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過去編第014話 「誰か護るためなら邪魔なもの壊し続けていい?」



 グレイズィング=メディックが医学の道を志した理由は、逸話の目を背けたくなる内容さえ抜きにすれば概ねありふれた
ものだった。

『救われたから』

 8歳のころだった。彼女は大出血を経験した。路地裏に連れ込まれ複数の男性に乱暴されたのだ。未成熟な器官は
絶え間なく襲い来る何本もの獣欲に破壊された。蒼味がかった灰色のあぶくが混じった血だまりを足の付け根から垂れ流
し白目を剥くグレイズィングを男たちは下卑た満足の表情で一瞥し、ズボンを直し去って行った。

 たまたま通りがかった女医が介抱しなければそのまま息絶えていただろう。重傷だった。股関節が折れ付近の筋肉も
あちこちが断裂していた。一時は生涯歩くコトさえできないのかと絶望したグレイズィングに、女医は、常に丁寧に病状を
説明した。
 けっして彼女は天才的な外科医だった訳ではない。当時一般的な治療を施し、治らない部分、或いは後遺症の恐れに
ついて逐一丁寧に説明しただけだ。それでも絶望し打ちのめされていた彼女にとっては、そういう普遍的な、誠実さが何より
の薬だった。子供を産めなくなったと断定され塞ぎこむ日々だった。泣かない日はなかった。けれど日を重ねるごとに肉体
の傷は治っていく。最初は座るコトさえ困難だった。だが掴まり立ちができるようになった。更に日を置けば歩けるようになり、
やがて全力疾走さえも可能に……。なのに、いっこう回復する気配のない産褥の機能。その矛盾への疑問はやがて人体の
抱える神秘への好奇心になった。いつしか女医には治療方針そのものより「何故そうなるか」という質問ばかりするようになっ
た。彼女はいろいろ教えてくれた。人体の仕組み、医学、医療の歴史……。そういった物に耳を傾けている時だけ、グレイズィン
グは安らいだ。自分が、女性としての幸福を決して味わえないというコンプレックスが消えた。

『命を紡げないなら救えばいい』

 長じた彼女は女医となる。初めて赴任したのは小さな村の診療所。


 患者たちを診るのは好きだった。

 人を治して、笑顔にできる。

 素晴らしい職業だった。誇りを持っていた。

 時には救えない命もあった。けれど救えないなら救えないなりに、本人や家族が「死」を受け入れる時間を、残り少ない
生を悔いなく生きれる余地を、なるべく多く作れるよう心がけた。


 人はいつか死ぬ。死ぬからこそグレイズィングは、自分のような後に続く物が「生まれる」コトを望んだ。


 子供を産めないという事実は医者としての骨子になると同時に、女性としてのおぞましさにも繋がった。


 月に一度ひどく淫蕩な気持ちになる。そういうとき頭を過ぎるのは胸が毛むくじゃらの大男。灰色になるまで着古した木綿
のシャツも脱ぎかけに伸し掛かってくる男の姿。当時は恐れていた筈の光景が、女として成熟するたび禁忌的な快美の様相
を増してくる。あちこちの古傷が疼き破られたいと欲する。乗り越え、割り切れるようになったからこそ立ち戻りたいという希求。
むしろ同じ轍を踏んでなお善がり狂ってこそ克服ではないか……。そんなありえからぬ考えさえ浮かんでは消える。

 患者たちの前では清楚な女神として振舞わんとするグレイズィング。

 だが人に暖かさを振る舞い美しい感情を受け取るたび、後ろ暗い情念が体の芯で燃え上がる。

 夜半、自らを慰めるまでさほど時間はかからなかった。

 当直の夜、いつ来るか分からぬ急患に怯えながらする慰めは、ひどく燃えた。
 秘め事をしているという濡れた情感がますます指使いを激しくする。
 絶頂直前飛び込んできた患者を、素知らぬ顔で、純朴な田舎娘のような笑顔で、ねっとりとした蜜を垂らしながら治療した
あとはかつてないほど燃えた。

 とうとう自分ひとりだけで処理できなくなったのは、慣れすぎるあまり緊張の薄れた当直の慣習を見られた時だ。
 忘れ物を取りに夜半戻ってきた若い男の医師に──密かな恋心を寄せていた。彼もグレイズィングを好いていた──
秘め事を見られた瞬間、世界の何もかもが甘い痺れに支配された。気付けば着衣の乱れもそのままに首へ手を回し
唇を奪っていた。2人は、忘我した。普段患者が寝ているベッドに縺れ合いながら倒れこみ、朝が来るまで耽っていた。

 若い医師がグレイズィングに溺れたのは、彼女が後年のような妖花ではなく、むしろ羞恥に満ち溢れた純朴な娘だった
からだ。
 獣がしているからこそ珍しくもない体位さえ、聞けば耳まで赤くなり無言で涙を讃え首ふり首ふり必死に拒むのだ。
 そのくせ一度突破されれば男性の介助なしで、自らの運動のみで幾度となく達してしまう。
 そんな自分をグレイズィングは行為後まったく恥じてやまない。医師の顔さえ3日はまったく見れなくなる。夜は娼婦のよ
うに乱れ狂うのに、昼がくれば初恋に怯える小娘と化すのだ。そのくせ行為を重ねるたびますます美しくなり肉体も熟す。
感度もまた増す。だが声だけは必死に堪える。枕の端を強く噛みくぐもった声をあげる。体は貪欲で深く抉られるたび露骨
に痙攣するにも関わらず、反応だけはいつまでも初々しい。

 その落差が男を溺れさせた。従順に蹂躙され、敏感で、しかも清純。妊娠しないという事実が一層激しさを加速させる。
 声を聞かれるだけで気をやってしまう楚々たる淫らさたるや、もう。


 なのに医者としてのグレイズィングはつくづく理想的だった。

 老人の下の世話を嫌なカオ1つせずこなし、子供には優しく、女性には的確なアドバイスをする。



 足を折った少女。

 リウマチの完治まであと2週間の中年男性。

 3度の手術でやっと背中の腫れ物がとれた青年。


 そんな入院患者たちひとりひとりにグレイズィングは毎日優しく声をかけ、健康状態を確かめるのだ。


 あわや高熱で死にかけた赤ちゃんにいたっては、七日七晩不眠の看病を続けてやっと微熱に落ち着いた。


 あたかもそれは実子に振舞えない母性を向けたような献身的な看護だった。


 優しい天使であり卑猥な悪魔でもあるグレイズィング。

 男性医師がプロポーズしたのも無理はないだろう。

 彼女はそれを受理した。


 だが。




 あるとき、「無銘」なる霊獣がバンデミックを起こした。
 1万3000人の人間を死にやるほど広い範囲で。

 グレイズィングの村も例外ではなかった。

 病魔の化身たるロバのせいで村はまたたくまに病人で溢れた。
 吐血と高熱を訴える患者たちでごったがえする診療所で、グレイズィング自身も朦朧としながら看病を続けた。
 床に寝かせてもなお捌ききれないほど多くの患者たちをそれでも必死に看護していると。

 見慣れぬ連中が村にぞろぞろとやってきた。

 最初こそ救援活動に従事していた彼らだが、やがて急に掌を返し村人たち襲い始めた。

 グレイズィングがその理由を知ったのは後年のコトだ。

 さほど遠くないところにある錬金戦団本部への感染拡大を防ぐための封鎖作戦。

 だがヴィクターによって壊滅的被害を受け恐慌状態だった上層部は、平素なら、優秀かつ良心的な戦士の大半が殺され
ていなければ、まず決行しなかったであろう愚かな策を決行してしまった。

 奇兵を、捨て駒にしたのだ。

 段取りもまた悪かった。当時の戦団は指揮系統がメチャクチャであり、横はおろか縦のつながりさえなかった。
 ある派閥は、人道的見地から奇兵による人身御供に猛反対した。

 結界のエキスパート・11代目チメジュディゲダールの協力志願を受けて、水際で食い止めながら、医療系武装錬金の持ち
主たちを組織、かつその整備と平衡して奇病の原因となる菌を分析し感染防止策や医学的治療法を確立、結界内の住民も
なるべく救うべきだと提言した。

 だが戦団本部への感染拡大を危惧する余りに一部の、ごく一部の勢力が暴走。奇兵による人海戦術という、あまりに
愚かしい人間の封じ込めを決行。

 そうと知らぬチメジュディゲダールは、あくまで自分の結界が、住民救済までの一時しのぎだと信じ、一帯を封鎖。

 結果として奇兵たちが、或いは事情を知らぬ人間が、『捨て駒にした』と捉えかねない状況を作り出してしまった。

 暴走派閥の、「とにかく行け」という、弱い焦りによる性急な派兵──作戦概要の説明を欠き、同意や志願に寄らぬ特攻を
強いた──も相まり奇兵たちの怒りが爆発。住民達は虐殺された。



 グレイズィングもまた、犠牲となった。


 まず想い人の若い男性の前で8人の奇兵に蹂躙された。
 嫌悪にむせび泣くグレイズィングの意思を削がんとしたのだろう。目の前で若い医師を殺害。
 更に、グレイズィングが、懸命に治療してきた患者たちを、次々に……。

 肺炎がやっと回復し明日退院する予定だった6歳の女の子も。
 昨日盲腸の手術を終えやっと痛みから解放され笑顔が増えた49歳の気のいいおじさんも。
 もう危篤状態で、1週間以内に最期を見届ける覚悟をしていた102歳のおばあさんも。
 誤ってシチューを頭から被り、診療所総出で治そうとしていた1歳の赤ちゃんも。

 命を紡げないからこそ救おうとしてきた命たちを、恐慌状態の奇兵たちはいとも容易く弄んだ。
 入院中の患者だけではない。
 奇病に苦しんでいるのは、かつてグレイズィングが何某かの病を治療し元の生活に戻した人々だ。

 医者であるからこそ未曾有の感染拡大と戦い抜き、1人でも多く助けようと覚悟したグレイズィングの誇りさえ、本来人を
守るべき戦士たちが、ゴミのように次々と始末していく。

 耐え難い景色。

 泣き、叫び、抵抗するグレイズィングを、奇兵たちは殴りつけ、髪を掴み唾を吐く。

 そうされるたび被虐の炎が体を昂ぶらせる。まさに眼前で患者たちが殺されているにも関わらず、8人からの男に囲まれ
嬲られているという事実が、妖しい律動を呼び起こす。古傷は裂けた。目を見開き鼻水と涎まみれで善がり声と嗚咽を漏ら
すと何度目かの迸りが臀部の中で熱く弾けた。口中に生臭いものをねじ込まれ、揺すられながら、飽きられた看護婦が1人、
首を絞められているのを目撃した。助けなくては。一瞬芽生えた医者の本分が、背後から捻じ込まれた2本目に粉砕された
時、グレイズィングの意識は明らかに変わった。

 壊れゆく無数の大事な命を見ながら快楽を貪る。

 壮烈な体験はやがて彼女を拷問へと駆り立てる……。




 やがてグレイズィングは気付く。

 奇病と、奇兵たちに蹂躙されながら生き残った自分に。

 診療所を壊滅においやった奇兵たちはとっくに事切れていた。

 それを見たとき、もう死者しか転がっていない診療所を見たとき、涙より先に笑いが漏れた。
 ひたすらおかしかった。何がおかしいのか分からないのに、笑いだけが勝手に漏れて腹膜をよじらせた。

 ひとしきり笑うと転がっている奇兵の頭を蹴り飛ばし、踏みつけ、怒号を上げながら熱い雫を双眸から吹き飛ばした。



「ふ。霊獣無銘を追ってきてみれば、良い破壊に巡り逢ったじゃないか。君そのものも心身ともに壊れている。素敵だ」



 声がした。振り返ると、金髪の男が立っていた。彼は返事も待たず勝手に喋りだした。



「そう。戦士……ホムンクルスという怪物から人々を守るべき戦士さんたちですの」
「ふ。その通り。だが恨まないでやって欲しいねえ。戦団はヴィクターやぼくの反乱でてんやわんやなのさ。後がないから
焦っている。今回の作戦にしたって犠牲者を最小にしようとした派閥もいる」
「だから何だといいますの」

 声が荒れた。

「死んだ人たちはもう帰りませんのよ。なのに……なのに……どうして、こんな……」
「帰せる、としたら?」

 金髪の男が六角形の金属片を投げてきた。思わず手に取るグレイズィング。

「さっき説明したが武装錬金なら可能性はある。君は女医……。ふ、うまくいけば蘇生も──…」
「精神の傷は治らなくてよ」
「ふ?」
「仮に生き返ったとしましょう。ですが、記憶はあるものよん。陵辱された女性はきっと生涯その記憶を抱え込んで生きて
いく。ただ殺されただけの男性でさえ、恐怖を」
「ふ。それでも命あるだけ幸福だと思うがねえ」
「いいえ。これだけ感染力の強い病……村人全員が生き返ったとなれば、錬金戦団、でしたっけ? 彼らは貴重なサンプルを
得たとばかり回収し、調べるでしょう。その際、非人道的な実験がないとこの惨状を見てなおアナタ断言できまして?」

 まさに屍山血河の様相を呈する診療所を見た金髪の男は、「ふ」とだけ笑い肩を竦めた。

「ワタクシ、患者さんたちを2度も惨い目に遭わせたくありませんの。せめてここで眠らせる方が……まだいいの」
「ふ。鋭くも優しい。どうだい。ぼくの傘下に入ってみないかい? 戦団への復讐……やってみたいとは思わないかい?」

 グレイズィングは頷いた。そしてホムンクルスと化すや、村を巡り、辛うじて生き残っていた奇兵たちを殺してまわり、最後
に、つい先日、来院した少女──ニキビ治療のため。それが想い人に告白する第一歩だという──に茂みの中でのしかかり
お楽しみ中だった肥満児の頭を無表情で砕き、そして手の穴で食い尽くすと、

「大丈夫よん。悪い奴はもうワタクシが始末しましたから。不安がらず安らかにねん」

 震える少女に笑って言い残し、村を出た。


 金髪の男と。アルビノの少年と。すみれ色の少女忍者と共に。

 メルスティーンと名乗る金髪は、いまだ張られている結界を刀で事もなげに斬りとばし通路を作った。
 通り抜けたグレイズィングが振り返ると、結界は瞬く間に閉じた。一時的なものだが入るときも使ったのだろう。

 そして彼女はディプレスと出逢い、幄瀬みくすとの奇妙な関係を築き、鳩尾無銘の誕生に関わって。





「インディアンを効率良ーく殺す方法をご存じかしら?」

「まさかあれだけの巨体をいとも簡単に無力化するとは……。大戦士長ともあろう者がとんだ
不覚を取りました」

 扉の向こうへ声を聞かせた。


 グレイズィング=メディックは……語った。

「……クス。死体相手はナンセンス。お相手の葛藤とかタブーとか尊厳をブチ壊してこそ楽しいんですもの。命はそれの源
だから、簡単に切り捨てちゃ勿体ないから……癒しますのよ。命あ る限り癒して癒して癒し続けますの。たまに死んじゃっ
たり精神ブッ壊れて死体以下のクズに なる方もいますけど、あなたは楽しませてくれそうだから久々にドキドキしてますわ」


「それではしばし、ごきげんよう」

 ドアがゆっくりと閉じられ──… 
 呼吸困難に苦しむ坂口照星目がけ影達がゆっくりと歩き出した。



 イオイソゴとリバースに関わる謀略を交わしながらグレイズィングは思う。

 生命の破壊に快美を覚える自らの破綻を。


 実のところ後悔はあった。病と奇兵に殺された村人達を蘇生すべきだったのではないか、と。

 どれほど辛い人生が待ち受けているとしても、彼らが、かつてのグレイズィングのように、立ち直るべき道を見つけ、生を
全うしたのではないかと。

 その可能性に賭けず、生命を切り捨ててしまった自分は、あの時の奇兵たちと変わらないのではないか……。

 ハズオブラブに見え隠れする「揺らぎ」が時おりそんなコトを考えさせる。



(いまとなってはどうしようもないコトですけどねん)


 紅茶を啜りながら目を閉じる。錆びた腐臭と陰惨な味がした。




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