れた総ての人物にとって長い……とても長い運命の一日の始まりを以て。

 総てが終焉に向かって動き出す。


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