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過去編第012話 「受け継ぐ物とキミが創る物。きっとそれが証明」




 goo辞書より抜粋。

わく 【枠】

(1)木・竹・金属など細い材で組んだ、物の骨組みや囲み。
「窓の─」

(2)物のまわりを取り囲むもの。縁取り。
「黒─の写真」

(3)物の輪郭や範囲を定めるために設けた仕切りや線。
「─にコンクリートを流す」
「─の中に名前を書く」

(4)物事の制約。範囲。
「─をはめる」
「予算の─」

──にはま・る
「型(かた)にはまる」に同じ。

──を取・る
予算・人員などの内容や実態は未定であるが、割り当てだけは押さえておく。

──をは・める
ある制限を加える。枠にはめる。






┌――――――――――──┐
|(4)物事の制約。範囲。     .│
└――――――――――──┘


┌――――――――――――――──┐
|──をは・める                  │
|ある制限を加える。枠にはめる。    │
└――――――――――――――──┘




 …………。


 命野輪(みことの・りん)。
 彼にはいくつか名前と立場がある。

 1つはCougar(クーガー)。かつて存在した国民的アイドル。

 もう1つはブレイク=ハルベルト。


 性別は男性。ウルフカット。すらりとした長身で年のころは28。

 レティクルエレメンツ所属、字は「天空のケロタキス。または象の息」(マレフィックウラヌス)である。


 彼は少年時代、恋をした。

 相手は月並みだが隣家に住む3つ年上のお姉さん。輪を含む近所の小学生たち10数人をキビキビ登下校させるその
姿に1年生のころ憧れ始め、不注意な飼い主から鎖ごとすり抜け暴れ狂うシベリアンハスキーの牙から助けて貰った3年生
の秋、恋愛感情を自覚した。

 中学2年生の夏、告白し、失恋した。痛みもあったがそれ以上に驚きと喜びもあった。
 彼女は同級生……輪の兄と交際中だった。兄。成績こそ輪より悪いが、クラスに必ず1人はいる「面白い奴」で、彼と囲む
食卓はいつも笑いが絶えなかった。ギター、ジーンズ、女性アイドル……思春期の男のコが憧れるものには必ずといっていい
ほど飛び付きいつも流行の先端を行っていた。高校に入りたてのころ排気量250ccの大型バイクを無免許で運転したり、
多分に漏れず喫煙をやらかしたりと、平凡だが善良な両親を何かと困らせはしたが、やはり大事な子供であり、兄だった。
容姿も成績も人並み以上だが、どこかボンヤリした世間知らずな輪にとって兄の存在は、TVよりも雑誌よりも『世界』だった。
 彼に聞きさえすれば世界の総てが分かるとさえ本気で信じていた。それほど彼の話は無数の見聞に裏打ちされており、
面白かった。

 失恋は少年心に無数の傷を与えたが、心から祝福できるものだった。
 だから以前と変わりなく接するコトができた。きっときっと大事な存在としてあり続けるのだと信じていた。

 輪がカラーコーディネーターを志したのは、中学1年春。美術の時間に提出した絵が佳良賞を得てからだ。
「技巧は未熟だが色合いがいい」。そんな授賞理由を見た瞬間、色彩に対する興味が俄かに掻き立てられた。
 色の世界は魅力的だった。角膜や錐体や杆体の作用を少し考えるだけで世界の見え方がガラリと変わるのだ。
 思春期は兄とまったく違うものになった。世間に溢れている誘惑的なものには目もくれず、ただただ色相番号や配色法の
勉強に明け暮れ、その成果は中学最後の文化祭で見事に花開いた。
 コーディネートを任された喫茶店になんと 全校生徒の6割と教師の7割が訪れ、3日間でおよそ80万円を売り上げた
のだ。それは驚異的な数値だった。母校始まって以来の記録だった。
 もちろんそれはただ色味が良かったという理由ではない。色彩とは常に利用者の状況や年齢などを考えるものだ。追及
すれば追求するほど他人の立場を考えざるを得なくなる。
 自然、輪のコーディネートは顧客にとても優しいものになっていった。最初はただ机と床の配色を変えただけだったが、その
知識に感動した生徒たちがあれやこれやと意見を求め始め、応じているうちにとうとうプロジェクトの抜本的な見直しが持ち上がり
──中学最後の文化祭なのだ。みな、素晴らしい喫茶店にしたいと願っていた──いつしか輪はその中心人物となっていた。
 資金調達をも任され、生徒ならびに父兄から醵金(きょきん。カンパのこと)を募ってなお足らぬ予算額5万1942円を調達
すべく校長相手に大論陣を繰り広げ、売上から返済するという条件つきだがみごと獲得した瞬間、輪は事実上の責任者に
登りつめた。
 料理の内容、接客担当者の意匠、原価設定、備品の買い付け……。
 輪が特異だったのはそれら総てを『自力でこなそうとしなかった』ところである。自らの意見を述べつつも、担当者たちが
直面している事態との落とし所をまず第一に考えようと努めた。なぜなら最高責任者という立場は偶発的に転がりこんで
きたものであり、無闇に権限を振りかざせば既にくすぶっている少年少女らしい反感をますます煽りたてるからだ。少なくて
も隣家の娘はそう忠告してくれた。未来の義姉として、輪がそういうイザコザに巻き込まれるコトを心から心配しているよう
だった。それが色彩を通して培った機微への配剤と混じり合い、輪をひどく謙虚な責任者として飾り立てた。

 クラスの仲間たちが助力を惜しまなかったのは言うまでもない。

 結果喫茶店は大成功を収め、輪は仲間たちと喜びあい、縁(えにし)の大切さを肌でしった。
 この経験あらばこそCougarとしての活動中、どんなスタッフとも真剣に向き合うコトができた。常に感謝を心に持ち、立場
以上に厚く遇し、時には笑わせ時には励まし、いかなる現場でも一体となり職責を果たした。
 
 ブレイク=ハルベルトは誰よりも人の価値を信じている。人気絶頂のさなか行ったシークレットライブで玉城青空を除く
128名の命を奪ってからもそれは変わらない。



 高校2年生のとき、彼は交通事故に遭い色覚を失った。運転手は例の隣家の娘で、恋人……輪の兄もそのとき助手席
にいた。免許を取って2か月も経たない彼女はつい信号無視をやらかした。そこは地元でも魔の地帯と評判の大きな交差
点で、右方向から猛スピードで飛びだしてきた10トントラックが側面に衝突、輪を後部座席の左側めがけ轟然と吹き飛ばした。
 全色盲。日本眼科学会は2005年にこの名称を「1色覚」へ改訂したが、本稿は2004年以前を舞台としているため旧称を
用いる。発症は先天的なものでさえ数万人に1人。輪を診断した医師によれば、交通事故などの後天的な要因でこうなる
のはさらに稀らしい。にも関わらず発症したのは、事故後38日間意識不明になるほど強く頭をガラスに打ち付けた事に
よる後遺症、腹側皮質視覚路3番目の領域(V4)が何らかの障害を負ったため……そういう診断が、下された。

 車は炎上。
 助手席にいた兄とその恋人はいち早く脱出したが当時すでに意識を失っていた輪は13分後消防隊員に助け出されるま
で火傷を負い続けた。






 困ったな。

 意識が回復したまず思ったのはそんなコトだった。目が覚めると世界は灰色でしかも顔はケロイドまみれ。兄はすぐ助け
られなかったコトを土下座して詫びてくるし、運転手のお姉さんは泣きじゃくっている。そこに見慣れぬおじさんまで──トラ
ックの運転手だ──謝罪に来るからやるせない。
 およそ事故というのは不運が招くものなのだ。おかげで輪は今夏予定していた色彩検定1級への挑戦権を永遠に喪失
したし、まだ若いにもかかわらず面貌が醜く爛れもした。だが悪意によってなされた訳ではない。信号無視は純粋な不注意
だし咎めなかった兄にも男女的な機微がある。トラックの運転手に至ってはむしろ被害者ではないか。運転により人命を
脅かしたものがその後どういう社会的制裁を受けるか分からぬほど輪は幼くない。

 事故に関わったもの総てを責める気持ちはなかった。

 …………悪意さえ、そこになければ。




 高校3年生にあがるころ、彼は隣家の娘と付き合い始めた。彼女は事故のせいで兄と気まずくなり別れていた。

 ずっとずっと支えていく。

 その言葉は嬉しかったが……逢瀬を重ねるうち負い目ばかりが目につくようになった。付き合い始めてから3ヶ月後、輪は
別れ話を切り出した。悲しかったのだ。世界で最も愛している女性を、被害によって繋ぎとめている現状が。しかも彼女の
気持ちは相変わらず兄にある。兄もまた彼女を愛している。愛しつつも輪が幸福にするコトを望んでいて……。


 身を引いた瞬間は寂しかったが、それで良いのだと心から信じた。




 心にぽっかり空いた穴を埋めるように……高校卒業後はさまざまなものに挑戦。
 いろいろと試してみたが小札零から伝授された話芸が一番性分に合っていた。
 1年ほど修行。その後あちこちを転々とし……褒め屋を選んだ。

 世界が灰色になってから輪の観察力はますますその鋭さを増しているようだった。脳髄はV4の障害を補うがごとく発達
を始め、色彩を通して培った「他人の立場でものを考える」思考体系をますます強靭なものとしていった。相手のわずかな
挙動から心理を読み、虚飾めいた言葉1つで感情の向きを変えていく。褒め屋はまったく天職だった。そもそも輪は人間と
いう存在が好きだった。中学校時代最後の文化祭は人間の可能性を感じさせる出来事だった。話したコトもないクラスメイ
トが実は特定の分野で無限の可能性を秘めていて、それが自分との関わりでみるみると花開くものだというのを実感した。
 以来、人間という生物が好きで好きで仕方なくなった。だから人を褒める。誰だって生きている以上は評価をされたいし、
生きている意味を実感したい筈なのだ。
 輪自身欠如を負っているがだからこそ多くの人々に何か与えたいと願っている。
 自分の行為が社会を良くしていくのを見たかった。代償行為でもあった。色を操る夢を言葉に託している。根本は同じだっ
た。むしろ多くの人が知るものだからこそ、より率直に心をくすぐるコトができた。小札に仕込まれた話芸もまた最大の武器
だった。

 最初こそ胡乱な顔つきで見られていたその稼業は半年も続けるうち界隈の名物と化した。わざわざ九州や北海道から
訪れてくる者さえいた。いかにも悩みは深そうだ。後日個別に面会し、じっくり話を聞いてみる。相槌を打ち、重要な部分だ
けを鸚鵡返しで問いかける。不思議とそれだけでみな答えを出した。悩みで動けなくなっている本心を問いかけの中でわず
かに刺激するだけで、本来持つ上向きの作用が回復する……輪はそう信じていた。
 もちろんその気になれば言葉で自在に操縦できる自信があったが、しかし色彩感覚を以て要職にありついた中学時代、隣
家の娘はそういう虚飾じみた代物に警鐘を鳴らしてくれた。だからあくまで人の持つ自然な作用をそっと押すぐらいに留めた
かった。でなければ敵意を買い、破局を迎える。そう戒めるコトが隣家の娘への思慕そのものだった。だから事故に遭い、さ
まざまなモノを失っても自暴自棄にならず、さっぱりした生き方を選択できた。

 稼ぎは決して多くなかったが、さまざまな人間を笑顔にできるその商売はとても充実したものだった。
 常に誰かの人生を変転させていた訳ではない。その日あった小さなイライラをスッキリさせるのがほとんどだ。
 しかし中には褒めたコトで退社を思いとどまり、1年後係長として大きな仕事を成功させたサラリーマンがいた。
 勇気を貰い告白に挑んだ女子大生や難関大学受験を選択した男子高校生もいた。常に成功に終わるとは限らなかった
が、少なくても後悔はなく、また前に進もうとする彼らを見るたび輪の頬はホクホクと綻んだ。

 友人も何人かできた。上は82歳、下は5歳……さまざまな人間と関わり彼らを知るのは本当に本当に楽しかった。


 そうやって在野で無数の人間相手に褒め屋をやるコトおよそ4年。

 小札と思わぬ再会を果たした。かつて遠目で見た彼女の兄──アオフシュテーエンならびに一世という名前は彼女を
含む周囲の人間から聞いた──が行方不明というのは寂しかったが、それでも師匠と仰ぐ小札が仲間たちと楽しそうに
すごしているのは嬉しかった。もっとも、ペットらしいチワワが執拗に睨んでくるのには辟易したが。


 輪の運命が変転したのは……その直後だ。



 彼は隣家の娘と再会を果たした。


 差し出された名刺には──…





 ○○芸能プロダクション社長



 という肩書が、あった。





 電車を乗り継ぐコト2時間。連れて行かれた先は都内にある高級マンションだった。
 部屋に入ると兄がいた。そして隣家の娘は……奇妙な話をした。



 彼の代わりになってくれないか、と。

 聞けば隣家の芸能プロダクションはいま経営難らしい。
 そのため融資を求めたところ、ある人物が話に乗ってきた。

 当初こそ喜んでいた隣家の娘だが、会談場所に現れた出資者の姿を見るや奈落に突き落とされる気分だったという。

 いわゆる暴力団関係だろうか? 疑問を差し挟む余地もなく隣家の娘はまくし立て始めた。かなり逼迫し、興奮していた。

 経営を立て直さなければ自分を含む所属タレント全員を殺すと言われた。ハッタリではないらしく、『彼女』は先日殺害した
という人間の写真を何枚か投げてよこした。両目から上を爆弾で吹き飛ばされている若い男性を見た瞬間、絶望した

 にも関わらず。

 現在唯一売れている、輪の兄が突如鬱病を発症し、今後の業務に支障をきたし始めた。仕事については関係各所に頭
を下げて幾つかキャンセルをしているし、どうしても外せないものは無理やり送りどうにか続けさせているが限界はそのう
ち訪れる……悲壮極まる声だった。

 ここで初めて輪は兄を見た。確かお笑い芸人を志しているとは聞いていたが、その姿は数年前最後に会ったときより遥か
に洗練されている。隣家の娘曰く、ルックスが良かったのでアイドルに転向させたらしい。そして関西でそこそこ売れたのを
機に事務所ごと東京へ進出。しかし出す歌はオリコン30位前後がやっと、コネと伝手を総動員しても2流ドラマの恋敵役に
ねじ込むのが精いっぱい。低調。本当はお笑い芸人をやりたいのも手伝い、とうとう鬱病になった。


 なぜ彼等がそうなっているかは気になったが──…

 輪は迷うことなく頷いた。

 世界そのものの兄、そして今でも最愛の隣家の娘。

 彼らの窮状を救ってやりたいと心から思ったのだ。




「ふぅん。弟さんが代わりしますの?」


 数時間後部屋に入ってきたのは、褒め屋の弁舌を以てしても湛えきれない美女だった。
 銅色の髪を肩のあたりで巻き、冷たいキツネ目を持ち、赤十字と鞭のついたカチューシャをしている。
 隣家の娘……いまは女社長の説明によれば、出資者の仲間らしい。口ごもる様子からすると、快くは思っていないようだ。

「しかし災難ですわねアナタも。あんな連中の肩持たされるなんて」

 グレイズィング=メディック。そう名乗った女医はたった30分で輪の顔を造り替えた。
 同様の処置が兄にも施された。兄弟の顔は入れ替わった。

 命野輪が”Cougar”なるアイドルへ変貌を遂げたのはまさにこの瞬間だった。


 彼がまず取りかかったのはCougarの総点検だった。CD、ドラマ、バラエティ。関わったもの総てを観察する。実の兄弟で
あるから把握は容易い。1週間で声真似を確率したノウハウは巡り巡って愛弟子の……鐶光の声真似をいよいよ完璧なも
のへ昇華するがそれは別の話である。兄の模倣を軽々とやってのけた彼は次に世間に対するCougarの評価を調べた。
何が受け、何が受けていないのか……先だって分析したCougar像と照会しつつ調べていく。重要なのはどういう年齢層に
売り出すかだった。普通そういう分析はプロダクションの誰かがやるべきコトなのだろうが、稼ぎ頭かつ女社長の恋人(いつ
の間にかヨリを戻したようだ)たるCougarだ、誰も明確な具申ができていない。唯一できそうな女社長もそれは変わらず──
お笑い芸人から無理やりアイドルに仕立て上げたという負い目のせいで──目下かれは需要も客層も考えずただただ野
放図にやっているというのが実情だ。
 赤の他人ならそこで匙を投げるだろうが、しかし輪は兄が好きだった。世界を見せてくれる彼の可能性をいつだって信
じていた。どうやら10代の少女に人気らしい彼をますます人気者にしてやろうと心から純粋に思った。人気が出さえすれ
ば鬱病が治り、輝かしい場所で活躍できるのだと信じた。輪は兄を信じていた。明確な方向性さえ打ち出せばそのまま立
場を承継するのだと信じていた。

 悲劇の始まりはそこだった。兄を慕う余りしてしまった過信。歩んだ人生の違い。そこに気付かなかったため輪の運命
は暗転めがけ流れていく。


 客層を定めた輪は兄のあらゆる美点を「受ける」よう微修正した。大きくは変えていない。兄がわずかな努力で再現
できるよう本当に少しだけ変えた。後に思惑を知ったとある幹部は「いやいやそれってかなりスゴいコトちゃうん!?」
と驚きの声を上げたが輪自身にその自覚はない。……神業というのは突き詰めれば「やるべきコトを的確にやる」だけ
だ。彼はただ兄が売れるよう考え、売れたあと兄が真似しやすいよう考えただけなのだ。


 半年後、Cougarは4枚目のシングルを世に送り出す。

 当初こそいつも通りオリコンの30位付近をウロウロしていたその曲は、徐々に口コミで広がり始め、3ヶ月後ついに
オリコンチャートの1位に上りつめるコトとなる。

 最終的に120万枚を売り上げたそのCDはプロダクションの経営を大いに建て直し、出資者を満足させ……。
流行とは無縁な少女の耳にさえ届いた。

 玉城青空。乳児期、実母に首を絞められ声帯が歪んでしまった少女。

 そんな彼女が好きな男性アイドルこそ、Cougarだった。

 ある日たまたまスーパーマーケットで聴いた彼の歌に魅せられ、不慣れなCDショップで「別に興味はないけど家族のお使
いで来ました」という顔でメモを差し出しようやく買ったCD──4thシングル 「空っぽの星、時代をゼロから始めよう」──
はずっとずっと彼女の宝物だった。
 それをお年玉で買ったCDウォークマンに入れ、『クーガー』というピューマの標準的英語名に見合わぬ優しくやんわりとした
歌声を聞くのが何かと辛い境涯にある青空にとっては唯一の楽しみだった。

 彼は4thシングルでブレイクした。

 ファンに言わせれば「まるで別人になったように」ブレイクした。

 口の悪いファンの中にはそれまでの3枚のシングルを評して「自分の世界に浸っているだけ。つまり黒歴史」とさえいうも
のもあった。

 しかし4thシングル以降の彼は別人のように躍進していく。

 青空が彼のファンになったのは正にその上り調子の時だったが、しかし彼女は決してミーハーではなかった。Cougarの
歌に感ずるものがあったのだ。歌は自己表現の一手だが、彼がそれをや時はどうやら精密機械を組み立てるような慎重さ
の元にやっているようだった。生の自分を無思慮にぶつけるような歌い方……あるいは作詞や作曲ではなく、まず自分の
個性という物を分解し、理解しつくした上でそれが活きるテーマを選び、そのテーマを人の心に届けるために自分のあらゆ
る個性を客観的に活用しているようだった。どうすれば聞き手の心が震えるか、心の底から考えている──…アーティスト
なら誰しも陥りがちな「独りよがり」を超えた完成された自己表現。

 それがCougarの歌だった。青空は確かな物を感じ、そこに共鳴しているだけだった。


 青空が感じたコトはまったく正しかった。輪がCougarとして何かを送り出す時は常に検証と構築に溢れていた。
 さしずめ色を配するような慎重さだった。声一つ出すにしても、兄の良さが伝わるよう考え、段取りを整え、何度も何度も
客観視を繰り返し、練習を重ねた。


 その辺りを理解しているのは多くのファンの中で青空ただ1人だった。
 普通ならば立場上恐怖を抱かざるを得ないその指摘は、しかし輪にとって何よりも嬉しいものだった。

 自分を理解してもらっている。様々な苦労を、褒めて貰っている。

 どこか一線を引いている女社長よりも、顔も知らない、文字だけの少女にときめく想いが募っていく。


(どんなお顔なんでしょーね。文字は綺麗す。性格も控え目……でも利発。是非とも逢ってみたい)

 差出人不明。住所も不明。「ああきっと返事を期待してるみたいで描けないんだ」。そういう機微が分かると逆にますます
愛しさが募ってくる。


 420円という異常に安い自叙伝を刊行したのは、より多くの年齢層に関心を持ってもらうためだった。お小遣いの少ない
小学生でも気軽に買えるよう、少ないページ数のソフトカバーで発行した。全色盲についての言及ははじめやらないつもり
だったが、目玉が欲しいという女社長の要請で盛り込むコトにした。敬愛する彼女が指示するのだからきっと間違いはない
のだと疑いもしなかった。とにかくページ数を極限まで削った分、珠玉の、濃密なエピソードばかりを盛り込んだ自叙伝は
50万部のヒットを飛ばした。増刷も続き、それは輪がシークレットライブの客ごとCougarを葬り去ってから尚も続き、ブレイ
ク=ハルベルトが世を去る2005年時点で128刷の大台に乗り上げていた。

 他の仕事においても姿勢は変わらなかった。「絶対に実写では演じるコトは不可能」そんなキャラをやれといわれた時は
ただただ原作を読みこみ、何度も何度も監督や原作者と綿密なる打ち合わせをした。褒め屋をやっていたころ遭遇した強
烈な個性の持ち主たちは非常に参考になった。決めゼリフの抑揚の付け方は小札を意識した。それが馬鹿ウケしたのを
見た瞬間、彼は師匠の偉大さを改めて痛感した。バラエティでの弛緩ぶりは、ドラマなどの収録現場でスタッフたちに見せて
いる姿そのままとした。輪の成功はつまり虚飾に彩られた代物なのだ。妙に偉ぶったり裏表を作ったりすると途端に失墜が
始まる。だから飾らないコトが最大の虚飾であり、敬愛する女社長のプロダクションを長持ちさせる手段だった。

 枠を見て、枠を作り、枠を脱さず。

 無数の仕事の経験から、輪はそういう哲学をも獲得していた。


 5年後。いよいよ国民的アイドルに登りつめた時……転機が訪れた。


 ある日のコト。呼び出しを受け、女社長の自宅を訪れた輪は後頭部に強い衝撃を感じた。

 フローリングに倒れ伏した彼は意外な物を見た、黒い液体……血に塗れたバットを持つ兄の姿を。
 奥から出てきた女社長はひどくヒステリックな調子でまくし立て始めた。

 要するに、やりすぎてしまったらしい。

 兄や女社長のためとばかりCougarを徹底的に売り上げたはいいが、あまりにその偶像が膨れ上がってしまったため、
もはや本来の本人たる兄にさえ手が負えなくなっている。女社長はそう喚き散らした。
 言いがかりだった。輪にしてみればCougarとは兄の個性から作り上げたアイドルであり、多少の努力さえすればたちど
ころに微修正が効き、運用可能になるものだ。更に活動中変更を加えた個所については逐次報告を重ね、いかなる努力
をすれば適合できるかというマニュアルさえ添付していた。

 兄は逆上した。

 その多少が俺にはできない。馬鹿にしやがって。弟の癖にマニュアルなんざ送りやがって。

 頭や背中を何度も何度も殴打され、血を流しながら。

 輪はこのときようやく自分の居る場所を悟った。軽々とこなしてきたはずのコトが実は他人から見ればどれほど難解だっ
たかを。無数の人と関わり多くの仕事をこなすうち、命野輪という人物の枠はひどく広大で豪華なものになっていたようだ。

 女社長は言った。


 復讐?


 と。


 言葉の意味を理解した瞬間、輪の中で何かが軋んだ。


 私のせいで事故にあって全色盲になったから、私の好きな人が二度と活躍できないようにしたんでしょ?


 アイドルの座をかっさらって。


 恐ろしく弱く浅はかな勘ぐりだった。懸命に否定したが聞く耳は持たれなかった。
 これまで多くの人の心を動かしてきた言葉。動かせると信じてきた言葉が通じない。

 ニセモノ野郎が。

 ただ罵倒が続くばかりだ。


 もっとも気持ちを伝えたい人たちに、伝わらない。


 お兄さんの顔でいろいろやられるの気持ちわるいの。気に入らないの。


 絶望的な一言とともに頭が蹴られた。兄だった。挫折した道を完遂されたのが余程屈辱だったらしい。

 ニセモノ野郎が。

 このまま行けば死ぬ。悟った輪はしかしどこかボンヤリしたいつもの調子で問いかけた。



 稼ぎ頭の自分が死んだ場合、例の出資者の機嫌はどうなるのかと?



 返答は驚くべき内情の暴露を孕んでいた。




 つい先日資金運用で大きな失敗を犯した。一昨年展開した外食チェーンも倒産が近い。
 機嫌もクソもない。もうすぐ殺される。だからせめてお前も殺す。


 つまり彼らは輪が懸命に稼いだ金を見事なまでの手際でドブに放り込んだだけでなく、勝手な自暴自棄を起こしたのだ。
 死なば諸共とばかり誤解と偏見に満ちた的外れな恨みを晴らそうとしている訳である。

 ニセモノ野郎が。

 兄がバットを振りかぶり、女社長も出刃包丁を手にした。
 充満する殺意を見た瞬間、輪はただ、「ああ」とだけ思った。



 先ほど述べた通り、全色盲にされた恨みはまったくない。

 なぜなら殺意の元に行われてはいないからだ。


 でも、今はある。殺意がある。


 失望の笑みを漏らしたのは誰のせいか。


 低く、低く、ただ低く。くつくつ笑うと兄たちの激情が爆発した。



 ニセモノ野郎が!!



 彼らは地を蹴り肉薄し。そして──…








「ま〜〜ったく2人してアホなやっちゃなー」



 爆発が起こった。かろうじて眼だけ動かすと、灰色のしぶきとともに降り注ぐ兄が見えた。

 床に重苦しい音が響くのを合図にマッチ棒が降った。マッチ棒? 疑問に思っているとどこかで爆発音がし……。


「バットにしろ包丁にしろそこらで売っとるよーなもん凶器にしたらな」

「媒介なって攻撃されるに決まっとるやろ」


 総てのマッチの前に、渦が浮かんだ。

 墨色の輝きが内包するは、稲妻宿す大きな瞳。


 なりかわるように赤い筒が排出され部屋は爆発の坩堝と化した。
 全身に爆撃の跡を刻まれた女社長は一声呻くと包丁を取り落としその場へ崩れ落ちた。


「ハッ!! ボケどもがよーやってくれたなあホンマ!!」

 やがて部屋の扉が音もなく開いた。鍵を振りまわしながら入ってきたのは灰色ツインテールの少女だった。
 数々の芸能人と共演してきた輪でさえ見たコトもない、美しい少女だった。灰色のキャミソールドレスからすらりと伸びる
手足。前髪に入った濃い目のシャギー。疵こそあるが表情豊かな瞳。いずれも昔取った杵柄を疼かせる逸品だ。

(色さえわかりゃもっと輝いて見えるんでしょーがね)

 実際の彼女は金髪に銀色のシャギーを入れたピンクの服の持ち主だ。

 髪では色とりどりの電飾が輝いているがやはり灰色にしか見えない。


 ともかく。

 命野輪は出逢った。


 出資者……デッド=クラスターに。




「なるほど。ずっと監視されていた訳ですね?」

 10数分後。遅れてやってきた例の女医に総ての傷を癒して貰うや輪はそう問いかけた。

「そーいうこっちゃ。収支報告書みとったらなーんか改竄くさい痕跡見つけてな。で、イソゴばーさんに頼んで内偵してもろたら
案の状ガッタガタや。であの人、ヤケ起こすならまずおにーちゃん殺しにかかるゆうたからな」

 ここ数日彼らを監視していたらしい。

「ウチの武装錬金はムーンライトインセクト。何買ったか分かりさえすれば遠隔爆破なんかお手のモンや」

 そういいながら少女は皮張りの椅子に腰掛け足を組んだ。眼前にはうなだれる兄と女社長。女医がくるまで折檻を受け続
たせいで体のあちこちは火傷まみれ。色の判別は付かないが、血やリンパ液らしいものがあちこちから流れている。

「ああそうそう。コイツら可哀想とか思ったらあかんで?」

 デッドは語った。なぜ彼らが芸能プロダクションにいるかを。

 事の発端はなんと輪が全色盲になったあの事故だ。追突したトラックの運転手は信奉者という、怪物に与する存在だった。
事故のせいで失職した彼は属する組織(デッドのいるものとは別の)への資金提供ができなくなり、業を煮やしたホムンクル
スたちは、隣家の娘(女社長)に目をつけた。彼女は事故の原因で、しかもその原因が愚かしい信号無視とくれば怒りが
向くのも無理はない。本当は食糧にでもして終わるつもりだったが、彼女を庇う輪の兄の姿を見るや考えを変え──…

 芸能人として売り出すコトに決めた。

「あいつら実は芸能プロダクション経営しとってたな。まあ当時はもう風前の灯火やったけど」

 経営を立て直すよう隣家の娘に強要した。断れば家族を殺す。そう言われ、最初こそイヤイヤやっていた。

「けどコイツ、だんだんだんだん経営が面白くなってきたみたいでな。最初言われとった条件を半年でクリアしたあと、あいつ
らにこう提案した」

 続けさせてくれないか? と。アイドルとして活躍する恋人の姿、誰もがうらやむ男性を独占できているという優越感。自らの
手腕への自信も手伝い、彼女は自ら残留を決意した。

「で、東京進出してさあ頑張ろうって時や」

 パトロンが消滅した。戦士に捕捉され、首領以下全員が殺されたのだ。

「幸いこの芸能プロダクションの存在はバレずに済んだけど」

 俄かに資金源を断たれ傾いた経営状態を立て直すべく、女社長は出資者を求めた。

「ま、ただお金が欲しいっちゅーなら銀行さんに頼めば良かったんやろうけど」

 2人してホムンクルスへの格上げを望んでいたため、共同体との接触を求めた。

「ウチが殺すって脅迫した? あー。それは嘘っぱちちゃうか? お前の同情引くための」

 そろそろ蔭りが見え始めていたCougarという『商品』。それを続けるコトに甚だモチベーションを失っていた兄はしきりと
引退を仄めかすようになった。だが彼は依然として稼ぎ頭……女社長としては手放したくない。だが隣家の娘としてはこれ
以上恋人が醜態を晒す前に身を引かせ、さっさとホムンクルスとなり、人以上の存在として楽しく楽しく暮らしたい……そう
いう思いがあった。

 葛藤。

 結果選んだのが。

「俺っちを替え玉にする、と」
「はは。ヒドい話やわなあ。どうせ売れへんと最初から見限っていたらしい」

 にこりと見渡した2人が大きく肩を震わせるのが見えた。声は余程冷たかったのだろう。

 理解できた。つまり輪は誰か新しい人材が発掘されるまでの繋ぎだったのだ。他に優秀な人物さえ来ればお払い箱。
しかも彼らを思い努力している間、彼らは自分たちだけお楽しみだったという訳だ。

 軋む音がした。

 1つ、気付いた。

「けど小物やから格上げはしてもらえへん。ストレス発散にいろんな事業に手ぇ出したけど失敗。で、こうなったと」

 声もなく笑っていた女医が何かを投げてよこした。核鉄!? 驚く兄たちの声を聞きながら握り締める。

 決して怒鳴りはしない。だがこれまで培ってきた感覚の鋭さを初めて悪意の赴くまま使ってみたいと思った。
 恣意で他者を染めんとするのは好きではなかった。が、その気持ちの源泉たる女社長が明確な悪意を向けてきた以上、
これまでの信念とやらを保持する気には到底なれない。

 軋む音がした。何かが割れ行くようだった。

 ただ人を思い、ただ誰かがやりやすいよう努力し続けてただけなのに。

 裏切られ、罵られ、欲しくもなかった欠如を責められている。

 押し付けてきた人間が、反省もせず責めている。


 理解した。割れているのは……枠。


 彼女たちの存在あらばこそ成立していた自制心という名の枠が、粉々に砕けていく。

「社長さん」
 彼女を肩書きで呼ぶのは初めてだった。
「俺っち整形してくれた女医さん、どーやらケガ全般治せるよーですねえ」
 問いかけの意味を理解したのだろう。彼女の顔から血色が失せた。もっとも輪の世界では少し淡くなった程度だが。
「女医さんから聞くコトもできますがね。俺っちはあなたの口から真実を聞きたい」
 何条もの稲光がハルバートから巻き起こる。使い方は直観で理解していた。
「全色盲。事故が、脳障害が引き起こしたコレ………………実は治せたんじゃねーですか?」
 整形手術の時に。あるいは時間のある日に。
「それは──…」
 女社長は唾を呑み女医を見た。蠱惑的に笑う彼女は、偽られるのを心待ちにしているようだった。
「そーいや自叙伝に全色盲のコト描かせたん……心ない奴、笑かすためとか言うとったよな?」
 デッドの言葉が引き金になったのか。突然兄が立ち上がり輪に殴りかかった。予兆は薄々感じていた。半身になるだけで
拳は横を行き過ぎた。むしろ打撃を受けたのは兄の方で、グレーのドロドロした何かを口からブチ吐きながら仰け反った。
鳩尾にめり込んでいた石突を引きながら大きな槍をグルリと翻す。人生どこで何が幸いするか分からない。柴田勝家を扱っ
た10時間越えの正月ドラマ。演技指導……槍術の手ほどきは洋モノにも応用可能だった。身を丸めながらこちらを向き、
過呼吸とともに罵倒を投げかける兄の姿にぼんやり思う。

 これが世界か。

 冷めた眼差しのまま。

 困難なアクションシーンから一発OKを勝ち取るつもりで。


 振り下ろす。


 それだけで兄の脳天が弾け飛んだ。
 正中線がメチュメチュと潰れ砕け、やがて人体の両側だけになった間抜けな肉塊が2つ、床にボドリと転がった。

「で、結局治せたんですかい? 治せなかったんですかい?」
 グレイズィングの治癒能力について語りかけると女社長は白目を剥き、意識を──…
「手放しちゃあいけませんねえ」
 槍の表面で無数の雷が弾けた。色は分からないが赤の筈だった。能力はもう理解していた。使い方は簡単だった。
「え……?」
 光を浴びた女社長は愕然とした。いろいろ言いたいコトもあったが面倒臭かった。
 彼女の都合などどうでも良かった。とっとと自分の能力で意のままにして、問題を片付けたかった。

「ウソを付くコトを禁ずる」

 ある特定の色彩パターンを帯びた雷撃を浴びせる。それだけで何もかもが決着した。


「治せた。でもそうしたら本当完璧になって……気に入らなかったから」
「頼まなかった、と」
「はい」
 虚ろな瞳で答える女社長に覚えたのは憐憫ではない。
「にひひ。俺っちがこーなったのは女社長さんの不注意のせーですよね?」

 罪悪感はないのか。そう問いかけると

「それは!! も、もう付き合った時に終わってるコトで……」
「はい?」
「私は償うっていったけど、輪君はもういいって別れ話を切り出して。だから、だから」

 ちぐはぐな答えが返ってきた。

「アホかこいつ。それとこれとは別問題やろがい。可能性見つけたんなら試せや」
 まったくだと思った。女性が時々不可解な思考をするのは知っているが、いざやられてみると凄まじい感情が迸る。
「俺っちはね。あーたとキス一つしてないんですけどね?」
「ウチのおかーちゃん見習わせたいわホンマ。お前のせーやろがい。全色盲になったんは」

 好色な笑みを浮かべる女医がゆらりと一歩歩み出た。

 結論からいう。


 この女社長はレティクルエレメンツの誰からも命を奪われるコトなく、生涯を全うする。
 輪の兄もこの場で蘇生し……女社長と入籍する。

「ぬふふ。しばらくしばらく甘美な甘美なお仕置きタァーイム。……あ。アナタたち少し外出して下さる?」

 全裸の男女2人に首輪をつけ犬よろしく這いつくばらせると……女医は舌舐めずりをした。
 ひどく下品な響きだが輪は意に介さず、ただテーブルの上を見た。

 大きなビンが3つ並んでいた。赤ちゃんの頭ぐらいなら余裕で入りそうだ。
 内容物は右から順にヒツジの血、スペイン産の糞石、そしてジキタリス。

 動物から輸血された人間はその腕が高熱を発し、最悪死に至る。

 草食動物の結石からつくられる糞石を服用した場合、激しい嘔吐や下痢、口渇が起こり、最後には陰茎や肛門からの
夥しい出血がみられるという。

 キツネノテブクロという植物から抽出されるジキタリスは、大量に服用した場合心停止する。
 脳にも影響を及ぼし、それは幸福感や視力障害となって現れる。物がボヤけ、光のカサがかかり、色彩が緑や黄色で
埋め尽くされるという。一説によればゴッホも中毒者らしい由緒正しい毒物だ。

 絶望的な事実で以て脅迫するよう兄たちに言い聞かせると、女医はやや感心した。

「あらん? お詳しいのね」
「へへ。いろーんな人とお話ししてますからね。ま、せいぜいお楽しみくだせえ」
「おにーちゃんおにーちゃん、そんなコトよりラーメン食べに行こラーメン!!」

 ぴょこぴょこ飛びながら腕を掴んでくるデッドを優しく撫でながら、輪は部屋を後にした。


 ドアを閉めた瞬間、女社長の絶叫が聞こえたが別段どうでも良かった。





「あー。ニンニクラーメンおいしな!!」
「そりゃあもう。むかし旅番組で来たときからお気に入りすからね」

 ラーメン屋にしては珍しくそこは座敷席だった。よほど馴染み深い客でなければ通されない特別な席。輪が通されたのは
国民的アイドルというより人柄によるところが大きい。

 おなじみの味を存分に味わい、丼を置く。低い机の向こうのデッドはまだハグハグしている。

「ところで出資者さん。デッドさんでいいですかね? なんで俺っち助けてくれたんすか?」
 問いかけると関西弁の少女は麺を呑みこみ、それからニヤリと笑った。
「この前なー。前から欲しかったレアもんのプラモ、ネットオークションで落したんや」
「はあ」
 話が見えない。そんな輪をヨソにデッドは頬の一部を濃くした(赤くした)。
 そこに手をあて腰をくねらせ、箸をカチカチ打ち合わせる姿は照れ照れとしていた。声は惚気まみれだ。。
「けどな、そのプラモ、実はバッタモンやったんやわ。いや、ディプ公に組み立てて貰ったときは本物とばかり思っとったん
やけどなー。1週間ぐらいあとかな。ネットしとったら「ニセモンは説明書が厚紙」とか言われとるやん? びっくりして確認
したら確かに買ったやつ、そーでなあ。うん」
「ん、んーーーーーー。そ、それは災難でしたねえ」
「あ。ゴメン。話逸れたな。なんちゅーかな。確かにそれはニセモンなんやけど、でも見た目は割と普通やし飾ってもそんな
悪ない。むしろ本物と微妙に違う色合いがな。却って貴重やしおもろい。だいたいディプ公はアホの癖に繊細やからな。苦労
して作らせたもん「ニセモンやないか!」って捨てたらまた憂鬱起こしよる。だからま、お情けで残してやった」
「はあ。せっかくお仲間さんが作ってくれたものだから、本物ニセモノ関係なく大事にしたいと?」
「お前ヌボっとしとる癖に鋭いな!! バラエティでも時々そーやったけどアレは素か!!」
「見て頂き嬉しいす。素といいますか、大人しく話聞いてると何かわかっちまうんですよ。で、言えば面白くなりそうだからつい……」
「計算と天然の合わせ技かい!! 怖いなお前!! いや、こんな怒鳴ったら本心ダダ漏れやないかウチ!!」
「いーんじゃねーですか? 可愛いと思いやすよ?」
 可愛い!? 顔を濃く(赤く)したデッドはそのままテーブルに墜落した。丼の中のニンニクスープが氾濫し、髪の電飾でショート
した。
「うーーーーーー」
 首を90度ほどねじった彼女は上目遣いで威嚇した。照れているらしい。
「あ。お尻突き出したまま足バタバタするのはしたないすよ?」」
「やかましわ!! お前アレやな、イソゴばーさん並に喰えん奴やな!!」
 話が逸れてますよ。やんわり笑うと彼女はバツが悪そうに腕組みをし視線を背けた。
「だ、だいたい騙されたウチの眼力のなさも悪いし、その…………ニセモンちゃんも「捨てないでー」って泣くよって」
「えーと」
 疑念に気付いたのか。彼女は激しく眼をつぶり、胸の前で両掌をばたつかせた。口は言葉を紡ぐたびあわあわと波打っている。
「い!! いやいや! モノが喋るとかそんなんあらへんよ!! ホンマホンマ!! 5年ぐらい前はなんかそーいうコト思っとっ
たけど、でででもでもアレは思春期特有のアレやし」
「つまり、偽物には偽物なりの価値とか歴史があるから……捨てられないと?」
「おー。さっすが国民的アイドルのおにーちゃん。理解早いな」

 疵のある目が輝いた。

「ウチは強欲やからな!! ニセモノといえどこの世にあるモノは欲しくて欲しくてたまらん!!」
 立ち上がった彼女は腰に手をあてビシリと輪を指差した。指された方はうやうやしく平伏した。
「だから俺っちを助けてくれたのですね。ありがとうございます」
「ははっ。感謝しいや。ちなみにパチモン売りさばいてくれた奴はキッチリ仕置きした!! 分かりながらやっとったからな!」
「実にすばらしい信念す!!」
 得意満面でそっくりかえるデッドめがけ紙吹雪を撒く。すっかり打ち解けていた。



 ラーメン屋を後にする。

 グレイズィングの奴ねちっこいからなー、あと2時間ぐらいはブラブラしとこ……そんなデッドの呟きに軽く頷き次の行き先
を考える。

 歩いているのは閑静な住宅街。人通りは少ない。ふいと後ろを振り返ったのはマスメディアの尖兵を警戒したからだ。
 別に撮られて困るプライベートは送っていないが、隣にいる少女が悪の組織の幹部である以上、写真撮影はややマズい。

(あー。なんか受け入れちまってますねえ俺っち)

 悪の組織。浮世離れした概念だがすっかり順応してしまっている。映画やドラマでは実にありふれた素材なのだ。一瞬
コレも何かの撮影なのではないかとさえ錯覚した。

「ほれ!! ほれ!! 便利やろーウチの電飾!! ムーンライトインセクトの中おるときな!! いっつも照明にしとる
んやで!!」
 デッドという少女は髪に電飾を巻いていた。ツインテールの付け根にはひときわ大きな電球がついており、夜道をぴか
ぴか照らしている。
「なんつーか先駆者なスタイルすね!」
「ふんわりと丸みのある、電球スタイルや!」
 合っているのかどうか。とにかく目的地について告げる。
「まだ初対面すから好みが良くわからねーですね。とりあえずお好み焼きとかどーすか?
「ベタやなー。ウチが関西弁やからってそらないわ」
「いやーすみません」
「まったくや!! これでもウチはクォーターやねんで!! おとーちゃんのおとーちゃん、ドイツ人やっちゅーねん!
 ケタケタ笑うデッドが肘でつついてきた瞬間、それは起こった。

 ガタリ。何かが落ちた。

「あ……」

 デッドは慌ててしゃがみこみそれを拾った。

「お。やっぱ義手でしたかそれ」
「おま!! リアクション薄いな」
 しゃがみ込んだままデッドは目を三角にして怒鳴った。
 取れた腕はとても長い。肩から先全部のようだ。
「いやー。重心がなんかフラフラしてましたし、ときどき肩とかチラ見してましたからね。義手かなと」
「また凄いなお前!! たったそれだけでアタリつけたんかい! 見た目はホンマ人間の肌っちゅーのに」 
 聞けば四肢全部がそうらしい。仲間に作ってもらった義肢は高性能だが、取れやすいのが欠点という。
 
 立ち上れて良かった。姿勢を戻した彼女にほんのりそう思う。

「あー。そーいう話よく聞きますね。数時間ぐらいしか接合できないとか」
「ホンマ反応薄っ!! あまり突っ込まれても不愉快やけども!! さらっと流されるとそれはそれで悲しい!!」
 ガシリ。なれた調子ではめ込むデッドにぼんやり呟く。
「そうすか? 普通じゃねーですかこういうの?」
「あ。アレか。褒め屋時代に何人かおったんか?」
「ええまあ。別にいいんじゃねーですか? 欠けてても満たされてなくても」
「?」
「それ含めての個性、枠っすよ。欠如があるからこそ人は頑張れる!!」
 よほど以外だったらしい。デッドはぽかりと口を開けた。しばらく輪を眺めるうち夜風が吹き、コウモリのようなツインテール
がふさふさ揺れた。余韻さえ静まるころ、彼女はどういう訳か嬉しそうに笑った。
「ジブン……前向きやなー。ついさっきこっぴどい裏切り受けたばかりやのに」
 正直見習いたい。そう言われると「にひっ」と笑った。返答代わりだ。
「あー分かった分かった。ああいうのもひっくるめてお前の人生……枠っちゅー訳やな」
「俺っち色が分かりませんけど、だからこそ培えた能力ってのがあるんすよ。ついさっきのアレはまあ残念すけど、それでも
自分なりに一生懸命やってきたコトは無駄じゃねーですし、いつかどっかで役立つはず!!」

 デッドは急に黙った。見る。何か考えているようだった。

「どーしたんですか?」
「いや。おにーちゃんの能力ちゅーのは非常に魅力的なんやけどな。どーも人間全体への恨みっちゅーのが足りへん」
「もしかして勧誘すか? なんか悪っぽい感じの組織ですし、やっぱ恨み辛みは必要すか?」
「そーゆうコトさらっというなや。やっぱお前イソゴばーさんタイプか……」
「デッドさんネコ好きすか? ネコ」
「ネ、ネコ!? 嫌いや……。その、5年ぐらい前、メチャクチャな目に遭わされたよって…………。ま、自業自得やけどな」
「じゃあイヌにしましょう。何かの本で読みましたけどね、イヌ好きな人はイヌ1匹に噛まれたぐらいで種族全体憎んだりし
ないじゃないですか。悪いのは噛んだイヌですし、そのイヌだって環境のせーで噛んでしまっただけかも知れない」
「……なんか耳が痛いけど続けて」
「やっぱ俺っち、人間の総てを嫌いになれねーんでさ。滅ぼしたくもありません。可能性を秘めた人たちもいるんすから」
「じゃあ断るわな」
「ハイ!! 加入します!!」
「そうかそうか。まあ安心せえ。黙っとったら危害は加え……あ!? お前いま何ゆうた!?」
「加入させて頂きたいんすけど。ダメすか?」
「構わんけど大の男が指くわえてポツリと聞くなや!! ちょっと可愛いおもたウチが不覚や!!」

 というかどうしてそういう結論になった。促されるまま輪は答えた。

「さっき悟りました。世の中には最初から向上心を捨ててる方もいらっしゃると。そういうお手合いさんは人間らしい感情って
やつをいくら投げかけてやっても無駄だとも思いましたね」

「さっきの例えでいうならズバリこうです」

「人に噛みつくようなイヌは始末しよう!」

「噛みつかせるような環境を滅ぼそう!!」

「俺っちはアイドルとしていろんな仕事してきました。どれもね、素の俺っちの枠を壊して、ぐんぐんぐんぐん向上させてくれる
素晴らしい代物でした。人って奴はやはりいつも何かに挑んで、自分の枠ってのを壊していくべきなんす」

「出逢った人のほとんどがそーいうのを体現してました。だから関わるのは面白かった」

「けど……最初からそれを放棄してる方も世の中にはいる」

「自分の枠を守るのに必死で」

「守るためなら人を責めていい……などと訳の分らぬ錯誤に陥る女社長さんのよーな方もいらっしゃる」





「不愉快っすねえ。そーいうのは」





 デッドは見た。灰色の瞳が一瞬だが濁るのを。

 認めたのは果てしない自己愛だ。人を愛し頑張る自分を責めるのは許さない。
 兄や女社長に味合わされた挫折感が、そのまま人間不信になっているようだった。

 デッドはかつての経験から「奪う」人間総てを憎悪の対象にしている。輪の根幹も同じらしい。

「つまり……質の低いゴミのような連中なら殺してもええっちゅーのか? お前は?」

 と、やや的外れな意見を投げかけたのは、本質にふれるコトが憚られたからだ。


(違うな。コイツは単に質の低い奴が嫌いっちゅー訳やない。自分を認めん奴が憎いんや。一番認めて欲しかった連中にま
とめて裏切られたせいで、悔しさは一入(ひとしお)、あいつらへの憎悪は今後、自分を攻撃する奴にも向いていく。そういう
気持ちに気付いとるからこそ……確実に壊したい。人間を好きであり続けるため、精神をいま以上汚さないため、けったく
その悪い代物は絶対に排除するつもりや)

 決して感情は表に出さない。これまで通り静かに、にこやかに。けれど確実に水面下で段取りを進め……たった一撃で、
確実に。憎い相手を葬るだろう。

(……虚飾。社会と親和できるが故のおぞましさ)

 絶対恨みを買いたくない。並はずれた物欲……歪んだ執念を持つからこそ心底思う。

「俺っち、世界を良くしていきたいんですよ。デッドさんたちのよーな人間ぶっちぎった存在にも憧れますし」

 にこやかに笑う輪だが表情はどこか正気を欠いている。

(…………こいつ、場合によってはウチらを止めるかもな。下手したらそれ目当ての加入かも知れへん)
 イソゴを除く幹部たちとは毛色が違う。特に相方……ディプレスとの相性は最悪に思えた。
(可能性を秘めている人間。片方は殺したがる。片方は保護したがる)
 逆に女社長やその恋人のような不遇を囲っている存在にはひたすら優しいのがディプレスだ。
 引き込めば対立は避けられない。
(けど、だからこそええかもな。イソゴばーさん曰く、幹部同士のケンカも大いにアリ。ま、アース引っ張り出すなゆう警告付
きやけど、揉めるときはトコトン揉めて落とし所を見つける。それがレティクルを向上させるコトやし、盟主様のためにもなる。
……さっき悩んでいたのは悪意が見当たらんだからや。でも今は見つけた。しかもコイツはイソゴばーさん同様、調整役に成
り得る…………)


「じゃあ推挙したるわ。たぶんすぐ幹部になれる」
「にひ。ありがとうございやす」


 そして輪はブレイク=ハルベルトになり──…


「おんや? 住所書くとか相当お困りのよーですねえ。返事書いてみましょう返事」


 いつも一生懸命、甘露のような気持ちを送ってくれた玉城青空に返事を書く傍ら、

「計画の変更すか? 言いましたよね。ねーです」

 背後から声をかけてきた女社長を冷然とあしらい……



 やがて『その時』が来た。



 シークレットライブ会場で多くのファンを殺したのは、簡単にいえば復讐だった。
 ファンたちに恨みはない。
 ファンクラブの会報に、コアなファンしか解けないクロスワードパズルを仕込み、解いたものだけ来れるよう仕組んだのは
少しでも犠牲者を減らしたかったからだ。

 しかも余地は残しておた。

 ホムンクルスが暴れ狂う中、逃走を選ばず自分を助けに来たら殺さない。


「決めてたんすけどねー。結局来てくれたのは青っちだけすか。寂しいすよー。ああでも手紙的には青っちしかねーとも思っ
てやしたよ本当本当」

 惨劇の現場から控室に戻ると女社長が震えていた。

「誰、ですか?」
 か細い声を放つ少女──玉城青空──を振り返ると、ブレイクはにこやかに
「所属事務所の社長さんす」
 とだけ説明し、さらにこう付け足した。
「今回の首謀者でもありますね」
 え、と声を上げたのは女社長だ。何か抗議したいらしい。
「喋るコトを禁ずる」
 無音無動作で現れたハルバートが光を放つ。するとどういう訳か彼女は口を噤み静かになった。
「女社長さん。Cougar殺したかったんでしょ? 良かったじゃねーですか夢が叶って」
 ゆっくりと歩み寄る。座っている彼女と目線を揃え、軽く軽く肩を叩いてやる。
「っと。目線を外すコトを禁ずる」
 顔を背けようとしたので光を浴びせる。震える瞳はブレイクだけを見るようになった。
「にひ。マジ便利すこの能力」

 ハルバートの武装錬金・バキバキドルバッキー。

「特性は『禁止能力』。どんな行為でも禁止できやす。条件反射で手を引っ込めるの禁止して38時間ずっとサボテン触らせ
続けるとかも可能すよー」
 玉城青空は見た。無数の赤い穴に彩られている女社長の手を。
「にひ。躾っすよ躾。しょーもない社長さんすからねー。言うこと聞いた方が痛みは少ないっつーのに分かってないようでしたから」
 よく分からないが憧れのアイドルはどうやら彼女を恨んでいるらしい。なら別に憐憫を催すべき相手でもないと青空は判断した。
「ああでも青っちにはやらねーすよ。普通に交流したいす」
「……ばか」

 ずっとずっと憧れていた人が自分に関心を寄せてくれている。
 青空はただそれが嬉しかったので、その後の女社長のコトなどまったくどうでも良かった。

「ま、別に殺そうって訳じゃねーですよ社長さん。ただね、社会的責任ってやつを取ってほしいんですよ」

「アナタのせーで俺っちはやりがいのある仕事をなくした。一緒に仕事してくださる人たちもスケジュールの調整やら何やらで
大迷惑。普通のファンも悲しむ。関連グッズ売ってる会社の人たちも困る」

「引退しろつーなら従いますがね」

「ただ、自分たちがやろうとしていた行為。それがどういう結果を生むか、ちゃんと見てほしいんすよ」

 論理的なようでいておぞましい物言いだった。
 彼はたったそれだけのコトを言うために、自分を慕う、無辜のファンを100人以上、犠牲にしたのだ。
 それに対する良心の呵責はない。あたかも最初から女社長が仕組んでいたような物言いをするのだ。

「遺族全員から許しを得たら解放してあげますよ。それまで本物さんは人質ってコトで」

「あと」


「真実を語るコトを禁ずる」

「謝罪しないコトを禁ずる」


 そう言われ光を浴びせかけられた瞬間、女社長は例の謎めいたシークレットライブでの虐殺事件について全責任を負う羽目
になった。謝罪会見を開き、しつこいマスコミの攻勢の一つ一つに応対し、、犠牲者の遺族たちに不眠不休で詫び続けねばな
らなくなった。

 遺族たちの憤激は凄まじいものだった。不十分だった安全管理を攻撃するものもいれば、手近な灰皿を投げ付けてくるもの
もいる。「あのコを返して下さい」なるお決まりの、しかし不毛な泣き落としに何時間も何時間も付き合わされるのはまだいい方で、
インターホンに身分を囁くや「帰って下さい」と跳ねのけられるのはまったくどうにもならなかった。

「諦めるのを禁ずる」

 とぼとぼと帰りブレイクに報告すればまた光を浴び、3時間かけてまた同じ家を訪ねざるを得ない。

「道中、休息するコトを禁ずる」

 電車やバスの中でも「無理やり」精力的に通常業務を携帯やPCでこなさざるを得なくなった。地獄だった。とっくに限界
を迎えている筈の体が謝罪や業務をやらんとゾンビのように動き回る。

 何度か訪ねた遺族宅のドアが開いたとき、彼女は歓喜しそして煮えたぎる84度の熱湯を横殴りに浴びせかけられた。
 しつこい。50がらみの男はそう怒鳴り散らし、塩を撒いた。翌日も訪ねた。痣がつくほど殴られ前歯が折れた。

 最初の限界は8日目に訪れた。

「おや体弱いっすねー。たった7日寝てないぐらいで弱音とかないすよ。ほらほらもっとガンバって。本物なんでしょ?」

 激しい吐き気をブレイクに訴えたところ、爽やかな笑いとともに次の遺族の写真が渡された。
 怒りと嫌悪を支えにさらに2日ほど激務を続けたところ、かつてない激痛が頭を襲撃した。くも膜下出血の。彼女はしかし
安堵した。「やっと解放される」。黒い泥の中に意識が溶けていき──…

「はい。すっかり良くなりましたわよ。お仕事頑張ってくださいね」

 蘇生させられた。疲労は抜け体力も戻っている。……絶望した。

 後は単調なループな繰り返しだった。通常業務をこなし、マスコミ対応をやり、遺族への謝罪行脚を続け、そして寝ない。
 3週間後。30代にして髪が真っ白になったその日。
 自宅に輪の兄が駆け込んできた。隙を見て脱出してきたらしい。その全身に刻まれた生々しい傷を見た瞬間。

 彼の手を取り逃げ出していた。

 遺族たちがどうなったかは知らない。
 罪悪感もあったがいつもそれはブレイクへの責任転嫁へと姿を変えた。
 悪いのはあいつ。悪いのはあいつ……。
 救いだったのは例の「禁止」が永遠のものではなかったコトだ。
 どうやら期限があるらしく、知る限りでは2日が限度だった。
 とはいえ事態の好転にはつながらない。
 遺族やブレイクたちにいつどこで発見されるか怯えながら各地を転々とし──…


 1年後。


 やっと白髪の中に黒いものが認められるようになったその日、彼女は100グラム1800円のステーキを買い自宅めが
けて走っていた。

 半年前、籍を入れた。結婚式はあげられなかったが、それでも錬金術と縁のない平凡な生活はとてもとても暖かなもの
だった。
 夫はいま場末のストリップ劇場で前説をやっている。時代錯誤で儲けも少ない商売だが、長年やりたがっていた職業に
ついてからというもの笑顔が増えた。Cougarという暗黒期はまだ思い出したくもない。今さら本物ですと名乗り出たところ
で維持できる素養はない。名乗り出れば罪科も語らざるを得なくなる。謝罪半ばで逃げたのは致命的だ。
 事情を知らないストリッパーからそっくりさんとしてバラエティ番組に推挙されかけた時は肝を冷やした。発見される恐れが
あったし、何より本物としては屈辱的だった。提示されたギャラさえもらえば滞納分の家賃が払えそうなのがまた悲しかった。

 それでも、夫との生活は幸福だった。子供も授かり、今は妊娠3か月だ。
 未来は輝いている。

 時刻は12:30。いつも通りなら夫は自宅に居るはずだった。家賃4万円の古臭いアパートの一室で、前座用のネタを
練っている筈だった。

 ネタ出しが済んだら髪の事を話し、2人で喜びを分け合おう。
 塗装の禿げた2層式の洗濯機やベビーカーの並ぶ狭い廊下を駆け抜け。
 扉を開けた。

 牛肉を入れた白いポリ袋が足元に転がり落ちた。

 夫は…………いた。

 荒れ果てた、変わり果てた部屋の中で
 虚ろな目でゆっくりと妻へ視線を移し……名状しがたい叫びとともに突っ込んできた。

 手足は血に塗れていた。傷というより皮膚が剥落しているようだった。

 殴り飛ばされ、アロエの植木鉢を割り砕きながら転がった彼女は、ある意外なモノを目撃した。
 向かい来る夫の向こうに佇む……1人の少女を。

 ふわふわとウェーブのかかるショートカットが印象的だ。
 だが暴行現場を見ているというのにその表情に驚きはまったくない。
 暖かな笑顔を浮かべじっと彼らを見詰めているのはつくづく異常だった。

 記憶が蘇る。シークレットライブ直前、「見かけたら連絡をください」、とある家庭から頼まれた家出人。

 玉城青空。

 どういう訳かサブマシンガンを手にしている彼女は、視線に気づくとにこりと笑い……踵を返した。

 女社長は知らない。追跡を買って出た者が……リバース=イングラム、笑顔の少女だとは。
 惨劇のライブ唯一の生存者は、それだけにブレイクを深く思っていた。
 彼を害した上に責任を放棄し、1人だけ幸福になろうとしている女性への憤怒は凄まじかった。

 だから……銃を撃ち、おぞましい特性で夫を狂わせた。
 常套手段だ。幸福な家庭を壊すときリバースは常にもっとも力のある存在をターゲットにする。
 サブマシンガンの武装錬金、マシーンの特性は必中必殺。
 ひとたび当たれば単眼畸形の幻影に取り憑かれ、固有振動数で皮膚を削ぎ落とされながら理性を失くし、暴れ狂う。
 
 夫が雄たけびを上げ、高校時代数々のシュートを決めてきた見事な蹴りを繰り出した。
 その爪先は妊娠中の女性が誰しも一番に守りたがる箇所に直撃した。

 嫌な鼓動がそこから立ちのぼる。

 どくり。どくり。どくり。


 ………………………………どこからか漏れ出でた液体が、コンクリートの床に水たまりを作った瞬間


 女社長の絶叫がアパート全域を揺るがした。


 以後、彼女たちが幸福になれたかどうかは不明である。





インディアンを効率良ーく殺す方法をご存じかしら?」

「まさかあれだけの巨体をいとも簡単に無力化するとは……。大戦士長ともあろう者がとんだ
不覚を取りました」

 扉の向こうから声が聞こえてくる。

 ブレイク=ハルベルトは周囲を見渡すと肩をすくめた。

(青っち……なんか吹きこまれてますねえ。まったく御老人も人が悪い)
 彼女の両親が戦士に殺されたというのは知っている。イオイソゴという稚い老女はそれをネタに焚きつけているらしい。
(んー。悩む。俺っちももっと焚きつけて、ホムンクルスの枠ぶっちぎった青っちを見たい!! 反面、傷心状態の青っちを
優しく優しく慰めて笑顔にしてもあげたい!!)

 ブレイクはいつも笑顔の少女が大好きだった。もし暴走するならそれはそれでありだとも思っている。

 他の仲間を見渡す。おおむねいつも通りだ。旦那と呼ぶハシビロコウは暗い情熱をたぎらせているし、ブレイクをこの道
に誘い込んだデッドは筒の上から分かるほど憎悪を滾らせている。1歳上のもと女教師はなんだかノリノリだ。
(俺っち自身はそうあればいいんでしょうねえ)
 組織からは拷問するように要請されている。ただどうもそういうのは性に合わない。
(大戦士長さんすからねー。きっと敵ながら一廉の人物の筈)
 となると是非とも語らいたいのがブレイクだ。



 女社長が逃げた後、ブレイクは素知らぬ顔で後釜に収まった。

 もちろん、顔は整形した。もとの命野輪として再生を果たした。もちろん火傷は消えたままだったが、色覚についてはその
ままとした。

 1つ。嬉しい話を聞いたのだ。

 レティクル加入直後、喉の欠如を治すか否かきかれたリバース=イングラムはこう答えた。

「その、私の事はいいですから、ブレイクくんの目、治して貰えますか?」

 感動的な言葉だった。不注意で欠如を与えておいて開き直るような人間とは対照的だった。
 自分の欠如を後回しにしてまで回復を望んでくれた笑顔の少女を心から好きになったのはこの時だ。

 親しんできた職を無くし、ずっとずっと良好な関係を気付いてきた仲間たちと二度と楽しく仕事ができないという事実、それ
から復讐のために無関係なファンたちを殺してしまった負い目、色々なコトに心を痛めている時期だったからこそ、リバースの
まっすぐな想いは嬉しく、ありがたかった。

 だからこそ、彼女が声帯を治さない限り自分も色覚を回復させないと決めた。

 社長に納まってからは積極的に人材発掘を行い、謝罪もきちんと完遂した。
 みな死んだはずのアイドルにそっくりな姿に戸惑っていたが、「弟です」の一言で納得してくれた。
 デッドいわく、そこからは茶番らしい。なぜなら兄を失いながら遺族に詫びて回る彼の姿が大きな歓心を買い、美談にさ
えなり、芸能界の各方面からぼつぼつと仕事が舞い込み始めたからだ。
 おかげでプロダクションの経営状態は回復したが……やはりシークレットライブでの虐殺を計画したのが誰かと考えると
茶番といわざるを得ない。

「ひひ。貴様、わざと兄を逃がしたじゃろ?」
「知りませんねえ。誰しも失敗はあるもんす」

 イオイソゴ曰く、実にうまく汚名を女社長にひっかぶせたというところだが実情は分からない。

 ブレイクはプロダクションが軌道に乗り始めるころ社長を退任。以後ふたたび少しだけ顔を変え──…
 いまは『演技の神様』としてさまざまなプロデュース業を手掛けている。
 人材発掘は面白い。自分がやるより人を高める方が面白い。

 そういう持論の持ち主だから、敵組織の巨魁を見ても憎悪はわかない。
 許されるなら肩入れし、孤軍奮闘を援助し、より強大な敵として成長させたくもある。

(もし戦うなら正々堂々に限るじゃないすか。意地と意地をかけて戦う。うん。俺っちの枠破って成長させてくれるのは、そー
いうヤツでさ)



「そう。治して差し上げますわよ。ちょうどマレフィックの方々が御到着されましたし」



 扉が、開いた。


(ま、お仕事ですからちょおっとだけ斬らせて頂きやすね)


 ドアがゆっくりと閉じられ──… 
 呼吸困難に苦しむ坂口照星目がけブレイク=ハルベルトは軽やかに歩を進めた。




 立場上、小札零と敵対する立場になっているコトについて不満はない。
 師匠と呼べる存在との戦いは、枠を破り大いに向上をもたらしてくれる。
 また、どうしても音楽隊が不利ならば小札を助けてやれるという利点もある。

 組織の長というものが時にどれほど冷酷な仕打ちをしてくるか身に沁みて分かっているブレイクだ。

 レティクルへの帰属意識はさほど強くない。魅力は感じているが身や心の総てを捧げるほど心酔はしていない。
 小札を怪物に仕立て上げたウィルや、彼女の兄を奪い去った盟主への密かな想いはにこやかな虚飾の奥で静かに静かに
燻っている。

──(…………こいつ、場合によってはウチらを止めるかもな。下手したらそれ目当ての加入かも知れへん)

 デッドの予感が当たるかどうか……今はまだ、分からない。


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