インデックスへ
第120〜129話へ
前へ 次へ

第124話 「対『火星』 其の零壱 ──Hのさだめ 1/憂鬱、雨とけぶりて──」



 ラム・ダオ。剣である。斬馬刀ほど幅の広い頭身の先端に、鳥の横顔を貼り付けたような特異な形状ゆえ鉈や斧と混合
されやすいが分類上は剣である。刃渡りは長くても100cm未満。16世紀から20世紀にかけて主にネパールや北部イン
ドで使われた。用途は戦闘ではなく儀式。動物の、首を落とす。鳥の横顔の、クチバシから咽喉に到る弧線のラインは3k
gほどの全重量が集中しやすい場所であり、獣めがけ振り落とせばまず間違いなく一撃で首を落とせる。、

 入尾騎士(イリオナイト)のラム・ダオ型武装錬金『ピアッシングトランスポーター』の特性は『ダメージ貫通』。『敵能力』に対
する斬撃(ダメージ)を創造者へとダイレクトに伝える。『敵能力』とは『武装錬金本体ならびに付属物、ならびにそれらの特徴
または特性の効力下にある物』を指す。
 火炎同化や天候同化を正面から破れる数少ないこの特性の評価額は、坂口照星救出作戦開始直後、更なる高値をつ
けつつある。盟主の、特性合一。特性によって受けたダメージを斬撃の価額に変換して返す恐るべき『同化』はピアッシング
ストランスポーターでならば貫通し、競り勝てるのではないかと戦士らは鼻穴を広げ歓呼にふるえた。
 さらに入尾騎士とピアッシングトランスポーターは銀成到着からほどなくして別口の期待を担うコトになる。『自動人形迎撃に
よる冥王星の打倒』。ダメージ貫通は同化能力者だけでなく自動人形使いにも有効だ。通常、使い手本人を斃すのが手っ
取り早いとされる自動人形であるが、入尾の場合は違う。自動人形それ自体への攻撃が、創造者に、通る。
 雨の銀成を襲い始めた無限増援の自動人形たち。他の戦士にとっては相手取れば疲弊しかない怒涛の群れも撃破数同
率7位の入尾にとっては手軽なダメージソースでしかない。斬り、壊せば、ダメージが本体にいく。現状所在が不明な冥王星
を探すコトなく消耗させられる入尾のメリットは、大きい。ディプレスの文官殺し以降さまざまな不利を抱える戦団にとっては、
まさに曙光というべきラム・ダオであった。

「あっ、騎士(ナイト)!」
「入尾騎士!」

 叫び声のなか犬飼倫太郎は見た。警察のオフィスの中、爆発によってみるみると削られてゆく入尾騎士を。突如として
ひらいた30ほどのワームホール1つ1つから現れた30の筒は、そのとき取調べが控えていた都合上丸腰だった入尾騎
士のあちこちで花火大会を催した。目が飛び、指が飛ぶ。スマートな長身はもうチーズだ。そこかしこが虫食いだらけ。赤
いものすらびしゃびしゃ漏水を極めていく。そうやって佇んでいたのは2秒ばかりだったろうか、虫食いから立ちのぼる薄紫
の硝煙がようやく霞み始めたというところでとうとう入尾は膝を抜いてしまう。両脛をまんべんなく床につけた彼は頭の振り
子運動の赴くまま我が身をうつ伏せに叩きつける。頭蓋が罅(えみ)割れるゴリっという音がした。毛玉ひとつない、ふわりと
した生地のトレーナーは蛍光オレンジだ。右肩の下から赤黒い液体がとろりと扁平に伸びた。灰色の傷が多い黄ばみきっ
た白いリノリウムにどろりとした血だまりがみるみると広がってゆく。目撃し反応する警官らの悲鳴と怒号は犬飼にとっての
気付けとなった。不意の襲撃に麻痺して萎えていた脳細胞を突き刺さる熱鬨(ねつどう)によって揺り起こした犬飼は自身が
いま恐るべき死の渦の中に居たコトを実感し、
(運……だった…………!)
 ぜひぜひと過呼吸する。犬飼が筒を無傷でやり過ごせたのは既にキラーレイビーズを2頭とも発動していたからだ。例の
沼からここまで演劇用のロボットと偽り帯同させていたからこそ前触れもない爆撃相手に反応できた。レイビーズの爪に
よる防御という具体的な対処をできた。イオイソゴ相手に広げた境地もまた役立った。以前のままの自分なら反応ひとつ
できずやられていた……犬飼の手足から冷たい汗がどっと噴く。汗腺の蛇口は全開だ。

 入尾の傍にやっとラム・ダオが、落ちた。無音無動作の発動自体はできていたようだ。だが具現する頃にはもう零距離射
程からの爆撃が決まっていた。炸裂を終えた爆発が相手では貫通も何もあったもんじゃないよとばかりとっくに半透明だった
ラム・ダオが遂に光の粒のなか像をほどき核鉄に戻る。気付かず跨いだ中年の男性警官は入尾の傍にしゃがみ込み、手
首を取る。「ダメだ。もう」。首は左右に三度振られた。



 2005年9月16日午後9時27分。路地。燃え盛るヘリの傍で。
「…………」
 津村斗貴子は佇んでいた。土砂降りが前髪を額に貼り付けているため瞳の色は分からない。ヘリのひしゃげた窓からは、
手が出ていた。血にまみれた細い腕だ。掌を上に向けアスファルトに力なく張り付いている。すっかり土気色だといえばどう
して斗貴子が助けようとしないのが分かるだろう。黙然と佇む美しい顎から透明な珠が1つ、また1つと伝い落ちる。
 背後にならぶ押倉と部下2人に言葉はない。彼らを襲っていた自動人形は鉄屑となって堆積している。犬の小便の藍色の
染みがたっぷりついた電柱の根元にだ。落下途中のヘリから咆哮しながら飛び出してきた斗貴子は瞬く間に怪物を始末し
た。一連、幻夢としか思えぬ押倉だ。事態に理解が追いつかず、部下たちともども佇むばかりだ。斗貴子から吹き付けて
くる悲愴と、雨に容赦なく奪われていく体の芯の熱だけが現実世界を証明する微かすぎる証だった。
 土気色の腕は雨に打たれる。ヘリの中で誰かが死んだ。いま押倉にわかるのはそれだけである。

「あ! いた!! 戦士・津村!!」
 路地の向こうから若い男が駆けてきた。いよいよ強まりつつ雨の中、傘も差さず走る彼の紺色の背広は上から下まで黒く
ずっくりと濡れている。よく見ると焦げ目や血の跡がある。押倉は襲撃されるまえ微かに聞いていた複数のヘリの音から(他
の機体の乗組員……?)とアタリをつける。外れではない。新月村から進発した他のヘリの乗組員は駆けつけるやこう叫ぶ。
「三号機、墜落しました! 亀田三馬さんを始め3名が死亡! 更に2人が意識不明!! 火渡戦士長はどこです! 指示を!」



 同刻。南南東。

『ぬぇーぬぇぬぇっぬぇ!! この上なく不運ですね火渡さん!』
『せっかくの業火も市街地じゃあ、この上なく制限!』

「……チ!!」

 電柱より3mは高い空。

 火渡赤馬を取り囲んでいるのは有翼の人間型自動人形だ。背中から無機質な翼を生やすそれらは車座で、数は300。
上を抜けようと舞い上がった火渡は雨にけぶる遠方に認める。黒点。大隊の編隊飛行に比肩しうる数の機影総てはいま彼
めがけ吸い寄せられつつある。増援、という訳だ。不意に、視認が遮られた。表情とぼしき顔に割り込まれ遮られたのだ。
その1体の自動人形は火渡の飛行進路を塞ぐべく車座から溶け出していた。体表を舐める炎。できあがった墨屑が黒い垢
をこぼしながら落ち始めたころにはもう車座の包囲網はねじれている。逆さにした漏斗のような形を群れが取っているのは、
中央上部に遷移した火渡めがけ一斉にせり上がったからだ。菌にむらがる好中球もかくやの反応であり、執拗さだ。

『荒地なら五千百度の炎で一蹴でしょうが』
『500mもの半径を対象とする巨大な火力は……使えませんよこの上なく!!」

 浮遊する火渡と自動人形らの足元には色とりどりの屋根が合沓している。みな、建物だ。住宅も有れば店舗も有る。議
員会館やホテルだって有る。

『もしまだあの建物の中に取り残された人が居たら……大変、ですよ?』
『空で使っても火球は下にだって膨らむ……。人がいるかも知れない家が巻き込まれる。人の命が炎に消える』
 この上なく。無貌の自動人形を介する声はくぐもってエコーしてなお甘ったるい。
(クソッタレ……!! 一刻も早く聖サンジェルマン病院へ行かなきゃならねェ時に……!!)
 無数の屋根と電線を俯瞰する世界の微南東の彼方に茫洋とした輪郭が見える。モノクロな夜の雨に今にも塗りつぶされ
そうな銀鼠色の影こそ今の火渡にとっての聖サンジェルマン病院だ。車なら2分もあれば着ける距離が今は国外ほど遠い。
あちこちで火の手をあげるヘリも見えた。『筒の狙撃』が戦団に与えた被害はこれから明らかになっていく。火渡が火炎同化
で難なく凌げる攻撃すら死因になってしまうのが一般的な、大多数の戦士だからだ。そしてあの攻撃が一度で沙汰止みに
なる保証を火渡はまだ、見つけられていない。聖サンジェルマン病院に向かったディプレス=シンカヒアに追いつくコトすら
未完了であるのにだ。
 焦燥と苛立ちのなか右手から放射した火焔は瞬く間に20体もの人形を消炭にした。だが追加は30体だ。最初から、下
回っていたのだ。市街地ゆえに制限せざるを得ない火力の処理速度は最初から増援の供給速度を下回っていた。だから
敵は300にまで膨らみ500への道すら始めている。

『行かせませんよディプレスさんの元へはこの上なく!!』
『ブレイズオブグローリーは分解能力スピリットレスすら焼尽しかねぬ恐るべき能力!!』
『だから……抑える!! この上なく倒されても目減りしない私の無限増援で!!』

 口々に同じ声を立てる人形たち。リバース=イングラムに比ぶれば遥かに弱いが、数だけはひどく多く、途切れない……。


 午後9時26分。聖サンジェルマン病院中央棟1階。受付のあるロビー。

「キャラと逆でムチャクチャやるな……」

 一望した1人の戦士が愕然と呻く。ロビーの調度品は何もかもが氷結していた。長椅子も雑誌のラックも、天井から吊り
下げられたブラウン管型の黒いテレビも、何もかもが雲丹型に角立つクリアブルーの氷によって包まれていた。
 ロビーは広い。長椅子だけでも40人分の収容能力がある。北東にある受付は擦りガラスで区切られたもので、スライド
式で開閉する窓口は3つ。いまはそれらに霜がべっとりついている受付のやや西にある「非常口」を出ると、ちょうど正面に、
折り返し式の非常階段の終焉の斜線が見える。逆に言えばそこから中央棟北側の階段を登ってゆくコトもまた可能だ。

 ロビー南方は入り口。南東から東へとまっすぐ続く廊下には外科の外来病室と処置室があり、その待合の青いソファがあ
る。レントゲンやMRIといった部屋があるのはこの方面だ。行き止まりは救急車の搬送口と直結。
 一方、南西から西へとまっすぐ続く投下には内科や歯科の外来病室と待合の黄色いソファ。リハビリルームや病院食に
関わる施設があるのはこちらの方だ。
 2階から最上階までの間取りは1階に準じた入院病棟だ。階ごとに小児病棟や外科病棟といった区分が成されている。
 建物は特に分裂などしていないが、便宜上、ロビーを底とする部分は中央棟、東西の廊下を底とする部分はそれぞれ
西棟、東棟と呼ばれている。

 中央棟ロビー南東にある売店は8畳ほどで、ガラス戸のない吹き晒しのものだ。北西の角の付近にはエレベーター。そ
の少し南の欠けた壁の向こうには上階と下階に続く階段があり、うち前者は段数のノド仏をロビーへと晒している。廊下は
階段の傍をかすり西へと伸びていた。

「キャラってコトは……毒島か? なにやったんだ?」
 キャラと逆でムチャクチャ。誰かの呟きを誰かが返した。
「ロビー内の窒素総てを沸点たるマイナス195.8度より低い温度に調整。液体窒素に戻しぶっかけたんだ」
「そーいや乾燥空気基準じゃ窒素、大気の78%だっけか。で、実際の、雨ッ気の多い湿潤空気の水蒸気が液体窒素で
凍結。俺らめがけ飛んでた爆弾総て巻き込んでカチコチった訳ね。うへえ。強烈」
 舌を出した質問者は透明な氷の膜に包まれてごろごろと転がる赤い筒のひとつを「こんにゃろ」と踏み潰す。そうするだ
けの余裕があった。見渡した限りでは戦士に怪我人はいなかった。街の騒ぎで身内を案じ病院に駆けつけてきた市民たち
にも目立った負傷はない。筒の氷花を踏み砕く音が続く。市民は12〜3人といったところか。許可を経て階上へ上がった
者も既に何人かいたから(次は彼らの安否だな)、思いながら毒島の指示を待つ。現状、一団の指揮権は彼女にあるのだ。

「よし。これで全部、と」
 最後の赤い筒が砕けた。砕けたクラスター爆弾はさらさらと粒子になって消滅する。
「炭酸ガスの充満でも推進の炎は消せたかも知れないが、ヒドラジン、だったか、宇宙でも無酸素でも推進できる燃料を精
神具現されていた場合の万一を考え念を入れたようだな毒島は。液体窒素の、下へ向かう滝のような水圧で軌道を逸らし
つつ推進部を氷で被覆。物理的に噴射をできなくするコトによって爆弾総ての命中を妨げたんだ」

「とはいえ今の狙撃のカラクリはまだ分かりません」。毒島は周囲に呼びかける。
 毒島はロビーやや中央にいた。南側中央の入り口から北方の受付に向かうルートの中だ。長椅子はその両翼に固まって
いる。向きは入り口と平行で、翼と翼の間隔は大人5人が並んで通れるほど広い。毒島がロビーやや中央というのは、西側
の翼すれすれの位置にあったからだ。
「まずは患者さんたちの安全の確認を。上に向かわれた人たちもです。確認後は負傷の有無に関わらず避難を最優先。
ヴィクトリア嬢の、避難壕へ。協力の申し出は先ほど頂いています。先ほど見た渦が昼すでに避難壕にも現れている以上、
完全に安全とは言いがたいですが、市内を通るよりは安全です」
「……だな。市内には冥王星の自動人形が溢れている」
「だから避難壕で地下にゆき、先ほどの筒を警戒しつつ、市外へ逃れるルートを探す、か」
「ここで寝起きする人たちは全員何かしらの病気を抱えているもんな。無数の自動人形の前に晒すのは……危険すぎる」
 頷きあった戦士たちはばらばらと階段めがけ走っていった。
「視力が失われている以上、病室を回るコトはできそうにないけど…………」
 ロビーに案内された患者のうち53kg以下の人たちだったら日本支部へと運べるわ。千歳はヘルメスドライブを手にする。
「では早速お願いします。まずは……」
 毒島がまっさきに見た少女は、縁ある少女だ。今日の昼下がりに迷子として登場した4歳はいま毒島の四歩先に在る。ロビ
ー中央通路の、東側の長椅子の縁で母ともども立ち、澄み切った大きな目で西側の毒島を見つめている。
 120cm足らずの小さな体を桃色一色のドッキングワンピースでくるんだ薄茶色のお団子頭の少女は、火渡らしからぬ悲
喜劇孕んだ一悶着の原因になったあと、

──「おまもり……」

 心をこめた折鶴を一羽、差し出した。おさな心に火渡が何か辛い思いを抱えているのを察し、兄の病室まで送ってくれた
お礼も兼ねて。ピンク色の折り紙から作られたそれはお世辞にも端正とはいえない。頭はヨレヨレだし、翼だってアシンメト
リー。全体的に折り目が甘くドチャっとした丸いフォルムだ。
 それでも小さな少女が彼女なりに一生懸命心を込めたのはわかった毒島だ。火渡が立場上性格上、受け取りづらいのを
鑑みて、

──「私は火渡様の使い魔の妖精です」

 とガスマスクを脱いでまで受け取った。内気な毒島が、なるべく晒したくない素顔を晒すに値する折鶴だった。
 今も再殺部隊の制服の内側にそれはある。指揮権の重圧に押しつぶされそうな毒島の護符としてそこにある。

──「またきてね! またきてね! おにいちゃんよろこぶよ!」
──「……ヘッ。正直願い下げだが、ま、千歳と同室なら嫌でも面ぁ見る羽目になるだろうさ」

 座椅子1つ分北側にいる千歳に手短ながら説明された少女の母親は、化粧ッ気のない生活に疲れた顔に一瞬、信じが
たいという色合いを塗りかけた。よれた白いトレーナーと伸び切った緑のカーゴパンツに雨足の黒い染みを点々とつけてい
る彼女は頬に贅肉のない、小さな鼻の温和(おとな)しそうな顔立ちだ。脂ぎった中高年が見れば食指を動かすたおやかな
佇まいも錬金術の闇の前ではまったく無縁の一般人。敵性勢力のあらましを聞かされても千歳の方の正気こそ疑う部分は
当然ある。
 が、視覚効果は何よりも優先される。少女の母の凍りつくロビーを彷徨っていた瞳は徐々に決断の光を帯びていく。最終的
な決断は娘によって促された。大きな瞳をこわごわと震わせながらも毒島を信じている姿が決め手になった。昼間迷子にな
った彼女の縁故だ。火渡や防人達が尽力して捜してくれたコトもまた信頼の礎となった。
「信じます。いま説明していただいたコトが本当に本当なのか正直のところ分かりませんが、迷子のこの子を総出で探してく
れたあなたたちが逃げるべきだというなら、信じます。すぐさま避難できる手段があるというならきっとそれは本当なのでしょう」
 わかりました。千歳は少女に一歩近づく。隣り合いさえすれば避難は瞬時に成せるだろう。
「……でも」
 お団子頭の少女は一瞬、目を動かす。毒島は瞬時に悟る。兄。階上でひとり入院中の兄を置いて自分だけが安全圏に
行くコトを「わるい」と思ったようだ。だが思いながらも戦士らの心配そうな目つきで子供らしい駄々を引っ込める。「いまは
素直にしたがうべきとき」。兄はきっと、後から来る。そう、信じた。上の階からも響いてくる戦闘の音に怯みながらも、そう、
信じた。
 だが千歳があと一歩で少女に隣り合えるという時、運命の奇譚は作用した。『来た』のだ。
「あ……」
 とっと顎を揺らし、ロビー西側の階段に目をやった少女の目の色が、劇的に、変わる。



 午後9時25分。聖サンジェルマン病院西棟6階。西端に近い廊下の一角で。

 九頭龍閃を凌いだ以上、30であっても迎撃は容易い。秋水の話だ。直前、ディプレスの態度に不審を覚えていたのも
良い。別方角からの奇襲を警戒していた無意識は突如として全身の周囲から発射された30ものクラスター爆弾に対し適
切な反応をもたらした。正面から、側面から、上面から。肉厚の諸刃が赤い筒を叩き割り殺傷能力を奪い去った。暴発
的に生じた爆発すらエネルギー吸収特性によって下緒へとアースされ飾り輪の充足となった。

 小札の旅は10年だ。多い野営で奇襲に慣れた。しかもディプレス来襲時すでに核鉄を構えていてどうして対応が遅れよ
うか。全方位から爆弾きたると認識した彼女はそのうち最も近いものを、既に発動し終えていたロッドで……殴り、爆発
させた。逢うもの逢うものに未就学すら疑われる容貌であってもそこはホムンクルス、全力で殴れば爆弾1つの破壊程度、
造作もない。そして舞い散った爆弾の破片をマシンガッシャフル『壊れた物をつなぎ自在に操る』特性の麾下におく。全身を
守るようめぐらした破片ひとつひとつを繋ぎ合わせたまばゆい発光の白線は、『場』の、辺。完成する反射障壁ホワイトリフ
レクションに接触した爆弾の先陣は悉く発射地点めがけ跳ね返され、道中仲間と相搏ち爆発。小札本体への被弾を防ぎ
ぬいた。

 忍びは火器に弱い。前者2名に先駆け武装錬金を発動していた無銘であったが、それが性質賦与の龕灯となれば痙笑も
やむなしだろう。迎撃には、むいていない。堅牢ではあるが動きは遅く、したがって咄嗟の盾にはまずならぬ。
 しかも無銘の左腕の長袖はぺらぺらに絞られきっている。中身はない。自ら切り落とした。今昼、隙なき不動のイオイソゴ
を誘惑するため自ら根元からバッサリとやり、投げつけ、喰わせた。その美味さらに味わいたくば必ず我を狙えと自ら妖魔
の祭壇に捧げたのだ。
 隻腕である以上、対応力は秋水や小札を下回る。捌ける数は半分以下。硬質の龕灯を盾にするにしても1つしか握れない。
 仕方がないので無銘は殺到してくる30の筒を前に……諦めた。もう武装錬金では挽回不能の状況に陥っているのだと素
直に認めた。そして口の右端を上向きの舌でぺろりと舐める。忍法・指かいこ。右手の五指の先端からそれぞれ1本ずつま
ろびでた青白い糸が筒を1つからめとる。手首の微妙なスナップで筒が友軍を打撃し相殺爆発する中、斜め右上を見た少
年の唇がヒュっと特殊なすぼみ方を描く。忍法吸息かまいたち。右上の虚空の渦から現れ出でていた筒たちは皮肉にも空
気の渦によって爆発すらできぬほど細かく細かく擂り潰された。そもそも直立不動で迎撃する理由もない。右手を換装。忍
法三日月剣で筒を1つ切断しつつ無銘は西へと歩み出る。裂いたものが爆発するがタイ捨流の身のこなしで前へと逃れ
更に飛ぶ。攻撃に向いた兵馬俑の間に合う状況ではなかったが、兵馬俑がかつて用いていた忍法自体は総てとっくにフィ
ードバック済みなのだ、本体に。
 半々の爆弾が後ろで爆ぜた。遠巻きの爆風に耳元をぬるりと撫でながら爪先をめらっと忍法赤不動で燃やしかけたのは
追尾を警戒したが故だ。海王星。リバース。必中必殺を龕灯越しにとはいえあれだけ見せ付けられていれば筒爆弾を「よも
や」と見るのは当然だろう。
 幸い、なかった。筒は蛻の爆心地を愚直に壊し続けている。「ざまあ見ろ」。暗くせせら笑う少年であったが、

(!!)

 表情は俄かに急変する。放たれていたのだ。30の爆弾が来たのと同時に。黒いボールペン大の武器のうち無銘の眼前
にあるものは8本。どんよりとした、見るだけで生きる意欲が失われる桑実紫(マルベリーパープル)の波動を揚げるその武
器の名は神火飛鴉(しんかひあ)。古代中国の射出兵器だ。
 8本は無銘個人を狙ったものではない。全方位をめがけたうちのごく一部。一同の8mほど前で眛(くら)い愉悦に薄ら笑
うハシビロコウの幹部、ディプレス=シンカヒアは無銘から見て西側にいる。西棟の行き止まりから10mほど手前に居る。
 そして右や左、斜め上や斜め下といった無数の軌道へ恐るべき射出の兵器を射ち放っていた。無銘とかち合ったのはそ
のうち横一文字のものにすぎない。
 月(スナイパー)が討ち漏らした者を火星(インファイター)が刈り取る。当たり前すぎて陳腐ですらある構図だ。
 だが無銘ほどの男が、嵌った。爆弾を避けるためとはいえ、彼は躍り出てしまっていた。わずかな接触でシルバースキン
すら分解してのける能力、その弾幕の只中に突出してしまっていた。
(速度自体はリバースの弾丸に遠く及ばぬ、弓矢程度の緩慢な物だが……数が、多い!!)
 ふゅんふゅんと甲高い音がなる。神火飛鴉の突入するところ壁や床は穿たれる。西から、東へ。8cmの円状がセピア色
に褪色し、粒となって落ち、ドス黒い穴を残す。そして、更に。
(!!)
 ディプレスは飛んできている。翼を広げ、無銘めがけて一直線に。体内から湧き上がった10近い神火飛鴉の鋭い切先総て
はしかし無銘ではない、意外な方向を向いていた。小札。弾幕破壊に安堵し障壁を解いたばかりの小札をディプレスは狙っていた。

(なんたる卑劣! だが!)

 ディプレスを妨害するコトに迷いなどなかった。やれば弾幕に穿たれるが、小札がそうなるよりはいい。少年忍者は若さ
ゆえの無謀な行動に移行し、

「無銘!!」

 横合いから秋水にひったくっられた。彼は影も見せず無銘を背中の後ろに置くやいなや正面めがけ大上段を繰り出した。
ふわり。急停止する火星。斬撃はあと20cmというところで空を切る。しかし小札への攻撃を防ぐ牽制にはなった。
 火星は、シャトルループ。宙返りで西へと後退しつつ侍らせていた神火飛鴉を放つ。ターゲットは切り替わり、秋水。裂帛
の気合が湧き騰(あ)がった。(っ!) 秋水の東側で背後を務める無銘はその皮膚に太い輪ゴムの伸縮の痛みを覚えた。
それほど研ぎ澄まされた剣気であった。先ほど無銘が突出して遭逢した8本に小札用の10本前後を加えた神火飛鴉たちは、
北海の荒波のような気合を浴びた瞬間、濛々たる気だるいオーラをあっという間に剥ぎ取られた。失速し、床でからころと
転がった。

 巨鳥は西方へ着地。地響きがした。床のヒビは微かだが隆起すら伴った。
 幹部が見るのは西棟廊下の東に向かって伸びる景色だ。恋人が立っていても分からないほど遠く霞んだ向こうには中央
棟との境目が見える。もちろん病院だから扉はない。ナースステーションや座椅子の切れ端が壁の向こうからはみ出してい
るから、『棟』の切り替わりが見てとれた。
 東に佇む秋水らとの距離は4mほど。顔の正面を向けながらクチバシの端をゆがめる。
(……。チw。防がれたかw。まあいいww。デッドww。予定通りいつものタッグだwww また核鉄広域爆破、頼むぜww 
ありゃあリバースの必中必殺以上だからなww なにしろ対象範囲は……街w全w体wwww)
 ディプレスは小声で囁く。インカム。羽毛の下に隠れている。ワイヤレスイヤホンは目の横。鳥の姿でありながらヒトと同じ
位置に聴覚の器官を有するのもまた異形ならではか。
(……? デッド?)
 応答はない。平生であればすぐさま反応するのに。
 訝しむディプレス。その耳に突き刺さったのは驚愕すべき発信であり、発言だった。
(悪……。ディプ……。核鉄……撃は、二度と……理や……。ブレ…………。……レ……クが…………禁……能力を……)
(……!!!?)
 すかすかしたノイズに遮られ全体として不鮮明な連絡であったが、長年の阿吽で概ね察する。
(封じられたってえのか!? 核鉄の媒介狙撃!? しかも……よくは聞こえなかったが、断片を拾うに、まさ……か……!?)
 へらりとしたハルバード使いの顔が脳裏に浮かぶ。ありうる。ディプレスは戦慄した。離脱したかつての朋友の能力であれ
ば先ほどの核鉄媒介狙撃、二度と使えぬ状態に……できる!! 渦は銀成各所の核鉄または武装錬金の近辺に、出てい
たのだ。ブレイクという『渦越しでも禁止能力をかけられる』危険な人物とアクセスしてしまっていた可能性は、高い。
(……待て! もしかするとデッドが禁じられたのは『核鉄媒介狙撃のみ』ではなく『媒介狙撃』そのもの……!? だ、だと
すれば俺への支援砲撃は、遠近のタッグで敵どもを攪乱(こうらん)する常套の必勝戦法は……カンペキ封じられちまった
コトに、なる……!!? いや! どころか……! もし! ブレイクが、ブレイクの野郎が!!)
 ディプレスの想像回路に明滅するは、ブレイクvsデッドの構図。そうだ天王星は元仲間。知っている、月がどこに潜んで
いるかを。
(やべえ……! 近接特化のブレイクが狙撃手デッドの元に直接来襲していたら……事態は、最悪……!)
 腸が冷え、きゅるきゅると回りだすが、同時にありえぬコトだと思う。なぜなら彼の狙いはあくまで恋人(リバース)殺しの
下手人、リヴォルハインだからだ。デッドを殺す意味はない。彼女は共犯ですらないのだ。むしろレティクルに引きずり込ん
だ縁故ありきで考えるなら、交渉次第ではリヴォ殺害の片棒を担いで貰える可能性すらある。
(第一、デッドを殺したら俺を敵に回すリスクがある……! なのに、殺る? デッドを? だが現にどうやら核鉄広域爆破
だけは確実に封じている……! なんだ? いったいあのヤロウ、どういう絵で動いてやがる……!?)
 謎と葛藤が戦闘意欲を開幕早々大きく削っていく中、

「やはり確たる意志には弱いようだな、分解能力」
 尖りきった眼差しをハシビロコウに突き刺す秋水。彼は見る。穴ぼこだらけになった病院を。もしリバース戦に参画して
いれば同じ風景を味わったのだろうと思うほど、この、窓に面した廊下は銃撃戦に近しい被害状況を呈している。穴はいず
れも直径8cm。銀色のサッシの窓を穿ったものは恐るべきことに周囲のガラスにヒビ1つ生んでいない。アルミ製の桟で白
く濁った粒が盛り塩のような形と大きさでわだかまっているのを視界の端に捕らえつつ秋水が目を移した病院の壁は、6人
部屋の中身を露にしている。くろぐろとした髪の中年男性が3人、茶髪の若い女性が1人、部屋の隅のカード式ブラウン管
テレビの黒い筐体のそば固まって震えているのが見えた。男性の服は総て水色の入院着だ。どうやら元からいる患者らし
い。茶髪の女性はジャケットにタイトなスカートという千歳と似たような衣装。それもそのはず。戦士の、制服なのだ。身分証
替わりに核鉄を見せた。避難の根回しのさなか襲撃に遭った、そんなところだろう。
「くく」
 首を曲げ彼らを見たディプレスは笑いかけたが……十四連斬に血相を変え西へ飛びのく。
「手は、出させない!!」
 追った秋水への迎撃で火星の手は塞がった。
(……っ! ……っ!)
 壁の丸穴の端っちょからフレームインした小札はロッドの尖端で窓を指した。(ベランダ伝いに中央棟北側へ! そこに
ある外付けの非常階段でなら1階に行けまする!!)。ベランダが非常扉で区切られている、マンションのような構造は
病院としては一般的か、どうか。建築士ならざる無銘には判別のできない事柄だが、サッシ窓はからりと開いた。茶髪の
女性は無銘らを見ると、水平の手を額に当て見渡すジェスチャアをした。西や東の病室をくいくい指差してもいるところを
見ると、どうやら道中、病室に取り残された者を拾っていく心積もりらしい。(任せた)。無銘が頷くと女性と男たちはカーテ
ンの向こうに消えた。防火扉の割れる微かな音が病室に響いた。
 無銘たちは秋水らの方角を向き、駆け出す。
 足をしばしば、とられそうになった。
 廊下の床は穴だらけなのだ。もはやタールの雨漏りがあったという方が、早い。秋水らが伏せでも跳躍しても当たるよう、
微妙な上下角をも孕まされた神火飛鴉たちは、床へと突き立ち穴となった。天井の被害状況も同じくだ。消えたり、火花を
上げる蛍光灯が幾つか無銘と小札の頭上を通り過ぎた。
 被害の密度は西の方が、濃い。特に床の穴の間隔は東に行くにつれ広がっていく。斜め下めがけ射った神火飛鴉の集
弾率は、ディプレスから離れれば離れるほど悪くなっている。(リバースなら均等に埋め尽くしただろうに……)。銃手として
の集中力の低さを火星につくづくと感じつつ、無銘は、
(我を助けるとき早坂秋水、こんな物の中へと飛び込んでいたのか……)
 まったく放胆が過ぎると感嘆したところでその相手に追いついた。
 ディプレスとの小競り合いは一段落したらしく、今は対峙の格好だ。西棟の西隅に、近くなった。
(『火星の能力の発動条件は『怯みを持つ』。養護施設での戦いから確かにそう分析されてはいたが、分かっていたとして
も飛び込めるか普通。我を襲っていたのは少し怯むだけで確実に肉体を分解する能力! その鼻先へと迷わず突っ込める
のは勇猛と言うより狂気! もし裂帛の気合が通じなかったら死んでいたぞ……! しかも動機は他者(われ)を助ける、だ
……。平素あれほど憎まれ口を叩いている我のために、よくもまあ……)
 内心舌を巻きつつも「先の庇い立て、貸し1つ……というコトにしてやる」と素直ではない礼を無銘が述べ終えたころ小札も
駆け寄る。ロバだから足はあまり早くない。綺麗な息がぽんと弾んだ。

 秋水は学生服姿。上着のボタンは一番上以外留めている。
 無銘は黒を基調とした忍び装束。胸元に帷子が覗く。上下とも長袖。今昼イオイソゴに喰わせた左腕部分は窓際から絶
え間なく流れ込む風雨によってぺらぺらとはためている。下は動きやすさ重視でゆったりと丸く膨らんでいる。
 小札はいつものタキシード。つばの広いシルクハットはいかなる工夫があるのか、雨風を浴びても小揺るぎひとつしない。

 廊下における戦力はどうやらこの3名だけらしいと小札は廊下を見る。惨憺たる有り様だ。開戦前、戦士らは廊下に散
在していた。毒島の指揮方針が固まるまでの時間つぶしにと何となくうろついていた者も居れば、千歳に許可を得た上で
入院患者に避難の打診しにきた者も居た。だがいま廊下に自らの両足で立っている者はいない。ディプレスの来襲と共に
散った壁際の戦士2名と同じような、血にまみれた床の影が幾つも幾つも目に入る。先の爆撃でやられたのか、それとも凌
いだあと後詰の分解能力を直撃したのか。
 病室になら、先ほどの茶髪女性のような難を逃れた戦士が居るかも知れない。だが確認には時間も手数も足りなさ過ぎ
る。ベランダを破り破りの避難行動にうまく加わってくれるコトを……そう祈っていた小札は、

(…………あ)

 1つ、見覚えのある影が廊下に転がっているのに気付いた。瞬間、ロバの大きなまなこは熱く痛い表面張力に満たされた。


 秋水は、考える。

(火星……! 貴信と香美の因縁の相手……!)

 7年前のあらましは聞いている。彼らが1つの体になった事件においてディプレスはむしろ同情的で協力的だったとも。

(ネコと、飼い主。2人が再び別々の体になるための手段こそ……分解能力。火星はそう言ったという)

──「60兆総ての細胞ぜんぶキチンと分離? そらアレだよなあ。精密動作だよなあ」

──「今のテンションじゃ間違いなくしくじる!! そしたら兄弟たち死ぬぜ!」

──「でも理論上はできる!! 実現できるのはきっと……俺の憂鬱が全部回復するぐらい熱い戦いをやった時だ!」

──「だから俺と戦え兄弟!! 俺を満足させろ!!」

──「でねーと分解しくじってよー!! ぶっ殺すハメになる!!」

(貴信と香美の分離だけなら総角の複製した神火飛鴉でも可能のように思えるが──…)

 武技で通じ合う貴信がこの7年見据え続けてきたのはディプレスだ。

(理想をいえばこの場で殺さず無力化。レティクル壊滅後に私闘。それが一番望ましい形の筈)

 斗貴子が傍に居れば甘いと呆れ返るだろう。ディプレスもホムンクルスならば貴信もホムンクルス。私的な事情のために、
街襲う幹部の完全消滅を遅らせるのは危険でしかない。事実西山しかりムーンフェイスしかり、捜査のために生かされた連
中に限って破獄し更なる傷を撒いている。
 秋水の出身は、ホムンクルスに、近い。闇の側から錬金術を見て生きてきた都合上、たとえ凶残のマレフィックが相手で
あったとしても、堕するに到った正当な理由があるのならば、”そこ”に向き合うべきだと思っている。
 秋水自身、向き合うカズキに救われたのだから。

(だが相手は手ごわい。何しろあの鐶の戦いの師なのだから……!!)

 肉厚の茎(なかご)をずしりと手の内に握り締めながら、秋水は頬を引き締める。

(音楽隊で唯一俺が勝てなかったのが鐶。いま眼前に居る者は、その、師匠…………!!)

 養護施設のころから巨躯の鳥だと認識しているが、室内で見るとまた一段と頭上からのしかかって来るような威圧感が
ある。

(190cmある無銘の兵馬俑より更に巨きい。太(タイ)すら僅かだが上回っている)

 かつてL・X・Eに居た巨漢のホムンクルスの身長は220cm。秋水の目算する火星の上背は太より10cm前後勝っている
よう思われた。むろん鳥である以上、しゅっとしたスマートなフォルムであるが、剣呑な目つきと、ぎらぎらした攻撃的な気配は
一個の肉食恐竜を想像させるに充分な立ち姿だ。養護施設や再開発区域で見た幹部らがおおむね美男美女だったからこそ
唯一人外の姿を取るディプレスの風貌は、よりおぞましく映って見える。

 分解能力は無条件に通じないのではない。「少し怯めば、すぐさまかかる」。

(そういう意味では武藤の時ほど相性で勝れているとは思えない……! そもそも俺は……、あの時の俺は、その武藤に
すら出し抜かれている……!)

 ゆらり。異形の鳥の幹部が一歩進む。ヒョコリとしたぎこちない歩法に秋水は「?」と気付く。

(右脚……あれは…………『義足』…………か?)

 ホムンクルスでありながら羽毛を有するオーガニックな風貌なディプレス。
 だがその右脚は半ばから明らかに金属的な造詣によって被覆されている。人間で言うなら『膝から下が義足』といった
状態だ。しかしなぜ今ごろ秋水はそれに気付く? 昼、幹部一同と遭遇したのではなかったか? 確かにそうだがしかし
ディプレス個人を観察する時間はなかった。養護施設ではブレイクと戦い、再開発区域ではイオイソゴに足止めされた。
 ディプレスを養護施設で担当した斗貴子ですら、無限に湧いてくる自動人形への苦慮でさほど観察できなかったし、剛太
や小札、無銘といったディプレスの追跡組もその位置関係上かれの義足ははっきりと見えなかった。だから戦士側の横の
繋がりからは得られなかった”気付き”なのだ義足は。

 陸上の鳥の「趾」は基本、前3本、後ろ1本だ。ディプレスもそれに習っているが、右脚は従来のホムンクルスめいた、メカ
ニカルな鉄色の器具によって被覆されている。左脚が白カビの浮いた茶系統の枯れ枝のような色合いなのとは対照的だ。

(他に考えられるのは……飾り、サブウェポン……それから──…)

 神火飛鴉の操作デバイス。(狙わぬ手はない)。実力の懸隔は正々堂々の余裕を奪う。義足を壊し、機動を削ぐ。4ペー
ジ目に載っておらぬ死合の教科書がどうして検定を通れよう。

(金星とは小競り合い。海王星は遠隔からの補助。最初の我が身切っての真剣勝負は、火星。手始めというにはあまりに
強大な相手…………!)

 無銘が逢ったのは7年前の夜と今日の昼。交流らしい交流はないが、火力・凶悪性ともリバースに勝るとも劣らぬ男だとい
のが少年無銘の率直な印象だ。

(しかも鐶の時のように肉親の情で付け入る隙はない。強いていうなら栴檀どもとの因縁は利用できるかも知れないが、生憎
奴らはここにはいない……!!)

 手勢は3人だ。新月村で海王星と天王星、土星とそれに操られた大戦士長を相手に動員された対抗馬は核鉄持ちだけで
も24人。単純計算で敵戦力1つあたり平均6人。分布はリバースの方がやや濃く、打倒までおよそ10人前後の死力が関
わっていた。そのあたりを考えると、無銘らの旗色、実に悪い。

 しかも相手は10年前の決戦を生き延びた古参の幹部。加入約2年のリバースですらああまで強豪だったコトを考えると、

(気を抜けば……一瞬だ。一瞬の一気呵成で……蹴散らされる…………!!)

 ぐっと太い眉を持ち上げ睨み据える。視線を打ち返したディプレスは、クチバシの端を露骨にゆがめ──…

「なんでだよオオオオオオオ!! なんでデッドの媒介狙撃でッ! 死んでねえええんんだよおおおおおおおおおおお!!!」

 大粒の涙を、撒き散らした。

(涙!? 普段語尾に笑いを滲ませている火星が、涙……!?)

 秋水が色を成すのは、余程のコト。

「おかしいだろ、おかしいだろおおお!!! 不意打ちだったんぜェ!! 30のバクダンに取り巻かれたらフツー、死だろ!?
率直に死ねよ死んどけよ!!!  なんで免れてんだよおおおお!! 助かってんじゃねえええええ!! ぶぶぶっ、分解
能力で後詰めまでしたってのに!! 大抵の奴ァこれでおとなしくくたばるってのに!! なんでテメーラ従えねえんだよ俺を
スカッとさせてくんねーえんだよおおおお!!!」

 憂鬱だあ、憂鬱だあ。
 ぼた餅大の涙を煤けた床に次から次に叩き落していく怪鳥には秋水はおろか小札すら何もいえない。ぐす、ぐすっと、頬染
めながら泣く幹部。肺魚を丸呑みできる大きなノドすらしゃくりあげる怪鳥を異様といわずして何といおう。
 あまつさえ火星は後ずさる。幹部にも関わらず、後ずさる。

「み、見るなッ!! はは、早坂秋水、テメーだきゃあ俺を見るな見るんじゃねえ!!」 大きな翼で顔を覆いながらにじり
寄っていくのが先ほど廊下に開けた大穴の方角だと、外に通じるルートだと気付いた無銘は愕然とする。

(逃げる……!? 幹部が!? まだカスリ傷の1つすら負わされていないうちに……僅かな手勢に背を向けて!?)

 そういえばと思い出す。リバースが『憤怒』であればディプレスは『憂鬱』だと。その看板の違いが攻勢に硬性を欠く理由だ
とすれば一応の納得はゆく。が。

「ブラフか? 釣りこむ為の?」

 油断ない目線を突き刺しながら秋水は足を摺り、進む。騙しを疑いながらも近づいていくのは知っているからだ。文官殺し。
逃がせばまた後衛向きの有能株が散らされると分かっている以上、誰が逃がそう。たとえ罠でも踏み込まねば、ならない。

 ディプレスの泣き腫らした目にちらりと動顛の炎が翳る。図星を指されたが故か否か、無銘は掴みかねつつも歩調だけ
は秋水へ合わせる。罠があったとしても2人ならば逆捩じの食らわせようもある。だから秋水から一歩半ほど後ろでにじり
寄る。間隔はこの場合保険だった。間隔が広ければ広いほど、一網打尽の率は下がる。どちらかが罠にかかっても残る
片方が攻撃を加えられる。その機微了承し、間隔を保持した秋水は──…

 正眼の愛刀の作る僅かな死角さえ厭ったのか、両掌を左大腿部の側面につける。切先は後ろの方へ。脇構えだ。歩幅
は、速まる。三前趾でぺたぺた後ずさるディプレスの、大きなノドから水音がした。病院特有の、生活臭と薬品臭の混在す
る饐えた空気の中に緊迫が漂う。釣り上がった火星の目の周縁はいつしか赤くひび割れていく。息もあがる。背後からべ
ちゃべちゃと毛並みを濡らしてくる雨しぶきは、侵入口に少しずつだが近づけているコトを教えている。

(6m……いや、5mってトコか……)
 企みのためびっこを引きながら後退する。火星の卑劣な目論見が叶うまであと4.8m。秋水は、問う。
「幹部が、泣き叫ぶのは、いかにも怪しい。俺が君を侮ったが最後、無防備な踏み込みは交差法によって切り落とされる
かも知れないな。外に通じるその壁の大穴の傍めがけ飛び入った刹那、先ほどの狙撃が……今度は通常の狙撃手の文法
によって大束で来るコトも考えられるが……」

 射線を理解した俺の腕とソードサムライXは、斬る。乾いた断言を発しながら秋水は歩を速める。先ほど実例が示されてい
る都合上、圧は、強い。もっとも、脅しではない。用心、であろう。『煽り』を分解能力の裨益(ひえき)とする幹部への警戒感
から常態以上に粛然と鉄腸を引き締めているだけに過ぎない。

 そこが、火星には、堪(こた)える。

(クソ! ナメた態度で飛びかかってくる方がまだ付けこみようもあるってえのに! そもそも野郎は俺がブラフかましてる
と疑っているようだが……ねえよブラフなんて一体どうしてかけられる!? 切迫はガチだ! ホンモンだ! だってよお!
一時(いっとき)か久遠かは不明だが、デッドとのタッグが封じられちまってんだぜ!!!! んな最悪な時の相手がよりに
もよって早坂秋水! 分解能力が基本通じぬ早坂秋水!!)

(退散して、何が悪い!!)

 侵入口まで3mを切った。青年剣士も幹部との間合いをそれぐらいにまで詰めている。

(俺の目当てはあくまで兄弟(貴信)! そこまではよぉ! さけるぜ! 余計な傷は! 仰せつかった任務だって『アース
の器確保』……だしな!!)

 対秋水に旨味はない。避けようが逃げようが成せるのが器確保だ。6階に来たのだって『器』が他の学生ともどもヘリで
逃げる場合を想定してのコトだ。だがどうも最上階に集団集合の気配はない。

(つまり……地下か。昼間デッドの媒介狙撃が通ってた都合上、ブラボーどもが警戒して空路イッパツの逃亡を目論んでい
るかもと考え屋上に近い6階からツブしにかかってみたが……ヘリコも生徒も上に来てる気配はねえ。というか)
 ディプレスは噛み合わない感情を素直に吐露する。

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
(『聖サンジェルマン病院が6階まであるのはどうしてだ?』)

 病室側の壁に据え付けられた薄緑の掲示板でばたばたとはためく紙があった。何かの連絡のついでに載せられたらしい
病院の外観写真の前を通り過ぎたハシビロコウはチラリと横目で確認する。『5階までしか』ない。ディプレスが半ば強引にイ
オイソゴから押し付けられた事前調査でもそうだったのだ。ターゲットの写真は5階までだった。

 だが突入前ディプレスが見た聖サンジェルマン病院は6階建てだった。増改築の報告はない。そもそもクライマックスと
もども街をうろついているとき何度か見た病院には工事の様子がまるでなかった。

(なんで増えてんだ? 戦士のどいつかの武装錬金の影響……なのか? そう疑った俺は生徒らが屋上からのヘリで脱出
するための何らかの細工かと疑った。疑った以上、『謎の6階』に生徒らが集結しているセンで行動するのは当然だろ?
で、突っ込んできた訳だがどうやら空振りだったらしい。じゃあなんで1階増えている? 増えたのは『6階』なのか? それ
とも下の方のどこかの階と階の間にワンフロア突っ込まれているのか? そもそも階数の増加は戦士側の仕業なのか?
戦士の仕業なら武装錬金なのか? または病院自体が持つ何かの仕掛け? 難儀なのは戦団でもレティクルでもねえ別
の勢力がカラんでいる場合だが……だとしても6階建てにする理由は? なんの得がある?)
 いずれにせよ空路輸送のセンは消えた。
(ってえコトはだ。『ヴィクトリアの避難壕を活用できる輸送系武装錬金』。その持ち主の戦士が学生どもと合流したと見る
べき……だな。なぜなら避難壕しか使えねえ状態なら逃避の手段は結局、徒歩……。足が遅え。媒介狙撃が一度来た地
下などとても怖くて選べねえ。よって連中は戦士のどいつかのクライマックスよろしい『速く動ける乗り物』とアンダーグラウン
ドサーチライトのコンボで逃げをかましてる!! したがって目指すは地下!! そしてスピーディーなドライブで逃げられる
からには、だ。秋水。ダラクサ構うべきじゃねえ。この白っツラに構いすぎれば器は逃げる、どこまでも……!! 『ヘルメス
ドライブで戦団日本支部に飛び安全を確保するのは不可能』だからこそ、一度見失えば探すのに難儀する……!)

 冷静な打算とは裏腹に、ディプレスの対外的な感情は千々に乱れている。別におかしなタイプでもない。投書欄用に非常
に冷静な指摘をこさえられる者が、コンビニで袋いいですを聞き返され声を荒げてしまう、ごくごくありふれた一貫性だ。乖離
ですらない。己の「いらない」を尖鋭させる点において両者は同じ。秋水はいま、レジ袋だ。

 侵入口まで2mを切った。

「デデデデッドの奇策で瞬殺できなかった以上、俺はテメーと事をかまえる気は一切ねえ!! リバース負かしたカメラ女の
前例がある以上、以後遭遇した戦士はキッチリ全部殺し切るつもりだが! 早坂秋水! テメーだけは別だ!! テメーだ
けは俺の手で殺さねえ!! 昼の屈辱に拘泥して居残りゃそれこそリバースの二の舞だからな!! だから俺は仲間に託す!!
助け合う!! 支え合い励まし合って……勝利を目指す!!!」
(……なにか、隠している。やはりブラフ…………怯えの演技、か?)

 甲高い叫びの連峰に一抹の不純物を感じた秋水は警戒を高める。高めつつもにじり寄る。

 掴んだからな、お前の所在は掴んだからな! ヨダレを撒き散らしながら捲くし立てるディプレスは翼を広げてもいた。目的地
まであと1m弱となれば、飛ぶ。雨が流れ込む大穴めがけ。

「楽しみにしてろ早坂秋水! クライマックス! クライマックスの無限増援でなら刀一本のテメーは──…」

 言い捨てて逃げ出そうとしたディプレスは壁の穴に弾かれ、廊下で弾む。

「な!?」
「反射モード、ホワイトリフレクション!」
 ロッドを構え、突き出す小札。だが両目が影に覆われているため表情は誰にもわからない。
「不肖の能力マシンガンシャッフルは『壊れたものを繋ぎ、自在に操る能力』なのです……」
 前髪にも覆われている目元にきらりと輝くものを見た無銘はここでやっと気付く。

──「辛かったでありましょう。痛かったでありましょう。ですがもう……大丈夫、なのです」

 9時ごろ小札に手当てされた少年兵。彼が霞みきった双眸で廊下の片隅に転がっているのを。蛍光色オレンジのパーカー
と迷彩柄のカーゴパンツはこぞって柔らかそうな生地を炎の点在に焼かれている。天井にかざされた背中からは爆裂で抉
られた肉が何パターンも見えた。ただし四肢には分解(えぐ)られたような痕があるため死因は現状、どちらか不明だ。

「壊れた物を、繋ぐ能力。それはスピリットレスで開けられた壁の穴もまた……操作可能」

 俯いたまま震える少女。

 しおれていた声が徐々に強まっていく。哀切に湿りながらも徐々に徐々にと確たる意志に満ちていく。
 思わぬ少女の思わぬ様子にクチバシをあんぐり開け茫然自失に囚われたディプレスは、尻餅もそのままにガタガタと震
え出す。
「小札……!! てめえ、まさか…………!!」
「そう!! 『分解された壁は、壊れている』!!」

 叫び首振る小札。透き通った涙が数顆きらきら舞い飛ぶ。握り締めたロッドの尖端から大穴に向かう光線は太さと激しさ
を増していった。強まらせるのだ出力を。ほんの1時間前までは生きていた幼き戦士のため、ありったけ、ありったけ。
 まずい! 強化完了までのわずかな隙にどうにかと大穴に突撃するディプレスだが張り巡る反射障壁は逃げ得を許さな
い。彼はまた弾かれた。(つ、繋がれてやがる! 障壁の光線自体が! 分解する傍から……繋がれてやがる!!)。辛く
も宙返りし直立する。舌打ちし、攻撃担当の神火飛鴉を全身の周囲に殺意と共に充溢させる。
「無駄であります……!! 不肖ある限り逃走経路は塞がせていただく次第……!!」
 手の甲で涙を拭い、すんと鼻を鳴らす小札。
「たとえ……たとえ他の壁を分解して抜けようとしても……ホワイトリフレクションで不肖、弾く所存…………!」
(小札が……。あの小札が…………怒(おこ)って、いる…………)
 泣き腫らした大きな瞳に、か弱げな赤い炎を灯す少女を早坂秋水は初めて見た。
 左様の母の姿ひとつで足る。無銘が怒る動機の話だ。
「栴檀どもには悪いがこの場で倒す!!! 母上と早坂秋水で相性勝ちできる芽がある以上、逃がす道理は、無い!」
(敵対特性か!!)
 龕灯と切り替わり出現した兵馬俑を5m先に見た火星は、「ややややべえ」と丸い瞳を虚脱に広げたままダクダクと涙を
流す。震え方ときたら黄熱病患者のような有り様だ。脆さゆえに憤怒に陥ったリバースですら大激戦の果ての母の亡霊で
ようやく浮かべた絶望の表情を、ディプレスは序盤のわずか一殺人への糾弾によってはやばやと演じる。
 その頃にはもう、秋水は踏み込んでいたのに、構わず絶望し、暗澹と、囁くのだ。
「ヒデぇ仕打ち……! 傷だけ置いて逃げるつもりだったのに……! 傷だけ置いて逃げるつもり、だったのに……!!」
(…………『傷』?)

 時刻は9時26分。秋水は速度の中、悲鳴を聞く。

 21秒前。聖サンジェルマン病院中央棟1階。受付のあるロビー。

「あ……」
 反射的な声と共に顎を揺らし、階段の方に目をやった少女の目の色が、劇的に、変わる。
 首の右側は千切れ飛んでいた。『黒い雨』に貫かれ、C型に抉られたのだ。成人男性ですら耐え切れない激痛が幼児の
大脳をスパークさせた瞬間、眼球は無垢の輝きの一切を失った。一気に青ばみ、ぐろりと上に。
 血の噴水をたっぷり浴びた丸い顎は、勢いを得た。わずかな皮と数本の束からなる頭部と胴体の蝶番は勢いによって左
へ曲がる。べろり。左の二の腕の傍で少女の顔はさかさになった。血しぶきがガスマスクの頬に降りかかったのはちょうど
この頃だ。事態の激変についていけず固まるばかりの毒島の眼前で、血みどろのドッキングワンピースが小さな体ごと氷
床へ倒れ付した。
「あ、あああ」
 涙ぐみながら手を伸ばす毒島。その指先で少女が跳ねた。立ち上がったのである、ヘッドスプリングで。120cm足らずの
体は時おり床の氷で爪先を取られるものの、間隔短いスキップで毒島へと近づく。左側の頭をゆっさゆっさ元気よく振って。
 この約1ヶ月後の2005年10月20日、サウジアラビアのサッカーチーム『アル・ハジャール』の選手、アブドゥルラーマン・
アル・シャアイビは相手選手と激突したのち翌日戦線に復帰する。事故の模様が、いまに近い。少女はアブドゥルラーマン
同様三半規管を損傷していた。首に続いて後頭部に着弾した『黒い雨』は羨道の先で左の三半規管に到達。その全域を反
時計回りで掻き回し始めていた。過程生じた異常信号は左脚に全身の平仄をあわせるよう命じた。カエルの死骸に電流を
流せば足が動く。飛び上がりや突撃もそれと同じだ。何かの武装錬金特性でゾンビ化された訳ではない。ごくごく単純な生
物的作用に従い動いているだけだ。
 少女の上体がぶるん、ぶるんと、痙攣するのも作用のひとつだ。痙攣のたび上半身は凄まじい勢いで左に曲がり、戻った。
強靭なバネで引き戻されたような矯正の動き。ぴゅっ、ぴゅ。右の首は真紅のアーチを絞り出す。まだ心臓は動いているよ
うだ。少女の上半身が反復運動のけたたましい残影を引くたびアーチは床に天井に、めちゃくちゃに降りかかる。毒島のガ
スマスクでも湿っぽい響きの散発が見られた。赤いまだらは版図を広げる。
 全体的な変化が起きた。右肩下がりの『黒い雨』がロビー全体に注いだのだ。ただし、すぐ消えた。ほとんどは床や長椅子
の一部を食い逃げして地中へ消えた。先の一撃によって天井に意識を向けていた戦士らは、床で滑りながらも直撃を避ける
コトにどうにか成功したが……安堵の間もなく再衝撃される。
 お団子少女。新たに刺さった黒い雨は5本。箇所は別々。
 1本は薄茶色の髪をパスタよろしく反時計回りに巻き込みながらひゅるひゅると旋転。めりこんだ皮膚を髪ごと竜巻状に
撒き散らす。むき出しになった前頭骨前頭鱗に尖端がレコードプレイヤーの針のごとく遠慮がちに触れた瞬間、頭頂骨前
頭縁との冠状縫合が、ほどけ始めた。頭頂骨と右側頭骨の鱗状縫合もまた別の黒雨により同じ憂き目に至る。愛らしい少
女の顔面が直方体の切り餅を満杯に詰めた白いビニール袋のようにボコボコと隆起し始めたのは、両の関節包を破られ
た下顎骨が下顎窩より取り外された辺りであり、その頃にはもう結合を解任された鼻骨や口蓋骨、頬骨がめいめい勝手
な方向に浮き上がっていた。丸々と輝いていた瞳はもう白眼がちの細い垂れ目。
 皮が盛り上がった。川を泳ぐ毒蛇のシルエットの隆起だった。ボールペン大の黒い雨が上唇挙筋と小頬骨筋の間に潜
り込んだせいだ。毒蛇の盛り上がりが左から右へと移動するたび響いたのは、ししゃもの卵を噛み潰すようなぷちぷちと
いう小気味いい音で、それは分解され続けた筋繊維の断末魔の二十三部合唱だった。
 左腕の傍でさかさになっている顔が、笑う。表情筋をいじくりまわされているせいだ。痙攣を伴う角ばった笑顔が無表情
との往還を繰り返す。毒蛇の盛り上がりはついに鼻の下を潜り抜け……横断旅行を終えた。黒い雨が頬を突き破って出
て行った瞬間、「がごろ」。大きな破砕の音を経て、少女は物質としての澄まし顔に落ち着く。
「きょのえ、き゚き゚き゚」
 とは、声。顔側から声帯の残骸に抜ける別口の黒い雨が接触によって奏でた。小鳥よりも柔らかだったさえずりは瞬く間
に黒ずんだ。生化学の反射らしく感情はない。声帯分解工程の掠れ鳴きの音圧が、互い違いにだらりと開いた唇の間から
げっぷのように間欠した。間欠させながら少女は毒島へのスキップを諦めなかった。上半身のバネ仕込みな運動と残影も
健在。残り、二歩。
 氷の床に足を取られつつも娘を追い、止めようとしていた母親。娘の左側から回り込んで覗き込んだ姿によって動作は挫
けるコトとなる。
 顔面の異様な変形の中、白目すら剥きつつ力なき右の二肢をだるんだるんと踊らせる我が娘に母親は、「ぎ」と何事か鋭
く叫びかけ喪神した。駆け寄っていた戦士2人が支えなければ転倒していたコトだろう。それも含め、彼女は運がよかった。
そこから先は見ずに済んだのだから。
 分解の最終工程は頭と胴体の地峡において起こり始めた。薄皮と数本の管でどうにか接続をやりくりしていた首の残骸が、
ぷちり、オレンジ味のグミでも捻る切るような他愛ない音を奏で始める。山岳映画でよくある、ちぎれ続けたロープの晩年の
姿がいま投影を始め、それは誰にも止められなかった。ほぼ同刻、三半規管の分解が完了。異常信号のフィナーレに基づ
き少女が上半身を反時計回りに勢いよくまわした瞬間、ロープは決定的な最後の断絶を迎える。
 切り離された。自由になった顔が毒島までの残り一歩を独自に飛んだ。軌道上で下鼻甲介や篩骨や上顎骨といった雑多
な骨を、オモチャ箱でもぶっちゃかすような勢いで青銀の床へ点々と取りこぼしながら、飛んだ。
 頭から何かが散った。まぐろのたたきのような桃色のディップソースがガスマスクの勢力図に加わった。13箇所もそうなっ
たおかげでガスのエキスパートはこれまで嗅いだコトのない生々しさを呼吸の穴からたっぷりと押し付けられた。
 詰め物を失った、皮と、肉と、薄茶色のお団子頭はどんどんペラペラになったが、激突はまだどうにか原型が判別できる
時点において発生した。
 顔が球速152kmでブチ当たったのは……毒島華花のガスマスクの左ゴーグル。
 悲鳴をあげぬ方が、おかしい。なぜなら毒島は少女と目が合ったからだ。辛うじて蝶形骨が顔面部分に張り付いていた
ため顔面に残っていた、「さかさ少女」の、死魚のような右目は、3分の1ほどが外界にせり出している。それが血にぬめる
硬質ガラスときゅううと音立てこすり合いつつ、重力に引かれぬめぬめと緩やかにズリ落ちていく。
 毒島華花は見せ付けられた。模様の総てを至近距離からまじまじと。

 千歳の顔は、まっくろな影に覆われる。毒島の反応によって犠牲者が誰か察したのだ。

 少女の命を奪ったのは神火飛鴉だ。先ほど西棟で6階で東方向に放たれていた物のうち斜め下担当の神火飛鴉たちは
分解能力によって天井や床を貫きながら緩やかに階をくだり、中央棟へ進軍。1階に達すると同時にロビーへ抜けお団子
少女に命中。後続も次々と突き立った。
 1階にまで到達した神火飛鴉はこの場所含め57本。負傷者ゼロ。死亡者1。


 9時26分。銀成の空。

 何波目かの自動人形を塵にした火渡は胸に走った痛みの中、無意識的にだが病院を見た。
 遠く遠く、煤色の雨に霞む聖サンジェルマン病院は天候が同じなせいか、どこか赤銅島の小学校の跡地に見えた。


 同刻。聖サンジェルマン病院西棟6階。

 くぐもりつつも尾を引く長い悲鳴。それが漏れいでる床の穴から無銘たち3人はどれほどの残酷が発生したか即座に悟る。

(あの声は毒島……! あれほどの者がこれほどの声で叫ぶ、というコトは!!)
(戦士では、ない……!! 犠牲になったのは……戦士では、ない…………!!)
 秋水の血色がみるまに褪せる。カズキの笑顔が浮かぶ。まひろの笑みも。銀成を守る。誓った筈なのに……犠牲はいま、
市民から出た。

(出して……しまった。防げなかった…………!!)

「ま、別に気落ちしなくていいんじゃないの?w」
 悲鳴のまえ発生していた斬撃。それを躱わしたディプレスの声は一変する。からりとした、優しい慰めの声音へと。
 秋水は背後の穴を見ていた訳ではない。斬撃を躱わされた理由の何割かは悲鳴に気を取られたコトによるが、しかし視線
だけはディプレスに釘付けていた。対峙。一挙手一投足よりやや広い間合い。にがく波打つ顔を意志で抑える。
(落ち着け。いまの攻撃が俺に『怯み』を生むための煽りの一環なら…………掛かる訳には……!)
 瞳の透明度、いmまだ高い。無銘も同様の規制を精神に敷く。小札の顔はまた一段と悲しみに染まる。
 一同に火星は笑いながら呼びかける。
「不可抗力って奴よww 秋水お前はその穴開けた攻撃んときよ、不意の狙撃に対応するので精一杯だったww オイラの
神火飛鴉を防げるような状態じゃなかったwww むしろよく対応したと思うよ?w 無銘を助けられただけでも充分さ、充分
頑張ったwww お前は確かに命を1つ、確かに救ったwww」
 笑いながらゆっくりと立ち上がる、鳥。
「戦いなんだからさあwww 守れなかったとか気に病むのよくないよ実によくないww どんなに頑張っても助けられない命は
さあ、あるわけでww 何よりさあ、守ろうとして守れなかった人より、守ろうとされているものを平気で踏みにじる奴のが悪いよ
絶対に悪いwww そーいう意味じゃ早坂秋水、お前もまた犠牲者って訳ww 傷つけられておおカワイソカワイソwww あれは
不幸な流れ弾www 気にしちゃダメよダメなのよwww」
 無銘の牙が、鳴る。
「よくいう!! 貴様さきほど、『傷を残す』と! つまりは市民の被害を承知の上で!!!」
「おーちつけってwww」 語勢を削ぐよう翼で「まあまあ」のジャスチャーをしつつ、いぎたない笑みをわざとらしくソッポ向けさせ
つつ、ディプレスは答える。
「無銘少年よぉwww 煽り耐性の低さはいまのうち克服しといた方がいいぜww そんなんじゃオマエ、実の両親が本当は
どういう奴だったかバラされた時www 大変だっぜwwww」
(な……!?)
 まww 俺はオマエのカーチャン好きだけどなwww 可愛らしくて尊敬できる女(ひと)ってのは保証してやるよwww 嘲る
声をどこか遠くに聞きながら無銘は思考に囚われてゆく。

──本当の親が、本当の子供に仕掛ける”とんでもないエゴ”は

──負けたら私のような生き方になるのは確かだよ。って言っておくのが……『この先』の為だから。

(リバースといいディプレスといい……『何だ』? いったい何が、我の血縁上の両親に……潜んでいる?)

──「犬型のボク。アナタの本当の両親が分かったわ」

 名前は、聞いている。この病院に勤務する眼鏡のナースから聞いている。

──「戦士である可能性が極めて高いわ。父は釦押鵐目(こうおう・しとどめ)。母は幄瀬みくす(あくせ・みくす)」

──「ホムンクルス幼体投与後、死亡した彼女は妊娠していたし結婚もしていた。その夫こそ釦押鵐目」

(共に戦士と聞いてはいるが……。幹部らが寄ってたかって話すほどの『裏』が……あるのか? 戦士に」

 くくく。火星はただ笑う。懊悩すら楽しげにせせら笑う。
「とにかくよぉwww オイラはただデッドの奇襲に乗じて能力を出しただけwww そりゃあ貫通アリだから?w もしかすっと
別の場所で誰かが喰らってしまうかもとは思ったけどさああww 事故よ事故www 不幸なwww」
「だが君は、『傷を残す』。確かにそう言ったな」

 雷が鳴った。廊下の大穴を結界する白い輝きにフィルタリングされた銀色の閃光が炙りあげたのは早坂秋水。双眸が集
中力によって極限まで墨色になるのはリバース=イングラムのコンセントレーション=ワンにすら似ている。

 ディプレスだけは、気付かない。軽挙で何を踏み抜いてしまったのか、愚かにも気付かない。
 彼は羽の先を五指よろしく自分に向けながら、からからと悪びれもせず言い放つ。

「そりゃあ意図的でもあったさwww 仕留め損ねてムカついた以上さああww 早坂秋水に分解能力が通じない以上さああ
www 市民サマ初の犠牲者ってのをよぉww 武藤カズキの代行者になりたがってる感マンマンな副生徒会長サマの身辺
で出すのはよおww 消えない傷っての与えるだけ与えてバックレんのはよぉwww 後に続く仲間たちを有利にするために
有効だしよおwww なにより昼間コケにされたコトへの当然な報復って奴じゃねえかwww」
「…………」
 雷がまた、鳴る。雷雲は近づいているようだった。閃光のあとすぐ鳴り響いた轟音の中、秋水は黙然と佇む。窓に開いた
丸い穴から吹き込んでくる風雨が、刈り上げの上の柔らかな短髪を揺らし、濡らす。
「戦争やってんだぜwww ピタリと終結させるため敵方が萎え切る大きな殺し模索すんのはwww 正しいコトだろ?ww」
「ゲスが。貴様に比べればリバースは、まだ……!!」
 右拳を握り牙も露に震える少年忍者に「そうですゲスでーすwww 野良犬に噛まれたようなもんでーすwww」とディプレス、
「だwかwらw秋w水wはw悪wくwなwいwwww」、ケタケタと、笑う。
「いいじゃねえか別によぉww 秋水がむかし信奉者で学園全滅の手引きしてたコト含めてww だって銀成、とっくに純潔散
らされてるじゃねえかww バタフライとパピヨンとでさんざっぱら死んだんだぜww今さら一般市民が1人2人くたばった所」
 剣閃が走った。胸板に真一文字の傷を得たディプレスの眼前にクチバシが飛ぶ。長いクチバシがほぼ半分、血しぶきの
中で舞い飛んだ。いつ間合いを詰めたのか。悪辣の鳥に密着して振りぬいている秋水の姿に、無銘、気付く。
(逆胴!!)
 血が、濃厚な血が、びしゃびしゃと病院の廊下に落ちる。天気予報の日本地図の四国や九州ほどの血溜だまりが火星の
足元にできていく。(…………!!) 小札は反応。ズボンのポケットに意識が向いた。
 天井から跳ね返ってきたクチバシが床で三度、跳ねた。
「ぎゃ! ぎゃひいいい!!!? テメーいま、章印、章印を狙ああああうううおおお!!」
 ホムンクルスの急所はいま、ばっくりと横に裂けた。ほのかな輝きすら失った。
「CFクローニング……だったな。章印への攻撃すら回復するのは」
 俄かに章印の傷は塞がった。また再び輝き始める。
(分かった上での斬撃か。逆上しているようでそのうえ栴檀どもを慮る冷静さはある)
 無銘が頷く中、しっ、怒りを込めて撃ち放った神火飛鴉はしかし秋水に着弾しても血しぶき一つ上げなかった。
「かかっ、あれだけカマしたってえのに、『怯み』ひとつねえ!!? なぜだ!! なんでだよおおお!!!」
「君は、君たちは……月を見て泣く者を産む……!」
 斬撃。目を剥く火星は辛うじてすり抜け、東へ。こけそうになりながら走っていく。踵を返した秋水は、ゆっくりと歩みを進め
る。美貌は静謐だが摩礪しつくされてもいる。針で一突きするだけで凄烈の嚇怒が爆ぜるだろう……後姿だけで無銘がそ
う断言できるのは新月村でリバースを見たからでもあるが、何より気持ちが同じ領域だからだ。
 逃げながら振り返ったディプレスは悲鳴まじりに怒号する。神火飛鴉の群れは秋水にだけ向かった。階下への無差別を
忘れるほど彼は剣客に恐怖した。
 日本刀が、奔る。神火飛鴉は、斬られていく。横に両断された物もあれば尖端を斜めに切り落とされたものもある。赤い
筒の爆破から溜めたエネルギーに感電し黒コゲで煙吹きつつ落ちた物もある。斬りながら秋水はびっこを引く火星との距離
を静かな大股で詰めていく。弾幕は、まだ続く。

「奪われた者が、月を見上げる者がどれほど痛みに苦しむか…………分かれぬ者を俺は決して許さない……!」
 青年は少女を想う。傷を隠しながら誰かのため暖かく笑い続けてきた少女を。

(痛み……。苦しみ…………!!)
 怪鳥は恩師を想う。道を示した大事な存在(モノ)を。

「ザケんな………………!! テメーがそう言えるのは『許されたから』……だろうが…………!!!」
(…………っ!)
 一瞬。ほんの一瞬だが神火飛鴉に掠った刃が分解の兆しを見せた。手を取り、諦めるなと呼びかける少年。罪科の告
白を受けてなお辛さと謝罪を分かち合おうと申し出た少女。
「そういったモノに報いようとした結果理不尽に狂わされた人生は、じゃあどうすりゃあいいんだよ!? ア!! みんなだ、
みんななんだよ! 憂鬱に陥ったが最後みんながお前は意志が弱いと攻め立てる! 大脳の怪我人とは思われねえ!!
ただの甘ったれと断じられて! 頑張れという毒素ばかり流し込まれる『許されぬ人生』! お前は自力で覆せんのか!!?」 

 末期ガンの恩師。捧げるためのレース。修練。本番。コースへの乱入者。転倒。180度逆の向きにねじれた右足首。
再起は可能。再起の前の逝去。捧げられなかったレース。報えなかった自分。萎えた気力。憂鬱。抱えたまま飛び込んだ
社会。冷遇。蔑視。憂鬱。恐怖。上司。同僚。殺害。解体。遺棄。憂鬱。女医。出会い。憂鬱。怪物。変貌。見つけだした
乱入者。拷問。復讐。憂鬱。戦士。殺戮。憂鬱。快楽。憂鬱。閉塞。快楽。殺戮。ネコとその飼い主。希望。憂鬱。

 早回しで脳髄を通り過ぎていく記憶の断片の中、火星は軋る想いで心に叫ぶ。

「俺は、俺はただ、もう一度全力で、走りたい、だけだ…………!!!」
『切実ゆえ錬金術の闇に手を伸ばす』。(同じ、なのか? かつての俺と、彼は)。処断の刃に翳りが生じる。贖罪の道途に
ある青年は相手に『事情』を感じると、迷う。話術にかかった、とも言える。『許された』からこそ戦える者が、事情を抱えて
いるらしい者に『許さない』と言い放つ是非への葛藤が、ごくごくわずかの間、剣筋を曇らせた。
 眼前に、ロッドの尖端が割り込んだ。既に破壊されていた神火飛鴉を媒介とする白い障壁が、後続の神火飛鴉総てを
ディプレスへと跳ね返した。
「……ッ!!」
 念力が働いた。武器はディプレスにもう少しで当たるという所で急停止した。
(止める、か。自分に当たる直前で、止めるというコトは……)
 分解能力は奴にも有効!! 無銘はドス黒い薄ら笑いを浮かべた。
(止めるというコトは怯むというコト。奴は愚かにも自ら己の能力に恐怖し……発動要綱を満たしている!!)
(クソ……!! 弱点の1つを……反射能力への弱さを……晒しちまった…………!)
 ディプレスがじっとりと汗をかく間にも、小札は秋水に呼びかける。
「秋水どの。不肖が思いまするに、もう一度と走りたいという願いと無関係の命を殺めるコトはまったく無関係ではないで
しょうか。自分や誰かの命を守るためにやむなく誰かの命を攻撃する他ない……というお話でありますればこれはまだ筋
は通りましょう。宥恕し、折り合いの仲立ちのため奔走すべきでありましょう。されど精神をもう一度走らせたいと欲せられ
ます方におかれましては、他の方の命を攻撃せねばならぬ理由はありませぬ! 走りたいなら走るための努力にのみ精神
を集中すれば良いだけです!! もしどなたかの命を害さなければ躍らぬ心に成り果てているとすればそれはもはや傷の
苦しみではなくただなる歪み!! 加害と禍害の黙過は不要!! 宥恕せずとも……良い筈です!!!」
「…………!!」
 秋水は瞠目した。
「き、君が実況以外で強い言葉を吐くのを……初めて聞いた」
 笑みが迷いを雪融けに導き始めた。小札は少しだけ安堵の笑みを浮かべたが、シルクハットを目深にかぶる。
「……不肖とて許せぬコトは有ります故に」
(復仇だ。あの少年戦士と……廊下の戦士全員の)
 無銘が誓う中、秋水と小札は共に見る。言論の痛覚を突かれねじくれる怪鳥を。
「小札!! 俺の煽りをツブしただけでなく…………下らねえ気付きを幾つも幾つもオオオオオオオオ!!!」
「本当に、誰も彼もが、でしたか?」
 垂髫(おさげ)の少女めがけ飛んでいた神火飛鴉が俄かに動きを止める。ロッドの宝玉から分岐して四方八方に伸びる光
は赤。レッドバウ。壊れたものを繋ぎ、遠隔操作する力だ。
(光を浴びた神火飛鴉が)
(動きを……止めている!?)
(だが操ってんのは神火飛鴉そのものじゃなく……周囲の空気! 分解能力でバラされた周囲の空気を繋ぎ! 固めてやが
る!! 俺の神火飛鴉を、岩に巻き込まれた化石のように……!!)
「ディプレスどのは先ほど誰も彼もがひどい言葉を投げてきたとおっしゃいましたが、本当にそう、でしたか? 誰かのために
行動したとき、一生懸命堂々とがんばったとき、総て全部、心ない言葉で否定されておられましたか?」
(…………っ!)
 紙袋を差し出して笑っている女性がディプレスの脳裏に浮かんだ。目鼻はもう、覚えていない。ただ口元だけはあっけらかん
と笑っている。冬、らしい。赤い手袋と緑のマフラーをした彼女が何事かを囁いた瞬間、まだ人間だったころのディプレスは
自然と受け取っていた。
(……なんだ……っけ? 俺は…………何をした結果…………紙袋を……渡されたんだ…………?)
 憂鬱な場面に埋もれた、数少ない暖かな記憶。袋の中身が菓子だったのか文具だったのかさえ今はもう思い出せない。
 ひょっとしたらその女性すら殺しているかも知れなかった。
「7年前、理不尽な仕打ちを受けておられた貴信どのと香美どのを助けて下さった以上、ディプレスどのにだってまだ、優しい
心は残っておられる筈です。それに従えばいつか必ずまた走れるようになる筈です」
「む、矛盾してるじゃねえか!! テメーさっき俺を歪んでいるだの宥恕すべき存在じゃねえだの言っただろうが!!」
「むろん、加害と禍害を続ける限り黙過は不要!! ですがこの否定はあくまで人格ではなく行動に対するもの!! 故に
不肖は選択します! ディプレスどのが殺戮を選択する限り向かい風となって立ちはだかるコトを!!」
「そうやって誰も彼もがゴチャゴチャと邪魔をするから! 俺はもう一度走れなくなっている! 殺して何が悪い!!」
「でしょうか? 一番向かい風を生んでおられるのはディプレスどのご自身の心だったりはしませぬか?」
「!!?」
「ディプレスどのの優しい心が加害と禍害の黙過をよくないコトだと思っているから向かい風が吹き、心が萎えてしまうの
ではありませぬか? 走れなくなっているのではありませぬか?」
「だから償えと、被害者連中に糾弾される道を選べと、そういう論法に持っていこうってのか!!? アア!!?」
「ディプレスどのにとって本当に必要なのは、一度立ち止まり、いかなる行為を働いてしまったかよく見るコト。見た結果の心
の動きを素直に認めてみるコト。もし優しい部分が少しでも悪いと思ったのなら、とんでもないコトをその人や、周りの人たち
にしてしまったと後悔されたならば……言葉で誤魔化したりはせず、素直にその気持ちを、傷つけてしまった人たちに明かすべ
きです。人を走れなくする一番の向かい風はきっと、誰かの中傷ではなく、自分が自分の何かを否定する心、なのですから」
 怒ると叱るは、違う。
 許せないからこそ、二度と同じコトをさせたくないからこそ、ロバはいま、ハシビロコウを、叱りつける。
 だがそれを穏やかな表情で諭すように行い続ける小札に秋水は『打ち込み』を思い出す。強い剣士は、柔らかい。腕の、
よく搗(つ)かれた筋肉のまろやかな柔らかさが竹刀越しにも伝わってくるのだ。(そういえばかつて勝ちはしたが……断り
きれなかったな、回復の申し出)。男性の逆らい辛い、包み込むような柔らかさを小札はどうやら持っている。

「…………黙れッ!!」

 凶悪な眼光が火星に灯る。神火飛鴉は再び飛び始めた。(空気の分解をやめ推進のみに切り替えたか!!) ロッドが
どう盲点を突かれたか無銘が分析する間にも
「ディプレス」
 秋水は小札を守るよう一歩踏み出す。剣を振る。神火飛鴉に触れた。分解の気配は、もうない。
「俺もかつて君と同じだった。凶行の根源はささやかな願い……姉さんとの永遠だった。だが!!」
 弧が2つ3つ、連続して繰り出された。
「ディプレス=シンカヒア。他者の犠牲を前提に目指した願いは……叶わないんだ! むしろ真逆の、最悪なる形で報いと
なって返ってくる!! 生徒の犠牲を許容したから俺は姉さんを失いかけた!! リバースの末路とて知ったのだろう! 
止まらねば君もああなる! 自分だけが報いを受けずに済むというのは……幻想なんだ!!」
 火星は泡を吹きながら後ずさり、辛くも回避。羽を広げる。身が浮く。後方への大きな飛翔に移りかける。
「貴信のためにも止まって償え!! その分解能力とて正しく使えば誰かのために──…」
「なにがどうなろうが知ったこっちゃねええ!! ただ一回だ! ただ一回全力で走って燃え尽きられれば後は死のうがどう
なろうが……知ったこっちゃねーーーーんだよこっちはアアア!!!」
 そうか。すかさず手首を返した秋水はニュっと突きを打ち出す。説得には一定の無力化が必要と判定されただけあって、
たっぷりとした踏み込みの伴う轟然たる槍のリーチだ。羽毛が舞い、血が落ちる。章印を外すも左翼の雨覆(あまおおい)は。
突き破られた。メカニカルな内部骨格が見えるほど深い傷だった。
「強烈無比のCFクローニングとて限界はある筈だ!! 無限に適応進化できるというなら俺を恐れる理由はないッ!! 
再生と発達が有限だからこそ君は俺の斬撃がいつか届きうると懸念を──… 違うかディプレス=シンカヒア!!」
(なぜこいつがCFの内情を……そうか! 鐶か無銘経由! リバースの野郎、無口な癖にベラベラベラベラ喋りやが──…)
「忍法胴拍子!!!」
 金色のシンバルが2つ、連続でディプレスを襲撃。だがそれらは蟻動する黒い粒となって消えてゆく。
(ち! 自動防御! 動揺しつつもキッチリ張っている、か!!)
 火星と一定の距離に迫った周縁部から順にばらばらと崩れていく銅拍子に無銘が歯噛みする間にも、
(鳩尾なら殺せなくもねえがそしたらイソゴばーさんに何やられるかわからねえ!! 敵対特性もこええしな!! そもそも
俺がこいつらと出くわしちまったのは……偶然だ!! 生徒ら目当てで6階突っ込んだら『居て、ビビった』! それだけだ!)
 撤退のため羽撃(はばた)きで間合いを取ろうとする凶鳥の左目を潰したのは剛力籠もる袈裟懸けだ。すでにクチバシが半分
ない異形の鳥はいま更に顔面に深い刀傷を得た。斬撃の軌道上では分解をやり損ねた神火飛鴉が5個ほど黒紫の鬼火を
上げている。
「依然として俺の刀は通じるようだな、ディプレス=シンカヒア!!!」
(やべえ……! 秋水相手じゃ自動防御も作動しねえ!! 並みの野郎なら攻防極まる無敵のスピリットレスがどうしてこ
うも無力なんだよ!)
 ビっと切り裂かれた顔面の激痛に硬直する火星へ更に乱刃数合。痛々しい朱線がいくつもバックリ口を開く。
(しかもコイツ加減してやがんな! CFクローニングで硬くなられても次に斬れるよう……計画的に全力を出し渋ってやがる
……!!)
 弧が炸裂するたび仰け反り後ろへ追いやられていく火星の幹部。

 気に、なるのは。小札は、考える。
(なぜデッドどのの支援砲撃がやんでいるのでしょうか? 貴信どのの話によればディプレスどのと昵懇なのがデッドどの。
なのに最初の砲撃以来、音沙汰がありませぬ)
(……もしや奴の身に『何か』があった? それを察したからディプレスはああも狼狽し逃げを選びたがっている…………?)
 無銘の推測は、当たっている。
(『何か』が月の絶息に繋がっていなければ)
 あまり時間はかけられないのかも知れない。秋水は小札、無銘と順に視線を送る。2つの頷きを以って方針は、微修正。

 午後9時32分。聖サンジェルマン病院中央棟1階。

 小さな凹凸の浮かぶブルーシートの傍に翔んできた千歳を見た戦士らは、「……!?」と息を呑んだ。黒いちぢれ毛の
男の子。ヘルメスドライブによって日本支部へと送り届ける筈の子供を連れて戻ってきた千歳にただならぬ事態を彼らは
察し、それは悪いコトに的中していた。

 そのとき、受付やや東の非常口の鉄扉が外向きに開いた。敵か! と血相を変えたロビーの戦士たちは「ぐっ、ぐっいぶ
にーん」と手を上げて雨風と共に入ってきた茶髪の女戦士に「なんだお前か、よく生きてたな」と呆れた声を漏らした。
「戦士・秋水と音楽隊ふたりのお蔭で、なんとか。あ、6階の人たち、発見できた限りでだけどどうにか全員連れてきた」
「……気配からして戦闘開始から6分ぐらい、だよな? そんな短時間で6階の西棟中央棟東棟ゼンブ回ったのか? しかも
降りてくる時間だってある。なのにゼンブを……たった6分で?」
「ま、武装錬金が武装錬金だからな」
「というか6階、だと? 屋上の間違いじゃ」
「んーん6階。フロア。病室も窓もあった」
「待て。5階建てだぞココは」
「え、でも、階段は6階分だったよ? ちゃんと数えたのよ私」
 と女戦士はロビーに入りかけたが、千歳の傍のブルーシートを見ると、総てを察し、後ろを向き、「外のがいいです、あの
トリの貫通、1階まで来ます」と呼びかけた。どよめきは10人前後のものではなかった。『6階』から相当、連れてきたようだ。
「……外は外でいつ冥王星の無限増援が来るかわからないがな…………」
 戦士の誰かがボソリというと、茶髪の女戦士はひいいええと顔をゆがめた。ゆがめながらもただならぬ千歳を見咎め、聞く。
「あの、そんなに硬直して、一体なにが……」
『乃公がお答えしようッ!!!』
 ぶうんと一本の線を走らせ点いたのは天井から吊り下げられたテレビ。ブラウン管型の黒いそれは先ほど毒島が液体
窒素で赤い筒を迎撃したさい巻き添えで凍結していたが、いったい如何なる原理であるだろう、電源が入ると同時に氷は
蒸気を上げて消えうせた。
『日本支部は、錬金力研究所は乃公と社員が占拠した!!!』
「「「「「「「───────────────────────────!!!!」」」」」」」
 テレビに映る貴公子然とした男、リヴォルハインは土星の幹部。

 ちょうど西の階段から患者たちを連れて降りてきていた戦士たちも、固まった。

 午後9時29分。聖サンジェルマン病院西棟6階。

 クチバシに再生の光象が灯りかけた瞬間だった。
 深く腰を沈めた秋水は地を掃う斬撃を繰り出す。彼から見て左から右に流れた剣閃は前方に踏み出しでいたディプレスの
右脚に到るものであったが、膝(人間換算。以降、鳥の解剖学ではなくヒトの呼称を用いる)から先を後ろに跳ね上げた小癪
によって空を切る。
(柳剛流! 師父から学んだ古流の1つか!!)
(チ!! 脛払いでいよいよ義足を! 憂鬱だ!)
(神火飛鴉のデバイスでなかったとしても、壊せば機動は削げる! ただの装具であるならCFクローニングの埒外である
可能性が高い……からな!!)
(幹部の俺が出し渋りにこうもいいようされるたあ!! 分解能力が通じねえ上に相手は剣術の達人! 厄介すぎる!!)
 舌打ちしつつ神火飛鴉を飛ばす。狙いは秋水ではなくその上。天井だ。両側のソケット部分ごと天井を分解された筒型
蛍光灯が、落ちる。残像伴うスウェーで躱わす秋水。その目線の高さになった瞬間、蛍光灯は、破裂。後詰めの神火飛鴉
によって分解されていたのだ。左手で目を覆う秋水。手の甲に細かな白い破片が7〜8個突き刺さり流血をもたらす。この
隙に、タックルからの組み打ちが来た。
(力押し!!) 無銘は驚いた。(火星は格闘も使うのか!)
「神火飛鴉を飛ばすだけが俺の能じゃねえってこった!! 幹部は全員ホムンクルス調整体! 持ち前の高出力(ハイパワー)
で人間一匹殺るぐらい……容易い!!!」
「…………!!!」
 翼によって抱きしめられる秋水。麗しい顔が痛苦にゆがむのは、あちこちの骨がメキメキと鳴り始めたからだ。
「このまま全身を砕き殺しt「射撃モード・ライドオンザバック・シルバードラゴン!!」
 秋水の全身から龍の光波が溢れた。『骨格のヒビ』を繋ぎ合わせた小札のエネルギーが圧縮され、撃ち出されたのだ。
(どこまで応用の効く……!)
 ディプレスを周遊する黒い靄は確かに龍を分解した。だが突然の発動と、銀色の光量はただでさえ欠乏気味なディプレスの
集中力を更に奪った。右拳である。翼の締め付けの緩みに乗じて跳ね上がった秋水の鉄拳がクチバシの断面にめりこむ。
(っ〜!!!) 激痛にぶれる鳥の瞳孔。手はクチバシの空洞をすり抜け、顔の、肉へ。斗貴子からの伝習だろう。ホムンクル
スにしてはいやに生々しい肉の中を文字通り手探りした拳は、ぷちぷちとした節くれのある『長いもの』を掴み、引く。千切る。
武装錬金による破損でない以上、やがては修復するだろうが構わない。いま、痛みを。いま痛みを与えられればいいのだ。
「ぬジャアッ!」
 両目を醜くつぶりながら後ずさるディプレス。反射的に両翼を患部に当てたため秋水は自由を得る。右拳が後退の幹部の
クチバシからずるりと抜けた瞬間、異形の鳥の趾は宙に浮く。彼は頭から床へと向かい始めた。
「忍法、薄氷(うすらい)」
 ディプレスの趾を滑らせていたのは無銘の両足から一直線に伸びた氷河の一端。自らの加速転倒に青ざめ翼を広げる
ディプレス。右目が光を失った。左手によって突き込まれた茎(なかご)の尻は引き抜かれるときヌチャアリと粘っこい糸を
引く。無感動に眺めつつ秋水は右脚から踏み込む。解剖学さえ踏まえていれば片手斬りとて弱くはない。大戦士長救出作
戦進発直前、図鑑と鐶によって研究された効率的な解体手段は、生卵を割る程度の力で容易にディプレスの首と三肢を胴
体から切り離した。
(…………)
 右脚とその義手からの異様に固い手応えを、残して。その二点だけは鋼の塊を鉄パイプで殴ったような痺れる痛みを手
の内にもたらした。
(強化されている……!? だが義足はCFクローニングの対象外……! いやそもそもなぜ『適応して進化できる』能力の
持ち主が『義足をつけている』? 金星グレイズィングの完全治癒力とてあるだろうに……一体どうして……?)
 ぴしり。義足の脛や足首、中趾にこのとき、ヒビが入ったコトは当時だれにも気付かれなかった。肉眼では到底わからない
ほど小さなものだったからだ。だが秋水の斬撃によって傷を与えられたのはまぎれもない事実だった。無関係の者の命を
半ば意図的に流れ弾で奪ったディプレスはこのとき確かに義憤と厳罰を恥部へと受けた。いつかねじれたきり真実の再生
を怠ってきた右脚。そこに浴びせかけられた青年の怒りは……やがて『罰』となって、芽吹く。
 深追いは危うい。離断した幹部への追撃を敢えて避けたのは、『適応進化後すぐ得る場合もある新たな特性的能力』を
警戒したが故だ。秋水ほど自分を知っている者もいない。『初見殺しには、弱い』。それを突き勝利した鐶の戦闘筋の師匠
がディプレスとあれば飛び込むほうが迂闊だろう。CFクローニングによる新能力は未知数なのだ。ゆえにほどほどに飛び
込み、適宜引く。幹部相手にはありえからぬ、嘲弄めいた試合展開でもあるが、ここは慎重というべきだろう。精神形而上
の相性においてほぼ実質能力無効化を手にしておきながら、追い詰めすぎたあまり初見殺しで破れる……という方がどう
しようもない。
 秋水は下緒の、血の付いていない部分を横ぐわえにし刀を浮かせる。学生服の左ポケットには懐紙が入っている。自由
になった左手は瞬く間に右手と茎(なかご)を清拭した。第二波を斬りやすくための合理的な備えだ。
(目……! 話に聞く終盤のリバース状態……! しかもバラバラ! 全身対象CFクローニング! 使うしかねえ…………!!)
 両目とクチバシ、両手と左脚が回復する。
 土星に操られた男爵やリバースが使用したCFクローニング。その発動はおおむね任意だ。おおむね、というのは例外も
またあるからだ。『瀕死時の、自動発動』。密かに搭載していた鐶光が年齢操作の特性で見せていた片鱗は、幹部にもまた
非常事態における救命装置として搭載されている。ただし、鐶光の『博物具象』やリバースの『生体燃料炸裂弾』といった
『CFクローニング特典能力』の賦与は任意と瀕死、いずれでも構わない。重要なのは『肉体と精神、いずれもが耐え難い負
荷を浴びたとき』だ。無銘はCFクローニングの全てを知らないが、肉体と精神〜のくだりについては開発者たるリバースの
口から直接(厳密には新月村に派兵した龕灯越しに)聞いているため、ディプレスに対しての警戒は強い。
(敵対特性を出すからには確実に仕留めねばならない! もし術後生き延びられたら確実に火星(ヤツ)はCFクローニング
で新能力を得る! 『博物具象』や『生体燃料炸裂弾』といった恐るべき能力を……獲得する!!)
 武装錬金それ自体は攻撃的ではない鐶ですら新月村で”あれほど”の大暴れをしたのだ。分解能力を有するディプレス
がその攻撃性を強化するスキルを得た場合の惨劇は想像するだに余りある。
(もし新能力を獲得されたとしても……俺たちが敗北したとしても、後に続く者たちが勝てるよう……適応進化! 敵対特性
前に空費させる!! 俺の加減した斬撃で、適応されても上回るコトのできる斬撃で……再生と発達の目減りを行う!!!)
(攻撃力が上がっても防御力が脆ければ付け込む隙もある……。リバースどのから得た教訓なのです)
(クソ! クソクソ!! 回復こそしたが身体能力……さほど上がってはいねえ! 技術だ!! 早坂秋水あの野郎、最低
限の力で効果的に傷を与えてきてやがる!! 剣客の、日本刀の、ならではの殺傷だ!!)
 技量を要するシンプルな武器だからこそ、熟達すれば状況に応じた見事な取り回しができる。
 分解能力一択の神火飛鴉に大きく勝る点だ。
(クソ! 分解能力さえ、分解能力さえ秋水に効きゃあさっきのタックルで決まってたのに! 分解、できていたのに!!)
「っ!!」
 ぎょっとした気配を何となく追ったハシビロコウは一瞬呆気に取られたが、すぐさまわなわなと丸い頭に青筋を浮かべる。
 掌ほどある強化ガラス製の円筒。それを左手に持った小札は先ほど逆胴の生じた場所に屈みこんでいた。今は右手に何
やら採取器具らしい、やたら柄の長いスプーンを手にしたままディプレスを見て固まっている。直径10cmほどの円筒の底
には既に血液が1cmほど溜まっているのが見えた。
「テメー『スピリットレス』!! 総角に渡そうってのかあああああああああああああ!!!!」
 失明した隙の採取が脆くも崩れた小札は小さな体をほとんど転びそうな勢いで跳ね上げた。栗色の垂髫(おさげ)が揺れ
る。彼女は踵を返し。続いて下半身をロバにし逃げ延びようとするが初速は鳥に軍配が上がる。恐慌の少女のすぐ背後に
両翼を広げきった異形の影が迫る。小札ごと容器を分解しようという訳である。
「俺と共に償って生きろ……」
 左翼。根元からばっさり斬り飛ばされた。激痛と驚愕に尖りつつも瞠目する目は背後に、見る。
「武藤を刺してしまった俺と共に、償って生きろ!!!」
 秋水。彼は追いつき、踏み込んでいた。小札に気を取られていたのは幹部としての大不覚……嘆く間にも彼女の前に
はもう無銘と兵馬俑が到着している。
(ち!! どいつもこいつも精神充溢しやがって! こうなりゃ再び嫌がらせ! 無差別を、やるッ!!)
 斜め下を含む全方位への分解能力射出が行われた。行われた瞬間、
「はああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」
 気海丹田に力を込めた裂帛の気合が四虚の荒波となって神火飛鴉という神火飛鴉を洗う。ボールペン大の武具は悉く
暗靄(あんあい)と速度を失った。失っただけではない。ヒビすらビシビシと入り始める。
「き、気合だけで……!!」
「100近い神火飛鴉を……無力化した?!」
 驚く無銘と小札。ディプレスの驚愕はそれ以上である。くわっと目を見開き、顔中は汗だらけ。ぱあくぱあくと力なく開閉
するクチバシの鼻の穴からは太く透明な鼻水すら出ていた。
「俺の目の届く限り、犠牲は二度と出させない!!」
 神火飛鴉全機は落ちゆくさなか火花を散らし始め、
「出させは……しないっ!!」
 秋水の足元で爆発を起こす。
 そして噴煙と極光の中で袈裟懸けに血振りをした青年は……火星の幹部を、無言で、毅(つよ)く見据える。
 気圧された鳥はそういう己にハっとすると、誤魔化すよう金切り声をあげた。
「てっ、てめぇーーー!! 武士道はどうしたぁ!!! ははは、背後からの斬撃とかてめぇ、むっ、武藤カズキを後ろから
刺したときと、全然っ、全然変わらねえじゃねえかああああああああああああ!!!」
「君たち幹部は度を越している……! 止められるなら……それが街への償いだというなら!! 俺は手段を! 選ばない!!!」
 踏み込む秋水の目に迷いはない。粛然とした光があるのみだ。
(か、覚悟してやがる……!! どれほど卑劣と言われようが平和とやらのために一刀振り抜く覚悟をコイツ、固めてやがる!!)
「まずは止める!! 止めて貴信らの前に……立たせる!!!」
「るせえええ!!! 帰らせろやアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
 血走った目で悲鳴をあげる。およそ幹部らしからぬ挙動だろう。実際、無銘もそれは感じた。
(幹部。師父と鐶が組んでも斃せぬという存在。だが腰が引けた状態ならば? 勝る相性が多いのなら? 予断は許さんが
『逃げ』に心がつぎこまれている弱い状態であれば、或いはここで打倒できる可能性も…………!!)
(デッド!! なにやってんだよオ!!! テメーが、テメーさえいつもの援護射撃をすりゃあ、こんな、こんな体たらくには
…………!!!)

 午後9時27分。銀成のどこか。

 デッド=クラスターは仰向けに横たわっていた。ピンク色のキャミソールの右脇腹が真赤に染まり、そこから雑貨でゴミゴ
ミした部屋へと鉄錆臭い水溜りが広がっていた。

 午後9時35分。要塞の奥。折りたたみ式丸テーブルを置かれた玉座にて。

「ふ。ディプレスでは早坂秋水は無理だ。決して勝てない」
「ですわね。武藤まひろとの出逢いで立ち直った清爽の美青年と、35歳にして暴言暴力による懲戒解雇を4度も受けてい
た落伍者では……クス、どちらが精神的に勝つか実に明白」
 ソーサラーの上にかちりとティーカップを置いたレッドジンジャーの妖婦はくすくすと笑う。
「スピリットレス(いくじなし)はむしろイソゴ老のような狡猾で柔和な者が持ってこそ真価を発揮する能力。口先こそ達者だ
けど悪意が直線的でワンパターンなディプレスでは、同等以下は分解できても、格上や超一流にはなんら成す術もない……」
 だが、だ。細い金の右眉を悪戯っぽく吊り上げた盟主は言う。
「夢は勝たねば叶わぬが、願いは勝たずとも叶えられる。殺人で立てる五輪の表彰台はないが、殺人で行けるギリシャは
ある。刺した相手の財布から旅行代金分くすねればいいだけだからね」
 栴檀貴信との決着は願い……でしたわよね。五指同士の絡まった手に顎を乗せ、うっとりとした挑発的なまなざしを盟主
に送る女医。テーブルには燭台があった。ゆらゆらと揺れるカドミウムイエローのどぎつい照明のなか、破壊者は頷く。
「ああ。そして願いのための『切り抜ける』『生き延びる』もまた勝者ならずとも達成できる目録だ」

 地下への階段を降りていく戦士と患者と患者の親族。

「逃げる。放棄する。有耶無耶にする」

 毒島の、血と脂にまみれたゴーグルの奥の向こう。瞳からは涙が溢れ続けている。
 拭き取る時間すらなかった。貫通分解能力を有するディプレスが階上のどこかに来ているコトを一つの死と引き換えに
知ってどうして悠長にガスマスクなど拭けるだろう。ロビー滞在時間は総て警戒に充てられた。
 いま総てに優先されるのは避難。階上から戦士が連れてきた入院患者やその家族合計57名はもちろん病院内総ての員
数ではない。取り残されている人たちは必ずいる。騒ぎに驚き独自に物陰や空き部屋に隠れ震えている者たちもまた探し
出すべき対象だ。
 が、いち早く1階へと連れて来れた方の者たちを、いつ分解能力が流れてくるか分からぬ土地に『全員そろうまでは』と留
める必要性はない。第一陣として地下へと送り脱出の経路に乗せるべきだ。乗せなければまた神火飛鴉が誰かに突き立つ。
 では第二陣以下は?
 病院内のあちこちを動く影がある。戦士であり、医師であり、看護師だ。
 雨の市内。
 割れた街灯の明滅する住宅街のカーブで靴底から泥水が垂れた。別の足がばしゃばしゃと続く。さまざまな年齢の男女
達が聖サンジェルマン病院の方角へ走っている。ざあざあとさざめく闇の中、声を潜めて。
 別の場所でひた走るのは斗貴子率いる一隊。

 ぼたっ。ぼたっ。毒島が歩くたび血が階段に落ちる。容積に見合わぬ音の重さは、脂を含んでいるせいだ。
 自分はいま、指揮官なのだ。ただそれだけの想いが毒島の足取りを支えている。愛おしい炎への奉還を自制心のバック
グラウンドで幾度となく叫びながら、いまはただ、懸命に、歩く。交互にフラッシュバックしてくる折鶴と笑顔に、何度も何度も
心の中で謝りながら、泣きながら。
 
 千歳の顔に差す影も、濃い。土星に日本支部を占拠されたいま、幼児であっても逃避行に付き合わせる他ないのだ。
 幼児。言葉が冷たく突き刺さる。次の犠牲者も小さな子だったらという恐怖が全身を包み込む。
 いつか必ず顔を見れる。千歳は無意識にそう信じていた。
 病院でお団子少女と知り合ったのはイオイソゴの耆著に光を奪われてからだ。だから千歳は彼女の顔すら知らなかった。
 戦いが終われば顔を見れる。叶って当たり前だと思っていた。”それ”が7年前の傷を蘇らせる。スケッチ。地引網。一緒
に笑い合っていた子供たちが全員大人になれると信じていた無邪気な心。打ち砕いたのは火山島の惨劇。触れたくもない
記憶がぐるぐると心を流れる。
 子供が、銀成で、死んだ。
 優しさゆえに仮面をかぶる生き方を選択した千歳の心はいま、7年前以来の動揺に見舞われている。根来と組むコトで得
られたと思っていた成長が……残酷な闇から少女ひとり救うコトのできない無力なものだと知らしめられた傷は、大きい。

(私が、あと5秒、いえ、あと2秒早く運べていれば、あの子も、戦士・毒島も──…)

「体裁と出世にさえ拘らなければ人類はどんな困難だって乗り越えられる」

 松葉杖をついた老人に速度の遅さを謝られた若人は、笑って手を降り気にしていない素振りを見せた。
 しかし午後9時26分のロビーに居た彼は虚空に恐怖の目を投げかけたあと、おぞましい空想の光を瞳孔の中に僅かな
間とはいえ……有した。『早くこの地を離れたい』『この地からの離脱速度を落としている者がいる』。流れ弾、誰に当たれば
己がため? 若人の目の前で中年男性が老人を負ぶった。後ろから見た老人の頭は中年男性の後頭部をすっかりと隠し
ている。親切心の末の偶然の遮蔽であるにしろ、意図的なおぞましさであるにせよ、

「『だから』だよ、人類がどんな困難だって乗り越えてこられたのは」

 1000を超える自動人形に苦慮する火渡が迫り来る何かの気配を察した。振り返った彼が、見た物は──…

「そしてディプレスは格好こそ人間離れしているが、誰よりも人類らしい男だ」

 覆面なしで生徒達と話していたツナギ姿の防人が大きな音に振り返る。

「通信対戦で負けたリバースはハードウェアを叩きつけて壊すが──…」

 ぞろぞろと入ってきた戦士と患者の一団を一斗缶に腰掛けつつ興味薄げに見るのは……モヒカンの戦士。

「ディプレスは違う。壊したりはしない。ただ負ける前にちょっと回線を切るだけだ」

 防人に毒島は縋りつき、肩を震わす。千歳は蒼白になりながら言葉を紡ぐ。
 岡倉と大浜と六舛はこのとき初めて闇に沈む『ブラボー』の後姿を目撃した。

 他の生徒達は血みどろの毒島の姿に驚き、ひそひそと何かを囁き始めた。
 まひろと千里と沙織は目配せをし合うと、生徒たちの前へと、立ち──…

 若い女性の戦士に左から支えられ歩く女性を見たヴィクトリアの目が潤む。
 悟ったのだ。『毒島から漏れ聞こえてきた少女』の母親であるコトを。
 死人の目の色をしながら、右にいる小柄な少年の手をぎゅっと握る。それが唯一残された正気の保ち方であるのを彼女
は本能的に悟っているようだ。キャスター式の点滴を右手で動かしながら歩く少年は、ヴィクトリアとモヒカンの戦士の用意
した逃走手段に乗り込むまで結局一度も妹がどうなったか聞かなかった。乗り込んだあと10秒ほど振り返り、両目をぐしゃ
ぐしゃに濡らしていた。叫べば母の均衡が崩れるのを分かっている様子が、ヴィクトリアの胸を更に痛ませた。


(やったのは火星の幹部。昼間私を乗せて飛んでいた……火星の、幹部…………!)


 母娘を引き裂くものをヴィクトリア=パワードは許さない。絶対に。


 雨に佇む聖サンジェルマン病院を裏手から見上げる影があった。
 女性的な丸みを帯びたシルエットが掌に持つものは……核鉄。


「ディプレスがもし小札と室内戦を演じる場合、回線の切りようすらありませんわねん」


 逃げ道をふさがれるからだ……! ディプレスは悲嘆した。
(クソ!! 窓だけじゃねえ! 天井や床もダメだった! 分解して通り抜けようとするたびホワイトリフレクションで戻される!)
 9時36分。窓際に穴の増えた西棟の廊下で火星は立ち尽くす。逃走を妨害されるたび秋水に攻撃され傷は増える一方。
CFクローニングの回数も確実に減りつつある。
(いよいよやべえ……! 小札!! 性格のせいで総角や鐶に埋もれがちだが……『壊れたものを繋ぐ』! 破壊力の高い
俺にとっては秋水以上の天敵!! 下手すりゃリバース相手のカウンターデバイスにすらなりうる! リバースの銃弾は銃
身内部から剥落(こわ)れて散った破片の寄せ集め……だからな!!)
 ともすればリヴォルハインの感染すら『ウイルスによる破壊』とみなしかねない。『壊れたものを繋ぐ』。シンプルだからこそ
応用が効く。
 秋水がかつて勝てたのは「一太刀」の勝負かつ、能力の底上げの試合気分があったからだろうと思うのは鳩尾無銘。
(だが死合の時の母上は奇妙に強い。敵の攻撃力が増せば増すほど重要度のあがる『カウンタータイプ』!)
(しかも、小札は!)

──「弱いね、きみたち?」

 血まみれで膝を突くイオイソゴとディプレスを前に、染み1つない衣服で笑う青年。

──「2人がかりで奇襲してソレって、どうなの?」

(アオフシュテーエン!! 10年前俺とイソゴばーさんとで傷ひとつ与えられなかった男! そいつの、妹なんだ!! 小札は
アオフの……妹なんだ!!)
 悪すぎる、相性が。何度目かの撤退を考え窓を見たディプレス。
「迷わず撤退を考えられる分だけリバースよりは利口だが!!」
 背後に巨体が浮かぶ。ギョっとし、伸び上がる鳥。だが襲来してきた拳は自動防御によってガリガリと削られる。振り返りゆく
火星。「チ!! やはりか!」。苦々しい無銘が3mほど遠くに見えた。彼とディプレスの間には兵馬俑。全身から裂(きれ)を
飛ばし崩壊中の兵馬俑。無駄だよとハシビロコウ、クチバシをパカリ。ようやく笑う。
「回復モード! エバーグリーン!!!!!」
 崩れゆきつつあった兵馬俑は碧の光線を浴びた瞬間、俄かに復元を始めた。逆再生のようだった。破片のひとつひとつが
まばゆい碧の線分で結ばれ、引き合い、噛み合い、元の形となって拳の攻撃を支持するのだ。殴打を正に突き進めるのだ。
「ナア!?」
 みぞおちで爆発した衝撃に声をあげよろめく火星。貫通されたのだ、自動防御が。そして兵馬俑の拳が火星の腹部にめり
こんだ。目を白黒させながら吐血する幹部。キッと焦点を結び神火飛鴉を射つが、兵馬俑はもう飛びのき距離を取っている。
 シュウウ。数条の蒸気が腹部からあがる。昏(くら)い水色の毛並みには拳の形がくっきりと突いている。わずかだが裂傷も
あり、血が、流れている。ハシビロコウは蒼白になった。
(く、喰らっちまった!! 兵馬俑の一撃を……喰らっちまった…………!!!)
 鳩尾無銘の武装錬金『無銘(兵馬俑)』の体細胞は一種のスパイウェアだ。鱗(うろくず)と呼ばれるそれは攻撃箇所から
侵入し、対象の動植物特性または武装錬金特性のうち創造者の選んだ者を『敵対』させる。今回の場合は無論、分解能力。
(決まるかどうか……? 決まれば確実に奴の大半は分解され消滅するが……)
 攻撃力の低いバルキリースカートですら斗貴子を膾切りにしたのだ。今度はそれが分解能力で再現される。
(破られた場合も想定する。あるからな、前例が。己の能力を喰らって生還した前例はある。銀鱗病を自力で破り成長した
リバースという前例が)
 無銘は敵対特性で決められるとは思っていない。
(CFクローニングはすでにかなりの量、低減しました。できれば不肖、完全払底を確認したのち敵対特性に移りたくはあり
ましたが、あまりに時間をかけますれば……)
(月だ。月が復帰して乱入してくる恐れがある)
 無銘。
(支援砲撃をやませた原因が、気絶または10分以内に斃せる者との交戦にあった場合、適応進化払底を目指す入念な戦
いは足元を掬われる恐れがある! 何しろ月の狙撃には前触れがない! 海王星の狙撃のような戦場でタメを見せる中距
離攻撃とはまったく次元の違う『超々遠距離狙撃』それがデッド=クラスター! ディプレスの払底にのみ専念して時間をか
けるのは……先ほどのような思わぬ狙撃の復活に繋がりかねない!!)
 忍びは合理主義者だから、無銘としても適応完全払底を確認したのち敵対特性をかけたかった。しかしデッドの乱入が
なかったとしても、悪賢いディプレスに時間を与えるコト自体すでに危険だ。脱出までの布石をひとつひとつ打たれた挙句の
大逆転……という展開もありうる。
(動揺し思考能力が激減しているうち勝負へ出るべきだ!)
 秋水がそう考えるのは、まだ精神(こころ)がぎこちなかった今夏、防人の出す簡単なクイズにすら生真面目さゆえに足を
取られていたからだ。余裕のない者は突然の事態に対処できない……身を以って知っているからこそ、まひろ達との交流で
少しだけ余裕を持てるようになったからこそ、ディプレスの脆い機微に付け込んだ作戦展開を敢行できる。桜花の、弟なの
だ。やれる素養はもともとあり、それは演劇とイオイソゴ戦で剣客独自のものへと昇華されつつある。
(時が経てばディプレスは冷静さを取り戻し策を練る! 払底を待たずしての兵馬俑動員には垂堂(すいどう)の感もある! 
術後、新能力を獲得される可能性も高い! だが!)
 敵対特性発動までの3分の間、猛攻すれば或いはCFクローニング、払底の目もある。秋水はそう考える。話に聞く鐶と
リバースの適応進化継続時間は20分もなかった。章印以外への殴る蹴るをやって20分足らずだ。秋水はディプレスの
章印を主に狙った。姉妹喧嘩より遥かに効率的な費消のペースだ。残る適応進化の量、決して多くはないだろう。
(払底しなかったとしても、『敵対特性の最中に、圧倒的な攻撃を受けたら』? 適応進化よりも速く巨大な一撃を、敵対特
性の渦中にあるディプレスへ浴びせるコトができたら?)
(…………)
 逃がしてはなるまいと悲愴の目の輝きを向ける少女の恐ろしさをディプレスはつくづくと知っている。
(『7色目・禁断の技』! 解禁(つか)うつもりか昼間見せたあの技を!!)
 次元を軋り因果を崩す、神の百論をも超距した切り札!
 それが、そんな物が、単体でもおぞましい敵対特性を後援するのだ。

 震えが走る。もうここで終わりなのだという思いだけが心を重く占めていく。知恵と能力をどうやりくりしても脱出できない
破滅のトロッコの中へ既にいるという実感が体温を下げていく。

 同刻。

「ふ。ディプレスは逆境に弱い。リバースなら逆ギレひとつで軽く蹴散らせる困難にすらすぐ心の中で膝をつく。だから一定
以上の実力者たちは彼をこう評する。『弱い』と」
 けど、だ。鮮やかな銅色のペパーミント・ティーにスティック式のカフェラテをざらざらと流し込みながら盟主は微笑む。
「弱い者でも願いを叶えるコトはできる」

 リバース=イングラムのサブマシンガンの武装錬金『マシーン』は憤怒を糧とする武器だった。度を越した高速連射で疲弊
し磨耗した銃腔内の傷を憤怒のエネルギーによって修復できたからこそ、彼女はあれだけの猛威を震った。

「ふ。幹部の背負う罪は武装錬金に力を与える」

 ディプレスの体内のとある場所で、六角形のシルエットが瞬く。
 その瞬きは彼が追い詰められた気分になるたび強く速くなっていた。

「『憂鬱』なのだよ、火星は」

前へ 次へ
第120〜129話へ
インデックスへ