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第120話 「対『海王星』 其の拾弐 ──迷囚──」




 南方面に群集する非戦闘員を皆殺しにすべく歩き始めたリバース=イングラムの眼前に現れたのは義眼であった。西方
は夜空にあった裁判長・棠陰王源が死のまさに直前投擲できたのは、数分前やがて己が破局するであろうという正しい予
見を得ていたからだ。
 脚部をガラス片でぐずぐずにされ機動力を失った時点で既に彼は自身の死を予期していた。建物に寄りかかって立つコト
さえ怪しくなった体でどうして海王星の超連射から逃れられよう。運命を受け入れた彼はすかさず義眼をふたつもろとも外
し右掌に乗せていた。『射殺直前、法廷武装錬金の本体たるこれを投げつけ敵の防御力を削ぐ』。決意は思わぬ瞬間移動
によって刹那の間ゆらぎはしたが、商業施設コミュニティ駐車場上空にて吹断される寸前どうにか決行には到れた。そう、
対空射撃の先で踊っていた四肢から飛んだ『何かの小さな影』とはつまり棠陰王源の義眼だったのだ。

 しかし、直線距離にして50mは離れている宵の口の西の空から、濃密な銃火を縫い、南を向いている少女の眼前に義
眼の視線が合うよう投げられたのはいささか都合がよすぎないか? 確かに投げた少年の執念や凄い。自身の能力で間
接的にとはいえ死に追いやった好ましい先輩への落とし前と、元凶への煮えたぎる怒りは尋常ならざるものだ。投擲の妙
を本人が願うのは自由だ。それを見ていた者が最後の反撃の成功を祈るのもまた自由だ。
 しかしだとしても執念ひとつでここまでの、上空から、ミニガン並みの弾幕にかすりもせず、直線距離50m先の、少女の
眼前に義眼が飛び、しかもふたつともが虹彩を揃えているというこの事態、第三者なれば口を揃えるのではないか? いく
らなんでも都合が良すぎる、と。
 そうであろう。『球体に1つしかない虹彩がこぞって同じ方角を向く』。21面ダイスふたつでピンゾロを出すより、確率低き
事象ではないか。”それ”が、土壇場の一発勝負の一発目で出るなど……普通に考えれば、まずおかしい。

 ……。

 …………棠陰王源も、リバース=イングラムも知悉しえなかった事象がひとつ、ある。

 後者の前に到達した瞬間の前者の義眼は、実のところ、虹彩を見るべき対象(モノ)へと見せてはいなかった。いずれも明
後日の方を向き、防御力低下などとても期待できるような状況ではなかった。

 だが。

 どこか。
 どこかの。

 深い深い場所で、銀の線が閃いた。
 焼けた肉の香気を孕むしぶきと共に、閃いた。

 同時に、弾指の齣(コマ)の中で奇妙な変化が発生した。飛来しながらスピンしていた義眼たちが、突如としてそのベクトル
とはまるで異なる方向に、ずずり、ずずりと蠢いて……海王星直視の方角へと、成型、された。

 どこかで銀の閃きをもたらしたのは──…
 現実を、義眼のありようを、21面ダイスふたつでピンゾロを出すより低い『確率』へと『操作』したのは──…

 クナイ。

 義眼が銃火を抜けた奇蹟と果たして無縁だったか、どうか。
 いずれにせよ義眼が眼前にきた瞬間、リバースは集中した一瞬を発動していた。だがさしもの動態視力も『視線が合っ
た瞬間発動する能力』相手ではどうにもならぬ。見て停めた瞬間にはもう手遅れだった。むしろ凝視の程合いを自ら高め
てしまったのではないか?
 怒りの表明に熱中し、義眼飛来の風切り音を聞き逃したのがマズかった。遠間での撃墜さえ選択できれば、義眼がどれ
ほどの奇蹟を見せようが距離上、『直視』にはなりえぬ時点で無力化できたのに……戦士総ての殺害といった感情に浸る
あまり見過ごした。

 2つの義眼の周縁からぎんぎらと漏れ出し揺れ始める緑の狐火はさしずめ鬼気か。ガトリングガンをも凌ぐ猛烈な対空
砲火すら恐れ自らよけたと言われてもおかしくはない凄まじい威圧を孕んだ揺曳が義眼から漏れる。とっぷりと暮れた世界
の中でウジャウジャと怨霊を纏う少女の影ばんだ頬に差したのは反射光。半透明の下敷きで日なたから日陰に照り返した
のに似た光。もちもちした美しくも肉感的な肌を、黄金の稚魚飼うメロンソーダ色した角まるき矩形が奔(はし)るのも一瞬。
照応は憤怒に見開く瞳の中へと逆再生の涙よろしく潜っていった。

 発動する特性。軍事法廷コネクトアラートの直視によって動作する審判に海王星が精神世界においていかなる抗弁を行っ
たのか鐶光には知る由もない。わかっているのは判決への抗議が強まれば強まるほど防御力が脆くなるという一点のみ。
 果たして直視から一瞬後、被告人の身体の崩壊速度がばあっと目に見えて速まった。性格上当然の帰結だろう。同時に
それは最悪の戦況のなか紡がれるたった一抹の希望でもあった。

(防御力低下!! 棠陰王源! よもや射殺されつつ敢行しようとは……!!)
(鳥目さんに自己犠牲を強いた特性が今度はお姉ちゃん自身を…………!!)

 月吠夜クロスの複製したものはあくまで武装錬金(サブマシンガン)を蝕んだのみ……。
 今度は創造者当人を本家の法廷が脆くした。しかも棠陰王源本人は数秒前とっくに世を謝(さ)っているのだ。なのに特
性は継続する。執念が継続させる。

(ここにきての防御力低下は大きい!!!)
(年齢吸収がかするだけでも一撃必殺、幼体に戻せ……ます!! だって防御力低下は……リーダーとお姉ちゃん自身
の必中必殺の剥落効果を高める……から……! 体を脆く……する、から!!)

 それは火力がもうほぼ払底している戦士側にとってこれ以上ない恩恵だ。弱まった防御力は銀鱗病の『固有振動数崩壊』
を速める。年齢吸収が効きやすくなる理由だ。どころか相手方のスリップダメージによる自滅すら期待できる。もしリバース
が現在の状況で固定されるのであれば、戦士側は大仰な攻撃など仕掛けずともよい。全滅しないよう全滅しないようただ
時間を稼ぐだけで、海王星がみずからの能力によって倒れるのだ。

 そう。憤怒の幹部が現状を甘んじて固着させるので、あれば。

(甘受するとは……思えん…………!)
(『怒りの吸収』! これによる肉体修復が崩壊速度を上回ったら……終わり……です……!!)

 ぴしぴしと剥落しゆく幹部の肢体。ミントグリーンのサマーセーターのあちこちが肌色裏打つ切片となって弾け飛ぶ。
 茶色い三日月の虫食いを持つ病的な黄緑の枯れ草の傍で砂埃を立て砂埃を立てつぎつぎ振ってくるのは人間の薄皮を
張ったセーターの生地。長袖がノースリーブになるまでそうはかからなかった。

(必中必殺被弾者が衣服にまで変異をもたらした事例はここまで報告されていない!)
(つまりこれはお姉ちゃん本人の防御力低下によって相対的に威力を増した固有振動数が、ついに着衣をも崩滅させるに
到ったとみるべき……です!! よって現時点ではまだ……修復速度は……追いついて、いない……!!)

 何しろ総角は依然として必中必殺を継続している。リバース当人が自身にも掛けたコトを考えればいわば二重掛けの固
有振動数の強さなのだ。
 二次感染の強大さを考えると前者継続は是か非かなかなか議論の分かれるところであるが、最後の白い法廷で現状を
知った総角はリスクを知った上で敢えて継続を選択した。リバースの回復速度が追いつく前に肉体崩壊で倒す。万策尽き
た戦士側にはもうそれしかなく、”それ”は危険と隣接するコトでしか成せないのだ。

 長尺の破断塵還剣を展開し躍りかかる鐶光。防御力激減の義姉に対し目論む幼体への退行は、依然手の届く、現実的
な勝機なのだ。修復が崩壊を上回る前に仕留められるなら、すべきだ、絶対に。

 なれど関門やある。怨霊群だ。千々なる魂は姉妹の中間点でめいめい膨張し、光剣を包み、斥(しりぞ)けた。恐ろしく霊
障的な物理を無視した弾き方のなか、とんぼ返りを打って着地に入る鐶は焦慮よりむしろ別な思案に支配されつつあった。

(……。どうして塵還剣は速攻防御できたのに…………義眼の発動は……許したん……でしょう…………? お姉ちゃんに
近づくモノ総て自動で迎撃できる能力なら、義眼だって撃墜できて当然。……なのに)

 同様の疑問は無銘も抱いた。(そうだ。怨霊防御が根来の忍法暗剣殺やディプレスの神火飛鴉障壁のような、創造者の
意識と無縁に発動する自動(オート)ならばそもそも義眼の接近自体ゆるさなかった筈! つまり! あの怨霊の防御は)

(コンセントレーション=ワンと同じく……『視認して初めて発動する能力』!) 鐶は、断定する。視認とは義姉のものか怨霊
のものか不明だが、いずれにせよ、双方の圏内へ突如飛来し虚をついた義眼は見事にその特性を振る舞えたのだ。超新星
を弾いた時から無敵に思えていた障壁にも穴があると証明したのは、防御力低下以上の勲功であろう。

 いずれにせよ視線が絡み合った瞬間崩壊を加速させた怪しげな義眼を捨て置く理由はリバースにはない。精神世界で
一方的に咎人であると責められ続けたのなら尚更だ。壊す。血がめらっと逆巻いたが同時にそれで一定量落ち着いた精神
は持ち前の怜悧で路線を変える。『核鉄に戻る程度の破壊を』。そうだ、そうすべきだ。踏まえていなかった敵はなんたる阿
呆かと胸中せせら笑う。

 勝ち筋によって強制連射破壊に追い込まれたサブマシンガンを捨てるため新たな核鉄を探している幹部のところに、彼は
武装錬金を、核鉄を! 投げた!! 死に瀕し防御力低下を遺したのはなるほど見事な方策だ。偶然とはいえリバース自身
知らなかった怨霊障壁の弱点さえ暴いたから、運もある。
 しかし所詮は土壇場の咄嗟、着想の劇的なるに酔うあまり逆利用されるところまでは読めてなかったようねとそんな上機
嫌が怒りに引き攣っていた顔を潤し……元の笑みに染める。
 そして引く、トリガー。爆発。義眼は砕け散った。扁平な六角形を表裏させつつ落ちていくのはシリアルナンバーすら読め
ぬほど亀裂だらけの核鉄。その表面を控えめな吹断がやっとちりちりと掠り火花の中で躍らせ始めた瞬間ようやくリバー
ス、先ほど葬った者がふたりとも尋常ではない読みと精神の持ち主であったコトを知る。

 義眼を砕いたのはサクロスだった。月吠夜クロスが生前最後に放っていたミサイル群のうち一角が、防御力低下の役目
を終えた義眼を粉砕したのだ。幹部を狙った末の誤爆ではない。最初から義眼のみに狙いを絞っていなければとても成せ
ぬ鮮やかな破壊だった。だから核鉄はスプーンの腹で殴る蹴るされた茹で卵に、リサイクル不可になった。お前にだけは
渡さないという絶対の遺志のみが成せる芸(わざ)だった。
 だが真に彼女があっと目を剥いたのはその瞬間ではない。廃屋群に生まれた近未来の建物の1つが不意に爆発で消し
飛んだ次の瞬間だ。
 轟音へと反射的に目を向けた彼女は、大きく抉られ焔の蛞蝓が群体する建物の向こうにある物を認め愕然とした。
 サクロス本体。ランチャーとテレビ局用ビデオカメラの相の子のようなゴテゴテした射出装置。ふたつあるそれが共に上
半分をめちゃくちゃに破砕された状態でいままさに三脚ごと横倒しになりつつあった。全身からたなびく灰色の煙ときたら
質問攻めの吹き出しのような多さだった。砲戦に造詣の深いリバースは破損部位から即座に事故原因を見抜いた。直上に
放ったミサイルの着弾による……自殺、だと。

 月吠夜クロスもまた突然やってきた死のなか最尤を選択していた。

 鳥目誕に助けられた者として、裁判長が義眼を外した瞬間、彼がいかなる方策に及ぶか情感の方面から”あたり”をつ
けた。贖罪であたまがいっぱいの少年だからこそ死後義眼が核鉄に戻され利用されるなどと想像だにできていないのを
見抜いてからの決断は早かった。
 決めたのだ。
 裁判長が義眼を投げた瞬間、火力とみに高い月吠夜自身の武装錬金で隠滅(フォロー)する、と。
 それは兼ねてより月吠夜が死ぬさいの後始末というものを強く念頭に入れていたからこそできた行動だ。
 盟友いのせんの遺品たる核鉄を行使していた身上だからこそ、死後必ずおとずれる武装解除が、リバースにも核鉄を与
えうるものだと正しく懸念できていた。戦士側の『勝ち筋』によってもう壊れるしかなくなった銃を押し付けられた者が何をや
るかなど怜悧な彼にはお見通しだった。

 幹部は絶対に、死んだ戦士から核鉄を奪う。

 新たな核鉄さえ獲得できれば熱衝撃と強制連射で自滅の一途を辿る短機関銃など見限れる。
 そしてまっさらな核鉄から発動した完品の銃でふたたび魔弾を連弾……窮地において斯様な着想に着色されねば務まら
ぬ幹部が飛んできた義眼型武装錬金をただ完全破壊して終わるとは到底思えなかったのだ。壊しはするが武装解除で済
むレベルには加減し、核鉄に戻った瞬間奪いつつ再発動! 新品の銃で揚々と殺しを楽しむだろう。ともすれば核だって
撃ちかねない。廃屋地帯南方面に群がる非戦闘員の戦士を熱核の連鎖で鎧袖一触、しかねない。

 だからこそ死を直感した時点の月吠夜クロスには、何としても、絶対に、サクロスを完全破壊するという気構えが芽生え、
それは裁判長の義眼にも適用できていた。できていたからこそ瞬間移動という最悪の予想外の中にあって防御力低下後
に幹部がとりうる最善手をどうにか阻めた。

 射出装置は地面につくほんの少し前に火花を噴き、爆発した。宵の入り口の紫色の怨霊すら一瞬日の出の中に連れて
いかれたような濃密な光輝に見舞われた。
 爆風の中、ランチャーの残骸の輪郭を描いていた光が収縮し核鉄ふたつへ逆行する。瓦や梁の破片を力なく跳ねまわる
それらときたら目の細かい網にでも打たれたかの如くヒビまみれだ。拾ったところで3秒と撃てないだろう。

 またも笑みの消えた頬をひくつかせるリバース。『勝つと殺すは違う』。得体の知れぬ声を彼女はこのとき慥(たし)かに
聞いた。纏う怨霊の中に一瞬『盟主より凄まじい暴威を孕んだ電波的な気配』が滑り込んでやってきて、言い捨ててどこか
へ消えたのだ。
 的外れは的外れで結構な怒りを誘うが、図星を指された場合の比ではない。

 勝つと殺すは、違う。

 リバースは裁判長と月吠夜をハエのように殺してのけたが、しかし戦略においては明らかに連敗した。義眼への憂さ晴ら
しに気をとられるあまり、平生なら音で気付き迎撃できたサクロスを見逃してしまったのもそうだが、何より決定的な敗北は、
『義眼のある至近距離』に、ミサイルの着弾を許してしまった、のを、鐶に、見られたコト。
『やはり怨霊の防御は自動ではない、リバースが他に気をとられている状態であれば、攻撃は、その威力の高低に関わら
ず必ず届く』。義妹の瞳は相変わらず闇色で虚ろだが、確定と確信にいま凛々しく絞られた。
 軽く殺して終われるはずの末端2匹に弱点を……! 憤怒の幹部の苛立ちは、募る。連中はただ最期の仕事に全霊を
尽くしただけだ。防御障壁攻略などカケラも頭になかったに違いない。なのにそれが戦士側にとって最後の関門というべき
怨霊防護の弱点を暴いた。
 巷間によくいう『正しいコトを全力でやった者にだけ起こる奇跡』のようなコトをハエに起こされたのが不愉快で、たまらな
い。世界はどれほど自分を呪っているのだろう、リバースは美しい髪を掻き毟りたくなる衝動に駆られる。自分がまだ正し
い心でボランティアをやろうとしていた時はちっともそういう奇跡を与えなかった癖に、ようやく自分が運命に決然立ち向か
おうと決意できるまでに立ち直れた今日この日、首を絞められているとき助けもしなかった正義(ハエ)に、不要なる加護を
与え余計な邪魔を無駄に強めた。

 必ず殺す。この場の戦士、全員、必ず。

 ただ八つ当たりだけを求める。
 いつからか自省を失くした狭量な心は、その劣等感を転嫁でしか晴らせない。
 己の手落ちを認めてしまえば本当にもう、何もなくなるから、あとはもう世界から責められ続けるだけと誤解しているから、
反省して償ってやり直すという、真の意味で強くなれる再出発を選べぬまま終わってしまう。
 そういう人間をたくさん見て、たくさん愚かだと笑ってきたはずなのに、いざ自分が”そう”なると、抜け出せないのだ人は
誰しも。傷ついたとき取得した正義が、幾万回も脳内で繰り返した抗弁が、そのときそのときの本当に選ぶべき道を選択
できなくするのだ。さっぱり忘れ去った方がいい『怒り』に囚われるあまり、目先の報復や八つ当たりを優先するあまり、ます
ます追い詰められる袋小路へ自ら赴いてしまうのだ。

 リバースだって本当は一番いい手に気付いている。

 戦士など無視すればいいのだ。先ほどの無銘らの感得の繰りかえしになるが、リバース、いまほど離脱すべきタイミング
もない。レティクルから仰せつかった足止めの任はもう充分すぎるほど果たしたし、念願だった義妹との決着だって、『生涯
ずっと殺さず殺されずの半敵対でいよう』で落ち着いた。しかも彼女の博物的新境地の概要だって掴んだ。組織に持ち帰り
検討すれば幹部各員、音楽隊副長という大駒への予備知識を得られる。各自の生存率を上げる……尖兵としてこれ以上
ない功績だ。
 しかもリバース自身、新たな能力に目覚めてもいる。さらには戦団の新人王や撃破数3位、津村斗貴子といった強者に
すら一定以上の損耗を与えた。
 引き際だ、どう見ても。怨霊障壁がまだ攻略されないうちにさっさとブレイクと合流して離脱すれば、それだけでレティクル
側の勝率は跳ね上がる。防御力低下によって予想外に剥落が早まった肉体と武器で戦地に留まるのは危険でしかない。
 一刻も早く金星と接触し、傷を治し、必中必殺を解除し、総角の方のそれと、防御力低下が収まるまで安全なアジトの奥
でじっとしているのが、絶対に安全だし、楽だ。マトモな判断力の持ち主なら誰だって必ずそうするだろう。勝っているときこそ
深追いは控える。世界の主流のしているコトだ。

(そうよ。勝ち筋で銃がボロボロなせいで、今や核を筆頭とする総ての特殊弾は……使えない……! 浸潤初期なら数発ま
では耐えられたでしょうけどここまで脆化が進んだ以上、強力ゆえ反動もすさまじい特殊弾は……その放出それ自体が銃を、
壊す。完全に破壊する……!)

 そもそも張り付けられた高速連射の強制の中では編纂それ自体がすでに極めて難しい。
 おとなしく撤退し、時間をかけ、銃と肉体を完治させた上でふたたび戦場に戻れば、実力上、絶対に、安全に、殺戮を再開
できる。極端な話、狙撃手の文法で、核を撃っては逃げるのゲリラ戦を繰り返すだけでも戦団に相当な被害を与えられる。

 だがそれでは腹の虫が収まらぬリバースだ。
 怒りはいますぐ晴らしたい。いますぐでなければ治療中憤死してしまうとまで脳髄はもう、煮立っている。
 誤った正義の行使において実母のトラウマを刺戟した連中の一派には、たとえあの連携に加担していなかった者であっ
ても徒党として責任を求める。つい今しがた殺した奴らが、得体も知れぬ雑草の、折れた茎から流れるマスタード色の液
体より苦い後味を味蕾の上にたっぷり塗りたくって遁(に)げ謝(さ)ったのなら尚更だ。

 だから南側の非戦闘員を全員殺す。

 しょせん搾りかすのような連中だ、殺さずとも大局に影響はない、その程度の連中のために深追い的な残留を選択するの
は絶対に危険だ、思わぬ戦士の思わぬ一発逆転の目論見が漂っていたならどうすると辛うじて残った理性が警鐘を鳴らし
てもいるが、憤怒にとっては脳髄という小局の激発を鎮める方が大事だ。

 怒りは修復速度を速める筈なのに、しかしサブマシンガンの崩壊はむしろ加速しているようだった。
 そちらの防御力低下はサクロス破片の鏡映で与えられたものだというのに、創造者が死に、武装錬金が核鉄に戻ってな
お、解除の兆候ひとつ見られない。いやむしろ死と破壊が逆に威力を高めているようだった。
 それこそ怨霊の呪いだ。群れを纏い統率するリバースに恐怖などあろう筈もないが、確かにみたのだ。少年の着ていた
スーツや青年のつけていた片眼鏡が、ちらちらちらちら、怨霊の群れの中、たしかに……。

 呪詛の声すら意識を奪う。あんないい先輩の殺しの片棒をよくも……。300年未来から連れ添っていた血友ふたりをよく
も……。血の凍るような冷たい声だ。生々しい鉄錆の匂いのする赤い汁気の手すらねばねばと髪を引く。うざったい。気迫
によって雑念を消し飛ばす幹部であったが余所に気を取られた隙を見逃してもらえる立場では決してない。鐶。新たな戦死
者ふたりに報いるべく彼女はもう背後から殺到している。

(もしお姉ちゃんがここの戦士(ひと)たちを全滅させたら……)
(次はアジト急行組だ!! 栴檀ふたりや中村どものいる分派の向背をこやつは必ず、衝く! 殺す!)

 治癒を施せるグレイズィングのいるアジトにリバースがやがて必ず戻る以上、避けられない惨劇だ。だからこそここで止
めねばならない。困憊した鐶も非力なる龕灯も決死の気配をみなぎらせている。

(倒せるとすればこの5分! もしそれを過ぎれば……!)
(師父の必中必殺は自動的に解除! 細胞由来の完全再現のリミットを迎える!)

 そうなった瞬間、リバースは自らに施した銀鱗病を解除! 剥落が完全終了しさえすれば、世界から集金する怒りのエネ
ルギーは瞬く間に彼女の体を癒すだろう。引き換えに二次感染という刃を失いもするが、肉体が完全回復した場合のリバー
スにはまだ『殴る蹴る』がある。それを今控えているのは、ボロボロの銃に縋っているのは、肉体があと一撃で終わるからに
すぎない。治った後でならば彼女は銃なしの近接を気兼ねなく、やれる。もちろん津村斗貴子という司令塔の復活は絶対阻止
すべき案件だから、彼女に銀鱗病を掛けている方のサブマシンガンは死守せねばならない。熱衝撃のあと肉弾戦も忘れ
うろたえたのは”そこ”が危うくなっていたからだ。強者だからこそリバースは、斗貴子の指揮能力を鐶並みに評している。

 つまり追い込まれてはいるが、一定期間しのぎさえすれば必ず勝てるのがいまのリバース。

(あの義眼が施してきた脆化だって……永続する保証はない!)

 そも執念によって死後も効力を遺している時点で既に奇跡とリバースは思う。撃ち殺したうちどちらかの投げてきたもので
あるコトぐらい状況的にわかっている。

(執念は見事だけど、半日以上続くコトは有り得ない。1時間、いや、ともすれば10分後に完全消失する可能性も)

 それは月吠夜クロスがサブマシンガンに施した防御力低下も同じだ。

(だから時間はかけられん!!)。龕灯は予期する。これが最後の攻勢だと。
(年齢操作!! 5分以内に必ず……!!)

 大上段に振りかぶる鐶に対し。
 忌々しい。振り返るリバースの目つきは黒曜石の鏃(やじり)の如く、凄まじい。

「どうやらもっと怒って欲しいようねアナタもみんなも……!!」

 睚眥は爆発的事象を伴った。リバースを中心とする無数の空気が破裂が放射状のさざなみとなって世界を蝕んだ。

(二次感染狙い……!?)

 体の、50cmほど前に、無数の羽根を集め作った棺型の盾で鐶は直撃を避ける。その耳朶を生ぬるい息が撫でた。

「俺はちゃんと……送迎車を呼んだんだ」

 聞いたコトのない男の声がゆらゆらとする。頭部の後ろで「何か」が息せきながら訴えている。振り返る勇気など鐶には
ない。頚部からの下り坂にねっとりとした汗をただまぶすのみだ。

「飲み屋に送迎車を呼んだのに、運転手が無茶な運転をしたんだ。最初はおとなしかったのに無線で何かどやされてから
急に怒り出しそしてアクセルを踏み込んだんだ。場所は国道、国道だった。130kmは出ていた。俺は必死に止めた。運転
手はますます怒った。俺の右腕が奴の左腕に振りほどかれたちょうどその時だ、コンビニの駐車場から4トントラックが出
てきて…………!」

 視界の端を男のような影がのぼってゆく。エレベーターですれ違ったときのような軌道だった。2つの違う点は相手がそ
れ以上の急勾配であり、しかも上半身の半ばから下には脊柱しかぶら下がっていない。

「なんで俺がこんな目にぃぃぃxぃぃぃxぃぃぃx!!!」

 たまぎるような絶叫と共にさかさになって視界に雪崩れ込んだきた青白い男に鐶の虚ろな瞳はあやうくぐろんと剥きかけ
た。

 怪異は、複数だった。先ほど空気が破裂したあちこちの座標から、黒い靄に覆われた手や髪が、ずるゥり、ずるゥりと
緩やかに這い出しつつある。

「あの子、あの子はどこ」「苦しいよぉ、見つけてよぉ」「ユルサナイ……」「おんやあ、おんやあ」「あはははは」「私の、家ぇ」
「水をくれえ」「腕よぉ、腕を返して」「来るぅ」「遊ぼうよ、お姉ちゃん」「ええん」「こっちだよ、コッチ」「とおりゃんせ、とおりゃんせ」

 恐慌しかけている少女を旋(めぐ)る世界のあちこちから低くくぐもった声が響く。鼓膜がじっとりと湿る。墨汁でも塗られた
ようだ。陰々たる妖気のささやきはなおも続く。出所で厚みを増してゆく黒の帳は錐体にけしてなじまぬ純正の闇だ。鐶は
さまざまな夜行性の鳥の目を凝らした。しかし網膜には粗い粥状のビリヤードグリーンした光の残滓のみが点在を続ける。
月照り映える宵の口であるにも関わらず何も見えない。”そこ”にだけ暗黒の栞を差し挟まれたような失明的虚無のみがど
ろどろと堆積していく。


 人が信じる言の葉は

 人を減じる音の派か。

 生地を寄越せと騒げても

 生地を焼くとは誓えない。

 作れぬために人から削り

 減じた分に葉を詰めて

 満足だろうと笑うから

 葉緑素は燃え盛る。

 思わぬところで、燃え盛る。


 血も凍る詩歌がドロドロととどよもしてきたのを合図に。

 どこからか死臭が漂ってくる。焼いた鮭を腐らせて肥溜めとともに煮詰め碌に洗っていない習字道具の析出をまぶしたよ
うなザラっとした香りに鼻腔を突かれた鐶は思わずえずく。頬が粟立つのは悪臭のせいばかりではない。新鮮な氷嚢を当
てられたようなきりきりとした冷感に死霊の腕を連想したのだ。だがそこには何もない。温度は頬だけでなく全体で下がっ
ているらしかった。前腕部や大腿部といった剥き出しの肌を寒気が撫でる。思い出すのは義姉に惨殺された両親の亡骸の
冷たさ。そればかりが鐶の肌を撫で回し唾を飲ませる。

『な、なにを仕掛けてくるかと思えば』。龕灯は務めて居丈高だ。『必中必殺の幻影のいわば延長線ではないか!! なる
ほど確かに怪異ではある! だが! 怪異などはしょせん揺さぶり!! 怯えねば、付け込まれる隙さえ作らねば如何様
にも対処できる!!』

 ち、違います。鐶は震えた。「今のはあくまで……第一波の……効力射……!!」。

 え。言葉の意味を解しかねた龕灯がきょとりとする間にはもう、狂笑する少女の全身から漆黒の波濤があふれている。
あっという間に彼と鐶を飲み干したそれはリバースを中心に広がる。放射状に、広がる。闇の嵐が吹き荒れてその範囲を
広げていく。

 そう。四方に戦士が展開している廃屋地帯の一地点から……あらゆる総ての、方位へと。


(状況が……整い始めた………………!!)

 広大な駐車場。縁辺にある街灯のあかりが一斉にふっと消えたのを見た泥木奉は黄色いナンバープレートを持つ黒い
NBOXの助手席でいよいよ覚悟を決める。
 停電の原因は、モノクルだった幾つかの破片めがけ血潮をぽたぽたと降らす電信柱だ。引込み線のあたりに引っ掛かっ
た”誰か”が電圧異常をもたらしたため一帯の商業施設はあらゆる電力を喪失した。窓の向こうにレジの林立が見えるスー
パーも、この世にあるありとあらゆる家電のジャンルを大看板に詰め込んで躍らせる量販店も、闇を青白く照り返す雪に
半分呑まれたハンバーガーショップも、入り口に横ッ腹を向けている蛍光灯総て総ての輝きを一斉に同時に落とし廃墟の
ように成り果てた。駐車場の街灯もまた同じ供給源であった以上、消えるのは当然といえよう。

(あとは……裁判長が荷台から完全にずり落ちた後だ。その後にリバースが、来る…………!)

 先ほどの第一波は駐車場にまでは届かなかった。ただ「音」を遠くに聞いただけだ。

 駐車場の区画線は選挙ポスターの掲示板と似ている。南北2列、東西5行に区切られた白線が、いくつもいくつも通行
用のスペースを挟んで整列している。そして泥木はとある区画の北中央のNBOXの中にいた。そこから裁判長の姿を
視認できるのは、彼が、交差点というべき通行区域を挟んだ斜向かいの、北西の区域にいるからだ。そこの南列の、西か
ら4番目に停まる軽トラックの荷台にいま裁判長は、いる。
 いる、というが正確には『引っかかっている』というべきだろう。
 銀色の縁に腰を乗せそこからだらりとバンザイしながら下方へとその上体を垂らしているのは何度見てもキレ芸で鳴らし
た法曹少年だ。顔が比較的無事だったのが逆に彼の死後の不幸だ。幼少期信奉者の兄によって掘削された眼窩は、平素
入れている義眼を自ら投げたせいで、くろぐろとした洞(うろ)だった。使命感のある人間ではなく逆恨みを裁かれた妖魔の
ような死に様だった。落下時、軽トラックの運転席の屋根にしこたま打ちつけた後遺だろうか。フタが潰れてなくなった頭は、
上半身が荷台から下向きに落ちかけている都合上、ある物を落としつつあった。皮ごと毟られざんばらになった黒髪の影
から、皺の浮いた茶色い思考器官が徐々にだが、ず、ずと重力に引かれその露出を大きくしつつあるのだ。

(……カップ入りのプリン。生き伸びても喰えねえな、もう)

 人体のどこかにある底面の棒を折られ通気のよくなった後輩に軽くえずきつつも冗談めかしてどうにか耐える。運転席の
音羽警は無反応だ。



 ひっと泥木が息を呑んだ瞬間、車内は揺れた。当たったのだ。合沓する黯(くろ)の波濤がフロントガラスに。リバースを
震源とする二次感染を孕んだ裂帛の気合は40m近く離れているここにすら到達した。それ自体相当の衝撃らしい。白銀
の蜘蛛の巣がいくつもフロント・ビューに芽吹いているのを目撃した泥木の心胆が冷える。

「直感、したのよ」

 波濤に胸まで浸かる鐶を前にリバースは笑う。

「私の気迫に乗った銀鱗病の二次感染はこの世に幽谷響(やまびこ)する怒りのエネルギーを以前より更に具体的な形で
現出できる……!! ふふっ、平たく言えば、浴びた人のもとへと雑多な霊だけでなく……『縁深きもの』の怨霊を……呼
べる……! さっきの第一波の音を聞かせただけでも……来る……!!」

 泥木の隣で音羽が緩やかに動きだした。注連縄や捩り鉢巻の皺を首で再現した死の姿そのままで現れた半透明の親友は、
ぎらぎらと光る眼差しを泥木に張りつけたまま、ゆっくりと、ゆぅっくりと、手を伸ばしてくる。振り払うコトなど友にはできない。
泥木はただ、がちがちと歯の根を打ち鳴らしながらその場に留まるほかなかった。

「怨んでいるのよ羨んでいるのよ散った人は生きている人たちをいつだって恨めしく思っているのよそれが幻影となって固有
振動数となって対象の肉体を剥落させるのよ」

 車座に取り巻きにじり寄ってくる霊を羽根の嵐で蹴散らした鐶は、飛散する幻影の中から、ガッシリとした。褐色の、刺青
を入れた大男が出てくるのを認めあっと息を呑む。龕灯もまた、同じだった。

(ホムンクルス……浜崎…………!!)
(L・X・E残党のひとりの……かつて私が斃した筈の…………!!)

 彼は変幻した。発光する細長い虫の体に幾何学的な蝶の羽根をあしらった異形の怪物へと変貌した。

(真・蝶・成体……だと!!?)
(ご、5分以内にお姉ちゃんを一撃しないといけない時に……!!)

 最悪の状況だと2人が思ったのはしかし浜崎の存在にではない。

(マズい。放射状に散った先ほどの気迫! あれはとても小規模で済むレベルではない!!)
(広がり……ました……!! 間違いなくここ以外の戦場にも……広がって…………!!)


 廃屋地帯南。非戦闘員集合地帯。


 第二波を咄嗟の気迫で裂いた師範チメジュディゲダールと財前美紅舞が直感した技の本質に振り返った時にはもう、
事態はもう、手の施せるものではなくなっていた。一帯の大気は丑三つ時が剥がれたような陰鬱な色彩の砂塵にざぶざぶ
と洗われている。



 更生鎧。19歳。西方縫刃流師範代。物体の『隙間』から潜り込み破壊する21本の匕首からなる武装錬金『ミートブラッド
インベード』によって救出作戦序盤来襲したディプレス=シンカヒアの魔手から鳥目誕を救うも失明。ほぼ全損した鳥目の
核鉄の代わりにと自身のそれを譲って以降は盲目ながらに刀五たち非戦闘員を何かにつけ励まし士気を保った。

 甲殻や装甲を纏う無数の怪物の霊が血まみれの姿で絡み付いてきた瞬間、彼は恐慌をきたした。光を失ったはずの
双眸が像を得ているコトが既に恐怖だった。周囲は依然かわらぬ闇であるにもかかわらず、怨霊だけは仄かに光り確実
に迫ってくるのだ。……。銀鱗病に罹患したものがいかなる被害を仲間にもたらすか知っているので、けして危害を与え
たくない更生鎧は手にしていた匕首のレプリカ武器の刃筋を頚動脈に密着させると、震えながらも引き裂いた。



 星幸杖印。21歳。13歳のころ共同体アジトから幼馴染の少女を連れて逃げている最中、戦部厳至に助けられ、以降戦士
の道を志した。核鉄は未支給だが3年前四国で発生した連続資産家殺人事件では咄嗟の機転により、時限爆弾を仕掛け
られた一般人87名と戦士4名の命を救い勲一等に叙された。昨年入籍した幼馴染は本年12月、最初の子供を出産予定。

 13歳のころ戦部厳至が斃した共同体の首魁が亡霊となって蘇っても杖印は黙然と腕組みをしたままただ睨み返した。
恐怖はあったが憎悪が勝った。幼馴染の純潔を散らした相手はずっとその手で殺したかった。睨んでいるうち変化が起こる。
亡霊がにわかに化した黒い錐が杖印の唇を無理やりにこじ開けその体内に侵入したのだ。ヘルニア気味の狭いノドをこじ
開け踊り食いをさせる錐にめいっぱい瞳を開き四肢をばたつかせるが、その頃にはもう総ての錐が体の中に入っていた。
 同時に響く、声。
 殺せ。殺せ。何者かの意思によって不自然に動く首。視界に入ったのは何度か指導した少女。黒い波濤の来襲に怯えなが
らも脂汗を流しつつ懸命に耐える健気な姿は守りたいと思う。殺せ。殺せ。心臓の鼓動の傍で声がささやく。おぞましくしわが
れた性別不明の老境だ。少女は、守りたい。なのにロングソードのレプリカ武器を握る右腕は意思と無縁に振りあがる。や
めろ。やめろ……! 意思が残っているのはこの場合、とんでもない不幸だった。
 自らの手にしている剣が守るべき後輩の肩にざくりとめり込む。必死に止めようとする。殺せ、殺せ。肺まで斬りおろした。
赤く錆びた花弁を吐き戻しつつ振り返った少女は信じられないという目で杖印を一瞥したのを最後、緑がかった眼球をで
んぐり返し倒れてゆく。
 違う、おれがやったんじゃない、声が、おれの中の、声が……! 首を振りながら泣き笑いする彼の胸の前に、赤く汚れ
た生の細腕が垂れる。罪悪でとっくに切れ切れだった呼吸がいよいよ擦り切れそうな響きを奏でる。ひたァりと氷のように
冷たい感触の乳房を背中に押し付けおぶさってきたのは……先ほど殺した、少女…………。



 軍刀五(いくさ・とうご)。16歳。名門だが汚職のウワサ絶えない本家を憂う少女。『よくできた祖母』によって改悛された
祖父に始まる分家らしく朴訥な現場主義であり剣道は四段。反射神経を高めるサーベル『リピートアクセル』は場数と境地
で無限に強くなる武装錬金だが、弱気な性分のため本救出作戦においては制式採用には到らず。財前美紅舞のファン。

 やってきた亡霊は凌げた。19号棟廃屋近辺における殺戮劇から逃げられず死んだ女戦士らが、位置的に、たまたま、
現場に行くコトすらなく終わっただけに過ぎぬ刀五を「見捨てた」と糾弾してくるのは恐怖だったが、しかし彼女らに償う意味
でも正しく生きると決断したのが呼び水だった。杖印と異なる運命の呼び水だった。
 13歳の美紅舞に16歳の刀五が憧れるのも奇妙な話だが、強くなりたいと願っている少女にとって、年少にも関わらず堂
々としている美紅舞はずっとヒーローだった。そのヒーローに少しでも近づきたいという想いが怨霊を凌ぐ脊柱となったのだ。
 が、凌いだ瞬間女戦士の霊たちは錐となり襲撃してきた。3つある錐の総てを刀五は裂いた。サーベルはレプリカのもの
しか支給されなかったが、常日頃たゆまぬ鍛錬を積んでいる身だ、並みの速度のものなら問題なく対処できる。しかし攻撃
直後の硬直を、死角から4つ目に狙われたとすれば話は別だ。右目の端を影が流れたと知覚した瞬間にはもう、錐は唇を
割っており──…
 斬風が吹いた。めくれ上がる黒い前髪の下にある刀五の目が捉えたのはジグザグに寸断され消し飛ぶ錐と、日本刀のレ
プリカ武器を振りぬいたまま「大丈夫?」と目線で訴える美紅舞。やっぱり憧れのヒーローだ。ピンチは必ず救ってくれる。
笑う刀五の左耳から血しぶきが飛び出し、その魂魄は魔天へ飛ぶ。斬り飛ばされた錐の断片は貫通していた。右耳から
入ったあと脳髄をずたずたにし、そして左耳から飛び出した。

(幻影を凌いでも錐が来て侵入、意思とは無縁に仲間を殺させる、上に……!)
(霧は接触前に迎撃しきれなければ終わり……! 一度接触したが最後、例え口の外へ出せても今度が断片が耳から脳
を貫いてくる。即死、させてくる……!!)

 3名の犠牲──杖印は暴れ狂う味方にノド笛を突かれ死亡──のみで能力のルールを把握する師範と美紅舞であった
が対処の仕様は、ない。

 31人中、実に25人。いま死んだ3人を含む25人もの非戦闘員が凶変していた。
 両目を銀鱗状に罅(ひび)割れさせた彼らが一斉に、さまざまな叫びをあげながら手にした武器を振り回し始めたのだ。幻
影にただ怯えている者もあれば錐を呑まされ殺意に駆られた者もある。後者は刀五の死を見た以上、放置するしかない。
だが放置された者は明らかに明確な殺意を以って味方を狙う。殺せ殺せという禍々しい声によって操られるのだ。

(幸い、強い精神力の持ち主なら、そもそも錐じたい発生しないようだけど……!)

 だから師範や美紅舞への影響はほとんどない。、潜水艦組3人も自由に動く。内乱を止めに入っている

(参ったね……! 銀鱗病は明らかに洗練されている……! 以前の必中必殺は暴走に指向性は与えられなかった。
けど今は感染者に限定的とはいえ明確な殺意を持たせている! 悪化、している……!! 確実に!)



 怪異は、とまらない。



 土星の幹部リヴォルハインに何百撃めかの黒色火薬を振る舞おうとしたパピヨンの、布のついた袖を野太い腕が前触れ
もなく掴んだ。冷たく見下ろした仮面の奥の瞳は鬱蒼と関心を失くす。タンクトップを来た筋骨隆々の男がモヤシ、モヤシぃ
と恨み言を述べている。『かつて似たような経験をしている』パピヨンにさほどの動揺はない。空中にいる彼の足元に、マッ
シュルームヘアーの陰湿そうな青年や、髪を分けた英語教師、豊麗で妖艶な女性、片目を隠した精悍な青年といった連中
がおどろおどろと輪郭をたゆたわせながら、脚に絡み、脇腹を撫でる。遥か下には無数の黒服。蔑視に見上げる父もあれ
ば粘っこい呪詛を漏らす弟も。

 相手取る土星の背後にもおぼろげな女性の影。肩には赤子のような形の黒い霧。

 蝶の化生と鉛の権化。ふたり、ぼろぼろと崩れてゆく……。



 火の壁の中。

 立ち尽くす泥まみれの老若男女は古戦場に居並ぶ十字架のようだと火渡は思う。みな、どこかが食い破られていた。
 更に顔は悉く水溶泥に穢されている。滑らかな子供の肌も、皺くちゃの老人の肌も。
 火渡の心は激しく軋む。
 彼らが何かをいうたび口に詰まった硬い泥がぼそぼそと零れる。梁、だろうか。太い木片が左胸から背中に突き抜けた
主婦が、しかしそのあたりには血を滲ませていないのは、木片の貫通が死後発生したものだからだ。右の横顔を見せてい
た彼女が踵を返した瞬間、泥の詰まった断面図が火渡に見えた。死因、であろう。そういうかじられ方をしたから土砂の
下で家屋の破片が刺さっても大出血しなかった。所在投げに蠢いて主婦が一転、ぎぎぃと真白な瞳を、隻眼を、向ける。

(赤銅島の連中…………!!)

 咥えタバコが落ちたコトにすら火渡はしばらく気付けなかった。脳のずっと労わっていた大事な部分が音を立てて崩れる。
獰猛な彼ですら飛び掛ってくる霊たちへの反応はだいぶ、遅れた。



「死ぬ! 死んじゃう! 殺されるぅぅぅ!!」

 火渡の傍で青銅巨人が狂ったよう駆けずるのは操縦権を委譲された鈴木震洋もまた二次感染を蒙っているからだ。
 操縦席の中、ひたひたとにじり寄ってくるのは信奉者時代見殺しにした仲間達。画策によって脱落させた者もいる。生き
残るために踏み台にした連中が、青や白のシャツをずっくりと赤く染めた『最期の姿』で念仏のような抗議をぼそぼそとしな
がら迫ってくる。
 情けない悲鳴を上げながら後ずさっていると背中にドンと硬い衝撃が当たる。壁。操縦席の境界に追いやられた。ひどく
損壊し流血する霊たちはなおも迫る。腹をくくった震洋はチェーンソーを発動する。165分割が死霊群を引き裂いた瞬間
かれは会心を浮かべたが、それは再生しゆく幻影たちによってすぐさま絶望に塗り替えられた。



 殺陣師盥は怨霊の群れの真只中に居た。100や200ではとても済まない無数の霊が狭いサブコックピットに充満してい
るのは、彼女の『来歴』ゆえだ。とある大事件の一大殺戮に関わったのがひとつの『原点』なのだ。故にいま戦場にいる戦
士の中でもっとも多くの死霊群に重囲されている。それら進行はライオットシールドの特性で遅延の限りに追い込んでいる
が、時間の、問題だ。ずっと続けばやがては群れに呑まれるだろう。



 ひしぃ、と足首をつかまれた総角主税はサブコックピットの床を透過しゆるやかに盛り上がってくる黒髪を見た瞬間、その
端正な顔を俄かに強張らせた。

「イフ……」

 リバースの前任。10年前海王星の幹部だった少年は総角によって殺されたものだ。盟主に敗れ落ち延びるさなか行わ
れた最後の果し合いは尋常に名乗りに端を発す堂々の真向勝負ではあったが、それでも結果イフという名の少年が恋人
と引き裂かれたコトに変わりはない。恋人……土星(ミッドナイト)ですら『万能をひけらかすあなたがどうして殺さず終えら
れなかったのですか』と涙ながらに仇を討ちにきたぐらいだ、同じ思いが当人になかった筈もない。

 足首を振りほどく間にも霊は上昇し全景を露にする。やや長めに伸ばした前髪を額に血糊でべっとりとへばりつけている
少年だ。あちこちが裂けたロングTシャツとカーゴパンツは見るも痛々しい。両目が髪に隠された妖気的な面頬を俯き加減
にしながらぼそぼそとおそろしい言葉を吐き続けている彼は、ひどく柄の短い西洋剣をだらりと垂らしてもいた。

(マズいっ! リバースの武装錬金の存続に全神経を集中せねばならぬこの時に、イフは、マズい……!!!)

 フィランギの武装錬金『レジェンドオブTA・KA・GI』の特性は血液操作!! 自他を問わず一定範囲内にある『血液』を
支配効力下におけるこの能力は、疲労物質の析出や免疫能力の向上といったプラスの効果も有しているがその本懐は
あくまで破壊!! 斬りつけた箇所に特性を一点集中すればたとえかすり傷でも大量出血させるコトができる!!!

 小柄な庇護欲をそそる、どこか鳩尾無銘に似た雰囲気の亡霊が剣を振りかざし向かってくる……。

(バスターバロンとマシーン。俺のスロットはもう2つとも埋まっている! 剣なしでいなすしかないんだ! 俺をも凌ぐ天稟
の剣士(イフ)を……!!)

 17世紀にインドの帝国を揺るがした武装集団『マラータ族』。小兵なれど精悍な彼らが好んで用いたレイピアと直刀の
相の子のような剣こそフィランギだ。それは確かに狙っている。総角の持つサブマシンガンを狙っている。壊しさえすれば
リバースの崩壊速度が半減するから……防御力低下の身上でも怒りのエネルギーで完全修復できるようになるから、亡
霊は複製短機関銃を壊さんと、するのだ。

(しかも)

 操られた大戦士長操る潜水服の巨人が廃屋地帯に向かいつつある。炎の壁が緩んだせいだ。火渡を赤銅島の亡霊
に襲わせたのはそのためだろう。
 自分ひとりですら既に限界の廃屋地帯に10m台とはいえ充分脅威な巨人を派兵しダメ押しするため、リバースは、戦団
最強の攻撃力がトラウマとする7年前の死者たちを差し向けたのだ。潜水服の監禁を解かせるためだけ彼の心の傷を抉
ったのだ。強化された心は谺する怨霊の選定すら可能にしている。

(高速なる潜水服を止めつつイフの相手、か……)

 フ、実に厳しい……。笑ってみせる総角だがその面頬は梨の断面より褪せている。



「リボン、リボンを返してええ」

 血で濡れそぼり顔面に張り付いた橙色の髪の奥から響く声が確かに姉、東里アヤカのものであるのに気付いた気象
サップドーラーは戦闘も忘れ立ち尽くす。3mほど前から淡い蛍火を纏いつつ緩慢に歩いてくる泥だらけの少女はそれだ
けで既に衝撃だった。撃破数3位といえど素顔は姉を失くした傷心いまだ癒えぬ少女なのだ、呪縛しかない。

(この辺、でしょうねえ)

 けくっと無音で笑う天王星は「ある行動」に移る。むかし兄と恋人が裏切ったとき殺しておかなくて本当よかったと思う。
無数の雑多な霊こそ纏わりついているが、アイデンティティを揺るがす近親者のものはいないため、理性は、保てる。


 リバースの性格の悪いところだ。ブレイクとリヴォルハイン、ふたりの仲間は二次感染の手心を多少誤ったところで霊に
など囚われはしないとわかっていたから、広域に能力を広げたのだ。亡き妻子への罪悪感が高じる余り銀鱗病なしでも
幻影に囚われている土星と、怨恨高じるあまり憎い存在を『絶対に殺さず、生きたまま苦しめる』と決めた天王星ならば
大丈夫だと分かった上で、局地的な加減のし辛い広域攻撃を選択したのだ。

 だからブレイクは。

 兼ねてよりの方策に、移れる。


 廃屋地帯の東の縁からごうごうと蝗害の如く月光を遮りつつ広がってゆく異常の渦。
 その中心から堪えようもない哄笑が巻き起こる。


「あはははは!! 使用者の精神に比例して進化するものこそ武装錬金……! 首を締める実の母親に抱いていた根源
的恐怖を克服した私の『マシーン』はいまやサンライトハートでいうところの『改(プラス)』……! 特性が向上するのは当
然、特性を反映する二次感染が強まるのもまた当然……!! ふふ、はははは!!」

 毛の鞠の肌のように幾重にも重なる暗闇の木枯らしの中のけたたましい少女はけして無傷ではない。肉体は、剥がれる。
 赤い切れ目がぴしぴしと頬に入る。古びた石膏像のような細かな破片が幾つも幾つも四肢から落ちる。淑やかなサマーセ
ーターも豊かなドレープの寄ったロングスカートも、切れとなって舞い飛んで、雪のような素肌を露にする。袖は前述の通り既に
なく、つるりとした丸い肩は剥き出しだ。裾をぼろぼろにした裙(くん)は産毛ひとつない細い足を膝の辺りまで覗かせている。
 虫食いは留まるコトを知らず、脇腹や大腿部、鎖骨さえも白月の下だ。それが血にぬめり割れ目に犯されてゆくさまは凄
艶という他ない。美しくも禍々しい妖魔が一笑するたび死の暴風雨が強まりどこかで命が消えるのだ。


「死ねばいいのよ戦士は総て!」


 依然として墨風に見舞われている廃屋地帯やや南では。


 現見にりり。25歳。かつては撃破数9位であったが9年前時限爆弾の武装錬金によって左腕を喪失して以降は事後処
理班事務方の女性職員としてサポートに回る。死別の傷の多い養護施設の児童たちの励ましになればと8年前から始め
た道化姿での慰労は当初隔月であったが好評のため現在では毎週である。美紅舞を五体満足で返すため債権者に志願。

 背中を侵襲した手槍は肝臓に達するものだった。


「だけどただ殺すだけじゃ済まさない!! 絶望し尽くすがいいわどいつもこいつも!!」


 幻影に囚われた中年女性戦士は槍をこねくり回す。五臓六腑が混淆される激痛で現見にりりはショック死した。


「味方! 味方よ! 自ら味方を殺すのよ! 罪の意識を背負うのよ!!


 竜巻馬上筒衛門。34歳。中学教師。戦団には9年前、受け持っていたクラスの生徒11人を共同体に惨殺されたのを
契機に加入。およそカードゲームと名のつくものに不得手はなく、数多くの大会で優勝。自ら発案した新ゲーム『ギンヌロ
バヌッツォン』は50人のモニターのうち38人から大好評。本年11月の発売を目指し、現在本格的に調整中。

 飲んだ錐の声にどうにか逆らった彼。中年女性戦士を突き転ばすだけで済んだ様子に安堵する。無数の足が彼女を
踏んだ。混乱の戦士たちに巻き込まれたのだ。やめろ。やめてくれ。頬骨や肋骨が砕かれる音に混じり、潰されたカエル
のようなうげえという機械的な呻きが混じる。耐え難い嫌悪感だ。きっかけを作ってしまったのは自分なのだ。転ばしさえ
しなければ彼女は踏み殺されずに済んだのだ。
 罪悪感から逃げるように、踏みつける戦士のひとりの肩に手を置き「やめろ」と言う。
 頬焼く銀閃は悲鳴の同伴者。どうやら馬上筒衛門を怨霊と誤解したらしい。
 あっと怒りが沸いた。味方を踏み殺しているコトにさえ気付けぬほど狂乱に支配されている者が、先ほどから辛うじてと
はいえ理性を保っている自分に不可抗力とはいえ危害を加えた。
 それでなくても味方殺しをやりかけている現状にとっくに限界の精神だ。誰だって怒りの一抹ぐらい抱くだろう。
 殺せ。
 声は波長の合うもの同士強めあう。山と山、谷と谷。ベクトルが合えば倍化する。
 殺せ。カっとなった瞬間滑り込んできた呪詛はいとも容易くレプリカの馬上筒を放たせた。
 首の後ろを朱色にしぶかせながら倒れていく先ほどの戦士。
 これで味方を救えるな。爽快な気分はしかし一瞬だった。自ら殺めた味方が今度は踏まれる側に回ったのを見た瞬間、
馬上筒衛門は己が何をしてしまったか認識し、悲鳴を上げた。


「どれほど強かろうと、霊に! 遺族に! 糾弾される恐怖を抱えたまま戦えば精細はやがて欠け、殺す付け目が必ず
出てくる!!」


 投げ捨てた銃の傍に屈み、踏まれている戦士2人を抱き起こそうとする馬上筒衛門は無数の刀槍を頭上から浴び事切
れた。やった者の何人かは己の行いを理解し頬を罪悪に波打たせる。


 恐ろしい修羅場の中、しかし写楽旋輪だけは、すーすーと、寝こけている。


(まったくのん気すぎるわ! 助けないと)


 動きかける財前美紅舞。気絶させた以上助ける義務があるが、殺戮と血河のさなか春の日向の子犬のようにポカポカと
寝ている親友の姿には腹が立つ。

(これほどの騒ぎの中ずっと無傷な強運は凄いけど、踏まれたらどうすんのよ!)

 頭から零れかけた湯気は、一瞬、一瞬だけ、(ずっと、無傷……?) ある可能性を手繰り寄せかけたが──…
 新たな悲鳴によって打ち消される。
 その瞬間の美紅舞は気付かなかった。一度はゆきついた可能性を深く掘り下げなかったコトが、死ぬまで自分を苦しめる
呪いに化けてしまうコトに……気付けなかった。
 だが、悲鳴に打ち消されなくても結果は……同じ、だったろう。
 いずれにせよ美紅舞が死ぬまで、死ぬ以上の苦しみを抱え続けるのは、とうに決定、していたのだ。


「仲間殺しの咎を戦士に負わせればさあ!! たとえ万一仕留め損ねたとしても大いなる傷だけは必ず残せる!!!
何十人という戦士を! 一生! いつこの咎を責められるのだという恐怖で苦しますコトができる!! 精神的には死んだ
も同然に追い込める!!」


 透構ウラス。17歳。ブラジル日系2世の少女。偶然みかけた戦士とホムンクルスの戦闘から戦団に辿り着き戦士に志
願。戦闘能力は論外であったが、近年増加する外国人被害者との折衝において8ヶ国語を操れる彼女はいまや戦団に
なくてはならぬ存在だ。人柄は非常に温厚。ステージ3の肺がんで闘病中の母曰く「唯一の希望」。

 財前美紅舞により一度は乱闘の輪の外へ引きずり出されるも、投擲された日本刀が鍔元まで右目に刺さる。検視結果は
即死。


「何の罪も犯していない? 守るべき? どこかの誰かの大切な人を、ふふっ、ははっ! 奪ってしまったのは自分なのだ
という心の傷を、死ぬまで! 永遠に! 抱え続けるがいいわ!!!」


 日本刀を投げてしまった青年はその先で起きた悲劇にガチガチと震える。狙ったのではない。錐がもたらす殺意の衝動
から目の前の女性を救うため、ただ武器を放り投げただけなのだ。乱戦のなかのいわば事故。だが。

(ドウシテ、コッチに、投ゲタノ…………?)

 鍔を右目に当て鍔をそこから立てる流血の少女の霊が、横合いで静かに囁いたとき青年の心は崩壊した。


「それこそが私の復讐なのよ!!! 味わうがいいわ私のトラウマ! 実のお母さんに首を絞められた挙句産んだコトす
ら過ちだと否定されたあの苦しさあの悲しさ!! そっくりそのまま戦士全員に与え苛み続けなければこの怒り! 到底晴
れはしないんだから苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめ苦しめえーーーーーーーーーー!!
あーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはアアーー!!!」


 漆黒の暴風は止まらない。鐶光にすら止められない。


 雷への同化を図っている最中、不意に何事か姉の亡霊に囁かれた天気の少女は生身のままハルバードを喰らう。
 吐血し、膝をつく彼女の前で天王星は踵を返す。向かうのは潜水艦の壁。突破し、恋人と合流するつもりか。霞む視界
の中めいっぱい手を伸ばす気象サップドーラー。だがそれは白いブラウスを血と泥で汚した姉のフレーム・インによって
遮られる。「リボン、リボンを返してぇ……」。虚脱したまま寄ってくる最愛の姉への迎撃はけして容易いものではない。

 アリス・イン・ワンダーラントの経緯から亡霊に耐性のあるパピヨンすら、固有振動数崩壊は蝕み壊す。同様の現象は相
対する土星の幹部リヴォルハインにも生じているが、焼き尽くしても焼き尽くしても細菌1株あるだけで『社長』に設定し蘇っ
てくるのが彼だ。
 つまりパピヨンの崩壊は戦線の崩壊を意味する。
 私怨とはいえ結果として幹部ひとりを抑えている彼がいなくなれば、リヴォルハインは悠然と廃屋地帯に行くだろう。ドクト
アと仰ぐリバースの加勢に向かうだろう。
 鐶光の鳥の能力と同量か或いはそれ以上の細菌感染能力を操り、現状では完全殺害の糸口すら見えてない土星の幹
部による”あの”リバースの補助はそのまま戦士側の敗北を意味する。

 固有振動数なき不定形の炎でさえも術者の罪悪感に付けこみ、根本的な火炎同化への集中力を乱すコトで散らしていく
赤銅島の死者たち。怒号する火渡の気迫もどこか萎えている。その間に潜水服は廃屋地帯に飛びつつある。距離残り4
00m。試みる炎の壁の再展開は最高速への突入こそ阻んでいるが足止めの役にも立ってはいない。平素なら容易く成せ
るコトはいま、亡き島民達に悉く妨害されている。幹部ふたりに加え潜水服までもリバースに加勢すれば錬金戦団総てが
詰む。音楽隊すら、滅ぶ。

 転倒した鈴木震洋がつま先の向く方へ、ずるり、ずるりと引かれていくのは『いない筈の者たち』が引っ張っているため。
 極力低速にしていた無数の霊がもう2mの距離にまで迫っているのは殺陣師盥。

「はあ、はあっ、はあ……!!」

 夥しい流血の中で総角主税は発砲を行う。銃は剣ほど熟達していないが現状頼れるものは他にない。霊が壊さんとする
サブマシンガンを破壊から脱出させるには抵抗しかない。

(DNA由来の複製である以上、どの道あと3分ほどで解除されるが、だからといって死守せん理由にはならん!! リバー
スへの固有振動数を解除したが最後、奴はこの世に満ち溢れる怒りのエネルギーでその肉体を修復する!! 激戦並み
の修復を太平洋上のヴィクターの文法でやっているのが今の海王星だ! 剥落は、要る! 俺が奴の肉体を固有振動数
で壊し続けねば、疲弊した鐶などあっという間にやられる!!)

 伸ばした銃剣で数合打ち合う。乱れ狂う石火。だがグリップは柄ではない。本家リバースですら鐶にさんざんと”握り”の
違いで追い込まれていたのだ。剣身から見てL字に飛び出たものを把持しつつの剣戟は力の伝達が、悪い。剣の大家た
る総角でさえも徐々にだが追い込まれてゆく……。



 怨霊の壁の向こうからひっきりなしに来訪する吹断をさまざまな羽根の障壁で捌きながら、龕灯と、副長。

(師父の剥落が終わる前にリバースを倒さねば)
(終わり……です! 他の戦線に引きずられ崩壊する、ここまでも! 抑えられていたブレイクさんやリヴォルハインさんた
ち他の幹部が来られたら私にはもう、術がない!!)

 そして総角主税の必中必殺が終了するまで残り3分28秒。

(それが過ぎれば私は完全回復できる!! 世界に響く怒りのエネルギーの摂取で! 傷を! 完全に治した状態で!!
ブレイク君とリヴォ君ふたりの援護を受けながら……戦える!!!)
(そうなる、前に!!)

 倒す!!
 鳥目の核鉄から発動した輝く短剣が真・蝶・成体の亡霊を切り裂く。

 やった。義姉に向き直った鐶の眼前に広がったのは、飛び出した目玉を虹色に螺旋させる大男の顔だった。

『いいいいいかせんぞ鐶光ぅぅぅぅ。ちちち竹林の恨みみみみみ、晴らすすすすすす』

 真・蝶・成体は、蘇る。

 8体になって、蘇る。

(1体だけでもおぞましい蝶の園の最終関門が……!)
(増殖、した……!)

 鐶とリバースの間を塞ぐように、いや、確実に塞ぐため出現した悪霊の根を絶つ手段はない。
 大口を開け、黒い白眼に血の光爛々と灯すリバース。


「詰みかもねえ光ちゃん!!」


 同時刻。

 歌舞伎町のドンキホーテの前でタクシーの順番を巡って殴り合っていたチンピラとヤクザの動きが止まる。
 道頓堀のづぼら屋で内縁の妻の首に果物ナイフを当てていた男がそれをポロリと取り落とす。
 中区錦のテレビ塔近くの民家で、暴力を振るう引き篭もりの息子の寝顔に濡れたタオルを押し付けていた老婆も突然
ぼんやりと脱力し天井を眺める。
 博多区中洲の裏道では、男を巡り頬を張り合っていたホステスたちがいきなり散会しめいめいの道へ。
 すすきののラーメン店では中年サラリーマンに味を酷評された頑固親父がふっと怒鳴り声を飲み込む。
 那覇市久茂地川近辺の階段の階段で座り込みを注意したばかりに少年にネクタイを掴まれていたサラリーマンが、不意に解放さ
れ尻餅をつく。

 誰も、気付かなかった。
 虚脱の直前、彼らの体の輪郭から薄く紅がかった靄が剥がれ虚空へと飛んでゆくのを。

 同じ現象は全国で発生した。
 北海道で、東北で、関東で、近畿で中国で四国で九州で、沖縄で。怒りによって発動するあらゆる罪の行為が寸前で停止
したのだ。

 それは、一致していた。
 リバース=イングラムが必中必殺を克服してから廃屋地帯の黒い風が止むまでの時間帯そのものだった。

 後に警視庁はそれを奇跡の時間と呼ぶ。
 偶発的な事故を除く総ての通報が停止したのだ。

 喧嘩も、人質も、殺害も、抗議も反発も難色も舌戦も陰口も、およそ怒りに起因する活動の総てが停止した。

 日本国民は憤怒を忘却したのだ。
 イザナギイザナミが海を矛でかきまぜて以来始めて神州は怒りなき時間を体感した。

 ただ一点を、除いて。

 8体の真・蝶・成体の向こうに鐶は見た。
 剥落し、ゆで卵のような美しい肌を露呈していた義姉の細い肢体の異変を。
 妖しげな赤いひび割れが少しずつ埋まっていく。埋まるたび必中必殺の効果でぱらぱらと石膏像のように崩れるが、再生
はまた始まるのだ。防御力低下で脆くなった筈の体の再生が……追いつき始めているのだ。

(リ、リーダーの必中必殺はいまだ継続中、なのに……!)
(それさえも上回るというのか! 奴の、怒りは!!)

「違うわよ。これは、ふふ、これは皆の力……」

 うっとりとリバースは呟く。

「命総てを等しく慈しんだ結果殖えに殖えた馬鹿どもに制限され抑圧された人たちが、それでも自我の最後の一線だけは
守ろうと発するエネルギー、それが憤怒よ……」

 真・蝶・成体をさまざまな鳥の能力で裂く。

「故にこれは平和がいまの形である限り尽きないわ。言葉でならば権力でならば人を傷つけてもいいと嘯く卑劣たちが現世
の主幹に居座り続ける限り人は鬱々ジクジクと憤怒を溜める。溜め続ける」

 再生される。戦局は、膠着する。あと一撃で倒せる幹部なのに、臣下のせいで届かない。

「能無しどもが誤ったコトを口先や辞令で無理強いするのだもの当然よ。殴って、殺して、排除して、スカっとしていく方が
『人に支えられない人』を進化樹形図の埒外に飛ばせるのに、人間全体の品質を向上できるのに、人間を育てる資格など
ない人間から生まれる私のようなどうしようもない凶悪の者が二度と生まれず済む世界を構築できるのに……ふふっ、誰
もが目先の法治に迎合し、諦める。諦めつつも半端な怒りだけは終生抱え続けあるとき些細なきっかけで、爆発する」

 私は”それ”を吸収する。吸収して力にする。

「誰しもが怒りを抱えている。ぶっぱなして蹴立てられた後ですら長年ずっと思い続ける! どうせ罰を喰らうならあの時
もっと叫んでおけば良かったと! 許せぬものを徹底的に壊しておけば良かったと!! まどろみのなか甘く甘く恋焦がれ
る!! 口達者どもが安全のために作った規則の中じゃ殴り合ってスカっとして分かり合うなんてコトできないから!! 優
しい人ですら何がしかの怒りは死ぬまで抱え続けるのがこの世界! 誤った世界!! だから憤怒(わたし)は尽きないの!! 
正義で怒りは消せないの!! 怒りは結局更なる巨大な怒りでしか壊せない!! だから小奇麗でマトモなあなた達は叶
わない! 私の怒りに及べないから……倒せない!!」

 そうやって怒りを吸収する機構を繰り返せばやがては児童虐待すら消えるでしょう。怨恨の殺人も、窓ガラスを割る生徒も、
嫁姑間の諍いも、果ては戦争さえもなくなるでしょう…………ゆっくりと呟くリバース。

「ふふ。光ちゃん。本当に私を倒す必要……あるのかしらね?」
「……っ」
「そりゃあ戦士は殺すけどさあ、私がいた方が案外、人類にとってはプラスなんじゃない? だって怒りという負の感情を
総て一手に引き受けるのよ? 私が生きている限り、世界の誰も、怒らない。誰も、怒られないのよ? 遅刻した生徒を
先生がどやしつけるコトもなければ、成績の振るわぬ営業マンがバーコード頭の部長にがなられるコトもない。ネットに
はびこっている無数の心ない言葉だってなくなる。いじめもDVも遺物になる。ささいな怒りによる交通死亡事故さえも
絶滅。何より私が破壊した家庭の遺族が光ちゃんに目をつけない。だったら最高でしょ、コレ」

 提案を聞き終えたとき、龕灯の中の無銘は、まず。

 鐶がリバースに同調したとき、どう止めるかを考えた。
 それほどまでに彼女の言論は魅力を持っていた。麻薬を見てもわかるように、魅力は正しさとは別のものだ。むしろ
人道に反するからこそ伸ばされる手の絶えぬむきさえある。

(ともすれば盟主や、他の幹部でさえも)

 リバースの怒りの吸収によって無力化される、かも知れない。
 どころか他のホムンクルスすら二度とは、人を。『なぜ自分だけが空腹なのだ』という怒りで食事をする者が大勢ならば、
リバースの存在は要石(かなめいし)たるかも知れない。

(だが供物を要する要石だ! 少なくてもここに残った戦士たちは必ず死ぬ! アジトに行った者たちもだ!! そして戦後
リバースはまた殺す! 己の意に沿わぬ者は必ず殺す! なぜならば奴だけは憤怒を保持するからだ! 人類全体のそれ
を代表格して激越が今より減るとは到底思えん!!)

 だがリバース自身の生存のみは担保される。犠牲は出るが平和も訪れる。だから無銘の中の鐶は転びそうなのだ。同調
したら説得せねばと焦らせるのだ。

「私、は…………」

 桜色の唇が開いた瞬間、少年は息を呑んだ

「私はそんな訳の分からない救世主を得るため戦ってきた訳じゃ……ありません……」

 言葉の意味をつかみかねたのは無銘だけではない。リバースもだ。

「私……が、ずっと…………取り戻したかったお姉ちゃんは…………家の中でずっとニコニコしていて……土曜日になる
たびドーナツを焼いてくれて…………好きなアイドルのCDを楽しそうに聞いていた…………そんな、お姉ちゃん、です……」

 世界全部がどうこうとか、どうでもいいです。虚ろな声が少しずつ力を篭めていく。

「誰かを! 傷つけるコトを!! 平和にしているのだからいいんだって逃げ口上打って誤魔化すような人と一緒に暮らす
ために私は頑張ってきたんじゃ……ないんです……!! ただ、戻って欲しかった……だけ、です……!! 私が遠くで迷
子になって不安なとき、いつだって笑顔で駆けつけてくれた……そんな優しい、お姉ちゃんのままで……よかったんです…
………!」

 痛打され、瞳の色を正常と清浄に戻しかけるリバース。だが一瞬俯き、唇噛み締め震えた彼女は、やわらかな髪揺らし
つつ、叫ぶ。

「その当時の私が私の一番嫌いな私だった!! 無責任な親に何も言えず何も反撃できず……! 我慢した結果がアレ
じゃない! お義母さんに何も配慮されずただ一方的に殴られただけの、惨めな末路に、行き着いたのよ……!!」

 総角主税の必中必殺解除まで、残り、1分18秒。
 リバースと鐶の距離、直線で、10m。
 その間に立ちはだかっている真・蝶・成体は、8。

 ごうごうと大瀑布よりも鼓膜を撫でる風の中。

 海王星幹部は牙を剥き、笑う。音楽隊副長は虚ろな瞳に粛然の人魂を、灯す。

「もう止められない。何を言おうと私は戦士を全員殺す! 希望(のぞ)む妹を、捻じ伏せる!」
「絶対止めます!  何を言おうと私は戦士を全員守る! 絶望(のぞ)む姉を、立ち直らせる!!!」

 計算も何もないただの全精力だった。展開した羽根から名前のとおりの現象を鮮やかにきらびやかに解き放った鐶は
リバースを守るよう縦列した真・蝶・成体8体総てを真円に穿ち、散らし、あっという間にリバースの眼前に辿り着いた。

(怨霊障壁を抜けた!? っ! そうか! 速度!! 認識しうる速度を超えたのか!!)

 思った瞬間、しかし龕灯の中の忍者は「待て!」と胸中叫ぶ。

 鐶はもう振りかぶっている。日本刀ほどの刃渡りになった光剣の辿る袈裟は明らかに直撃軌道だった。
 が!!

「光、光ぃ、お前に構いすぎたせいで、俺たちはぁ」
「あなたが、あなたが手紙なんか飛ばすから、そこから、総てがぁ……!」

 絡み付く四本の腕に少女は固まる!! 父と、母! その怨霊が、絡み付いている!!

(なぜ!!? 生き返っている筈なのに!)
(だけど一度は死んだのよ私が殺した! 殺した以上その時の『思念』は霊となって彷徨っている!!)
(お姉ちゃんのこの目、まさか!)
(そうよぉ! 最初から最後の手段にするつもりだった! 光ちゃんが、私の想像を絶する攻めを見せてきたらお父さんと
お義母さんの怨霊で足止めするってね!!)
(やはり! コンセントレーションワンを殺到する鐶に用いなかったのはこのせいだ! 怨霊で足止めできると踏んでいたか
ら奴は連発できぬ眼力を……温存した! 次なる一手に備えるために!)

 交錯する三者の意思! 
 その間にも銃口は短剣を捕らえている!! 嚠喨たる破裂音!! 
 哀れクロムクレイドルトゥグレイヴ、断片となって舞い飛んだ!!

(至近距離だから核鉄に戻すだけって器用な破壊はできないけれど!! まぁいいわ、これで!)
(私の核鉄は……全……滅……!!)

 年齢操作による一撃必殺がいま、失われた! 動揺する鐶はしかしその体を義姉にブチ当てる! 【旅の経験値】!!
銀成学園で攻防した斗貴子に最終盤で徒手空拳を用いられ虚を衝かれた経験を、鐶は、活かした!! 計算も何もなく
ただ砲弾のような勢い赴くまま義姉の胸に肩を叩きつけ、そのまま! 水平に! 飛ぶ! 飛び続ける!! 義姉はかつ
ての義妹となった! これまで数々の読み合いを演じてきたからこそ! 決まったと思った瞬間勃発した強引な体当たりの
真意がつかめず、裏を疑い、居付き! 選べたはずの、『至近距離なのだから銃撃すればそれで終わる』という最も手っ取
り早い手段を刹那の間だが失念した! だが! 超高速の鳥型にとって刹那とは無限! 義姉がわずかにまごつく間には
もう鐶、かなりの距離を貫通した! 年齢操作で生えた平屋建てやビルといった建物たち20棟近くをリバースもろとも粉塵
あげつつ貫通していた! なおも低空飛翔を続ける! 廃屋地帯から少しでもリバースを離さねば戦士たちは間違いなく全
滅するのだ!! だから体当たりしながら飛ぶ! 少しでも凶悪を廃屋地帯から遠ざける、ために!!

(分かってて許すと思う!?)

 理解が追いついた瞬間、フルオートの吹断が鐶を食い破った。
 そして止まる、リバースの移動。
 ……。
 暴走する反動のせいで背後に一瞬左側の銃の口が向いた瞬間、どこかで何かが破裂した。

 音楽隊副長はくらりとよろけ、しかしすんでの所で直立を保つ。龕灯は、ついてきていた。サイホウチョウの、糸で。

 総角主税の必中必殺解除まで、残り、57秒。

 ……ここで遂に、月吠夜クロスが晩年サブマシンガンに仕掛けた防御力低下が減衰の兆候を見せ始めた。
 みりみりと割れ目が埋まっていく愛銃にリバースは、白く連なる珠が奥まで見えるほどに口を開け高く笑う。

「あはははっ!! 戦士が苦労して仕掛けた熱衝撃の勝ち筋もいよいよ終わり! 通貨のコが遺した最後の核鉄も破壊!
総角さんの必中必殺も弱まりつつある! 私に敗れ疲弊した光ちゃん!? こっから果たして、覆せる!!?」

 広い広い『場所』の交差点というべき地点にけたたましい笑いが響く。二次感染の黒死風もまたそよぎ始める。
 2つある銃口を義妹に向け悠然と笑うリバース。
 必死に策をめぐらす鐶だがその顔に浮かぶ敗色は、濃い。
 龕灯にも術はない。強制高速を銃に張り付けた時点で出来るコトは払底している。

 物音がした。鐶はリバースの肩越しの向こうに、戦闘とは無縁の、わずかな異変を認めた。
 どうやら先ほどの銃弾が4つあるタイヤのうちどれかを貫いたらしい。パンクし、傾いた拍子に、それまで引っ掛かってい
た物体が、いま地面に落ちて、弾んだ。
 音楽隊副長は弾んでいるものに見覚えがあった。軽トラックの荷台の傍で、バウンドして固い体をアスファルトに叩きつ
けた少年は確かに、何度も、見ている。法廷で、見ている。

 決死の思いの鐶がリバースともども辿り着いたのは、商業施設近辺の──…

 駐車場。
 そして鐶の背後に停まっている車たちの中に紛れているのは。
 黄ナンバー有する黒の、NBOX。

(今だ!!!!)

 車体の影から躍り出るは泥木奉! 二挺ペイントガンが火を噴いた!!
 勝ちを確信し弛緩していたリバースはこの思わぬ場所からの思わぬ狙撃に一手遅れた!!!
 それほどのものだ、怨霊の知覚も逸脱し……忌まわしき障壁、無力化した!!

 精神を根源とする武装錬金の恩恵によってサブマシンガンと同規格の9×19mmパラベラム弾に成型されたペイント弾
「FX」は見事リバースの『マシーン』の銃口に滑り込み、そして詰まる!!!

 銃口に指を突っ込めば銃身が暴発するというのはデマである! どころか砂や小石を詰めたとしても暴発どころか
発射阻止すらかなわない!! だが!!

(圧搾した空気を処刑鎌由来の暴走高速連射によって秒間100にも迫る勢いで連発するお前の銃なら話は別だ!!)

 それが!!
 泥木の執念によってシルバースキン並みの硬度を得た弾丸に銃口を塞がれればどうなるか!!!

 銃身は指では破裂しないが、金属の棒やセメントなどで密閉された場合は例外といわれている!
 それならば行き場を失ったエネルギーが銃身ごと暴発してもおかしくないとは科学が押した太鼓判!

 そして!! リバースの銃は、いま!

 鐶! 無銘! 斗貴子! 気象! 円山! 月吠夜! 棠陰王!
 死力を尽くした者たちの連携によって熱衝撃され!!

 ヒビだらけでしかも、脆化、している!!!

 泥木がいくたびも思案に登場させた言葉『戦闘証明』!!
 それは銃をセレクトするさい無視してはならぬ、ただ1つの絶対要素にしてシンプルなる概念!!

『引き金を引いたとき、確実に弾丸が標的へ向かうか、否か』

 どれほど安く、どれほど軽く、どれほど機能美造形美に溢れていても、不発や遅発などの作動不良が頻発するのであれ
ばそれは銃として間違いなく欠陥品だ。

 戦闘証明を奪うというのはつまり、銃身を暴発させるコトだ。

 信じられない。自らの連射性能によって粉々に砕け散る愛銃をリバースはただ愕然と眺めた。
 同時に勢いを失くす黒い風。二次感染は総角とリバース、ふたりの必中必殺を孕んだがゆえに強力だった。
 しかしいま砕けた銃は、彼女自身に銀鱗病を掛けていたものだった。ゆえに効能は半減する。現に南で上がる叫喚の
潮がざあっと引いた。様子は聞こえないが他の戦線も同じだろう。

(けどやられたのは『左』! 右は、斗貴子さんに必中必殺を掛けていた方の銃はまだ無事! 司令塔はいまだ、無力!!)

 有事の際は”それ”だけでもなんとか守るという心構えが、銃身への弾丸潜入を防いだのだ。銃撃された瞬間、よもや
と思い咄嗟に地を舐めるよう銃を降ろしたのが幸いした。

 やっとここでリバースは泥木の全景をみた。80mは離れている。ペイント弾で、しかも夜、それほどの距離から銃口に
銃弾を叩き込むという神業を成した青年に同じ銃手として一瞬敬意が涌いたが……やはり怒りが勝る。集中した一瞬発
動。残り1つの銃であらゆる急所を穿ちにいく。泥木はもう、逃げられないのだ。

 鐶と龕灯を繋げていた糸すら巻き添えで切られる弾幕の中で。

 ふっ。青年は笑っていた。時が凍る前に笑っていた。笑いながら用済みのペイントガンを銃撃軌道の中に配していた。
脳や心臓の盾にするのではなく、脳や心臓をめがける濃密の弾幕をしこたま浴びるよう、配していた。

(しまっ!!)

 緩慢なる時の中、ぐさぐさに破壊されゆくペイントガンにリバースは己の失態を知る!! 我が火力を利した意図的な核
鉄破壊!! 敵は最初から撃たれるコトを想定していた! 想定した上で己もろとも武装錬金が完全破壊されるよう仕組
んでいた! 死後けっして核鉄をリバースに渡さぬよう! 生命度外視で策謀していた!!

(私が問答無用の速攻で銃殺してくるのを読んでいた……! 反射ゆえに確認より先に、撃つのを……!)

 打ち震える海王星は、怒る。命を奪っておきながら、自分だけが凄まじい理不尽に見舞われたような顔をする。

(どうして無事なのよあの人!?! 二次感染の黒風はこの辺りにも届いていた筈! それが! それがなんで正気を保
っているのよ!! 怨霊に怯えず錐に狂わず、どうして狙撃を! やれたのよ!!?)
(ありがとよ、音羽…………)

 暗い颶風が来たとき、運転席に居た音羽は……守護霊、だった。
 リバースが必中必殺を克服する少し前、その動きを封じに現れた藤甲たち戦士の霊同様、生存者を補佐するため舞い戻
ってきた霊だった。死したる戦士のうち音羽だけがその場に居なかったのは、親友ゆえ想到し、気付いた、泥木最後の狙撃
を補佐するため、傍へと静かに移動を始めていたからだ。そして二次感染の嵐の中、泥木を守った。回避特化の武装錬金、
リトミックQ.T.Eで回避不能に思える錐すらも見事に避けさせた。
 だから泥木は正気のまま狙撃を実行できたのだ。怨霊や、錐に、惑わされるコトなく、任務を完遂できたのだ。

 顔や胸を石榴にされた彼は、倒れつつ、託す。親友の霊がしてくれたように、今度は自分が、次を信じる。”それ”がきっと
悪と戦う者たちが最期に遺せるものなのだ。ひとりではすぐに挫けてしまう者たちを強く束ねる術なのだ。

(銃は残り……1つ……。予定通り……だ)

 闇に鎖されていく視界のなかで最後に見た光景に浮かぶのは……、笑い。

 泥木はしかし満足一色ではない。
 遺される1人の少女はどうしても気がかりだった。罪悪感はとても拭いきれなかった。
 最後の言葉は、委託か。それとも超常的な存在に発すただ1つの奇跡的な例外の、要望か。

(『頼んだ』、ぜ……)

 どうっと倒れふした顔の下から赤黒い水溜りが広がってゆく。

 泥木奉、死亡。


(核鉄!! 誰も彼もが、寄越さない…………!!)


 憤激するリバース! 怒りは肉体の修復力を高める! 自分に掛けていた銀鱗病が武器破壊によって解除されたのもあり、
傷はいよいよ全快へと向かっていく! 総角の必中必殺解除まで残り49秒! それを過ぎれば彼女は戦部にも匹敵する高速
自動修復を獲得するだろう!!

(まあいいわ。そうなったらあとは適当な戦士から奪える! 新品の銃なら核だって撃てるわ。ここら一帯の連中一撃で一掃
するコトだって容易い!!)

 策定それ自体に問題はなかった。そも通常の者であれば泥木の奇襲によってふたつもろとも銃を失っていただろう。
 予感と備えで1つだけ保持したのはさすが幹部と言うべき重厚さだ。彼女は霊の加護すら得た予想外の狙撃に遭ってなお、
敵の司令塔たる津村斗貴子への銀鱗病だけは保持したのだ。それこそ自身が組織に求められる『戦闘証明』を守り抜いた
といっていい。

 しかし泥木への対応には1つだけ誤りがあった。

 彼の核鉄を完全に破壊してしまったコト……。

 ではない。

 そも強制高速連射状態にある銃だ、どれほど加減したところで結局はその弾幕によって核鉄に中程度以上の損壊は与え
てしまっていただろう。今のマシーンによる武装破壊からの核鉄奪取は企画の段階で既に無理があった。だから泥木の核鉄
を壊してしまったコトは誤りというより必然だ。当たり前の帰結を当たり前になぞっただけに過ぎない。

 では誤りとは、何か?

 ……。

 戦士の集合地点にバスターバロンもろとも来襲したリバースとブレイクの、戦士の武装錬金に対する対応は常に、「深く
は考えない」だった。

 必ずしも間違いではない。

 数で勝る連中の能力に、その土俵で、そのロジックで、鮮やかに逆転していく必要はない。
 どれほど能力の謎が解けなかろうと、本体さえ殺してしまえばそれでいいのだ。
 やっているのは探偵稼業ではなく、戦争だ。敵の兵器の機構総て解明せねばならぬ規則、一体どこにあるというのか。

 繰り返しになるが、数で勝る連中相手にまごついていては、次から次にやってくる連携に足を取られやがては敗れる。
 だから敵の能力を咀嚼せぬまま次から次に力押しで攻めていくのはけして間違いではない。久那井霧杳に対する処置
などむしろ大正解だ。とみに応用に富んだ確率操作の遣い手を、相性もなにもない、ただ圧倒的なだけの核でこの世なら
ぬ領域へ追放したのは最高の手段といえるだろう。だらだら残していればそれこそ泥木の思わぬ登場に便乗され、必殺さ
れていたかも知れない。

 だからリバースは会敵した戦士の能力の全容など知らない。深く考えたのは難解めなシズQのものぐらいだ。交戦経験
多き財前美紅舞の能力にすら漠然としたアタリしか持たぬ。

 ……。

 泥木への対応に1つだけ誤りがあるとすれば。

 右のサブマシンガンの戦闘証明破壊を回避した時点で、彼に対するあらゆる思慮を止めたコトだ。

 早坂秋水なら。
 津村斗貴子なら。
 総角主税なら。
 鐶光なら。

 思慮は絶対にそこで止めなかった。疑った。栴檀香美ですら野性によって嗅ぎ付けたかも知れないだろう、

『泥木の持っていた、謎』

 は。

 リバースとて普段なら見落とさなかった。彼女は狂暴で短絡だが、決して浅慮ではない。
 怒りにさえ支配されていなければ、虎の子の銃を守れたコトに安堵するより先に、そうなるに到った大前提に思いを馳せ
れた筈なのだ。狙撃が策謀の結実ではなく、段階に過ぎぬ可能性すら視野に入れられたのだ。

 ペイント弾本来の特性が、宙を舞い、リバースに飛び込む。
 原生生物のように踊るケバケバしいライムグリーンの飛沫はしかし殺傷能力は備えていない。
 ただ、染めるだけだ。虹封じ破りのときのブレイク=ハルベルドを見ても分かるように、ベクシリファーは、着弾した武装
錬金または創造者を彩色し、その弱点を色濃く染めるだけの能力だ。

 毒はない。酸よろしく溶かしもしない。
 だから空中で踊っていた飛沫が、着弾した武器の破壊によって第一ターゲットを喪失した色の汁が、準則に従い創造者
リバースの頬の傷口へと飛び込んだところで、『それ自体』には、何のダメージも伴わない。

 ただ染色されただけだ。弱点たる章印が色濃くなったが戦略的な価値はない。章印は誰もが知る弱点だ。しかもリバース
はいま堅牢の対極にある。短剣がどこに掠ろうが幼体になるほど脆い体だ、弱点を知らしめるコトに、意味は、ない。

 だが、それでも。ベクシリファーは確かに。

『特性を、発動した』


 …………。


 初見殺しと喚きたてる権利などリバース=イングラムは有さない。

 鍵となる現象を、一度はちゃんと見ていたのだ。どころかどうしようもない嫉妬すら覚えていた。
 読み切っていた。惑わされなかった。碌に咀嚼しなかったせいで本質こそ掴めていなかったが、『見たままの事実』から、
その本質を絞り込むコトはできた。本質のもたらした不可解すらリバースは一度見た。見たのに”それ”が、読み切りつつ
も妬んでいた『能力』と関係しているとは気づけなかった。見落としていた。


『どうして、あの局面で、あの程度の戦士が、仲間の助力を得てまで最前線に来ていたのか』


 疑問に思えなかった。
 考え、られなかった。


 だから……見落とした。


『どうして泥木は狙撃をできた』


 という最も重大な命題を。誤りとはつまりそこだ。


 勝ち筋総てを破り勝利を確信した瞬間のリバースからそう遠くない物陰に、どうして彼が潜めていたかこそ、彼女は!!


 検討すべき、だったのに!!!



 嗚呼。



 緒戦というには余りにも長かった激闘の果てで、いま。



 静けさを切り裂いて、一筋の閃光が走る。


 集中した一瞬の画角の中に光が溢れた!! くわっとリバースが眩んだのは、まさに『集中した、一瞬』のなか、至近距離
から最大限の光量を浴びたからだ! あらゆる知覚を専念させた感覚器官に来た光は常人でいうスタングレネード!
 だがそれは誰の武装錬金特性でもない!! ただの特徴の一端に過ぎない!! だが!! 組み合わさる『特性』が
ありふれた現象をおそろしく強い有形力へ押し上げた! いや! 創造者が! 特性への造詣をして! 着想をして!!
ただのパっとした輝きを、リバースにのみ最悪の影響を及ぼす『攻撃』とした!!

 集中した一瞬の中へと不意に怨霊掻い潜りもぐりこめたのも道理!! 
 その特性は分類すれば……『瞬間移動』にやや近い!
 が! 本質は違う! 泥木がなぜあの狙撃地点に居たのか! どうしてリバースが勝ち誇って油断する地点を割り出せた
のか!! たどり着かせたもの! それは予測などではなく!!

『予知』!!

 写楽旋輪がリバース=イングラムの眼前に突如として出現したのは武装錬金特性あらばこそ!!!

 そう! 霧杳への核と前後して泥木奉の前に現れた『人ならざる者』とは従軍記者の自動人形! 
『存在できなくなった筈のお前が……なぜだ! どうして!?』という彼の叫びも道理、当時財前美紅舞によって核鉄を奪
われ、丸腰になったのを確かに観測された写楽旋輪がなぜ自動人形を行使できていたかの謎は後段に譲る!!

 大事なのは泥木の『ベクシリファー』の特性発動をキーに瞬間移動してきた彼女が! その、『二度目の撮影』までは何が
あろうと死からプロテクトされる補正によって廃屋地帯南側で暴れ狂う25人もの戦士全員をかすり傷1つ負わずやり過ご
した彼女が!! 手にしたカメラで! 面頬の血管を薄い翠色に彩色されたリバースめがけフラッシュを焚いたというその一点!

 集中した一瞬とて感光すれば役には立たぬ! うめき、解除するリバース! だがもう輪は動いている! カメラをぽん
っと沖天へと放り投げるやサブマシンガンの銃身を握っている! ヒビで鬆(す)のいったそれを素手で割ろうとしたのかどう
かわからない!! リバースはただ思わぬ眩惑をもたらしてきた少女に対する怒りの赴くまま発砲を試みる! ヘッドショット
を選定しなかったのは怒れどもさすが銃の達人、血しぶきや脳漿が瞳にかからぬよう銃身をやや下げ膝や腰を狙う!
 動きさえ封じればただの少女、あとは網膜の光量が落ち着きしだい一定の距離から嬲り殺しにすればいいだけだ! 
 それを。
 わかっていたのだろう、輪は。引き金が引かれるまさにその瞬間、彼女は銃身をみずからの顔面めがけ強引に上げた!
たじろぐリバース。無理もない。その時の輪の膂力は細い肢体からは想像もつかぬ恐るべきものだった! 『まるで、超越
した何かの存在から力を与えられた』ような想像絶するものだった!!
 静止した世界に膨らんだのは鐶の叫び始める気配。
 勢いのまま引き金を引くリバース。

 銃身内部で吹断の空気が放出に向かって無感情に圧縮されゆく中、輪は、目を細め、笑い。

 乾いた連弾に遅れるコト一拍、どろどろとしたものがリバースの双眸に飛び込む。写楽旋輪の下顎から上はもうない。
馬蹄状に植えられた乳歯や永久歯ばかりが青白い月光に濡れ光る。だがリバースは見れなかった。瞼の裏には血液
や肉汁、脳漿といったぬめりのみならず糸切り歯の破片すら混入している。急ぎ開くなど不可能だった。
 幸い錬金術製の凶器ではないためダメージはゼロ。もしCFクローニングが健在だったとしても即座の回復は適用されな
かっただろう。よくも悪くも失明ではない。解消には拭うしかない。だがリバースはそれすら忘れ立ち尽くす。心にはいま這い
登ってきている感情の正体は絶対に認めたくないものだった。少女の末路を音と感触で察してからの動揺は決して肯定すべ
きものではなかった。

(じ、自分で……。自分で自分の、頭を…………!!?)

 理解できない行動だった。ここまで数多くの戦士を殺してきたが自ら銃身を頭に寄せる者など誰一人としていなかった。
指の犠牲を厭わぬ久那井霧杳ですら不利とみれば恥も外聞もなく逃避した。
 なるほど銃手に目潰しは有効だ。しかし持続時間はごくごく僅か。失明させられるならいざ知らず、十数秒も経てば元通
りになる攻撃のため命を投げ打った輪の行動は、異様きわまるリバースにすら異様に映った。

(な、なんなのよあの子。なんなのよ!!!?)

 動揺に浸る時間はないッ!

 ぼやけた視界の中で鐶らしき影がこちらめがけ駆けてくる! カミカゼ? もう短剣はないのにとあざ笑いかけたリバー
スは気付く!! 

 カメラ!! 輪が先ほど上に飛ばした武装錬金! 座標的問題によって銃撃を逃れたそれがもし核鉄に戻っていたら!?
鐶がそれに気付き取ろうとしているのなら!?

(奪われたら終わる! 再発動からの年齢吸収で、負ける!!!)

 短剣を手にされれば一撃必殺が決まる! 総角主税の必中必殺解除まで残り45秒! それまでの間に年齢吸収を
されれば、脆くなった体はかすり傷ひとつ負うだけでホムンクルス幼体に戻る!! しかもリバースは!! 今!!

(目潰しを……されている…………!!)

 さくらもっちと仮称する少女の! 本名すら聞けずに終わった少女の!! 自ら頭に銃口を向けた真意を電撃の中
ようやく悟る!!! 唯一の決め手の年齢吸収!! それを円滑に行わせるため”だけ”に彼女は命を投げ打ったの
だ!! 至近距離で頭蓋を銃撃させ! 飛び散った『自分』で!! 銃手の生命線たる両目を!! 集中した一瞬を!!
年齢吸収回避に欠かせぬ最も重要なスキルを!!! 年齢吸収直撃までの僅かのあいだ使用不能にするためだけに!!
十数秒足らずの時間を稼ぐためだけに!! 1つしかない命を……捨てたのだ!! 

 ああなんたるコトだろう!!!
 あれだけの大殺戮を展開してきた魔人リバースが事もあろうに!!
 たかがカメラを扱うだけのひ弱な少女に最後の手段を、封じられてしまったのだ!!

 それでも義妹の核鉄奪取を防ぐべく影めがけ発砲しかけるリバース! だが思わぬ重い手応えに軌道を逸らされ驚嘆し
た! 輪! 死んだ筈の彼女が銃身を握りしめたまま、立っている!! 最初はただの偶然だろうと銃身越しに死骸を振
るった海王星。だが少女は剥がれない。惨死の姿のまま、ただべっとりと銃身を握り締めているのだ。憤怒の幹部の心は
いよいよ惑乱に満ちてゆく。

(なんで! どうして! 弾みとはいえ頭! ちゃんと潰して殺したのに! 今までの戦士は全員これで死んだのに!!!
なぜ! なんでこのコだけは……剥がれない、剥がれてくれないの!?)

「任務のため命を捨てるのが素敵だから、ですかね」

 ぼやけた視界いっぱいに広がる青白い顔に息が止まる。顔面の大半が消し飛んで死んだ筈の少女が、桜餅色のショートボ
ブを持つ少女が、生前の姿のままそこにいる。鼻先と鼻先が触れ合いそうなほど近くにいる。リバースの方が上背があるため
つま先をあげ、やや背伸び気味に覗き込んでいるのは霊としてなかなか奇妙な情景だが、事実そうしているのだから仕方ない。

 彼女は、笑っていた。きらきらと楽しそうに口角を釣り上げ真白な歯を覗かせていた。目も笑っている。きゅうっと微妙に
瞳孔を開いた、精神科の待合室でよく見る”掛け違った”笑いに染まっている。

 解像度もまた異常である。あちこちで線や粉のノイズが白く閃光しては消える繰り返しだ。長方形のブロックノイズすらそこ
かしこを走査する。色は黄色や緑、紫とそのときそのときでまちまちだが、いずれも玩具用の積み木のような原色なせいで、
家庭用ゲーム機の『バグ』のような毒々しさがある。

 なのに、ぞっとするほど幽玄で、美しい。取り立てて特徴のない目鼻立ちなのに、異様な圧威を持つ笑顔のせいで恐怖と
情欲を同時に掻き立てる。妖異、というべきか。義妹以外の女性など眼中にないリバースですら危うく色香に引き込まれかけ
た。

「普通に暮らしている人たちのために、頑張って戦っている仲間たちのために、絶望を覆す最高の一手のために、犠牲を買っ
て出る……当たり前のコトじゃないですか。みんなそうやって『次』に托していったんです。その番が私に回ってきたから、ちゃん
と、果たす。どこが変です? 普通じゃ、ないですか」
 名状しがたい静かな語気に瞳を散大させるリバース。
 にゅうっと輪はますます顔を近づける。頬に唇がつきそうな艶やかな間合いだ。だが風景は奇怪を極めている。ぼやけた
視界の中で魚眼レンズの歪みを得た笑みだけクッキリと見えるのだ。マンションの合金製の扉の覗き穴から見る宅配業者
のような歪み方をした可愛らしい少女が、大きなくりっとした、不自然なまでに害意のない澄んだ瞳を、じっと、じぃっと、リ
バースの瞳に、張り付けてくるのだ。
 その背後で海王星めがけ駆けてくる影の速度は緩慢だ。集中した一瞬とは別の流儀で時の流れが乱れている。

 鐶の跳躍する気配は焦りにますます拍車をかけた。
 だが上を向きかけたリバースの頬を、冷たくやわらかな手が掴み、強引に、引き戻す。

「言ったらスッとしちゃいました。命の恩人を侮辱された怒りはここでもう、おしまいです。後は伝えたいコトいっちゃいますね」

 はーっ。はー。息があがる。声がひりつく。幾らでも混ぜ返す余地がある筈なのに、威圧され、何も言えない。相手の口調は
おそろしく静かなのに、どうしようもなく頑強な、おぞましい気配を孕んでいる。いかにも愛という名の輝きを信じているような
明るい表情なのに、凝視するとどうしようもない違和感を、不気味さを、持っている。

「どうせ一度は火星に奪われかけていた命なんです。いまこのとき捨てなきゃ、いつ捨てるんだって話じゃないですか」
(やめて、やめて……!)

 首に赤い痣が浮いてくる。ぎりぎりと首を絞められている乳児の自分の俯瞰図が、母の呪詛の言葉とともに脳裏に浮かぶ。
死んでいた筈の命は自分も同じなのだ。だからこそ捨てるのが恐ろしくて仕方がなかったのだ。どれほど惨めな思いをしても
自殺だけは選べなかったのは結局、死んでしまうのが、窒息してしまうのが、怖くて怖くてたまらなかったからだ。

 なのに眼前の少女はリバースにとっての禁忌を軽く飛び越えてしまっている。死をむしろ愉悦と捉えてしまっている。うっとりと
口を半開きにし、熱病にうかされたようにどこかを見ている。どこまでもどこまでもたるんだ頬に紅色を差している。

「リバースさんにだって命を捨てる覚悟、ありますよね?」

 少女は笑いながら、優しく海王星を抱きしめる。報復の力はそこにない。むしろ親愛だけがある。仲良く一緒に行きましょう
という親愛だけが、そこにある。魂魄が魔界に吸い取られそうな恐怖に駆られ遂にリバースは輪を突き放す。彼女は視界から
消えた。安堵するリバース。再びニュっと視界いっぱいに笑顔が広がる。散った粒がまた像を結んだのだ。

「あれだけ人を救いたい救いたいといってたんですから、これから先、自分が犠牲になる覚悟はありますよね? 死ぬコト
への恐怖なんて、これっぽっちもないですよね?」
「あ、あああ」
「それとも……『たった1人助ける程度じゃ無意味だから』命を投げ出すの……怖かったり?」
 くすりと目を細め、柔らかい手つきで前髪を撫でてくる少女にリバースは底知れぬ恐怖を覚える。わかってしまったのだ。
どこでどう、この少女の逆鱗に触れてしまったのか、わかってしまったのだ。
 虹封じ破り奏功直後の追撃戦、藤甲地力が死ぬ少しまえ投げかけた嘲罵の言葉が、輪の命の恩人への侮辱が、表面的
な反応より遥かに根深い不興を揺り起こしてしまっていたのにリバースはここでようやく、気付く。

(喋っていいコトなんて1つもないって、あれほど、あれほど言い続けてきた私、なのに…………!!)

                               リバース
 声が、言葉が、予想外の激昂を生み……自分へと反響してきたのだ。必中必殺のそれなら充分警戒してきた、のに。
 敵を見縊り、図に乗って喋ったツケを、これ以上ない最悪の土壇場で、払わされるのだ。

「大丈夫。怖くないですよ。やってしまえば何てコト、ないですから。してよかったって晴れやかな気分になれますから」

 輪。

 どこまでもにこやかに笑っている少女なのに、霊体からは過熱を極めた感情の波が突き刺すように打ち寄せる。『狂って、
いる』。悪寒で歯の根を打ち鳴らすリバースは心から相手に滅入った。
 ただでさえ使命感への陶酔で尋常ならざる境地に飛んでしまっていた者が、生まれて初めて芽生えた激越の衝動に身を
染め、そして焦がし、怪物の領域にすらとうとう踏み入っているのだ。

 心の中で後ずさる。輪は大股で前進する。彼女はもはや必中必殺に招かれた霊かどうかすら不明瞭。能力の埒外から
やってきた純然たる怪異の可能性すらリバースは描く。

「どうして逃げるんですか? 私、笑ってるじゃないですか。何かのために命を捨てるのは充実なんです。みくぶーに、みん
なに、何度やめろと言われてもやめようなかった病み付きなんです。私はリバースさんにもそうなって欲しい。殺してきたから
死んで欲しいって話じゃないですよ。ただ単純にですね、支え、そう、償うコトに勇気が持てない時の支えにして欲しい。私の
勇気をね、受け継いで欲しいんですよ。今は分かって貰えなくても、この気持ちは、鐶さんに絶対の危機が迫った時、絶対
に、リバースさんの救いになりますから。必ず後悔のない償いができますから。だから覚えていて欲しいんです。大切なも
のの為に命を投げ出すのは綺麗で、素敵なコトなんだって、覚えていて欲しいんです。だから、生き続けましょうよ。もうず
ぅっと一緒なんですから。私とずぅっと一緒なんですから」

 弱さゆえに八つ当たりを選び、脆さゆえに報復を恐れ、責められまいと大義名分を声高に叫び続けただけの佯狂(ようき
ょう)のリバースがどうして精神で勝てよう。実母を克服できたのは彼女があくまで同質の者だったからだ。人に怯え人に
疲れるか細い心を凶行で鍍金するだけの者だったからだ。

(私は……私は、軽い気持ちでやった天気のあの子への侮辱で……呼び起こしていた、呼び起こしてしまっていた……!)

 それはリバースの持つ、ただ発作的なだけの凶器とはまったく次元の異なる──…

 真なる、純然の、強き。

『憤怒』。

 だからだ。どれほど言葉が優しく柔らかくても、最終的には死ねとそう、言い放っているのだ、輪は。なのに害意はない。
『正しくて救われる』コトだから、『殺してしまった自分の分まで、それを最後までただ、頑張ってやって欲しい、生きて欲しい』
と、托しても、いる。だが、それが、それだけが救いだから、それ以外は絶対に認めないと、怒っても、いるのだ。

(踏み外したら、来る……。このコが、こんなコが、また、来る……!!)

 蒼白になって打ち振るえるリバースに、

「どうしました?」

 ふふっと輪はおかしそうに顎に手を当て、笑った。たんぽぽのように笑った。

「ドラちゃんさんを当てこすれるぐらいなんです、私 程 度 に ビ ビ っ た り し ま せ ん よ ね ?」

 最後の言葉は、確かに。

 下顎しかない顔が、囁いた。視覚を喪失している筈のリバースなのに、それが、見えた。


 総角主税の必中必殺解除まで残り44秒。


「はーっ、はーっ。は、はあ……!!」


 海王星の全身からどっと汗が噴出す。核鉄。取らなければならないのに、疲弊した心身はひどく重い。『ずぅっと一緒』。
ソプラノの声だけがぐわんぐわんと脳内を駆け巡る。憑かれた。実感はあらゆる意思を死滅させてゆくようだった。

(動け、動くのよ、私……!!)

 恐怖を必死に捻じ伏せる。ここで負ければ終わりなのだ。鐶に誅されれば破滅なのだ。あとはもう償いの人生しかない。
虐げられて当然だった連中の損失を補填するためだけに、自分の、人生と尊厳を削り続けるコトはどうあっても耐え難い。
 無銘の提案には少し心揺らいだが、それでなお償いの道には魅力など感じない。無銘個人への好意で食指を動かしか
けるコトはあっても、結局は自分のため楽な道を選ぶのだ。心弱い者の大抵はそうなのだ。

「私は正しい。正しい筈よ。だって、首を、赤ちゃんの頃、首を、お母さんに絞められて、壊されたんですから……!!」

 震えのあまり割れそうな声を乱高下させながら必死に足に力を篭める。くらくらと座らぬ首を回しながら、見開いた眼に
朱色いりまじった大粒の涙を湛える。迷宮の囚人なのだリバースは。実母に首を絞められた瞬間、出口の見えない空間に
投獄された。そしていま、いくつもの出来事が絡み合い、逃げ場を失う。今はまだ『光』さえ見えない。

「被害者なんだから損害を取り戻していい立場なんだから声がでかいだけで幸せを貪っている連中なんて壊していいのよ
咎められる世界の方がおかしいのよ壊すべきよ直すべきなのよ私はただ与えられなかった幸せを取り戻したいんだけな
んだから、だから、だから、勝たなきゃいけないのよ……!!」

 輪が依然として銃身にぶら下がっている都合上、跳躍の初速は普段より削がれた。いつ彼女がまた動き出すか恐ろしく
て仕方がないリバースだから跳躍の途中、気付く。目潰しはすぐには直らない。だが、1つだけ、速攻で、解決する手段が
ある……。

「!?」

 死亡後にも関わらず何故か武装解除はまだだった。
 大きな月の前に舞うカメラめがけ飛んでいた鐶は愕然と振り返る。羽根が、貫かれたのだ。がくりと高度を落とす彼女は
信じられないという顔で下方を見る。追ってきている義姉は相変わらず瞑目だ。糸のように閉じた目からどろどろの『輪』を
流している。命がけの目つぶしはいまだ健在なのだ。なのにいま、銃撃は正確に羽根を射抜いた。四方八方への乱射が
たまたま当たったのではない。初撃から正確に、打ち抜いたのだ。
 なぜ……。落ちつつ義姉を眺めた鐶は肩に目を留め息を呑む。自動人形!! リバース本人を可愛らしくデフォルメした絵本の
中の住人のようなそれは幼児なら抱えて胸に余るほどのサイズ!
 それが! これまで何度も廃屋地帯上空からの監視を行ってもいた移し身はいま! リバースの肩に乗っている! 
(そう……でした)
 鐶は呻くほかない。監視に使える以上視覚は共有、この土壇場で目の代わりにするコトは……容易い!

(もちろん流石にコンセントレーション=ワンまでは使えないけど……!)

 狙うだけなら、できる!! 追撃で背中の羽根を食い破られた鐶はいよいよ墜落軌道だ。『視認』でようやく人心地を取り
戻したリバースはぜえぜえと緊張の息を吐きながら思う。

(あのコの……さくらもっちちゃんの常軌を逸した行動ですっかり自動人形の存在を失念していたけど……冷静になれば、
そうよ、冷静になりさえすれば…………取り戻せるのよ、視界ぐらいは……!!)

 同時にカメラは投擲の頂点から落下軌道へ。
 翻りつつゆっくりとい舞い降りてくるそれにリバースの顔色が人間らしさを取り戻す。手はあと数秒で届くだろう。
 落下しゆく鐶の頭はリバースの腰の傍。更にぐんぐんと落ちてゆく。総角主税の必中必殺解除まで残り40秒、
(まずい! ここであのカメラを奪われればもう鐶に勝ち目は──…)
 慄然とする龕灯は同時に異様な傾ぎを体感する。

(勝った!!)
 リバースが細い指の先端を夜気冷たきカメラに当てた瞬間、重い衝撃が視界を砕く! 銃なき方の手で顔なでる彼女であっ
たがそれは誤りであるコトに気付く!! 自動人形!! 衝撃を浴びたのは自動人形の顔だ! 目だ! 戯画的な人形はいま
カメラアイを砕かれた! 引き戻された暗闇に硬直するリバース! 核鉄に手を伸ばすが上に行かれる。いや、リバースが
ただ落下し始めただけだ。視界喪失のショックで思わず怨霊噴出による空中制御を中断した瞬間、銃身をいまだ握り締め
ている輪が重心を崩し、地上に向けて海王星を引いた。傾ぐ星。カメラまであと一歩だった手はむなしく空を切り、落ち始め
めた。

 ゆるふわとした乳白色の短髪を風になびかせつつ2m上を見た幹部はほとんど霞んで見えぬ我が目の中、辛うじて、見る!
 先ほどまでいた天空の座標にあった影は……龕灯! 
 ちぎれ雲のような血しぶきを薙ぎ払いながら旋転している! 自動人形のカメラアイに直撃したのは超硬質のそれだった!
 上方にあるカメラにのみ目を奪われたせいで、その他の方角から飛んできた龕灯を見逃し、直撃を許した!
 だがあれほどの勢い、一体誰が……!? 

「私の、自動人形ですよ」

 ノイズを纏う少女の笑顔が、告げる。何も見えない視界にまたも来た輪にリバースは固まる。

「見えないでしょうから教えちゃいますね。いま地上で、私の自動人形、振りぬいた姿勢のまま固まってます」

 鐶も見た。全身を光の粒と化し入滅しゆく自動人形を。

 写楽旋輪の自動人形は一度目の撮影にしか使われない。予知の本番たる二度目の撮影において活用された実績は
ない! だが!! 残留する彼女の遺志はリバースが自動人形を持ち出した瞬間、活用を求めた! リバースの新たな
る視界をどうすれば奪えるか咄嗟に考え! 自動人形を操り! 泥木奉銃殺の際の巻き添えで鐶との糸を切られ、地上に
残存していた龕灯を見つけるや迷わず持ち! 決行した!!

 心構えの差というべきだ! これほどの行き届いた援護を説明されたリバースの感興は二周ほど、遅れている!!

(に、人形も持ってたの、このコ!?)

 リバースの見た輪はカメラしか付属させていなかった。これも特性のプロセスゆえの偶然の好機だ。対面したとき総て
傍にいなかったため、自動人形は、期せずして、秘密の切り札となった。それが龕灯直撃の伏兵となった。輪の死骸さえ
見ていれば不意打ちは防げると思い込んでいたリバースの油断を衝く幸運を生んだ。

 落ちゆくリバースの傍で鐶がいま、舞い上がる。強引に修復した翼で羽撃(はばた)き、目的の場所へと迫ってゆく。
 同時にとうとう武装解除するカメラ。元型に帰する。
 その核鉄と鐶の手との距離、51cm。総角主税の必中必殺解除まで……38秒。
 リバースの視界いまだ不明瞭。
 反射的に撃った銃弾の手応えはない。鐶が高速機動で避けたのだ。視界さえ健在なら動きを読んで当てられたが、見えない
となれば流石のリバースといえど空中の鳥型は……捉え、られない。泥木の銃破壊もここで響いた。もしいま1つの銃が健在
であれば、リバースは面制圧で鐶を倒せただろう。無駄ではなかったのだ。命と引き換えに行われた戦闘証明破壊は、決して。

(誰も、彼もが……!!)

 二度ならず三度までも妨害した輪への怒りが恐怖を忘れさせる。サブマシンガンの銃口を地上に向け圧搾空気発射で
上昇する。叫ばずにはいられない。咆哮せずには収まらない。

「邪魔を、するなああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 もはや核鉄などどうでも良かった! 鐶はもう眼前! 取られる前に撃って無力化すればそれで済む!! 目潰しのせ
いで狙いなど満足につけられないが、それがどうした、連射力に任せ辺り一帯薙ぎ払えばどれかは当たる!! そのため
には強制高速連射の源泉かけ流しでは足りない! 引き金を思うさま引かねばならない! フルバーストを凌ぐフルバース
トでなければ、素早い鐶は……捉えられぬ!! 先ほど避けられたという事実がそう、決めさせる!!

 いつも通り構える! 逡巡する鐶! 核鉄を取るか銃弾を避けるかの迷いが動きを止める! 虐待で恐怖を刻みつけ
た義姉の咆哮への竦みもまた的確な反応を遅らせる!! それを期しての咆哮だ! いつだって望む結果をもたらした
憤怒をリバースは信仰している!! だから怒声はカードだ、幾らでもやる!! 目が見えないなら、声で、止める!!

 圧搾空気上昇で姉、妹の前へ! 彼我の距離、2m! 外しようは、ない!! 
 秒間100発の連射力を全精力で発揮する以上、外すなど、考えられない!!

 引き金に当たる指! いまだ核鉄に届かぬ鐶の手! 総角主税の必中必殺解除まで残り35秒!!

「これで、終わりよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!!」

 瞬間、咽喉の奥が弾けた!!! 頚椎内を通り過ぎる衝撃波がトリガーへの神経電流伝達を阻んだ!!

(え……!?)

 激しく吐血したリバースはびりびりと痺れ動かぬ指先に唖然とした。発砲! 成せてはいない! 

 血。

 咽喉の奥から次々に溢れてくる! 何が起きた! うろたえかけたリバースは、すぐさま気付く!

 破れたのだ。乳児のころ実母に絞められ、歪み、癒着した声帯がいま、空前の大声の反動によって、自らの叫びによっ
て……自壊、したのだ。常人ならはそうならぬ! だがリバースは幹部! ホムンクルス調整体! 高めに高めた出力の
1つたる首の筋力が、ただでさえ脆かった咽喉の、しかも防御力が低下している状態を、無理な叫びの反動によって完全
に、壊したのだ!!

 そして衝撃波が首内部を痛打し、頚椎を罅割れさせ、欠片で神経の束を傷つけ、圧迫し……首から下の動きを止めた!!
 返ったのだ! 強すぎる力が! 怒りが! 己へと、返ったのだ!!

 兆候は既にあった。少しまえ大声を出した時から既に咽喉は痛んでいた。もしそのとき憤怒に染まってさえいなければそこ
でリバースは咽喉の壊れる運命を察知できたのに、叫びを今までの人生どおり控えるコトができたのに……逆上ゆえに見
逃し、最も大事な局面で…………誤った。

(違う。因果応報じゃない。偶然、ただの偶然……! あの、義眼の、あの義眼の妖しげな脆化すらなければ、叫び1つで
崩れたりは、しなかった……!! それに、そもそも! 目、目さえ見えてれば、叫びで光ちゃん止めようなんて思わなかっ
た!! だから、だから……)

 しかして輪の亡霊、耳元で、囁く。

「欠如ゆえ生まれた能力は、欠如ゆえ破られる」
(最後の最後で、最初の傷が……!!)

 涙ぐんでようやく僅かに透明さを取り戻した視界が皮肉にも捉えたのは、ぎょっとしつつも核鉄を毟り取る、義妹。

 そして。
 得られる。
 短剣。

 海王星の体は、動かない。脆化したまま、動けない。統べられていた怨霊達が1つ、また1つと離れてゆくのは媒介たる
銃への伝達が止まったがゆえか。はたまた自らの怒りで自らを滅ぼしゆく者を嘲るがゆえか。逃げないで、居て、傍に居て。
震える少女の意思はもう、誰にも、伝わらない。集中した一瞬もまた使えない。輪が血と脂と漿で混濁させたから…………
使えない。自分だけが一瞬の世界を動き、その間にどうにか銃撃を回復させるといういつもなら当たり前の試みすら、リバー
スはもう、喪失している。

 防御障壁が消えるのと同時に。

 月輝く宙で緋の三つ編みを揺らしながら推進しゆく鐶は遂に破断塵還剣の航跡をリバースめがけ一直線に曳ききった。

 振りぬいた勢いそのまま滑空して遠ざかり、止まる妹。
 その遥か背後で腹部に刻まれた真一文字の剣閃を輝かせながらなお、未練がましく振り返ろうとする姉。

「やりなおしましょう、また」

 掛けられる暖かな言葉にしかし絶望し涙ぐみ凍結するリバースは腹部からの閃光に包まれ──…

 大爆発の中で、最後の銃が核鉄に戻る傍で、遂に、堕ちる。
 幼体に戻った海王星が、地べためがけ、ようやく、堕ちていく……。

 すなわち。

 リバース=イングラム、敗北。


(私だけでは、決して……勝てません…………でした……)


 前髪に覆われた虚ろな瞳から、数顆の輝く星がすべり落ち、はじけて消えた。
 最後の最後に現れた勇者のごとく、静かに消えた。


 写楽旋輪、死亡。

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